第21話

 芝公園四丁目。

 長楕円形の敷地に立つO&Iホールディングス本社ビルは、黒御影石の外壁材を濡らし、二本の尖塔を天空高く伸ばしていた。低い霧が棟の中程まで垂れ込め、透かした霞の中、ジオデシック構造の三角窓が輝いている。飛行機の衝突を避ける警戒灯が不気味に赤く、呼応するよう脈動を続けた。

 夜九時を回ったところで都内は小雨模様となった。南から吹き込む湿った空気が東京湾で冷やされ、濃霧となって立ち込めた。ぼんやり霞んだ東西の棟から南東の方角に、解体半ばで頓挫した旧東京タワー跡が見えた。橋脚部分と展望台北側を残した、無惨な姿を雨露に晒している。空気散乱のいたずらか、不気味に荒廃が強調されて見えた。その残骸を保護するように、O&Iホールディングス本社ビルが鎮座していた。

 それは、さながら古城を守る、火龍のようであった。


「さて、一〇時だぜ」

 黒沢のだみ声が空中に放たれた。

 桜田通り沿いの聖アンデレ教会の駐車スペースに三台のVADSが見えた。ノーマルタイプのオフベージュ筐体が二台。赤のラメ塗装が一台。これはマギー・リン模擬人格構造物の専用機体だ。いずれもいつもとはひと味違う、外付兵装が取り付けられ、見掛けからしてごつごつと強そうに見える。

 多喜と黒沢はヘルメットを外して、煙草を吹かしていた。煙は立ちどころに霞に紛れ、区別が付かなくなった。

「何か凄い霧だな、見通し悪りいぜ」

 黒沢が誰にともなくぼやいた。

「野外活動じゃねえんだ。関係ないさ。目立たなくて済むだろ?」と、多喜。

 黒沢は巨大なタワーを見上げながら唸った。

「あれみたいじゃねえか? 浦安の遊園地にある、ほれ、何だっけ? ホーンテッド………」

「皆まで言うなって」と、多喜が遮る。

 黒沢は肩をすくめた。

「ま、そんな楽しいもんでもねえか?」

 そこでマギー・リン模擬人格構造物が男二人をたしなめた。

「はいはい、休憩終了。煙草を、消す消す!」

「へいへい」

 二人は吸い差しを路上に投げた。街灯りにぬらぬらと光る、濡れた路面に接すると、シュッという小さな音を立て息絶えた。

 多喜はヘルメットを気密しながら、ITCでVADSを呼んだ。

「火災の準備はオッケーか?」

「準備完了。いつでも行けます」と、VADS。

 多喜は声に出して言った。

「それじゃ、行ってみようか。状況開始」


【AD.2038_10/19 tue. PM10:04】

 VADSの組んだダミープログラムがシステムダウンロードされた。ITCが送りつける一次視覚野には、ビルのセキュリティプログラムが架空の火災を感知する様が見て取れた。だが警報は鳴らない。フロアに人の残っている営業中のビルで、騒ぎを起こすわけにもいくまい。これはあくまで隠密行動だ。火災は非常用経路の施錠解除の口実でもある。音も無く、緊急避難路が解錠されていくのがモニタされた。

「VADS、消防への時間差はどのくらいみてる?」

 多喜が問うた。

「ビルセキュリティが通報システムを回復するまでの時間ですから、十五分から二十分」

「ちょっと早いね?」

「優秀な(夜の盾)の警邏活動に期待していますよ」

 VADSは澄まし声だ。

 二人はハッチを開け、VADS筐体に乗り込んだ。マギー・リン模擬人格構造物を従え、本社ビル地下駐車場へランプを下った。

 夜間照明の青緑色の光が霞に滲んだ。三台のVADSは広い地下駐車場を巡って、目的の東棟に繋がる大型搬入エレベーターを見付けた。

 社屋の西棟にはテナントが多数入っており、O&Iホールディングスの本社機能は主に東棟に集約されている。目標は東棟、地上四十階だ。

 ブルーグレーの塗装を施された、味気ないステップに乗り、外部コントロールをスイッチすると、モーター駆動の腹にくる振動が届いた。隔壁が上向きに二重スライドすると、黄色と黒でラインマーキングされた入口が現れた。幅十五メートル、高さ八メートルはあろうかという巨大なケージ。三台のVADSが楽々と収まる広さだ。

「さて、最上階は、と………」

 多喜が表示を確認すると、エレベーターは三十九階止まりだった。案の定だが、謎の不可視エリアには入れない。多喜はVADSのマニュピレータを使って器用にフロアボタンを押した。

「とりあえず三十九階だな」

 エレベーターは意外なほど軽やかに、スピードを上げて登り始めた。地下五階、地上十階を抜けると、吹き抜けスペースに出た。急激に開かれた視界を、階層状に並んだオフィス群が高速落下していく。複数のレーンに分かれたエレベーターが上下移動する様も見えた。相対的に速度差のある移動物体を眺めていると、胸が悪くなってくる。

「おおう、気分悪りい」と、黒沢。

「何だ、高所恐怖症か?」

 多喜が冷やかす。

「そんなんじゃねえよ」

 二人のやり取りを他所に、マギー・リン模擬人格構造物は、唐突に二十五階のフロアボタンを押した。多喜がいぶかしんだ。

「どうした、マギー・リン?」

 赤ラメ塗装のVADSは奇妙に人間臭く身をよじった。肩をすくめた、そんな感じだろうか。

「二十五階に空中回廊があるでしょ?」

 多喜の一次視覚野に見取り図が飛び込んで来る。

「ここの脇から屋外に出られるわ。私は外に回る。中はあんたら二人で十分ね?」 「構わんが。でも、何の目算?」

「保険みたいなものかな。強いて言うなら女の勘、かしらね?」

 そういうと、模擬人格構造物は二十五階でとっとと降りて、空中回廊を目指した。

 再びエレベーターが閉ざし、残りのフロア数を登り始めると黒沢がぼやいた。 「何が女の勘だあ? 刑事の勘に女の勘。二十一世紀の科学捜査ってのは、どうなってる?」

 多喜は笑った。

「さあな。しかし、あいつも今は生身じゃねえから。子宮で考えてるわけじゃねえだろ」

 黒沢は、うんざりした様子で首を振った。

「あてに………してるぜ」

 三十階を過ぎたところで吹き抜けは終り、エレベーターは再びシャフト内へ吸い込まれた。緩衝プログラムが巧みにケージを減速させ、三十九階でぴたりと静止する。

 大型搬入エレベーターのケージから二台のVADSが降り立った。裏手からフロア側へ回り込むと、宴会場のようなだだっ広い空間に出た。床には赤の毛氈が敷かれ、壁は枝垂れ桜を織ったシルクのクロス。正面のひな壇には丹頂鶴の舞う豪奢な金屏風が鎮座していた。片隅に配電ケーブルが巻かれ、その脇にカラオケセットが押し込んである。

「何だよ、ここは? 結婚式場か?」

 多喜が呆気にとられて声を上げた。黒沢は周囲を見回しながら唸った。

「階段は? エレベーターは? どっから上に上がんだよ?」

 二台のVADSは毛氈の上を爪先立って歩き、周囲をスキャンした。エックス線で捉えた部屋の黒い骨格がITCに浮かぶ。

「発見」と、VADSのコール。

 一次視覚野に展開するファインダがエリアを絞った。正面金屏風の背後に、小さな空洞が見つかった。すぐさま構造解析され、結果が表示される。

「奥行き二・五メートル。ダクトのような形状ですが、一人乗りの気送管ですね。気圧差を利用してケージを昇降させる仕組みです。三十二階から接続されている」

 VADSの説明に黒沢がピンと来た。

「三十二階って言うと、………大木戸の執務室じゃねえか」

「なるほど」

 多喜がうなずく。

 二人はVADSを降り、すぐさま行動に出た。金屏風を動かし、クロス張りの壁面を調べる。エレベーターらしきコントロールパネルはなく、隠された継ぎ目も見当たらない。どうやらこのフロアは、通過階であるらしい。

「VADS、壁の厚みは?」多喜がたずねた。

「二〇ミリほどのステンレス合金ですね」

「仕方ねえ。RDXで行くか」

 多喜の言葉に黒沢が顔をほころばせる。

「C-4か? そう来なきゃ。派手に行こうぜ」

「お前も好きだね」

 多喜はやれやれといった表情で首を振る。

 VADSの外付コンパートメントを開くと、ライナーコーンとオフホワイトのRDXを開封した。組成表示はトリメチレントリニトロアミン。コンポジションC-4爆薬である。可塑性のある塊を二人は紐状に伸ばしていく。

「三キロもあれば十分か?」

 黒沢の問いに多喜は無言で同意した。

 銅製のライナーコーンの外側にとぐろ状にRDXを貼付け、放電型電気雷管を取り付ける。これで即席の形成炸薬弾が出来た。固定具を使って高価なシルク織りのクロスに設置した。

「ほらよ」

 多喜は黒沢に雷管のラジオコントローラを放った。黒沢はキャッチすると嬉しそうに口元を歪める。

 二人は部屋のスペースの許す限りの距離を取り、VADSを遮蔽物にしてしゃがんだ。顔を見合わせ、黒沢が合図する。

「行くぜ!」

 スイッチと同時に雷管がRDXを後方から起爆させた。こもった爆発音。瞬時に爆轟波による超高圧がライナーコーンを崩壊させ、銅のメタルジェットを引き起こす。モンロー/ノイマン効果。接触した二〇ミリのステンレス合金壁材は、薄紙のように侵徹された。

 RDXで抜かれた壁面の大穴から、急激に空気が流れ込んだ。気圧の調整が狂った気送管が牽引力を失い、上の階に留まっていたケージが重力に引かれ落下を始める。ベクトル加速を続けるケージは真っ逆さまに転落し、どこか遠く暗闇の彼方で瓦解した。建物を揺さぶる轟音。着地したのは三十二階である。大木戸の執務室が木っ端微塵となったのは言うまでもない。

「ああ、ああ、やっちまったなー」

 黒沢が首を振った。と、振り返ると多喜がいない。ぐるりと辺りを見回し、VADSに乗り込む多喜の姿を捉えた。

「急げよ。警報がなるぜ」

 その言葉を合図に、警戒警報が鳴り始めた。

 黒沢も慌てて機体に乗り込むと二台のVADSは、穿たれた気送管へ侵入した。気送管はVADSが潜れるぎりぎりのスペースだった。内壁に接着性単分子ワイヤーを打ち込み、イオン結合の剥離抵抗力をコントロールして上の階へよじ登って行く。四十階の開閉口まで約六メートル。VADSは七本脚を器用に使って筐体を支え、気送管の出口をこじ開けた。

 四十階。

 多喜と黒沢はVADSを降りた。フロアは巨大な黒いアナログ盤のように広がっていた。足元は弾力のあるフォームラバー製だ。中央から同心円の溝が刻まれ、等間隔で外側へ広がっていた。天井に並んだ有機ELの発光体が青白い蛍光を放っている。だが届いているのは中央のほんの数メートルで、周囲に広がるにつれ、闇に溶け込んで見えなくなる。その光景は無限の奥行きを感じさせ、物理的な立体把握を困難にさせていた。

 早速二人は外付コンパートメントから装備を取り出した。フェアチャイルド・アームズ社製V.A.R6000。ついこの間のセントルークスタワーでの多脚戦車との格闘が記憶に新しい無力なD-6装備だ。しかし屋内戦闘を想定すると、他に最適と言えるものもなかった。二人は可変アサルトライフルを構え、窒素ガリウム系緑色半導体レーザーポインタをオンにした。

「ビルのセキュリティが通報システムを回復する頃ですが、ここでは外部とリモートアクセス出来ませんので」

 VADSの状況説明が聞こえた。多喜は暗がりを把握しようと、視覚の感度増幅を設定したところだった。

「なるほど。やっぱり不可視エリアってことだな。で? 衛星と繋がってないお前さんは今、どうやって存在しているんだい?」

「筐体内のHDから立ち上げてますよ。今はそれぞれ、独立した個体です」

「どおりでな。いつもより間近に感じるぜ、相棒。………さて、あまり時間がない。公務員どもがどっと群がって来るぞ」

 黒沢は多喜のITCに呼びかけた。

「何か変な音がしねえか? エアコンみたいな………」

「陰圧アイソレーターが駆動しているようですね」と、VADS。

「何だ? バイオハザードの危険か?」

 多喜は敏感な動物のように気配を伺った。

 一次視覚野に【Life activity】の表示が灯る。VADSが告げた。

「生体反応ですね。それも無数」

 多喜はアサルトライフルを構えた。レーザーポインタのグリーンの光芒が、暗闇の中へ真っすぐ伸びる。天井の方で気密が開放される小さな物音が立った。液体作動ジョイントの軋りが聞こえ、機械式の開閉音が届く。奥の暗がりに、どさり、と何かが落下した。反射的に多喜がアサルトライフルを向けると、照準の光が白い物体を照らした。闇の中に二つの赤い目玉が光った。

「黒沢、気をつけろ!」

 多喜の声と同時に物体は跳躍した。身の丈三メートルの巨体が宙を舞う。

 オレモア・ヴァンパイアだ。

「うぉーっ!」

 黒沢の悲鳴とも雄叫びともつかない叫びが木霊し、アサルトライフルの三点バーストのマズルフラッシュが光った。5.56ミリNATO弾の連射が、怪物の胸鎖関節を砕き、僧帽筋をえぐり出した。怪物の肉体が、初速975メートル毎秒のリアクションで壁際へ飛ばされる。多喜の背後にも物音が迫った。振り返り様にフルオートで薙ぐと、弾道が側頭骨から入り正中口蓋縫合を破壊する。オレモア・ヴァンパイアのオレンジ色の脳漿が背後に飛び散った。

 暗闇の中で次々と開閉音が聞こえ、白い怪物が降って来る。多喜と黒沢はあっという間に、三〇体ほどのオレモア・ヴァンパイアに囲まれた。

「パンドラの箱を開けちまったか!」

 多喜は猛然と突進してくる、オレモア・ヴァンパイアを蜂の巣にした。黒沢は闇の奥に固まった一群にグレネードで焼夷擲弾を浴びせる。黒沢の狂ったような悲鳴。テルミット反応による発火が真っ白い光線となり群れを焼き尽くした。揺れる明かりに一瞬照らし出される影。二〇メートルほどの円形のフロアにひしめく白い怪物たち。血だるまになったオレモア・ヴァンパイアが無数に蠢いていた。二台のVADSは二〇ミリガトリング砲の一〇〇グラムタングステン合金弾で応戦する。高サイクルで発射される徹甲弾が、怪物を瞬時に細かな肉片へと還元する。

 十分ほど無言のまま応戦したところで、多喜のITCに妙なすすり泣きが聞こえてきた。一瞬耳を疑い、接続を確認すると黒沢だった。

「どうした、黒沢?」

 背中合わせの発砲音が止んだ。振り返ると黒沢の腕がだらりと下がっている。様子がおかしい。過呼吸の喘ぎ。絞り出すような声で黒沢が呻いた。

「多喜、………駄目だ。………俺、駄目………」

「何、何だ?」

「俺、オレモアが嫌いだって、あれほど言ってんのに………何だよ、これ。何なんだ、………耐えらんねえ。俺もう、俺、無理………」

 黒沢の顔が見る見る土気色になった。そこで白目を剥き、気密ヘルメットの中へ嘔吐した。吐瀉物がフルフェイスのグラスの内側に広がる。

「黒沢!」

 黒沢はそのまま床に倒れ、痙攣を始めた。口から白い泡まで吹いている。癲癇である。

 黒沢のトラウマ。

 あの話は冗談ではなかったらしい。黒沢を突き動かしていたオレモアへの異常執着は、憎しみでなく恐怖に他ならなかった。その許容限度を越え、黒沢の理性が潰れた。黒沢は恐怖を飼いならそうとして、結局はその力に圧倒されてしまったのだ。

「このタイミングで、ぶっ壊れてんじゃねえぞ!」

 多喜は怒声を上げるが黒沢には届かなかった。多喜は悪態を吐き、三点バーストでオレモア・ヴァンパイアを遠ざけながら黒沢を引きずった。

「VADS、ハッチを開けろ。この役立たずを回収しろ!」

 多喜はアサルトライフルの弾倉を片手に黒沢を抱え上げ、コクピットに投げ込む。同時に背後から飛び掛ってきたオレモア・ヴァンパイアを、センチネル92で捌いた。ホローポイント弾が白い肉体に食い込みマッシュルーミングを起こす間に、ライフルを再装填する。立て続けに三度トリガーを絞り、マズルフラッシュが瞬間瞬間に、辺りの地獄絵図を浮き立たせた。

「くそっ! マギー・リンは何やってる? VADS、外には繋がらねえのか?」 「ここの外壁材が、どうやら電波干渉しているようで………」

「壁を突破しろ!」

「持ち合わせの装備では抜けませんね」

「このままじゃ分が悪いぜ」

 多喜がヘルメットの中で叫んだ、その時だった。

 視界の左側壁面。耳を聾する大音響とともにオレンジ色の光線が飛び込んできた。APFSDS弾(装弾筒付翼安定徹甲弾)だ。気送管に穴を開けた時の即席でなく、今度は正真正銘の形成炸薬弾である。メタルジェットが外壁を破壊し、侵徹口から爆片を叩き込んでくる。多喜は咄嗟に身を伏せた。爆風がオレモア・ヴァンパイアを束ねて反対側の外壁へ吹き飛ばした。弾道はそのまま推力を失わず、建物を貫通する。歯止めの利かぬ運動エネルギーに押されて、オレモア・ヴァンパイアが地上四十階から滝のように落下した。

「お待たせ」

 多喜が顔を上げると、大穴を開けた天井から赤ラメ塗装のVADSが顔を覗かせている。マギー・リン模擬人格構造物だ。多喜は怒鳴った。

「遅せえんだよ! 女の勘はどうした?」

「今、冴えてきたところ」

 そういうと、赤ラメVADSはフロアに蜘蛛の如く侵入した。二番脚で構えたロケットランチャーを仕舞い、背中に外付けされたノズルを引き出した。増粘剤混合のナフサがノズルから噴出し、点火される。赤ラメVADSは、ナパーム火炎放射器で一気に怪物を焼き払った。紅蓮の炎を上げ、燃え上がる怪物たち。行き場を失ったオレモア・ヴァンパイアの群れは悲痛な叫びを上げながら外壁の割れ目から飛び出していった。この場から逃げ出せば、どうにかなると信じて。数秒の後、アスファルトに叩き付けられ、燃え上がる肉体の痛みからは解放されるだろう。

「ほんとの火事になっちまうぞ」

 多喜は呆れ気味に首を振る。

 今頃、下は大騒ぎに違いない。超優良企業のペントハウスからオレモア・ヴァンパイアが山と振ってくるのだから。これで消防も警察も上ってくることはないだろう。公僕とは言え、奴らは馬鹿じゃない。

 オレモア症対策は、(夜の盾)におまかせ。そう決まっているからだ。

「マギー・リン、そのくらいにしとけ」

 嬉々として怪物を焼き払う模擬人格構造物に、多喜は声を掛けた。もう対象はいなかった。室内に設置された制御装置が炎を感知し、天井から燐酸二水素アンモニウムABC粉末消火剤が吹き出した。淡紅色の霞の中、赤ラメVADSがちらりと振り返った時、多喜は怖気が走った。一瞬だが七本足の多脚兵装が、悪鬼の如く見えたのだ。

 赤鬼、正にそれである。

「もう終わりなの? つまんない」

 模擬人格構造物は、そう吐き捨てた。

 女の恨みは恐い。

 焼け焦げた内壁に、外から霧雨が吹き込んでいた。オレモア・ヴァンパイアのバーベキューが足の踏み場なく並び、その先に上へと繋がる階段を見つけた。

 多喜はVADSに命じ、黒沢を収容した機体を先に離脱させた。早急に最寄りの緊急医療施設に運ぶ必要がある。

「ここからは、俺たちだけだ」

 そう告げる多喜に、模擬人格構造物は鼻で笑った。

「変態君の黒沢には悪いけど、………いい気味」

 多喜は穏やかに叱責した。

「そう言うな。奴も精一杯だったんだ」

「あら? あいつを庇う気?」

 不満そうな模擬人格構造物に、多喜は片方の眉を吊り上げて見せる。

「勿論さ。数少ない気の合う同僚、だからな」

「お優しいこと」

「さ、行くぜ」

 オフベージュのVADS、模擬人格構造物の操る赤い筐体、それに続いて多喜がアサルトライフルを構え、消火剤に霞む階段を上る。

 四十一階。

 それは不意打ちだった。階段を上りきる直前で淡紅色の霞から突如、白い前腕が現れたのだ。オレモア・ヴァンパイアのもの? いや、見たこともない巨大な姿だった。腕だけで優に三メートルはある。前衛を勤めていたオフベージュのVADSが掴み上げられた。

「おっと………」と、VADSの声。

 あっという間に霞みの中に消えたかと思うと、筐体の砕ける恐ろしい音が後に続いた。

「VADS!」多喜が上ずった声を上げる。

 直後、多喜のITCに外部ネットワークが接続されたのがわかった。

「通信が回復しています。私は大丈夫ですよ」と、VADS。

 あっという間にVADSは衛星軌道に避難していた。先ほどのマギー・リンの外壁破壊で、ジャミングが消失してしまったらしい。

「気を付けて、多喜」

 その声が届くが早いか、半壊したVADSの筐体が階段に向かって投げつけられた。咄嗟に赤ラメVADSが多喜を庇った。残骸が頭上を掠め、下のフロアに落下する。ばらばらになったオフベージュの破片が飛び散った。

「まだいたか!」

 マギー・リン模擬人格構造物はナパーム火炎放射器を振りかざし、四十一階へ飛び込んだ。

 霞の中、紅蓮の火柱が走った。しかし手応えがない。模擬人格構造物は霞の中をサーチしようとナパームの噴出を止めた。その時である。横殴りにオフベージュの二番脚が飛来した。赤ラメVADSの外付けされたナパーム火炎放射器が叩き潰された。フロアを転がる赤ラメVADS。霞の中で何か巨大なものが敏捷に動き、腹を見せた形で止まった赤ラメVADSに飛び掛った。影は千切れた二番脚を棍棒のように扱い、赤ラメの筐体をめった打ちにした。塗装が砕け、筐体がへこんだ。獣のような呻きを漏らしながら全てのマニュピレータをへし折っていく。

 機械と怪物が織り成す、異常な凶行だ。

 多喜は堪らず、アサルトライフルを乱射しながらフロアに飛び込んだ。

 目に入ったのは、見上げるほど巨大な、オレモア・ヴァンパイアだった。見たこともない大きさである。多喜は言葉を失った。身の丈で優に六メートルはあろうか。白く細長い頭部だけで大人の身の丈ほどもある。触覚のような感覚器官が口の周囲を取り巻いていた。虚ろな赤い目玉は、紛れもないオレモア・ヴァンパイアのものだ。手足には虫瘤上の突起が無数に飛び出し、肩口には背鰭に似た器官が張り出している。その外見全てが病的で、この世界に共生するには不釣合いな存在に見えた。

「さて、どうします、多喜?」

 VADSが多喜のITCに呼びかける。

「マギー・リンは?」と、多喜。

「シャングリラにサルベージされていますよ。問題ないです。でもあなたの方は………ちょっと問題ですね」

「ああ、最悪だ」

 そこで怪物が振り返った。瓦解したマギー・リンの赤ラメVADSを放り出し、多喜に鼻先を近付けた。霞の中から赤い目玉が迫ってくる。反射的に5.56ミリNATO弾を連射し、壁際に走った。

 怪物が踏み出すと、あっという間に間合いが縮まった。三メートルほどある前腕が多喜に迫る。三点バーストのマズルフラッシュが閃き、怪物の中指を吹っ飛ばした。突然の火を刺すような痛みにオレモア・ヴァンパイアが奇声を上げた。多喜は躊躇せずに頭部を狙った。アサルトライフルの速射が左側の赤い目玉を襲った。口の周囲の触覚が何本か飛び散り、巻き添えとなる。潰れた左目から血飛沫が吹き出た。多喜はBEXアタッチメントの出力を最大にして敏捷に動き、背後を取ろうとした。後頭部から延髄をダメージすれば、さすがの巨体も力を失うはずだ。怪物は多喜を探して右往左往している。

 隙あり。

 多喜はBEXアタッチメントで増幅された跳躍を決めた。後頭部の虫瘤上の突起が視野に迫る。アサルトライフルを構えると、レーザーポインタのグリーンの光芒がヒット地点を照らした。そこで唐突に、怪物の右目と出会った。

 空中に浮かんだ多喜を、怪物の左手が捕まえたのだ。

「うぐっ!」

 気を失いそうな衝撃。多喜は巨大な左手の圧迫に喘いだ。青筋の浮く、グロテスクに病んだ白い肌が鼻先に見える。対衝撃抗圧力NBCスーツが何とか抗ってくれたが、身動きがとれない。多喜は焦った。あっという間に怪物の巨大な喉元が迫ってくる。

「畜生、喰う気か」

 多喜は何とか両腕を自由にすると、怪物の口めがけてライフルを乱射した。ぎっしりと並んだ歯牙が砕け、白濁した涎が飛び散る。多喜は怪物の残された右目を凝視した。そしてトリガーを引き絞る。怪物は視界を失い、悲痛な悲鳴を上げた。それでも尚、多喜を掴む力を緩めない。多喜の足元で地獄の釜が開いた。複数の咀嚼器官が階層状に配列された効率的な構造。触覚が多喜の足に絡みつき、咀嚼器官へと引きずった。多喜はアサルトライフルを可変させ、グレネード擲弾仕様に切り替えた。怪物の口膣がよく見える。

「これでも、食らえ!」

 多喜は焼夷擲弾を打ち込んだ。

 テルミット反応による発火。瞬時にアルミニウムが金属酸化物を還元しながら高温を発生する。爆発が真っ白い光線となり、オレモア・ヴァンパイアの頭部を粉砕した。

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