第22話

 消耗した身体を引きずりながら、多喜は四十二階に足を踏み入れた。

 制御室のような場所だった。

 黒っぽい電子機器が並び、稼動中の計器類、モニタが複数見えた。しかしオペレータの姿はない。下の騒ぎで早々に退散したとも考えられるが、そもそもここには座席がなかった。無人の制御室。そのように仕様され、そのように運営されている。

 そして、大木戸雅治の姿も見当たらない。

 どこだ、大木戸? 

 多喜は更に四十三階に上った。

 一歩一歩重い足取りに、疲労が圧し掛かり、ヴァンパイアの血で汚れたブーツが跡を残した。これはさながら天国への階段、だろうか。懺悔も無く、罪深い現世を送る自分には、遠く険しい道のりである。多喜の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。

 階段の先に銀色の壁が見えた。

 入口は高さ二メートル半ほどの研ぎ出しステンレスの扉だった。右端に電光表示されたテンキー操作盤が見える。

「VADS、暗証番号の解析」

 多喜はITCで軌道上のVADSに命じた。

 一分と待たずに、VADSのリモート操作で扉が開いた。

 左右に退く扉の隙間から、暖かい金色の光が漏れた。多喜は目を細めながら、油断なく可変アサルトライフルを構えた。

 慎重に足を踏み入れると、光は無数に並べられた銀製の燭台からのものだった。数十の蝋燭が灯され、吹き込んで来る寒風に揺らいでいる。多喜の足元で影が躍った。

 差し渡し二十メートルほどのフロアは、絢爛たる装飾に埋もれていた。ヴィクトリア朝趣味、とでもいうのだろうか。床は豪華なマホガニー製のフローリングで、毛足の長い動物の敷物が敷かれている。真向かいに暖炉が焚かれ、壁にはウィリアム・モリスを模した精緻な植物パターンが描かれている。海景画が掛かっているのも目を惹いた。ジョゼフ・ターナーの「戦艦テレメール号」だった。

 この部屋の中で、多喜の対衝撃抗圧力NBCスーツが、異様なほど浮き上がって見えるのは言うまでもあるまい。多喜はTPOをわきまえずにやってきたパーティ客のような、居心地の悪さを感じていた。

 中央に歩を進めると、天蓋付きのキングサイズの寝台が見えた。赤いベルベットの目隠しの奥に、薄緑色のカプセルが鎮座している。

 多喜は、そっと寝台に近付いた。

 シャボン玉のようなクリスタルガラスに覆われた寝台には、痩せた男が眠っていた。刺繍とレースで飾られたリンネルの中に、沈みこむように包まれている。多喜はその様子に苦笑した。

 まるで白雪姫である。

 裸身の男は、薄いビニール素材で保護されており、複数の配線と循環装置が繋がっていた。辿っていくと間仕切りの背後には、見慣れない医療機器が設置されており、配電ケーブルは天井へ巻き上げられ、ダクトに吸い込まれている。

 多喜は男の顔を拝んだ。

 ロマンスグレーの長髪を品良く整えた、背の高い男だった。写真で見るよりも色白で、やつれて見える。

 大木戸雅治、その人であった。

 多喜は独り言を呟いた。

「やっと会えたな。大木戸さんよ」

 多喜が寝台の装置類を検分していると、ITCにVADSがアクセスしてきた。 「こんな時になんですが、この人物についての検証報告が」

 天井に消えるダクトを辿りながら多喜はうなずいた。

「大木戸雅治、だろ? わかってるさ」

 しかし、VADSの関心事は意外なところにあった。

「はい。そうなのですが、もう一つ奇妙な符合がありまして」

「何だい?」

 VADSは少し言葉に間を置いた。

「今自分は、多喜の視覚情報を通じてこの人物の確認をしていますが、プログラムの実行結果に不審な点があるのです」

「何をRUNさせてる?」

「顔センシング判定です。精度の高いステレオ画像という申し分ない条件でありながら、プログラムの判定が二人の人物との一致を伝えてくるのです。一人は大木戸雅治ですが、もう一人は………」

「誰?」

「岡崎真一郎です」

「岡崎真一郎? 何だ、創業者の方か?」

 多喜は眉をひそめた。VADSが続けた。

「不可解なことですが、プログラムの成長ベクトル変異の許容範囲に、この二人は納まっています」

 多喜は考え込み、そして言った。

「他人の空似、もしくは親族かな?」

「どうでしょう? 記録上では親族という線はあり得ませんが」

「となると、大木戸雅治と岡崎真一郎は、同一人物か?」

「可能性は、あります」

 多喜は先日の黒沢たちとのリサーチを反芻していた。

 片や、岡崎屋百貨店創業者、岡崎真一郎。片や、O&Iホールディングスの代表取締役会長、CEO大木戸雅治。

 岡崎と大木戸の出会いは二〇一一年の大木戸の入社に始まるわけだが、僅か五年後の二〇一六年にはブルーグラス・ジャパン設立に大抜擢されている。野心家の若手ビジネスマンを老資産家が懐刀にする。良くある話といえばそうだ。

 多喜は大木戸雅治・追跡調査の奇妙な結果を思い出していた。

 二〇一六年、肝硬変の徴候、動脈硬化、胸腺萎縮………。三十男の、老人のような医療データ。そして四年後の劇的な回復。パーティで見つけた、露出不足の写真。大木戸の姿は、老人のようでなかったか。

 生え際に肝斑のある若者? 

 多喜は、寝台に横たわる男の顔を、じっと見詰めた。

 多喜は男の寝姿を覆う、薄緑色のクリスタルガラスを指で弾いた。金属的に澄んだ音色が涼しげに響いた。男が身じろぎする。だが、目覚めない。

 多喜は仕方なく、一つ咳払いすると、張りのある声を上げた。

「起きろ、大木戸」

 これにも反応がなかった。狸寝入りか? 

 そこで多喜は、もう一つの名を呼ぶことにした。今度は囁くような、小さな声で、だ。

「岡崎………真一郎」

 リンネルの中で、男がぱちりと目を開けた。寝台の上で身じろぎし、方肘を付いて身を起こすと、不思議そうに多喜の顔を見詰めた。

「お前は、誰だ?」

 かすれた声だった。真っ赤な瞳が多喜を見返している。多喜は黙ったまま、たたずんだ。

 寝台の男はコードを引きずる腕で伸びをし、楽な姿勢を取った。眠そうに目を擦り、それから微笑みを浮かべた。

「そうか、君だな。………最近、私の身辺を探っている者がいる、そう報告を受けている。君は誰かね?」

 多喜は黙ったままライフルを構えていた。男は視線を預けたままうなずくと、言葉を続けた。

「口では言えんか? まあいい。………質問を変えよう。君は警察官か? それとも法律関係者? ウーム、どちらも私の管轄だから、そう思い切った連中はいないと信じたいがね。さて、君の管轄は? どこだろう?」

 ようやく多喜が口を開いた。

「俺は(夜の盾)だ」

 男は興味深げに首を上下した。

「(夜の盾)? そうか。初めて会う人種だな。よろしく、捜査官君。………わざわざ出向いてくれてなんだが、ここに何か用かね?」

 多喜は吐き捨てるように言った。

「何言ってる。下で散々始末させて貰ったぜ。オレモア・ヴァンパイアをな」

 男は、ふと思い出したような、そんな反応を示した。

「ああ、あれね。始末したのかね? そいつは凄いな。一〇〇体以上いただろう? 君は優秀な捜査官なんだな。………(夜の盾)特別司法執行職員、そうだったかな? 特別司法執行職員には捜査権が認められていない。確かそうだよね。つまり、君がここにいること自体、大きな法律違反となるわけだ」

 多喜は落ち着いた声で反論した。

「令状の必要はないさ。準現行犯逮捕の線を考えていたが、それを振りかざすまでもない。一類感染症に抵触する疾病の遺体、処分体、隔離感染者の無断収監。これはれっきとした犯罪行為だ。そして我々(夜の盾)の活動対象でもある」

 多喜のそらんじた台詞に、男は嬉しそうに手を叩いた。

「なるほど。ここまで辿り着くだけ一筋縄じゃ行かないらしい。(夜の盾)とは言っても、君は大量雇用のチンピラとは少し違うようだ」

 男は言葉を呑み込み、それから辺りを見回した。

「折角だから飲み物でも勧めたいところだが、生憎、私は見ての通りだし、君は勤務中。ちょっとタイミングが悪かったな。………どうする? 私を逮捕するかね?」

 男は両手首を差し出し、手錠の仕草をした。

「君を妨害するにも、私は一人で、丸腰ときてる」

 多喜は抑えた口調で男にたずねた。

「金回りのいい資産家がなぜ看護人を雇わない? こんな装置で満足か?」

 男は含み笑いを浮かべた。

「便利な機械だよ。これで私の体調管理は万全だ。この機械と同じ内容を雇用で達成させるとなると、設備の四年の減価償却を遥かにオーバーしてしまう。これはいわゆる固定費の削減という奴さ。私にそんな無駄なお金はないよ。それが資産家たる資質とも言えるがね」

 多喜は黙ったまま聞き流した。男は続けた。

「君は私を逮捕する気でいるが、それは時間の無駄というものだ。何というか、私の事業は政府筋との密約の上に成り立っているものでね。些細な法的事情など差し挟む余地がない」

「それはトランスヒューマン協会のことか?」

 そう多喜が告げた。男は口の端を歪めると少し間を置き、静かに同意した。

「近いね。さっき君は私のことを岡崎と呼んだが、それなりのところまで掴んでるということだろ?」

 動じることのない男の表情に、多喜は顔をしかめ、語気を荒げた。

「ああ、そうだ。最後まで知りたいところだが、法律があてにならないなら、実行制圧するまで」

 多喜は意を決し、ライフルを高く構えた。

 男は笑いながら頭を振り、そして小さく両手を挙げた。

「おお、熱い熱い。それは勘弁して貰えないか。………わかった、いいとも。君が知りたいことを話そう。………しかし、そこまでの正義漢とは。世の中もまだまだ捨てたもんじゃない。しかし、裁定は私の話が終わってからにして欲しいね」

 多喜はトリガーに指を掛けた。

「俺の気は、変わらないぜ」

 男は自分の細い顎をさすりながら、ほくそ笑んだ。

「君の武器は法律と拳銃、私の専門は交渉と説得、というわけさ」

 二人の間に沈黙が流れた。

 蝋燭が揺れ、ジョゼフ・ターナーの夕焼けの海が少し深くなった。

 男は多喜に椅子を勧めた。多喜は壁際から猫足の椅子を引き寄せ、ライフルを置くと、腰を下ろした。

 男は寝台の上に胡坐をかいた。

「さて、………何が聞きたい?」

 多喜は首を傾げ、男の顔を斜めに見上げた。

「まず、お前は何者だ? 大木戸か? それとも岡崎なのか?」

 男は薄い唇を左右に引きつらせた。

「………私は大木戸でもあり、岡崎でもある」

「やはり同一人物か?」

「そうだ。しかし、どうして気付いた?」

 男は興味津々な表情で多喜を見詰めた。

 多喜は一次視覚野に情報を呼び出していた。

「大木戸の高校卒業から二〇一一年の岡崎屋入社までの経歴が随分杜撰だったこと。二〇一六年のパーティスナップの大木戸の姿。後は、うちの賢いAIシステムが顔センシング技術で岡崎真一郎との一致を指摘したことかな。………これは、ついさっきの話だ」

「フム、(夜の盾)の装備も侮れないね」

 多喜は言葉を選びながら男に問うた。

「お前の医療データ、あれはどうなってる? 三十のお前は、老人のようだった。それが年を追うごとに健康になっていった。まるで老人が若返っていくようにな。単なる記録ミスとも思えないが」

 男は面白がっているのか、片方の眉を吊り上げた。

「私はそもそも岡崎真一郎として生を受けた。一九四九年生まれ、今年で八十九歳になる」

「八十九?」

 多喜は異形のものを見るように眉間に皺を寄せた。男はうなずき、そして続けた。

「六十を過ぎた頃、私は悪性の腫瘍に侵されていた。明日をも知れぬ状態でね。当時躍進していた、OZマートの今後十年の成長が予測され、役員会でM&Aの話が検討されるようになった頃、私の病気が発覚した。ここで私が経営から降りることはままならなかった。それで、うちの参画部門の遺伝子医療研究グループの画期的な成果である、(人工DNAによるテロメアの加減制御)を試みた」

「それは橘生化学研究所のことか?」

「そうだ。癌はなくなりはしなかったが、生命の危機を脱することは出来た。私の肉体の中で成長する癌細胞に効果的なアポトーシスを起こさせ、私は自分の病いと共存することに成功した」

 男は一つ咳払いすると言葉を継いだ。

「その後、私の体調管理の一環から遺伝子治療の研究は続けられた。ヤマナカ・ファクター以降の初期化因子の研究も、我が社で独自に進められていた。いわゆるiPS細胞、人工多能性幹細胞の研究だ」

 多喜は無言で首を縦に振った。石見詩織の説明が脳裏に甦ってくる。

「iPS細胞には、癌抑止以外に別の可能性があってね。平たく言うなら、細胞の時計を巻き戻す技術だ」

「若返りか?」

 と、多喜が口を挟む。男は同意した。

「自分の繊維芽細胞から作り出されるiPS細胞を分化させ、自らの肉体のパーツを造ったんだ。外科的に移植し、肉体の交換を図った。その結果、私は少しずつ若返っていくこととなった。その副産物が大木戸雅治」

 男は自分の胸に手を置いた。

「そろそろ若い経営者も必要だったしね。会社はイメージというものが大切で、優れた経営者が優れた跡継ぎへと事業を継承していく、これが社会的評価に繋がる。だが、その時点で私の眼鏡に適う後継者は見つからなかった。私は自分が経営を続けていくしかないと悟った。そこで苦肉の策として考えついたのが、架空の敏腕ビジネスマン、大木戸雅治を仕立てることだった」

 多喜は呆れたように言った。

「自分で自分を新事業の責任者に抜擢したわけか? じゃあ、現時点の岡崎真一郎は誰なんだ?」

「誰でもないさ。単なる御飾り。代役だよ。今年中には引退する予定だがね。O&Iホールディングスの代表取締役会長、最高責任者は大木戸雅治だから。まだ五十二歳。若くて優れた経営手腕の持ち主だ。もう岡崎真一郎は必要ない」

 男は蛇のような舌なめずりをすると、両手を組んだ。

「二〇一六年以降、私の中で意識の変革が起きた。経営と世界の関わりが気になり始めたんだ」

 多喜は、少しからかい気味に呟いた。

「随分、話がでかい」

 男はうなずいた。

「そうとも。これは哲学的な問いだよ。自分の病いの通じて発見することとなった新しい延命治療は、今まで考えなかった命題を投げ掛けていた。それは後継者を探すという意味だ」

「意味?」多喜が鸚鵡返しに聞いた。

「優れた経営者が手腕を発揮出来るのは精々、三十年程度のことだ。体力、記憶、その他の様々な肉体的衰弱が世代交代を余儀なくしてきた。実際、老齢による気力の減退は、私自身痛感していたしね。しかしながら死期の迫ったあの時期に、自分は跡継ぎを見出せなかった。もし自分があのまま回復出来ずに、会社存続のため、自分の代替えを選んだとしたら、どうなったろう? 血筋による相続か、あるいはポスト委譲としての代理人を立てるしかなかったに違いない。多くの会社がこの問題で勢力を失い、失墜するケースは多い」

「世界中どこでもそうだろ? 大概、二代目はロクデナシときてる」

 多喜の皮肉に男は笑った。

「全くその通り。うちもまさしくそんな感じでね。頭の痛い話さ。だが、私が手に入れたiPS細胞の分化制御技術による巻き戻しは、人を従来の何倍も健康な状態で延命させられる。延命が可能なら経営を続けるべきだ。それこそが経済を安定させ、社会の活性化にも繋がる」

 多喜は異論を唱えた。

「飛躍し過ぎだろ? 会社の経営が安定して、あんたには都合がいいっていう、それだけの話じゃねえか」

「そういうことではない。いいかね、優れた経営手腕を持つ人間が、一体、世界に何人いると思う? 片手で足りるほどだよ。そうした人間が手を結び、世界を導いて行くんだ。君は現状をどう思うかね? 火星株の暴落から始まった世界的なコストインフレは、一部の節操のない投資家が儲けを欲張った結果なんだ。危険な金融商品を理解もせず売り続けた。成り上がりの新興勢力というのはいつもそんな具合だ。全体が見えていない。やはりこの世界には管理者が必要なのだ」

 多喜は男の言葉を遮った。

「それがトランスヒューマン協会の実体か?」

 男は静かにうなずいた。

「一つ上の次元の人間。そこにこの協会の主旨がある。現在、六人のメンバーで世界の行く末を論議しているところだ」

 多喜の脳裏を、H+のロゴタイプが過ぎった。

「お前は一握りの経営者を長生きさせて、世界を牛耳ろうという気か? 何様だ? 神にでもなったつもりか?」

「神? なるほど、そうとも言えるね。さしずめ君たちは、神の御前の子羊というわけだ」

 多喜は憤慨した。

「金持ちの考えそうな差別主義だ。聞いてて反吐が出るぜ。民主社会の基本は、平等な機会均等だ」

 男は人差し指を軽く振った。

「それは差別とは言わないよ。区別だ。平等というのは政治理論であって、現実的ポリシーではない。強欲な投資家たちの平等な経済活動が、皆を不幸にしている。そうだろ? それで平等なのかね? 自由競争の中で不幸でいることと、管理体制の中で幸福でいることは同義ではない。………不幸は良くない。人間を堕落させる。安定管理された経済活動による富の分配。私は皆に幸せになって欲しいのだ」

 多喜は男の目を見た。赤い瞳が真っすぐに見返していた。

 男の言葉は、強い力を持って多喜の胸に響いた。

 一瞬、説得されそうになった。だが多喜は頭を振るった。過去の歴史が証明しているではないか。管理社会の構造はとどのつまり、独裁制に他ならない。そして独裁者はいつも、理想的な人物ではいられない。

 多喜は椅子に座り直し、腕組みした。少し、矛先を変えてみることにした。

「話題を変えよう。下のフロアに溢れ返っていたオレモア・ヴァンパイア、あれは、どう説明する?」

 多喜は男の顔を見詰めた。

 男の左右につり上がった口元は微動だにしない。まさにポーカーフェイスだ。 「オレモア症候群の病理の研究だよ。感染症患者の体細胞には、正常細胞の癌化と良く似たプロセスが起きる。何らかの要因がトリガーとなり、変性ゲノムを作り出し、ヒトゲノムの書き換えが始まる。皮肉な話だが、病的な外見とは裏腹に、オレモア変異体には個体としての異常は見当たらない。生物として全くの健康体なんだ」

 多喜は目をすがめた。

「本当に治療が、目的なのか?」

「当たり前だろう。現在、世界で最も危険な病理の解明こそ、企業としての社会貢献の最たるものだ。我が社は天文学的な計上予算で臨んでいる」

 多喜は男の言い分に耳を傾けた。

 もっともらしい言葉に聞こえる。だが………、

 多喜は男の赤い瞳が一瞬、右下を向くのを見逃さなかった。人が嘘をつく、仕草の一つだ。

 多喜はITCで密かにVADSを呼び出していた。

(VADS、解析中か?)

(特定脳波検出で解析中です)

 VADSは静止衛星群から、この部屋にサーベイランスを掛けていた。

(どう思う?)

 一次視覚野に男のEEG解析図が現れた。

(〔企業としての社会貢献の最たるもの〕、このくだりで脳波P300に強い反応が出ていますね。アルゴリズム解析の必要もないくらいに。この男は情報を隠匿しています)

 予想通り。

 差し詰め、狼少年ならぬ狼老人、というところか。

 悪党は皆、嘘つきと相場が決まっている。

 多喜はひらめいた持論に納得すると、口の端を曲げ、苦笑いを浮かべた。

「大木戸さん、いや岡崎さんか。………あんた、嘘ついてるだろ?」

 男は微笑んだまま、両腕を広げて見せた。

「私が嘘を? どうしてだね? 私は嘘はついていない」

 問いと同じ言葉の繰り返し。警察時代に会得した尋問術がこんなところで役立つとは。間違いなかった。この男は嘘つきだ。

 多喜は穏やかに窘めた。

「あんた、正直に話した方がいいぜ。今更、情報隠匿で罪の上塗りもないだろ? この部屋は軌道上の静止衛星群からサーベイランスを受けてる。あんたの脳波も測定中だ。現在、脳波P300が大量に発生中。………本人が嘘つきでも、脳みそは正直だ」

 男は顔を引きつらせたまま黙り込んだ。ロマンスグレーの生え際から一筋、汗が流れた。男は強張った声で虚勢を張った。

「サーベイランスだと? 特定脳波検出には法的届け出が必要なはずだ。令状もなく、捜査権もない(夜の盾)のお前が、証拠になど使えるはずがない」

 多喜は肩をすくめた。

「法的根拠? どっちでもいいさ。俺はただ真相が知りたいだけ」

 そこで言葉を切ると、多喜はガラスに顔を近づけ、皮肉な笑みを浮かべた。

「でもまあ、資料としては面白いだろうね。検事局の人間なら喜んで裏を取るはずだぜ」

 男の顔から完全に笑顔が消えた。すぐには言葉が出て来ない。痩せた拳を握りしめ、じっと多喜を睨んだ。

「お前は、私を………脅すつもりなのか?」

「それはあんた次第だ。俺は手段を選ばない。(夜の盾)だからな」

 多喜は、付け加えるように言った。

「………それと、もう一つだけ。言わせてもらっていいかな? あんたの目。その赤い目。それは間違いなく、オレモア症候群感染の初期症状だぜ」

 男は、ごくりと生唾を呑み込んだ。

「その白い肌も。痩せた身体も。全てが徴候を表しているよ。………あんた、感染してんだろ?」

 男はクリスタルのカプセルの中で一回り小さくなったように見えた。多喜はそっと男の表情を伺った。飲み下せないものを詰まらせたように、男は震え出した。

 チャンスだな。

 多喜は駄目押しに、昔ながらの尋問術を使った。

 いわゆる世に言う、泣き落とし、である。多喜は抑えた口調で囁いた。

「あんた、困ってるのか? それとも苦しんでるのか? わかるぜ、あんたの心中。大勢のスタッフに囲まれても、誰にも相談出来ずにいる。だからこんな看護システムを使ってるんだろ?」

「………」

「辛いのか? そりゃ、辛いよな。あんたは十分に苦しんだ。もういいんだ。………さあ、言っちまいなよ。………それで、楽になるんだ」

 多喜は男の、秘密を抱えた孤独な魂に訴えた。

 神父が促す、懺悔の如く。

 男は視線を彷徨わせると、急に無表情になり、うつむいた。

 男の白い頬に一筋、涙が流れる。

 そして呟いた。

「私は、………失敗した。………」

 多喜は黙ってうなずいた。寝台に覆いがなければ、男の肩に腕を回していただろう。

 多喜は静かに促した。

「そうか。それでいい。………ゆっくりでいいんだ」

 男は大きく溜息を吐き、ビニールの薄膜を手繰り寄せた。その姿は今や、リンネルの襞に溶け込んでしまいそうな白い影だった。

 男は、ぽつりぽつりと口を開いた。

「計画は順調だったんだ。………iPS細胞を分化させた身体部位の移植は良好で、大木戸雅治は目を見張るように若返った。平行して(人工DNAによるテロメアの加減制御)も続けられていた。しかし外科手術は体力の消耗もあり、身体改変は少しずつしか進められない。私の姿は外見的には五十代だったが、中身は継ぎ接ぎだらけの、いびつな老人だった」

 男は天井を見上げ、記憶を辿った。

「二〇三五年、今から三年ほど前だ。遺伝子治療研究グループから、画期的な報告が届いた。二つの成果だった。一つはナノマシンによる体内での標的部位特異分化置換法。もう一つは抑制遺伝子Mar Shell 8311の開発だ」

 多喜は黙ったままうなずいた。

「従来のフィーダー細胞を土台にした体外分化のボディパーツと違い、iPS細胞を直接、ターゲットとなる臓器に到達させる方法だ。iPS細胞は宿主臓器と機能を共にしながら分化し置換されていく。これで被験者の身体的負担は大幅に軽減され、治療効果も格段に上がる」

 男は唇を湿らせ、息を継いだ。

「しかし、細胞の不死化した分裂能は、常に腫瘍化の可能性を持ち合わせている。レトロウイルスベクターで持ち込まれた初期化因子がランダムに組み込まれる際、本来の重要な遺伝子が破壊される可能性があった。レトロウイルスベクター自体、DNAに組み込まれ続けている。そうした癌化の危険要因は随所にあった。内側から細胞ごと若返るのはいいが、際限なく増殖したり、他の組織へ浸潤することは許容できない」

 多喜は眉間に皺を寄せ、男に問うた。

「結局、細胞の分化制御は、自由自在には行かないってことなのか?」

 男は首を横に振った。

「それまでは、だ。我々の研究グループは抗体反応に目を付けたんだ。P53抗体の腫瘍マーカーを改良した。日々体内に作り出される癌遺伝子が危険なテラトーマに成長しないか探査し、見つけ次第、速やかにテロメア制御してアポトーシスに誘導する。正に体内のお目付役みたいなものを作り上げた。この抑制遺伝子を我々はMar Shell 8311と呼んだ」

「それが第五の因子だな」

 多喜は石見庸介の残したコインロッカーのメモを思い出していた。

 男は静かに同意した。

「そうだ。ヤマナカ・ファクターを補う、第五の遺伝子だ」

 男は頬杖を突くと、顔を歪めた。

「私たちは万全を期して準備したつもりだった。ほぼ一年を掛け、様々な動物実験、臨床データをとって臨んだ。あの日は四月の清々しい午後だったと思う。私は施術を受けた」

 多喜は興味本位に身を乗り出した。

「それで? 首尾は上場だったのかい?」

 男は弱々しく笑った。

「驚くほどにね。施術から三日後、私の身体は二十歳の青年に戻ったんだ」

 男はうっとりとした表情で語った。

「それまでの肉体の重荷が全て取り払われたようだった。軽やかで新鮮。手足は力強く、姿勢を選ばず、慢性の痛みさえ消えた。ずっと聞こえていた遠くの騒音が、急に止んだようだった。部屋の広がりを意識し、視界が深みを増した。全てが私を鮮明に刺激したよ。私はジョギングに出かけたくらいさ」

「小春日和の、桜並木か?」と、多喜。

「ああそうだ。この時私は、はっきりわかったんだ。老いは病いだ。克服すべき病理であって、人生の芳醇な深みなど、ただの戯言だとね。それからの二週間、私は青春を満喫したよ」

 多喜はからかい半分に言った。

「それだけの若さを取り戻したのなら、あっち方面も試してみたんだろ?」

 男の表情が曇った。

「節度というものは自覚すべきだったかもしれん。私は過ちを犯した」

 多喜は男の言葉を待った。

「八十の男が二十歳の肉体を手に入れたのだぞ。そう考えるのも致し方あるまい? 私は自分を試すために女性を用意した。後は君の想像通りだ」

 多喜は関心なさそうに鼻を鳴らした。

「ま、そんなとこだろう。別に恥じるようなことじゃねえさ」

「性衝動は人間らしい営みだ。研究者たちは万全を期して、上流階級ご用達のクラブレディを手配した。美しく、知的で、扇情的な女性だった。今でも素晴しい思い出だよ。………だがその一週間後、私の体調は一変した。私の肉体の正常細胞が次々とテラトーマを起こし始めたんだ。ゲノムの変性が起こり、ヒトゲノムが次々と書き換えられて行く。アポトーシスを誘導するMar Shell 8311も、まるで効果なしだ。焦った研究員たちは、私の脳髄の機能を量子メモリに移し替えた。寸前で私は記憶と思考のみをサルベージされた。肉体は既に、手の施しようがなかった」

 ヒトゲノムの変性と書き換え。多喜はその言葉にはっとした。

 男はうつむいたまま続けた。

「君の良く知っている、あの姿だよ。身の丈三メートルの白子の怪物………」

 多喜は唖然として、震える声で聞き返した。

「まさか、それが、………オレモア・ヴァンパイアだと、言うのか?」

 男はゆっくりと両手に顔をうずめた。

 多喜は耳の中に木霊する、その言葉を理解出来ないでいた。

(身の丈三メートルの白子の怪物)

 それがオレモア症の真相なのか? オレモア症は人的災害? 

 この男の野心が、全ての元凶だと言うのか。

 男はしゃがれ声で囁いた。

「問題は研究室の外にも及んでいたよ。私の相手を努めたクラブレディが、感染した病原体を運んでいたんだ。病原性タンパク質は粘膜を仲介し感染する。オレモア症の現在の潜伏期間は二日ほどだが、しかし彼女が発症するまで、約一週間掛かった。その間、我々医療チームは私のサルベージに躍起になって、彼女の追跡を見落としていたんだ。数多くの上流階級に広がった。彼女はその筋では非常に人気あるレディだったのでね」

 多喜は男の言葉の中に、石見庸介が選んだ宇田川町(モンスターピンク)の答えを見出した。性交渉による感染の伝播である。

 そこで多喜は、あることに気付いた。

「赤坂のホテル・オレモアの、最初の感染者は、そうなのか?」

「彼女さ」

 男は静かに同意した。

「発症した私の肉体はラボで刻まれ、徹底的な調査がなされたが、未だゲノムの分離が出来ないでいる。抑制遺伝子を投与しながら、体外分化で私のボディを造り上げ、量子メモリから私が移し替えられる。約五日ほどでオレモア症が発現し、私は再びサルベージされ、次のボディにすげ替えられる。この繰り返しだよ」

 多喜は一時の沈黙の後、抑えた声で男に確認した。

「下のオレモア・ヴァンパイアの群れは、………そういうことなんだな?」

「そう。私の乗り捨てた抜け殻だよ」


 多喜は燭台の揺れる灯火の中、ガラスの覆いに守られた、矮小な人影を見詰めた。それは惨めな権力者の成れの果てだった。

 紙のように白い肌。落窪んだ眼窩から覗く赤い瞳。身体は痩せ細り、耳が尖って飛び出していた。手足には静脈が脈打ち、節くれ立った指先が青黒く鬱血している。曲がった背骨の先で上下する小さな頭部は、やがて引き延ばされ、醜悪な鵺と化すだろう。

 正に悪鬼。被せられた人の皮は既に朽ち果て、正体が晒されている。

 世界に蔓延するオレモア症候群は、この男の描く理想的管理社会のカリカチュアだった。人間以上の存在は、図らずも実現されたといっていいだろう。皮肉な事に、その超越人類は、人語を解さず、人の生き血を啜るヴァンパイアだったわけだが。

 不老不死という命題に挑んだこの男は、自らの肉体を投じ、その答えを得た。強靭な肉体と普遍の精神。オレモア・ヴァンパイアと人類の関係性こそ、神の御前の子羊という、二元化された社会構造を表している。だがこの男は、それが気に入らぬと逃げ出してしまった。

 不老不死の代価は大きい。


 多喜は猫脚の椅子から立ち上がって、男を見下ろした。

 男はガラスの覆いの中で身をすくませた。多喜はじっと見詰めたが、ただそれだけだった。掛けるべき言葉を思い付かなかったのである。

 恐る恐る、男が多喜に問うた。

「私を、逮捕するのか?」

 多喜は視線を合わせず、官給品のオートマチックピストル、センチネル92型をホルスターから抜いた。マガジンを抜き、弾数を確かめる。

「逮捕は取りやめだ」

「そ、………そうなのか?」男は驚きの声を上げた。

 多喜は遊底を引くと、9ミリのホローポイント弾を装填した。

「あんたは一類感染、つまり、オレモア症感染者だ」

「何?」

「それは、我々の殲滅対象となる」

 多喜は見下ろした形で、ガラスの覆いに銃を向けた。処刑スタイルだった。

 男は身をよじり取り乱した。

「わ、私を殺すだと? お前、気は確かなのか?」

「あんたよりは、な」

「私の死で、社会がどれだけの損失を受けるか、わかってるのか?」

 多喜は真面目な顔で、首を傾げた。

「例えば?」

「例えば、………そう、オレモア症の治療研究はどうなる? あと一歩というところまで来てるのだぞ。これが頓挫するとなれば、それは重大な犯罪行為だ」

「あんたがいなくても、研究は進むさ。誰かが後を引き継ぐ」

 多喜はトリガーに指を掛けた。男は両手を広げ、待てと示した。

 それは命乞いだった。

「………こんなことは言いたくないが、取引は、………取引はどうだ? 私はまだやらねばならんことがある。この世界をもっと住み易くする使命があるんだ。………取引だ。そうしないか? お前にとって、私の死が何になる? お前も馬鹿じゃあるまい。大きな見返りは想像出来るだろう? ………私が死んで、それからどうする? 何もないんだ。何の意味もない」

 捲し立てる男の言葉に、多喜は首を横に振った。

「さあ、どうだかな。俺には関係ない」

 手応えのない多喜の様子に、男は最後の切り札を出した。

「この肉体を破壊しても、量子メモリの中には記録があるのだぞ。第二、第三の私が現れる。無駄なんだ」

 涙声で訴える言葉の中に、多喜は嘘を嗅ぎ付けた。

「はったりだろ? あんたの嘘はわかりやすい」

「何故かね?」

 男はこぼれ落ちる何かを掴むように、両手を差し出した。多喜は哀れな虫けらを見るように、冷たく言い放った。

「あんたは、唯一絶対の己を信奉してる。自分のコピーを、機械に残すはずないさ」

「………馬鹿な」

 そう言って男はむせんだ。

 多喜は憐れみと蔑みの、綯い交ぜになった表情を浮かべた。

 男は涙と汗と鼻水を流しながら、ひどい状態になった。

 そして祈るような姿勢で、最後の言葉を絞り出した。

「何故? どうしてこうなった?」

 多喜は自分に言い聞かせるように、厳かに呟いた。

「それはお前が人類の敵で、俺は(夜の盾)だからだ」


 多喜の引き絞ったトリガーがストライカー式撃針を捉え、プライマーを発火させた。ホローポイント弾が擂り鉢運動で銃口から滑り出す。ゆっくりと侵徹し、クリスタルガラスを粉砕した。空中に浮かんだ弾丸に男の目が注がれた瞬間、前頭縫合ぜんとうほうごうを打ち抜いた。凹レンズ状に窪んだ弾頭がマッシュルーミングを起こし、灰色の前頭葉の中で運動エネルギーを拡散する。

 万物に変わらぬ影響を与えるエントロピーが、この男の頭上にも存在した。

 不可逆という物理世界の基本ルール。呪縛は解かれた。

 灰は灰に、塵は塵に。

 男の意識を持つ百万の断片が分散し、ヴィクトリア朝趣味の揺れる暗がりへと吸収された。


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