第20話

 石見詩織は、百人町の黒沢のアジトに取り残された。

 女二人で過ごすには、いささか広過ぎたし、単調過ぎる場所だった。

 詩織はやることもなく、黒沢のリビングダイニングの壁面を覆い尽くした紙屑、ポルノグラビアから覚え書きまで、じっくり午前中を費やして観察した。中に北ヨーロッパ系の妖精のような女の子を見付け、少しだけ気に入った。昼になって冷凍パスタを解凍し、言葉の通じないアジア女と食べた。互いに顔を見て微笑むが、それは意味の無い作り笑いだ。午後になり、二人無言でテレビを見て過ごす。さすがに堪り兼ねたか、女は片言の日本語で自己紹介を始めた。詩織も精一杯に応え、自分が医者であることを伝えると、女から性病に関する相談を受けた。詩織は簡単な問診をし、予防法を告げた。上手く伝わったかどうかは定かでない。


 多喜たちは今夜一〇時、O&Iホールディングス本社ビルに突入する。火災に託つけたレスキュー活動という名目だ。果たして大木戸雅治とトランスヒューマン協会の陰謀は見つかるだろうか。詩織には何か恐ろしい、形のない胎動に思えた。   兄、石見庸介の死から二週間が経った。詩織の人生は今、大きく動き始めている。

 巣鴨で多喜修一に出会ったのが運の尽きだ。

 そう考え、詩織は皮肉めいた笑みを浮かべた。尽きたのは運だけではない。戸籍上の自分は、既にこの世に存在すらしていないのだから。

 庸介の手紙もそうだ。あれさえ開けなければ、こうはならなかっただろう。詩織は幾度となくあの封筒を破り捨てるイメージを反芻したが、世界が更新され、再び九月が戻ってくる事はなかった。

 彼女はそんな自分を自嘲していた。誰を責める事が出来よう? 多喜に気まぐれな好意を寄せ、勝手に付いて行ったのは自分ではないか。

 詩織は深い溜息を吐き、ぼんやり煙草に火を点けた。

 私って、馬鹿な女ね。

  アジア系の若い女が、そっと灰皿を押して寄越す。視線を重ね、微笑んだ。

 これは、ありがとうの意味。

 黒とオレンジで統一された黒沢の落ち着かない小部屋に座っていると、懐かしい築地のマンションが思い出される。採光の良い間取り。星座のレース編みのカーテン。淡い黄色のクロスのダイニングテーブル。透明なカットグラスにはコスモスの一輪挿し。ソファにはお気に入りのリサとガスパールのぬいぐるみがいて………。

 ほんの何日か前、あのマンションで居心地の良い小宇宙の終わりを思ったのは、この予兆であったか。全ては唐突で劇的な終焉を迎えた。自分を後押ししたのは自らの成熟ではなく、砂を噛むような世知辛い犯罪だったという訳だ。

 今は、ただ待つしかない。自分が現場に行って役立つわけもなく、もちろんそんな勇気もない。多喜と黒沢、それに蓮っ葉な口をきく模擬人格構造物。彼らの活躍の如何によって、自分の身の振り方は大きく変わってしまうのだ。事件解決はともあれ、誰かが生還すれば、自分は偽のパスポートを使って国外逃亡する手筈になっている。黒沢が言うところの(コネク)とやらの怪しげな闇ルートで入手したパスポートは既に手渡されていた。多喜が準備してくれた、最小限の必需品を詰めたトートバッグ。その中にあった。多喜は南へ逃げろと言った。理由はわからないし、恐らくはあてずっぽうの言葉だろう。

 詩織はうつむいて顔に血が上るのを意識した。

 多喜はいつ帰ってくるのだろう? 

 自分はいつまで待てばいい? 

 もし誰も、帰って来なかったら? 

 詩織は胃の腑を掴まれたような、不安と焦燥に苛まれた。

 南方アジア系の女も自分の煙草に火を点け、花の香りの立つ、甘ったるい煙をくゆらせた。テレビを付け、バラエティ番組を見ながら笑い始める。

 詩織は苛立ちを隠せぬまま、その様子をじっと睨んでいた。

 何が可笑しい? この女、どうして笑ってられるのだろう? 黒沢に囲われているこの女も、状況は自分と変わらないだろうに。明日は路頭に迷うのである。黒沢が彼女に何も伝えていないのだろうか? 自分の世話をする危険を、伝えていないのか? 

 詩織はそっと添えられた手に気付いた。小さな褐色の手だった。

 若いアジア女が自分を見詰めていた。

「あなた、だいじょうぶ」

 片言の日本語が鈴のように響いた。大きな黒い瞳が暖かみのある笑顔を作る。詩織は言葉もなくうなずいた。若い女は詩織の額に手を当て、眉間の皺を押さえた。 「しんぱい、ない。………このカード」

 女はデニムのパンツから、カードを取り出した。トランプより少し大きめの、縦長のカードだった。それを詩織の胸に押し付けた。

「あげる」

 詩織は手に取り、改めた。

 タロットカードだった。

 月桂樹で形作られた輪と、その中央に一人、人物が描かれている。

「The World」

 女はそう言った。

 カードナンバーは二十一。(世界)のカードだ。

「やくそく。たび。せいこう」

 女はゆっくりと答え、満面の笑みを浮かべた。

 詩織は朧げな記憶を辿っていた。まだ少女の頃、占いのご神託に胸ときめかせ、一喜一憂した遠い思い出だ。………

 これは大アルカナに属するカードで(約束の成就)を意味するカードである。詩織は女にたずねた。

「あなた、このカードを信じているの?」

 女はうなずいた。

「カードが、あなた、まもるね」

 詩織はそこで、カードのもう一つの寓意を思い出していた。

 この(世界)は終わりであると同時に始まりでもある。

 一つの旅の終わり。そして、もう一つ旅の始まり。

 詩織はようやく理解した。

 自分は待っていたのではない。全てはそれぞれの潮時を迎えるのである。

 多喜との出会いも、自身の成熟も。そして、兄の死さえ。

 それが潮時。全ては予定調和なのだ。

 あの暖かい、光に包まれた繭のような砦から旅立つ時。

 外は暗く険しい荒野だが、まだ朝早い東の水平線に一筋の光明を見るだろう。

 自分は、歩き始める。

 多喜に頼るのではなく、誰を当てにするでもなく………。

 人生の転機は、不意に鳴り渡る、遠い雷鳴だ。

 詩織の中で何かが落下し、上手く収まった。そう感じた。

 それが詩織の覚悟だった。


 詩織は若い女の手を握り返していた。暖かい、とても小さな手だった。

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