第26話ミャンマー再びトーキョーゲストハウス

「実は僕の乗る飛行機が出るまであと四時間もある。空港には休憩所はないし、僕はとても疲れている。さすがに四時間の為にホテルはとりたくない。そこで、キミの部屋で少し休ませてくれないか?」


ジョーはそう言って、少年の様な瞳で手を合わせた。


「無理にとは言わないさ。キミがノーと言うなら野宿でもする」


僕は気付いていなかった。最初からこの頭の良い中国人青年は僕のベットをあてにして食事やタクシー代を出していたのだ。食事は安いし、タクシーは自分も乗っている。奢ったフリをすれば僕が断りにくくなるのも解っている。


僕には頷く以外に道がなかった。


幸か不幸か予約もせずに訪れたトーキョーゲストハウスの部屋は空いていた。


前に世話になった流暢な日本語を話すミャンマー人青年モルさんが、眠そうな目を擦りつつ明るい笑顔で迎えてくれた。


「ああ、いらっしゃいませ。また会えて嬉しいです」


彼はそう言ったが僕はジョーの事があったので浮かない顔で事情を説明した。


「うーん‥」


モルさんも途端に浮かない顔になった。本来であれば絶対断られる。


「なんなら二人分のお金を払いますよ」


僕にはそんな事をする理由が全くなかったが何故かその時はそう言ってしまったのだ。僕はまんまとジョーにしてやられていた。


「分かりました。ボスが八時に来ます。あと二時間。ボスがダメだと言ったらダメです。それまでオーケーです」


「ありがとうモルさん。ありがとう」


モルさんは苦笑いの様な表情を見せた。


「彼は信用しません。でもアナタは信用します。それを覚えてください」


その言葉が少し胸にチクリときた。


二人で部屋を利用出来る様になったが狭さは変わらない。ただでさえ狭い部屋に男二人。しかもジョーは太っていた。


「良い部屋だ」


明らかに冗談めいた言い方でそう言うと、シングルサイズのベットに「どたん!」と寝転んだ。そして僅か二、三分のうちに大いびきをかいて眠ってしまったのだ。


今考えてみれば相当図々しいと腹が立ってくるが、当時は奢ってもらった負い目をあったし何より彼の勢いに圧倒されていた。


部屋に居場所を失くした僕は仕方なく共同スペースで、ジョーのフライトの時間まで本を読む事にした。


気を遣って寝ていたはずのモルさんがお茶を淹れてくれた。冷房で疲れた身体に、暖かいミャンマー茶が染み渡った。


しばらくして、ボスこと日本人オーナーがやってきた。ジョーはまだ僕の部屋でいびきをかいていた。モルさんがオーナーに事情を説明する。


オーナーは険しい表情をし、静かに僕にこう言った。


「アナタにお貸ししてる部屋ですので。アナタがそれで良いなら良いでしょう。今日丸一日というわけではないなら」


「ありがとうございます」


僕は深々と頭を下げた。


まったくもって愚かなことだが、僕はこの時になって初めて、何故自分がジョーの為にここまでする必要があるのかという疑問を抱いた。たかだか安い弁当とタクシーの為に。頭を下げ、ベットを貸し、自分は椅子で本を読んで待っている。忠犬も良いところだ。


それから一時間ほどして僕が部屋に行くとジョーはすでに起きていて携帯をいじくっていた。


「やあ、おはよう。涼しくて良い部屋だ。快適だったよ」


「もう行きますか?」


僕は恐る恐るという感じでジョーに尋ねた。


「そうだね。もう行くよ。時にキミ、ミャンマーにはまだいるの?」


流石の僕も彼の目がズルく光っている事に気がついていた。


「ええ、あと一日は」


「じゃあ、ミャンマーチャットはいるかい?」


あたかもあげるよという感じで言ってきたが当然売りつける気だろうと思った。ミャンマーチャットは他国での両替はできないし、空港で両替するとバカみたいにレートが低い。ここで僕に売りつければ幾らか得をする。だがもうすでにジョーの図々しさに気が付いていた僕は勤めて冷静に断った。


「僕もたくさん持ってるいるので大丈夫です。ありがとう」


「そうか。わかったよ」


ジョーは肩をすくめて以外だなという顔をした。彼にしてみればチョロいカモの僕が最後に断った事が解せなかったのだろう。


「世話になったね。ありがとう」


そう言って彼はそそくさとゲストハウスから出て行った。



ジョーがいなくなって微妙に湿ったベットの上で僕は考えていた。身体は疲れて眠りたかったのに目が妙に冴えてしまってどうにも寝付けなかった。


「すみません。いいですか」


突然僕の部屋のドアがノックされた。声から察するにオーナーだった。


「はい」


ドアを開けるとオーナーが立っていた。


「お疲れなところ申し訳ない。どうしても言っておきたいことがあって。今大丈夫ですか?」


オーナーは神妙な面持ちでそう言った。


「構いません」


僕は部屋を出て共有スペースのテーブルにオーナーと腰を下ろした。


「アナタが連れてきたご友人ですが‥」


オーナーは躊躇なく本題を切り出してきた。


「友人というか‥昨日の夜知り合ったばかりで‥よく知らない人です」


「よく知らない人に自分の部屋を?何故そこまで?」


「親切にしていただいたので‥」


僕がそう言うと、オーナーは軽くため息をついた。


「アナタ。今どき珍しいくらいイイ人ですね。お人好しと言っても良いくらいです。気を悪くしたらゴメンなさいね」


「ああ、いえ。お人好しなのは重々承知してます」


ミャンマー茶をいくら飲んでも、僕の口の中はパサパサに渇いていた。


「悪いことではまったくないんです、無条件で人を信用する事は素晴らしいことだ。みんな忘れてしまっている。だけどもです。アナタが親切にした人が、全員アナタに親切にしてくれるとは限らない。それは覚えておいてください」


オーナーの言葉が胸に突き刺さる。


「はい」


「特に彼の様な頭の良い中国人には気をつけなさい。アナタの様な若い日本人が思っているより、彼らはずっと日本人を利用する事に長けている。簡単に心を許してはダメだ。日本が忘れていても、中国は忘れていない事がたくさんある」


そう言ってオーナーは一冊の本を貸してくれた。


「年寄りの余計なおせっかいだと思って、読んでみてください」


話はそれで終わりになった。


オーナーが貸してくれた本には戦時中、旧日本軍が南京で行ったとされている虐殺について、その存在自体が懐疑的だとする意見が書かれていた。


ジョーに良い様に利用され、かつ歴史に対しロクな知識を持ち合わせていない僕でもその本がかなり偏って視点で書かれている印象を受けた。ただオーナーは、僕にもっと自分たちが世界からどう思われているのか知っておいて欲しいと思って渡してくれたんだと解釈した。


本のタイトルは忘れてしまったが、この本は間違いなくその後の僕に大きな影響を与えたと思う。


次の日オーナーにはただ「ありがとうございます」とだけ言って本を返した。オーナーは黙って頬んだだけだった。


そしていよいよ、ミャンマーから帰国する日がやってきた。



続く

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