第12話 ミャンマー ヤンゴンのお茶屋さん
「それじゃあ行きましょう。すぐそこです」
ミャンマー人青年、モルさんはそう言って僕を外へと促した。
僕は夜の街へお茶を飲みに行こうと誘われて、半信半疑ながら彼について来てしまっている。何処へ行くのか。何故僕を誘ったのか。まるで解らない。彼のことも知らない。彼が僕の泊まっているトーキョーゲストハウスのスタッフであるということ以外、僕は何も知らないのだ。
やたら日本語の上手い奴。
やたら近づいてくる奴。
僕の頭に昼間対峙した詐欺師の特徴が思い浮かぶ。
もしかしたらこの人も、何らかの方法で僕を騙そうとしているのか。それとも、純粋に僕とお茶を飲みに行きたいのか♂
後者は無いとしても前者の可能性は大いにある。
僕は、彼の一挙一動を注意深く観察することにした。
ゲストハウスから出て、僕らはミャンマーの真っ暗闇を歩く。暗すぎて僕にはほとんど見えないのだがモルさんの足取りに迷いはない。
突然、道端の暗がりから男が出てきた。モルさんに何か話しかけているが彼は足を止めない。視線も前を向いたままだ。一応返答はしている。
彼らのやり取りを見て、僕はとても不安になった。やっぱりモルさんは僕をハメようとしてるのではないか。この薄汚い男はモルさんの仲間で、待ち伏せして僕を襲い身ぐるみ剥いで有り金を奪おうとしているのか。それとも、何処か人気の無い場所で僕を殺した後、モルさんがゲストハウスに戻って僕の荷物を根こそぎいただく。
そんな妄想をしていたらふいに途轍もなく怖くなってきて、僕はホイホイモルさんについて来てしまった事を後悔した。
しかし突然、モルさんと話していたみすぼらしい男は顔をしかめて何処かに行ってしまった。僕はホッと安堵のため息を漏らした。しかしモルさんと彼が何を話していたか、それをモルさんに尋ねる勇気はなかった。
「ここですよ。着きました」
そう言って彼が指差したのは、お茶を飲む店というより屋台といった方が正しい場所だった。
木の手押し車の様な物が置いてあり、男が一人その側に立っていた。その周りには子供が座る様な小さいプラスチックの椅子と机が並んでおり、そこへいい歳の大人の男たちが何の違和感もなく腰かけている。彼らはみな銘々にカップを傾けたり煙草を吹かしたりおしゃべりをしたりしてリラックスをしている。女性の姿は無い。
木の手押し車の側にいた男が僕らに気が付いてこっちへ来る。するとモルさんが何かミャンマーの言葉で言って注文をしてくれる。
「ここに座りましょう」
モルさんがすぐ近くの地面を指指すのだが、そこは何の変哲もない地面で椅子もテーブルも無い。
「へ?」
僕が不思議がっているとモルさんがまたミャンマーの言葉で男に指示をしている。
男が頷いて、何処からかプラスチックの椅子とテーブルを持って来た。もちろん子供用のサイズである。
「さあどうぞ。お茶はすぐ来ますよ」
彼に促され僕は小さな椅子じ座る。見た目通りの座り心地だ。僕はつい手持ち無沙汰で煙草に火をつける。モルさんは吸わないらしい。
しばらくして保温ポットとカップが二つ運ばれてくる。モルさんがお茶を注いでくれる。
「どうぞ」
「いただきます」
ひと口啜る。甘い。
僕はてっきりトーキョーゲストハウスで飲んだミャンマー茶だと思っていたのだが、こちらはどうやらミルクティーのようだ。甘くて温かい。
「どうです?」
「美味しいです」
僕がそう言うと、彼は心底嬉しそうな顔で微笑んだ。
「モルさん、どうしてそんなに日本語が上手いんですか?」
僕はずっと不思議に思っていた事をモルさんに尋ねてみた。
「上手く無いです。下手です」
「そんな事ないですよ。貴方の日本語は凄く解り易い。貴方なら通訳にだってなれる」
僕は本心からそう思っていたのだが彼はその言葉を聞いてとても悲しそうな顔をした。
「通訳、なれません。私、無理です」
「どうして!?そんなに上手いならなれますよ。ガイドだったり、通訳だったり。そのうち日本に行ける事もあるかもしれない」
しかしモルさんは悲しそうに首を横に振るばかりだった。
「ミャンマーではお金ないと良い仕事できません。勉強できるできないは関係ない。家がお金持ちじゃないと通訳なれません」
「だったら日本にくれば良いい。それだけ日本語が上手いなら日本で仕事できますよ!」
その言葉を聞いて、モルさんは嬉しそうな悲しそうな複雑な顔をして笑った。
「ありがとう。でも行けないんです。ミャンマーの政府は、お金の無い人は国の外へ出しません。チケット持っていても、飛行機には乗れません」
「どうして!?」
「亡命と同じだからです」
「そんな‥」
僕は自分の不用意な発言を恥ずかしく思った。ミャンマーという国の事情を1ミリ理解していない癖に、偉そうな事を言ってモルさんの心をいたずらに掻き乱してしまった。
「悲しい顔、しないで下さい。もっとあなたとおしゃべりしたいです」
「はい」
話せば話すほど驚きで、なんと彼は僕と同い年の25才(当時)だった。週に六日ゲストハウスで働いて、あそこのロビーで寝泊まりしている。週に一度の休みの日に、無料で勉強できる日本語学校に通っているそうだ。そうして時々、ゲストハウスに来た日本人旅行者をお茶に誘って自分の日本語がどれだけ上達したかテストするのが何よりの楽しみだそうだ。
「日本語、面白いですね。難しい。けど面白い。こうして日本人の人とお話するの、凄く楽しいです。私はそれで、満足です」
彼はそう言って、ニッコリ微笑んだ。
世間しらずな僕にも彼がとても貧乏な事は解っていた。ボロボロに擦り切れたTシャツにルンギーと呼ばれるスカートの様な民族衣装。
お茶の料金を払っていた時もクシャクシャのお札を大事そうに取り出して店員に渡していた。恐らく、さほどもらっていない給料を切り詰めて奢ってくれたのであろう。僕が出そうとすると、彼は頑なに固辞した。
「約束ですから。ご馳走させて下さい」
彼はそう言って、またあの優しい笑顔を見せるのだ。
僕は参ってしまった。同い年のこの青年が自分の人生にこれほどまでに真摯に向き合っているのを見せられて、すっかり落ち込んでいた。それに比べて僕はどうだ。恵まれた国に生まれていながら実家住まいで生産性のない事ばかりしている。音楽をやりたいと言っておきながら全て中途半端に投げ出して海外に逃げて来た。
僕は悔しくて涙が出そうになるのをグッとこらえ、モルさんに握手を求めた。
「モルさん、僕は明日バガンへ行きますが、また必ずヤンゴンに戻ってきます。トーキョーゲストハウスに泊まりに来ます。そしたらまた、僕とお茶を飲んでくれますか?」
「もちろんです。嬉しい。ありがとう」
「その時は今度は僕にお茶を奢らせて下さい。約束です」
「わかりました。約束です」
彼はそう言って僕の手を握り返してくれた。僕は生まれて初めて、ミャンマー人の友達ができた。
帰り道を歩きながら僕はどうしてもモルさんに聞かなければならない事があるのを思い出していた。もう僕らは友達だし、ここは思い切って訊ねてみる事にした。
「モルさん、さっきゲストハウス出た所で男の人は友達ですか?」
「ん?いいえ。あの人は友達じゃないです」
「通りすがりの人とあんなに真剣に何を話していたんですか?」
するとモルさんは酷く言いにくそうな顔をした。
「変な話をして、ミャンマー人を嫌いにならないでくれますか?」
「もちろんですよ!そんなことは絶対ありません」
モルさんはホッとした顔をして、僕に会話の内容を教えてくれた。
「彼、とても貧乏でもう二日もご飯を食べてないそうです。彼、私に聞きました。『猫を食べてみようと思ってるんだが、どう思か』」と」
「猫!?」
「そうです。ミャンマーは猫は食べません。だけど彼は貧乏なので、迷っていたそうです」
「モルさんは何て言ったんですか?」
するとモルさんは、とても言いにくそうな顔をした。
「犬は食べた事あるけど、猫は知らないと言いました」
「ええ!?モルさん、犬食べるんですか」
「はい」
モルさんから聞いた話だが、ミャンマーでは割とポピュラーに犬を食べる風習があるそうだ。しかし日本人と話す機会の多いモルさんは、日本人が犬を食べないし、それをあまり良く思わないのを知っていたので気を遣ってくれていたのだ。
自分勝手に散々打ちのめされた挙げ句、カルチャーショックを味わって僕のヤンゴン最終日は幕を閉じた。
そうして一夜明けていよいよ次の都市、バガンに向けて出発する時がやってきた。
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