第9話ミャンマー ヴォージョーアウンサン市場
興奮してなかなか寝付けず、朝早くに起きてしまった。普通なら散歩などをして過ごすのだろうが、まだ引きこもり癖が治っていなかった僕はエアコンの効いた部屋の中でしばらく読書をする事にした。
この時の読書は僕に色々な影響を与えており、ゲッツ板谷の「インド怪人紀行」やちくま文庫の「猟奇文学館」はまだ未開拓だったジャンルの扉を開けてくれた。トウキョウゲストハウスにこれらの偏った趣味の本を置いていってくれた方には本当に感謝してます。お陰でこのざまです。
しばらくしてゲストハウスの扉の開く音がした。物音や声でどうやらあの壮年のオーナーが来た事が分かった。オーナーは通いらしい。泊まり込みのスタッフはモルさんというミャンマー人の青年がいて、彼はすこぶる日本語が上手かった。
僕はオーナーとモルさんのやり取りにベッドで聞き耳を立てていたらまた何処からともなく睡魔が押し寄せてきて、すっかり二度寝を決め込んでしまった。
再び目がさめると何やら外は慌ただしく、部屋の外へ出ると朝ごはんの用意がすっかりできていた。
「おはようございます。召し上がりますか?」
「ああ、はい」
どうやら他の宿泊客の人たちはみんな食べ終わっている様で、ベランダでタバコを吸っているトウマさんとエリさんの姿があった。
「朝ごはんはウチの自慢なんですよ。日本食は久しぶりでしょう。どんどん食べて下さい」
オーナーにそう言われて箸を持ったが、テーブルに並んだ料理は見た目も量も貧相でとてもじゃないが期待でそうな物ではなかった。エリさんはこれを食べにわざわざこの宿に戻ってきたと言っていたが、実際食べてもみても僕の印象は変わらなかった。しかし控えめな塩加減と奥深い出汁の味は、紛れもない日本の朝ごはんを思い出させてくれた。
少し固めに炊かれたご飯。カブの様な野菜のぬか漬け。菜っ葉のお味噌汁。大根の煮物。
辛いものと甘いもので傷んでいた僕の胃腸が、舌とは反対に確実に喜んでいるのを感じた。
「今日はどうされるんですか?」
「両替がしたいんですが」
「だったらヴォージョーアウンサン市場の宝石商で両替すると良い。レートも良心的だし円からチャット、円からドルも両替してくれますよ。ただし客引きを使った詐欺師も多くいますから気を付けて」
オーナーのまるでRPGゲームキャラの様なセリフ。僕は今、本当に冒険をしているんだなと実感させられていた。
朝ごはんを早々に切り上げ僕はヴォージョーアウンサン市場へ向かう事にした。
部屋で準備をしていると貧弱なドアがノックされ返事で応えるとエリさんが中に入ってきた。
「何処か行くの?」
「ええ。両替をしにヴォージョーアウンサン市場の宝石屋まで」
「そう。良いレートよあそこ。オススメ。時間あればついでにスレーパヤーとかシェタゴンパヤーも見てくれば?」
「なんですかそれ?」
「驚いた。キミ、本当にあんまりガイドブック読んでないんだ」
僕は意外というかそのままというか、かなりずぼらな性格だ。下調べをするクセに住所をメモらないとか。住所をメモっているのに定休日を調べてないとか。要するにツメが甘い。
ミャンマーもビザをとってガイドブックを買ったところまでは良かったが、肝心の何処に行きたいかをまるで決めてない。ガイドブックも最初のゲストハウスのページ以外ロクに読んでない。
「はい。まあえへへ。その、パヤーってのはなんですか??」
エリさんは少し呆れた顔で教えてくれた。
「パヤーってのはお寺よ。一応ここら辺の観光名所になるの。幾つかあるんだから一つくらい行ってみたら?」
僕はこの提案に乗り気ではなかった。なぜなら僕の地元は寺のある観光地で、如何に異国の地と言えど寺に興味がまるでわかなかった。
「気が向いたら行ってみます」
「そうね。自由が一番ね。それはそうと夜空いてる?トウマくんと向かいのレストラン行くんだけど、一緒にいかが?」
「良いんですか?」
「もちろん。じゃあ7時にフロントで」
「はい」
僕はウキウキだった。旅の醍醐味を身体で味わっている気がした。見知らぬ人と友達になって異国のレストランで食事。日本にいた頃は考えられない生活だ。
僕はエリさんと夕飯の約束を交わし、いよいよミャンマーの街中へ冒険に出た。
オーナーのくれた地図のコピーによると、歩いて30分はかかる場所のようだった。しかし僕は俄然徒歩での移動を決めていた。自らの足で見聞を広めてこその旅だと思い込んでいた僕は果敢に未開の地を開拓しようとしていたのだ。
バカである。
ちなみに僕はかなりの方向音痴で、案の定一時間半以上かかってようやくヴォージョーアウンサン市場へと辿り着いた。辿り着いた事自体が奇跡に思えるほど、とんでもなく無謀な計画だった。むしろそこは、今でも評価している。
市場付近を歩いていると
「エクスチェンジ!エクスチェンジマニー?」
「イエン!ジャパニーズイエン!エクスチェンジマニー?」
といった具合にしつこく群がってくる如何にも胡散臭い連中がいたのだが、オーナーの忠告とタイでの経験。そして意外にもミャンマー人は押しが弱いという事もあり、それらを難なくスルーした。
実際その教えてもらった宝石商の店に行ってみるとこちらの方もかなり怪しい雰囲気で、店に立っていた婆さんは宝石商とか両替商というより魔術師のような見てくれだった。
しかし恐る恐る日本円で一万円をチャットに両替してもらったところ、大量のチャット札をもらった事以外には特に変わった事もなく、数えてみたらこれも教えてもらったレート通りだった。
両替という大冒険に肩透かしをくってしまい特に市場への興味も失ってしまった僕は、気まぐれにエリさんの言ってたパヤーに行ってみようかしらという気持ちになっていた。
運良くオーナーのくれた地図にシェタゴンパヤーの場所も載っていたので僕は試しに行ってみる事にした。
僕の無謀な冒険が再び始まった。
ミャンマーもタイと同じく雨季。不快指数は抜群で、喉はカラカラである。しかしどんなに探してもコンビニはない。
今はどうだか知らないが、僕が旅した当時のミャンマーにはコンビニがなかった。あるのは古臭い個人商店と屋台。それとデパートばかり。仕方なく暑さでグズグズになっているオッさん屋台で水を買う。見た事もないメーカーだが安くて蓋もちゃんと閉まっていたので安心して飲めた。
しかしミャンマーという国はとにかく車が多い割に道路がちゃんとしていない。地面はガタガタなのはもちろんだが、横断歩道が無い。存在しないのだ。なら向こう側に行きたい時はどうやって渡るのか?タイミングを見計らって、現地人が渡る時に便乗するしかない。これはなかなか至難の技だった。
今でも真夏の時期に夕立が降り止んだ後、ガソリンと土の混ざった臭いを嗅ぐとミャンマーを思い出す。
そんなこんなでまたも迷いつつ、一時間くらい歩いて僕はようやくシェタゴンパヤーへ到着した。
入り口まで行くと、サンダルを脱ぐ事を強要されその管理費用としていくばくかの金を取られた。しかも外国人は入場にも金がかかるという。地元民はただなのに。あまり腑に落ちなかったが、安い金額だったので支払ってしまった。
中は天井がなく太陽の光が容赦なく降り注ぎ、白いタイルの床に反射して地獄の様な暑さである。僕は入り口付近で早くもここに来た事を後悔し始めた。
僕が暑さにやらええてすっかり茹だっていると、何処からともなく小綺麗な格好の青年がスルスルとやって来て僕の隣にぴったり張り付き、声をかけてきた。
「ハロー、アナタ日本人デスカ?」
その瞬間、僕はコイツが詐欺師の類いだと直感で解った。
続く
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