第6話

「桜田商事本店に、ご帰還や」

 鑑識課主査、磯辺寛は内堀通りを桜田門の信号で左に曲がった。ここは千代田区霞が関2丁目1−1、警視庁本部庁舎である。

 桜の季節になると、凱旋濠、桜田濠に並んだ枝垂桜が美しい日本の春を描くのだが、秋口は少々ぱっとしない通りでもある。

 岡田新一設計事務所によって一九八〇年竣工したこの建物は、二〇三八年現在でも堂々たる威光を放つ、(実力を以て社会の治安を維持する行政作用及びその主体)のシンボルであった。敷地面積六五八二平米、建物面積一万九五五二平米、延べ床面積九万九二三一平米。地下四階、地上十八階の鉄骨および鉄筋コンクリート製。

 現在、鑑識部屋は七階で、総務省寄りに位置しており、科捜研と並んでフロアを占有していた。


「ただいまー」

 誰とはなしに磯辺が声を掛けると、古株の鑑識官が返事を返した。

「お帰り」

 磯辺は、よっこらしょ、と年寄り臭い呻きを漏らして席に座ると、ネクタイを少しばかり緩めた。

「どうでした?」

 古株の鑑識官は爪切りに熱中したまま呟いた。

「どうもこうも。いつも通りでしたよ。写真撮って、きれいに掃除して、感染したオマンジュウは巣鴨パレスに」

「通常手続きですな」

「はい、その通り。………そうだ、秋山さん」

 磯辺は、ふと閃いたように声を掛けた。

「はい?」

 秋山と呼ばれた鑑識官がようやく顔を上げた。むすっとしている。彼の今日の午後、最大の重要任務である爪切りを中断された事が、いささか心外であったようだ。

「秋山さん、多喜って、知ってましたっけ? 多喜修一」

「多喜? 多喜君? 多喜君。………ああ、捜査一課におった奴? 覚えてる、覚えてる」

 磯辺が、にこっと微笑んだ。

「今日、会いましてん」

「へえ。渋谷で?」

「はい。現場検証で」

 秋山は中指の爪にヤスリを当てながら、眉根をひそめた。

「現場検証って、彼、警察辞めたんでしょうが。今、何やってるの?」

「(夜の盾)ですよ。優秀らしいでっせ。今は実行リーダーさせてもろてるらしい」

 秋山は顔の横で人差し指を回して、

「渋谷は、彼の?」

「らしいですねー。一人犠牲が出たの、残念やったですけど」

 磯辺の言葉に、秋山は二度ほどうなずいた。

「そうですか。あの多喜君が。なるほどね。………しかし、(夜の盾)は仕方ないですね。それを承知の編成組織なんだから。犠牲は消耗予定数に入っている。彼らは言わば、正義のヒーロー、なんでしょ?」

「正義のヒーローでっか。汚れ仕事専門、って看板がいりますけどー」

 秋山は磯辺の方を向くと、皮肉な笑みを浮かべた。

「まあ、彼にはぴったりじゃないですか。これで思う存分、社会正義が貫けるってもんだ」

 磯辺は反論しようとした。

「秋山さん、そりゃ手厳しい。多喜君も好き好んで………」

「いやいや、あれは好き好んででしょう」

 そこで秋山は声を落とした。

「第四方面本部長の収賄疑惑。捜査一課の彼が動いてたのが、そもそもおかしいでしょう。そういう話は二課の管轄だ」

 磯辺も声を潜め、

「………アジア方面と癒着でサンズイ、ほんまでっしゃろか?」

 秋山は顔をしかめ、首を横に振った。

「そういう話はね、元々ないんですよ。二課が動かないってことは、そういうことなんです」

「そういうこと、ですか」

「そういうことです」

 磯辺はふぅーと溜息を吐いて、椅子の背にもたれた。

「多喜君的には、まあ災難やったろうけど。それも本望なんかなー。本人もそんなこと言うてましたし」

 秋山は人差し指を立てると、磯辺の顔を見詰めた。

「どんなものでも、かき混ぜれば濁るんです。誰も困ってないのに、なんでかき混ぜるんです? それこそ要らぬ世話というもの」

 秋山はそこで話を切って、再び爪を磨き始めた。それから目も合わせずに磯辺に忠告した。

「まあ、あなたも定年間近なんだからね。おとなしく勤め上げた方が利口ですよ」

 磯辺は小さく肩をすくめた。


 磯辺は自販機のコーヒーにたっぷり砂糖を入れてデスクに戻ると、ラップトップを立ち上げた。メールを確認して、通達事項のテキストファイルに目を通す。

「はいはい、了解、了解と」

 磯辺はコーヒーを啜りながら、順を追ってファイルを削除していった。日に平均六〇件を超える通達事項がやり取りされる世界だ。いちいち保存していたら、メールサーバが幾つあっても足りなくなる。必要なことは記憶する。もっと重要なことは外付け頭脳に。それが磯辺の手順だった。

 通達の中に、鑑識課第2係・片山徹、殉死の報告も入っていた。階級の特進。巡査長を定める辞令が載っていた。巡査長だなんて………。国家公安委員会規則第3号で定められた職位だが、警察法上はただの巡査である。幻の報償だ。

 磯辺は独り言を呟いた。

「片山君、何がいかんかったんやろうね。働き方やろか? 死んだ場所やろか? ………しかし君、死んでも地味やな」

 磯辺はファイルを削除した。

 もう一つ目を引くメールが届いていた。科捜研システム部からだった。


【関係者各位】

AD.2038_10/04 mon. 渋谷区宇田川町にて殉死した、特別司法執行職員マギー・リンのネットワーク・サーベイランス・ルータの接続記録をサルベージする。 被験者は、レイメイ・セキュリティ・システムズのメインフレーム内、VADSオペレーティングシステムの評価、A3b以上を獲得しているため。VADSオペレーションに関する模擬人格構造物の親和性・有用性検証の一環である。


「マギーちゃん、ほんまかいなー」

 磯辺は目を丸くした。マギー・リンのシステムアクセス記録を土台に、身体反射から、記憶、感情曲線までを数値化して、OSの基礎にしようという試みだ。模擬人格構造物という代物である。過去にもこれは何例かあり、技術的なハードルは特になかった。マギー・リンという人物の現象が機械的に再構築されるということだ。勿論、オリジナルは亡くなっているわけで、それは完全に別のAIだが、マギー・リンのように考え、マギー・リンのように話し、マギー・リンの記憶を持つ、でも見た目は小さなチタン合金製のケースのことである。

(でも、マギーちゃんの素敵なお尻が再構築されへんのやったら、意味ないやんけ)

 磯辺は内心、そんなことを考えていた。

 これで多喜も、少しは救われるだろうか。

「マギーちゃん、死んでも死にきれんねー」

 磯辺はまた独り言を呟いていた。

 それにしても片山徹の階級特進と、マギー・リンの模擬人格構造物への再構築。死後に与えられる報償も様々である。

 どっちがお買い得か? いやいや、それを考えるのは不謹慎というものだ。

 磯辺はファイルを削除した。

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