第7話

 多喜が巣鴨パレスに足を運んだのは、黒沢と別れてから二時間後、石見詩織が兄、庸介の遺体を確認してから優に九時間後のことであった。多喜は石見庸介のオレモア変異体を確認にきたわけでなく、二人は未だ、すれ違うことさえなかった。

 それは、もう二十数時間ほど先のこととなる。

 時刻は午後四時、そろそろ本業の刻限が迫りつつあった。オレモア・ヴァンパイアの宵闇の時間帯である。(夜の盾)の守るべき世界が、そこにある。


 多喜は西日の差し込む四階の通路を案内された。白衣を来た施設職員が収監医療施術室に促した。多喜がここに来たのは、昨晩の事件で唯一の生存者、江波ハルに面会するためである。残念ながら彼女が生存者でいられる時間は、刻一刻と失われつつある。

 通路の突き当たりまで歩くと、硝子張りの自動ドアを潜る。その先に気密式の二重扉があり、エアロックになっていた。施設職員は振り返り、多喜に合図した。   二人は無言のままエアロックを通ると、滅菌処理が施されたエリアに足を踏み入れた。壁にバイオハザードのシンボルマークと注意書きが刷り込まれていた。国立感染症研究所の(病原体等安全管理規定)による危険度は、レベル4である。【陰圧アイソレーター駆動中】の電光表示が目に入った。

 職員は多喜を更に奥へと促し、張り出し窓になった広いフロアに案内した。硝子の内側は真っ白いタイル貼りで、壁に大きなフーツラ書体で、5と記されていた。どうやらルームナンバーらしい。多喜を案内してきた職員は、クリップボード型のコントローラを手渡すと髭面の口元をにやりと歪め、一言だけ呟いた。

「一〇分だ」

 そういい残し、脇の扉からするりといなくなった。

 多喜は施術室に取り残され、防護硝子の中を眺めた。一瞬、誰もいないのかと目を凝らした。壁に描かれたルームナンバー5の下に白い寝台があり、そこに白い拘束衣を着た小柄な女が座っていた。江波ハルだった。しかし昨晩、渋谷の現場から回収した時点の彼女の姿とは、似ても似つかなかった。小柄ながらも肉感的だったその体躯は、げっそりと痩せ細り、豊かだった黒髪も、拘束衣から覗く肌も、全てが紙のように白くなっていた。ただ瞳だけが燃え立つごとく赤く血走っている。

 オレモア症候群感染の前期症状だった。

 多喜がタッチペンを取り上げ、クリップボード型コントローラの【外部入力】を選択すると、室内にスピーカーのハウリングが響いた。江波ハルが、はっとして防護硝子の外に目を向けた。多喜の存在に気付く。

「誰、あんた?」

 江波ハルの声は、人間とは少し異なる音域を含んだ、和声に聞こえた。

「江波ハルさん?」

「そうよ」

 多喜は少し躊躇して、それから言った。

「俺は、………(夜の盾)だ」

 江波ハルは真っ白い額に皺を寄せ、思案した。

「そっか。あんたが昨日、助けてくれたんだ」

 多喜は曖昧にうなずいた。

「まあね」

 江波ハルは、皮肉な笑いを浮かべて身じろぎした。

「もう少し、………早く助けてくれると良かったんだけど。………あたしの姿、どう?」

 多喜は拘束具の衿から覗く、女の右の首筋に噛み傷があるのに気付いた。多喜は儀礼的に頭を下げた。

「すまない。善処したんだが」

「善処ね。………ま、あんたに恨み事を言うのはお門違いよね。一応、ありがとうって言っとくわ」

「本当に申し訳ないと思うよ」

「もういいわよ。で? 何か聞きにきたの? 昨日の事で?」

「そうだ」

 江波ハルはうなだれ、首を傾げると、

「あんまり覚えちゃいないのよ。こっちもビビッてたから」

「わかる範囲でいいんだが。協力してもらえると助かる」

 白い顔でにっと笑顔を作ると、彼女は答えた。

「いいわ。聞いてみて」

 まるで般若のようだった。

 多喜は一つ咳払いすると、頭を整理して質問を始めた。

「昨晩、あれが店内に傾れ込んだとき、既にオレモア・ヴァンパイアだったのか?」

 彼女はうなずいた。

「そうね。まず裏口から悲鳴が聞こえたのよ。女の声だったと思うわ。何事かとマスターが開けた途端、一息にやられて。白いのが飛び込んできて、女の子二人が、あっという間に餌食になった」

「食らいついたのか?」

「そうじゃない。何かこう、ひどく興奮してたのよ。激しく腕を振り回して。それに引っ掛かって、みんな刻まれたというか」

「なるほど。錯乱状態だな。その時、君はどこにいた?」

 多喜は密かにITCを立ち上げ、彼女の会話の記録を始めた。

「クロークよ。入口の隙間から覗いたの。そのうちに客がクロークに逃れてきて、………でも、防ぎようがないからね」

「君は、どうやって?」

「コートの下敷きになっちゃったのよ。怪物からは見えなかったんでしょ。しばらくじっとしていたら、怪物がクロークを出たんで、私、カウンターの下に隠れたの」

 多喜は鑑識課2係の片山徹のことをたずねた。

「店の中に三十代半ばのブルースーツの男がいなかったか?」

 彼女は思案するような素振りを見せると、

「客入りは六、七人だったかな。そう言えば一人いたかも? 早くから店に来てた人」

「どんな感じだった?」

「お店は初めてだったみたいね。何か固かったわ。ショーコちゃんが相手を始めたんだけど、友達を待ってるって言って。だから、あんまりお酒も勧まなくて。もしかしてあんたが友達?」

「いや、そうじゃない。………ブルースーツの男も死んだよ」

 彼女は笑った。

「そりゃそうね。助かったの、私だけだもん」

「その男の最後の様子、見てないか?」

「私にそんな度胸ないわよ。カウンターの下で目つぶってたし」

 多喜は溜息を吐いた。

「そうか」

 江波ハルは赤い瞳で多喜を見詰め、たずねた。

「あんまり、役に立たなかった?」

 多喜はしばらく沈黙したまま、じっと女の様子を伺った。

 それから一言。

「そうだな」

 江波ハルは無言で立ち上がり、防護硝子の方へとゆっくりと歩いて来た。上体を拘束衣に縛られ、薄ら笑いを浮かべたまま。

 多喜は身構えた。

「役に立たない?」

 江波ハルは歯を剥き出して笑った。唇の間から人間のものでない、びっしりと並んだ鋭い歯牙が覗いた。噛み締める奥歯に歯茎が切れ、血がしたたった。女の苦悶の表情が崩れた。

「お前が一番役立たずだ!」

 女が怒声を上げた。多喜は思わず身を引いた。

「どうして、どうして、もっと早く来ない? なんで間に合わない!」

「俺は………」

「こんなんでお前は、助けたって言う気か!」

 女は防護硝子に頭突きした。何度も。何度も。

「やめろ。やめとけ。怪我をする………」

 制する多喜の言葉を他所に、女は頭突きを続けた。そのうちに額が切れ、硝子に血の跡が付いた。

「頼む! やめてくれ! 頼む!」

 多喜の必死の懇願の末、女は力尽き、防護硝子にもたれ掛かった。江波ハルはむせび泣いた。

「なんでこんな事に………」

 多喜は口を開くが、言葉が見つからない。

 詫びる以外、何も。

「すまん。すまん。………許してくれ」

 江波ハルはうっすらと目を開け、多喜の顔をじっと見た。

「あんたが悪いんじゃないよね」

「………」

「あたしがツイてないだけ」

 江波ハルは朦朧とした様子で多喜に問うた。

「あたし、後どのくらい人間でいられる?」

 多喜は口ごもりながら真実を伝えた。

「後、一〇時間ほどだ」

「意識は、………わからなくなるんでしょ?」

「知覚が曖昧になり、自己判別がつかなくなる」

「私の姿が変わっちゃう前に………」

 女は言葉をためらった。

「殺して」

 多喜は黙り込んだ。

 (夜の盾)に、安楽死の手続き(キボキアン法)措置は認められている。本人の同意さえあればだが。今、江波ハルは同意した。その言葉はITCの中に記録として残っている。自分に出来るせめてもの償いだった。

「わかった。………手続きを取るよ」

 女は泣き止むと、上の空のまま震え出した。拘束衣の下腹部が濡れ、足下に黄色い滴りが溜った。女は失禁して、その場に崩れた。

 多喜はその様子をぼんやり眺めた。

 それは既に人のようではなく、昆虫の死骸に似て、白く干乾びていた。多喜は手のひらにじっとりと汗をかいていた。

 多喜は自分に言い聞かせていた。

 俺のせいじゃない。………仕方ないんだ。

 多喜はクリップボード型コントローラで、受付を呼び出した。

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