第十八話「偶然の邂逅」

 第二章 亡霊編


 第十八話「偶然の邂逅」


 それは風貌からして、悪魔だった。

 古今東西、悪魔として人間に恐れられている姿をした化物が、天井から差し込む月光に全身を晒している。

 肥大化した山羊のように尖った角に、尖った耳、尖った歯。

 姿は人に似ているが、肌は焼け焦げたように黒く。

 コウモリに似た大きな翼を持ち、先端が針のように鋭い尻尾。

 悪魔という単語を現実に表すならこうなると、的確に思わせる化物だった。


「なんやなんや、ジロジロ見て。そないにワイが珍しいか?」


 友達にでも話しかけているような気さくさで、化物は喋る。

 一誠と和志は現実に起きた出来事に動揺し──恐怖していた。

 状況に思考が追いつかない。

 亡霊が繭に包まれて、割れたと思ったら化物が現れた。

 文字にすればそれだけのことだが、現実に起こってしまえば未知との遭遇だ。

 化物を見ていると、体を倦怠感が支配していく。

 あれには勝てないと、そう思ってしまう。

 相手が殺気を放っているわけではない。

 むしろ化物は楽し気な雰囲気を放っている。

 なのに彼らは恐怖心が理性を支配して、動けなかった。

 人類が化物に畏怖を抱くことが当たり前であるかのように。


「あー、反応ないのはつまらんなぁ……せっかくやし、雑談でもしようや。今すぐ取って食ったりせんって。な?」

「っ……あんた、なんなんだ?」


 ようやく、本当にようやく、声を絞り出したのは一誠だ。

 この状況でどう動くべきなのか、一誠は頭を必死に回転させる。

 相手が雑談を所望している以上、いきなり襲い掛かるのは火に油を注ぐようなものだ。

 もし襲い掛かったとしても、勝てるとは限らない。

 直感も化物を相手にするのはまずいと警告している。

 慎重に、注意深くするべきだろう。

 

「ワイか、ワイは悪魔っていうんや」

「見たまんまみたいだな……」

「そりゃそうやろ。人が悪魔やと思う姿をしとるのが、ワイや。恐怖心で動けんかもしれんけどな、恥じることない。そうなっとるんやからな」


 あの悪魔は言っている。

 人が自分たちに恐怖するのは、当たり前のことだと。

 実際に一誠は、悪魔が現れた時から感じている恐怖から逃れることができていない。その通りなのだから認めるしかない。

 亡霊という超常存在な例が既に世界にいるのなら、悪魔という存在がいてもおかしくないのではないか──今はそう思うしかないようだ。


「すぅー……はぁー……」


 一誠は深呼吸する。

 居ても当然の存在だと認識してから、一誠の気持が若干落ち着いた。

 相手が正体不明だから、恐怖心が倍増される。

 ファンタジーの世界にいそうな名称だが何もわからないままより、種族が判明しているなら幾分は気持ちの面でマシだ。

 悪魔をもう一度しっかり見据えて、一誠は聞く。


「で、そのあんた──悪魔さんはなんでこんなところに出てきたんだ?」

「偶然出られたから、やな。扉が開いて、たまたま出てこれたんやけどなー、亡霊が中継器になるとは思わんかったわー」


 扉、中継器と言っているが一誠には、よくわからない話だった。

 悪魔は扉とやらから出現しようとして、亡霊のところへ置き換わるように現れてしまった──そういう話ではあるのだろう。

 嘘を言っているようにも見えない……理屈はまったくわからないが。

 一誠の横で無言を貫いている和志に、小声で話しかける。


「言ってる意味、わかるか?」

「……俺に聞くんじゃない。分かるわけないだろ」

「だよな。くっそ、蒼は寝たまんまだし、悪魔なんてのは出てくるし、どうすりゃいいんだか」

「あっ、そやそや。聞き忘れとったわ」


 悪魔がポンっと手を叩きながら聞いてくる。

 一誠の額に、汗が伝う。

 何を聞く気だ。

 不安を抑え込みながら、悪魔の言葉を待つ。


「今は、何年や?」


 どんな質問がくるかと思いきや、簡単に答えられるものだった。

 この答え次第で悪魔が襲い掛かってくる、なんてことはないだろう……。

 答えないという選択肢も与えられていない気がするが。


「西暦だったら二千十二年だが……」

「おおっ、すまんな。あれが千九百五十一年やから……六十八年か。あんま時間経ってへんなぁ……」

「六十八年も過ぎてたら十分な時間じゃね……?」


 和志が恐る恐る口にすると、悪魔は気さくな面持ちで話に乗ってきた。


「まっ、人にとっちゃあそうかもなぁ」

「悪魔は長生きなんだな」

「そりゃあ、悪魔やからな、人よりは長生きなつもりや」

「っていうか、その関西弁はどこで覚えたんだ?」

「ああ、これか。生まれつきこうでなぁ、ワイは悪魔の中でも浮いとるんや」

「よく世間話みたいなことできるな、和志」

「話してみたら案外、悪い奴じゃなさそうだぜ」

「……だといいけどな」

 

 ここまで悪魔について分かったのは、相手が純粋に悪魔と呼ばれるものだろうということ。

 この場に出現したのは、偶然。

 目的は不明だが、偶然出てこられたという言葉から察するに、目的はないのかもしれない。

 わからないことだらけだが、少なくともこちらと敵対するために現れたのではないだろう。

 相手の実力は未知数だ。このまま戦わずに済めばよいのだが……。


「ふーむ」


 悪魔は値踏みするような視線を一誠と和志に浴びせてから、空気を吸うように言った。


「ま、ええか。残念やけど、ワイの姿見られてしもたし、死んでもらうか」


 考えが甘かった。

 一誠がそう思った瞬間──悪魔の覇気が、彼らを圧倒するかのように広がった。


 ……

 …


 蒼は、白紙の空間を力なく漂っていた。

 風もなく、音もなく、方向感覚すら消失している。

 ただ自分がここにいる、ということだけは霞がかった頭ながら認識できた。

 自分の体に意識を向けると、まだ心が鼓動を発しているのがわかる。

 どうやら、死んではいないらしい。

 

「……どこなんだ、ここは」


 何か、していたはずだが……。

 そう思って蒼は記憶を辿る。

 一誠、和志と共に工場区画へ訪れてから一般人の悲鳴を聞き、駆けつけた廃工場で亡霊と敵対していた。

 戦いの最中、和志に名前を呼ばれながら強制的に気を失ったのだ。


「そう、そうだ。一誠、和志!」


 蒼が呼びかけながら周囲を見渡してみるが、一誠と和志の姿は影もなく、白紙をベタッと張りつけたような空間が広がっているだけだ。

 自分が上を向いているのか、下を向いているのか、そういう感覚すら喪失してしまうほど一色の空間に浮いている。


「よくわからない場所だ……でも、落ち着く気がする……」


 不気味な空間ではあるが、不思議と不安ではなく安堵のほうが勝ってしまう。

 

「あの二人のことなら今は大丈夫だよ、蒼ちゃん」


 穏やかな声が聞こえた。

 それは蒼のよく知っている穏やかな優しい声色で、彼がもっとも会いたかった人物。

 突如として蒼の前に現れた女の子は、昔とまったく変わらない柔らかい微笑を浮かべて、静かに蒼を見つめていた。


「おまえは……久遠、なのか」


 紅 久遠。

 幼い頃、蒼と共に生活していた家族同然の女の子で。

 その時の蒼の世界と言っても過言ではないほど大切だった人。


「久しぶり。随分と背、伸びたね」

「……」


 彼女は、蒼を感慨深そうに見上げてくる。

 久しぶりに会ったというのに、久遠は離れていた時間を感じさせないほど近しい距離だ。

 蒼の心に、思いがこみ上げてくる。

 言いたいことが、たくさんあった。

 ようやく会えた。

 今までどこに行っていたんだ?

 なぜ、俺を置いてどこかに?

 帰ってきたのか?

 どうして、こんなところに?

 泡のように浮かんできた言葉を、なんとか喉元で押しとどめる。

 突き詰めれば言いたいことは、ひとつのはず。


「生きていたんだな」

「うん、生きてたんだよ。一緒に入れなくて、ごめんね」

「生きてくれていただけで、十分だ。久遠、これからは一緒に入れる……んだよな?」

「残念だけどね、それはできない。本来、私は出てくる気じゃなかったから──ほら、呼ばれちゃったもう一人がきたよ」

「もう一人……?」


 久遠が視線を向けた先に、ぼうっと周囲の光が収束していく。

 光は粘土のようにグネグネと縦に伸びて人の形をとり、蒼の知る人物が光の中から現れた。


「……っ司令室で急に気を失って……って蒼くん!?」

「美久か」

「そんな冷静に返さなくていいから。いや、そうじゃなくて、なにここ……?」


 美久も冷静に返しながら周囲を確認したが、何もないとわかると再び蒼を見た。

 置かれたのは不可思議な空間だが、決して取り乱したりしないのは、美久が冷静な証拠だ。


「まるで何処だか分からない場所ね……漫画とかだと精神世界って感じ。ところで蒼くん、その子はだ……れ……?」


 声を発しながら久遠を認識した美久の目が、到底信じられないものを見たと言わんばかりに、見開かれていく。

 久遠は地面のない空間でふわっと半歩移動し、美久を見上げて微笑んだ。

 

「初めましてになりますね、紅 美久さん。私の名前は紅 久遠。蒼ちゃんがお世話になってます」

「え、あっ……こんにちは。私は紅──っていま私の名前を……?」

「ごめんなさい、困惑するね。私が一方的に知っているだけですから。それにあなたの小さい頃に、とても似ているから驚いているでしょう?」

「……よくわかったわね。蒼くんが私とあなたが似ていると言ったのも、納得だわ。私の小さい頃に、気味が悪いくらいそっくり」


 美久と久遠は外見的な年齢差があるので、瓜二つとは言えないがよく似ていた。

 気の強そうなツリ目、透き通るように白い肌、すっと高い鼻に、ぷっくりとした唇。

 そして燃えるような色をした紅の髪。

 時間を遡って現れた、子供のころの美久──そう言われても納得してしまいかねない。

 久遠は申し訳なさそうに肩を小さくしながら、答える。


「そう思うのも当然でしょうけど……いまの私にそれを語ることはできません。もうあまり時間がありませんし」

「時間がない……どういうことなんだ、久遠」

「言葉通りの意味です。蒼ちゃんには言ったよね、私は姿を見せる気はなかった。あなたたちは私に引き寄せられてしまった──いや、私があなたたちに引き寄せられたのかもしれないけれど、これは偶然の出会いなんです」

「ちょっと待って。引き寄せた、引き寄せられたってよくわからないんだけど?」

「ごめんなさい、いまのあなたたちには教えることができません……っともう少しばかりは時間があるかと思ったけど、来てしまいましたか」


 久遠が眉間に皺を寄せて、何かを察した途端、空間の光源が照明を一段階落としたように暗くなった。

 光に溢れていた空間が、加速度的に闇に落ちていく。

 同時に、蒼と美久の背筋に電撃のようなものが走った。


「なにこれ……ぞわぞわって」

「不快な……感じだ」


 空間が閉鎖していき、閉ざされていく感覚が肌から伝わる。

 ここに空間を侵食できる何かが来ている。

 それだけが蒼と美久が理解した感覚だった。


「いまからあなたたちを送り返します! もっと説明できればいいんですけど、それは困ったことになるので、できません」


 久遠が手を前面に出して目を瞑り、意識を集中させる。

 蒼と美久の手や足の先端が光に包まれ始めて、全身に広がっていく。

 体の輪郭が、感覚が空間に溶け込み、失われていく。


「久遠!」


 やっと会えた。

 長い間、死んだように生きて、感情すらも排除していた自分の感情を動かした道標。

 死んでいるかもしれなかったけれど、久遠に再び会えることを渇望していた自分に訪れた幸運とすら思えた。

 蒼が手を伸ばそうとしても、すでにその手はなく、空を切ることすら叶わない。


「ごめんなさい。蒼ちゃんとは、もっとちゃんと話したかったです。美久さんとも。あなたたちの道は、きっと想像よりも困難で険しいものです。かのアーサー王はただの人間ではありません。彼の思い通りにさせてはいけません」

「あなたはアーサー王の目的を知っているの!?」


 もはや姿すら認識できない美久が、声を張り上げる。

 これは手がかりだ。

 アーサー王の目的を知るための。

 不明に満ちている王を暴くための。


「あなたたちの記憶は、この空間を離れたら消します。アーサー王が気づいてしまうから。でも、印象としてだけ覚えておいてください。アーサー王が狙っているものばリビドードア゙あなたたち、人が作り出したシステムです」

「リビドー……ドア……」

「蒼ちゃん! あなたにも伝えるべきことがあります」

「なんだ!?」

「あなたは、いま自分の役割というものを悩んでいる。兵士としての在り方を心に嘘をつき続けることで示して数年、自分の役割を見出すのは難しいことでしょう。でも、あなたは自分の役割に気づかないといけない。心優しい蒼ちゃん、あなたが生まれ持った資質を思い出して」


 そこで久遠は口の端をやわらかに緩めて、切なげに微笑んだ。


「私のお尻を追いかけるのも、まあ嬉しいですけど。あなたのやるべきことは他にある。それを見つけて。あなたはそれが出来る人で、しなきゃいけない人なんだから──」


 それはとっても難しいことだ、久遠。

 言葉にしようとしたものは言葉にならず、景色が逆巻くように歪んでいく。

 久遠に会ったという記憶が、泡のように噴き出して破裂していく。

 ただひとつの言葉を、心の深奥にそっと残して。


「──あなたは人々が望み、生まれた人を救う勇者なんだから」


 第十八話 終わり

 第十九話へ続く

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