第23話
弧を描くように湾曲する天窓から、秋晴れの青空が覗いていた。
鰯雲の流れる動きが、ことの外早い。
押さえたグレートーンで統一されたの出発ロビーには、人気のない海外ツアーを告知する垂れ幕が揺れている。
成田国際空港、第一ターミナル南ウイング。
多喜はベンチに座して、フロア中央に設置された案内ブースを眺めていた。有機ELモニタの集合体に、航空会社のロゴと各社企業広告が代る代る流れては消える。
ここは禁煙区画で灰皿が置いていない。血中ニコチンが低下し、多喜はそろそろ口寂しくなってきていた。喫煙ブースに移動したかったが、約束の時間まであと少しなので多喜は我慢することにした。
エリア周辺に配置されたテナントの前を、シンガポール航空のフライトアテンダントが、カートを引いて通り過ぎる。深いスリットのセクシーな足元に、知らず知らずと視線が吸い寄せられる。
そこで多喜の一次視覚野にVADSがコールした。
「多喜、到着したようです」
ターミナルをポリゴン表示した透視図が開き、ターゲットマーカーが移動した。通路を抜け、硝子とステンレス合金のエスカレーターを上り、石見詩織が現れた。多喜はファインダを閉じると、実映像を目視した。
石見詩織は大きな赤いサングラスを掛けていた。ヘアマニキュアで髪の色も変えてある。初の国外逃亡をする彼女なりの工夫だろう。ツイードのテーラースーツにトレンチ風のボンディングコート。カートを引き、手には多喜が用意した安物のトートバッグを下げている。黒沢の女の持ち物が幾つか混じっているらしく、装いは少々ちぐはぐに見えた。
詩織は辺りを見回し、観葉植物の陰に多喜を見付けた。
「へんな格好、でしょ?」
詩織はベンチに腰掛けながら恥ずかしそうにいった。
「いや、そうでもないですよ。なかなかいい。………特にサングラスが」
そう多喜がからかうと、詩織は苦笑いしてサングラスを外した。改めて確認すると、詩織の手に収まらないほどレンズが大きかった。不格好な眼鏡。詩織の切れ長の目元が現れ、赤く染めたナチュラルボブから覗いた。
「何だか、恥ずかしいわ」と、詩織。
多喜は落ち着いた声で言った。
「まあ、そんな変装することもないでしょうがね。今頃連中、それどころじゃないから」
詩織はコートの衿を気にしながらたずねた。
「あれからどうなったんです? 黒沢さんと、あの模擬人格構造物は?」
「黒沢は心を病んで病院送りに。(夜の盾)の復帰は難しいかもしれませんね。模擬人格構造物のマギー・リンは、ボディを失って、ふてくされていますよ。今頃はシャングリラでVADSをからかっている頃でしょう」
詩織は顔を曇らせた。
「黒沢さん、………お気の毒に」
「いや、奴は遅かれ早かれ、ああなったんです。病んだ自分を偽って憎しみだけをたぎらせていた。破綻は時間の問題だった。五体満足で病院にいるんだから、文句はないはずです」
「大木戸雅治は、どうなりました?」
多喜は声をひそめると、詩織に顔を近付けた。
「大木戸雅治と岡崎真一郎は同一人物でしたよ。人為的な若返りの技術です。iPS細胞の研究を進めて、不老不死を手に入れようとした」
「不老不死?」
「ええ。それがオレモア症候群の発生とも、根深く関係していて………」
多喜はそこで言葉を途切らせた。
こんな場所で口にするような内容ではない。
「大木戸は私が処分しました。あの男は感染者で、我々の殲滅対象でした」
二人は黙り込んだ。
「ニュースには何も出てませんでしたよ。芝公園四丁目で火災、ただ、それだけでした」
詩織の言葉は本当だった。全ての局が申し合わせたように無関心を決め込んでいた。
「トランスヒューマン協会には、政府上層部も絡んでるらしい。公になることはないでしょうね。事実は闇の彼方、です」
多喜は思い出したように黒革のジャケットからRAMチップを取り出し、詩織の手のひらに乗せた。
「この中に大木戸との最後の会話が記録されています。私が持ってたところで、宝の持ち腐れでね。犯罪の立証には役立たないが、しかし、オレモア症解明には意味を成します」
詩織は多喜の目をじっと見詰めた。
多喜は抑えた声で言葉を繋いだ。
「あなたなら、しかるべき機関に提出出来るはずだ」
詩織は小さなRAMチップをしっかり握りしめた。
「わかり………ました」
海外からのビジネスツアー客が通り過ぎる間、二人は黙ってやり過ごした。大柄なスーツの白人が肩を揺らして歩いて行った。
多喜はそこで話題を変えた。
「さて、あなたの現地での受け入れ先ですが、空港に着いたらバプテスマ会というカードを掲げたツアーガイドを探して下さい。桐島という女が案内します」
これは警察当局にさえ秘密の証人保護だった。記録上、既に石見詩織は死んでおり、シンガポールで匿う手筈になっている。手続きは黒沢の(コネク)の一環だった。多喜は胸中で黒沢に手を合わせた。
「バプテスマ会の………桐島さんですね? わかりました」
詩織の素直な返答に、多喜は表情を強張らせる。言葉を詰まらせながら、多喜は詩織に詫びた。
「………こんな事に巻き込んでしまって、申し訳なく思ってます。全て、私の責任ですから」
詩織はしばらく黙っていたが、遠い眼差しのまま言葉を紡いだ。
「いいえ。勝手に深入りしちゃったのは私の方ですから。………それに私、多喜さんには感謝してるんですよ」
「何を、です?」
意外そうな顔をした多喜を余所に、詩織は赤いサングラスを弄んだ。
「今回のことがなかったら、私、ずっとあの築地のマンションにいたでしょうね。両親に先立たれ、叔父夫婦とは冷たく、兄とは憎しみ合っていた。私、幸せにはいつも縁遠い方で。………私のマンション、あの繭のように柔らかく暖かい、小さな世界はとても居心地が良かった。私は囲いの中の小さな子供だったんです」
多喜は気まずさで、詩織と目を合わせられない。
苦し紛れに、ぼそりと呟いた。
「私が台無しに………」
詩織は大きく手を振って否定した。
「そうじゃないですよ。そうじゃ………ないんです。私は探そうともしてなかった。安全な繭にいれば傷つかないで、そのまますむんじゃないかって………。幼稚で臆病な女。それが私だった。………だから多喜さんには背中を押してもらった、というか」
二人の間に重い沈黙が流れた。
そこで詩織はトートバッグ探ると、一枚のカードを取り出した。
詩織は笑みを浮かべ、言った。
「これ、黒沢さんの彼女から頂いたんですよ」
多喜は手に取って改めた。絵柄の付いたカードで、月桂樹で形作られた輪の中に、人物が一人描かれている。
「何ですか、これ?」
「タロットカードですよ。カードナンバーは二十一。(世界)のカード」
「どんな意味が?」
「この(世界)は終わりであると同時に始まりでもある」
多喜は詩織の禅問答のような言葉に首を傾げ、しげしげとカードを眺めた。
詩織は続けた。
「あの女の子も私と変わらない境遇、いや、彼女の方がもっとひどいかもしれませんけど。彼女はずっと元気だった。彼女は私にないものを持ってたんです」
多喜は眉根に皺を寄せた。
「カード、ですか?」
多喜の間の抜けた答えに、思わず詩織が笑い声を上げた。
「ハハッ、違います」
「じゃあ、何です?」
「覚悟、ですよ」
「覚悟?」
詩織はうなずいた。
「全ての事柄には等しく潮時というものがあって、それがやってきた時、躊躇せずに前に進むには覚悟がいるんです。もやもやした何かが、すとんとおなかに落ちると、それで理解出来る。それが覚悟。………そう思うんです」
多喜は首をひねった。
「そんなものですか?」
「私の潮時。私の覚悟。………どうです? 私、少し大人になったかもしれませんよ」
そう言って詩織は、照れくさそうに微笑んだ。
多喜は静かにうなずき、肩をすくめて見せた。
「人生の転機にしては少々、一大事過ぎ、ですけどね」
二人は顔を見合わせ小さく笑った。
多喜は時計を改めた。そろそろ搭乗手続に行った方がいい。
多喜は詩織に声を掛けた。
「さて、時間ですよ」
詩織は一つ溜息を吐き、おかしなサングラスを掛けると立ち上がった。多喜もそれに続いた。
「時間ですね」と、詩織。
多喜は詩織に耳打ちした。
「例のパスポートは? ちゃんと持ってますか?」
詩織はトートバッグを叩いた。
「はい、ここに」
闇ルートで手に入れた偽造パスポート。完成度は高い。難なく審査を抜けるだろう。
ふと思い付いて、多喜はたずねた。
「因みに名義は? 何ていう名前です?」
詩織は上目遣いに思い出しながら答えた。
「浅井、静香ですね」
「フム、いい名だ。いかにもあなたらしい」
「そうですか?」
「ええ」
多喜は優しく笑った。それから詩織に右手を差し出した。
「では、お別れに握手を。………浅井静香さん」
「はい。………」
多喜の大きく固い右手が、華奢な詩織の手をとった。
そこで詩織の頬を、銀色の滴が伝う。
大粒の涙がこぼれた。
「詩織さん………」
多喜の言葉が続かない。詩織は涙声で呟いた。
「あれあれ、………おかしいですね。涙なんて………」
多喜はしっかりと詩織の肩を抱いた。細く、頼りない肩。その感触に多喜は胸が締め付けられた。甘い柑橘系の香水が微かに香った。
詩織は一時、多喜の胸に身を預けたが、すっと両手で押し返した。
「ごめんなさい。もう大丈夫」
詩織はサングラスを外さず、笑顔を見せた。涙の跡が金色に煌めいた。
「あなたは、私の人生で初めての光よ」
そう言うと詩織は、もう一度バッグからタロットカードを取り出し、多喜の胸に押し付けた。
「これはあなたにあげます、多喜さん」
多喜は小さく両手を上げ、首を横に振った。
「あなたのラッキーカードでしょ? 受け取れませんよ」
「いいんです。預かって下さい。あなたが持っているべきなんです。………このカード、もう一つの意味を知ってますか?」
「何です?」
詩織は最高の笑顔で微笑んだ。
「(約束の成就)ですよ」
詩織は一度も振り返ることなく、出国審査へ降りていった。
多喜はようやく喫煙コーナーに立ち寄り、我慢していたキャメルに火を点けた。窓の外に目をやると、西に傾きだした日差しの中、離陸していく銀色の機影が瞬いた。
煙を深々と吸い込んで、多喜は顔をしかめる。 まただ。煙草が塩辛い。そろそろ止め時かもな。
多喜の両手に詩織のぬくもりが残った。
詩織の涙と、成就しない約束。
お互い、それは理解しているはずだ。
それで彼女は、明日に生き残れる。
全てを消し去るように多喜は目を瞑り、両手を固く握り締めた。
多喜は西の空を見上げた。一時間ほどで首都圏に夜の帳が降りる。
赤みを帯びた鰯雲にもう一度目を向けた時、VADSが多喜の一次視覚野にコールした。
「多喜、聖マリア記念病院に、発症寸前の感染者が運び込まれました。コード3Eの7。隔離措置の依頼です」
多喜は渋い顔で、まずい煙を吐き出した。
「随分早いな。まだ四時半だぜ。場所は?」
三次元マップが瞬時に差し込まれ、マーカーが点滅する。
「新空港自動車道を北上して、すぐです」
「よし、了解した」
多喜は最後の一口を吸い込むと、吸いさしを灰皿にねじ込んだ。
(夜の盾)の守るべき世界が、そこにある。
終
夜の盾 梶原祐二 @kajiyuji2019
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