第5話

 石見詩織が、兄、庸介の連絡を受けたのは、夜勤明けの都立中央病院の病理学研究室だった。朝の六時だった。第三方面本部の、吉川と名乗る警官からの電話だった。

(渋谷区宇田川町で、石見庸介さんのオレモア変異体が、(夜の盾)によって処分されました。遺体の確認をされたく、巣鴨検疫事務局までご足労願います)

 そんな内容だったと思う。彼女は冷静に対処した。検疫事務局の住所を確認し、念のため電話番号と担当職員の名前を確認した。今から出ると一時間後には到着出来るでしょう、と時間の確約までとっていた。

 何か、身体の外側に付着した外部構造が、自分の意思とは関係なく受け応えしているようだった。

 それが丁度五十分前の話である。路線で辿れば、築地から日比谷線と三田線を乗り継いで四十分ほどというところだが、着替えと歩きの時間を入れて一時間と告げた。大体予定通りの到着で、白山通りを進み、とげ抜き地蔵尊が見えたところで右側を仰ぐと、巣鴨検疫事務局の緑色のドームが見えてきた。要塞のようであり、宮殿のようにも見えるその建物は、通称巣鴨パレスと呼ばれていた。都内で起こった【感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律】の一類感染症に抵触する疾病の遺体、処分体、隔離感染者の収監場所となっている。

 石見詩織は朝の光が降り注ぐ、総硝子張りのファサードを潜り、御影石を研ぎ出した幾何学パターンのエントランスホールに立った。

 白衣を脱ぎ、ハンドバッグを手に、大急ぎで飛び出して来たので化粧もままならなかった。黒いセーターにサブリナパンツ、ベージュの外套を羽織っただけの出で立ちだった。しかしながら灰色に沈んだ巣鴨パレスの中では、それでも尚一際目立つ存在である。一七〇に届く、すらりとした肢体、黒髪のナチュラルボブ、徹夜明けの充血した眼がマイナスだが、細く締まった顎のラインと切れ長の涼しい目元は、十分に印象的と言えた。

 兄、庸介の面影を持つ、美しい女だった。

 エントランスの真ん中で石見詩織が視線をさまよわせていると、制服姿の婦人警官が近付いてきた。

「石見詩織、博士ですね?」

 婦人警官が覗き込むと、詩織はまっすぐに見下ろして、

「私です。………でも博士ではありません。ただの先生です。レジデントですから」

 そう答えた。感情も交えず単なる事実を告げた。彼女は病理学者ではなく、病理医であるからだ。日本医師会の登録IDを提示した。婦人警官は軽く会釈をして詫びた。

「これは失礼を。………この度は御愁傷様でした」

「いえ。確認はどのように?」

「変異体の右肘の内側に旧式のQRコードが。照合すると橘生化学研究所の公式記録から、お兄様、庸介さんの登録が検索されまして」

 詩織は静かにうなずいた。

「間違いなさそうですね」

「残念です」

 石見詩織は婦人警官に連れ添われ、地下の遺体収監所へエレベーターで向かった。


 石見詩織は兄、庸介の三つ年下の妹である。今年、三十歳になった。両親とは幼くして死別。叔父夫婦に引き取られ育てられた。兄弟そろって理数に明るく、優秀な成績で大学に進学した。兄、庸介は生命医学の応用研究を基とする、企業の理学研究室に進んだ。後を追うように妹、詩織も大学を出るが、こちらは少し方向の違った医療の道に向かった。都立中央病院の病理学研究室に入所。互いに生命を扱うことに違いはないが、兄は誕生を、妹は死を司る生業となった。

 詩織は企業のヘッドハンティングに当たった庸介のことを少なからず、ねたましく思っていた。所得における大きな格差は、都立の病理医の収入では、とても太刀打ち出来るものではない。まして労働量となれば、それとは反比例となる。庸介はいつも涼しい顔で笑っていた。自分が汗みどろになって変死体の解剖に明け暮れている時も。

 兄妹の人知れぬ確執は日々に成長した。

 知的で美しく、冷淡な兄妹だった。

 兄の死を、詩織はどう受け止めたものかと考えた。唯一血の繋がりのある兄との死別である。これで詩織は世帯家族の血縁全てを失った。それも今世紀最大の未解決病理、オレモア症候群によってである。

 もう兄ではない? 

 (夜の盾)が殲滅処分した人類の敵? 

「こちらです」

 地下四階のひんやりとした石造りの廊下を抜け、婦人警官は研ぎ出しステンレスメタルの扉を開けた。気密された対衝撃硝子で間仕切りされた部屋の先に、安置台が置かれていた。詩織は近付き、そっと硝子に手を触れた。

「ここから、ですか?」

「庸介さんは一類感染症に指定されているので、これ以上の対面が出来ません」 「………そうでしたね」

 詩織は灰色の光の中に安置された、白い怪物を静かに眺めた。

 身の丈は有に三メートルはあったろう。当て推量なのは、頭部が肩口から欠損しているせいだった。首の付け根辺りが黒ずんだ鬱血を作り、内側にえぐれていた。鈍器で勢い良く殴りつけられ、こそげ取られたような痕だった。肩口に二発の銃創。右手には何かを握りつぶしたような鮮血が乾き、こびりついていた。身体のあちこちに擦過傷や、裂傷がみられる。これは(夜の盾)との小競り合いで受けた傷跡であろう。そして右肘の内側に、小さなタトゥーで施されたQRコードが見てとれた。

「個人生体コードの控え、お持ちですか?」

 そう婦人警官に促されて、詩織はバッグから庸介のDNAコーディングの縦列反復配列を示したRAMチップを取り出した。婦人警官は受け取ると、部屋の隅の端末装置に読み込ませ、照合を取った。

「ありがとうございました。石見庸介さん、ご本人と確認されました」

 詩織はぽかんとしたまま、その言葉を聞き流していた。

 これが庸介なのだ。記憶のどこにも当てはまらない姿だが。DNAの記述が事実当人だと示している。

「大丈夫ですか?」

 婦人警官が気遣って声を掛けた。詩織は我に返り、微笑もうとした。

「ええ。大丈夫ですよ。………あれ?」

 笑おうとした頬に何かが落ちた。生暖かい。はっとして触れると涙だった。  私、泣いているの?

「あれあれ………」

 わけもわからず涙が溢れた。止めどなく。どうすることも出来なかった。どうしたんだろう、私? 詩織は婦人警官に肩を支えられた。

 ちゃんと理解出来なかった。

 眩暈がして真っすぐ立っていられなくなった詩織は、硝子の前に座り込み、嗚咽に肩を震わせた。

 庸介のために泣くなんて。………あり得ない。

 それは詩織にとって、奇妙な経験だった。

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