第二十話「断ち切る感情」part4

 第二章 亡霊編


 第二十話「断ち切る感情」part4



 人が創造し得る悪魔を形にしたような存在が、指の先すら動かさずに倒れていた。

 人間より一回り大きい存在がいるものだから、いやでも存在が際立つ。

 相手は人間の存在を遥かに超える化物だ。起き上がる可能性を考えつつ、蒼は悪魔を注意深く観察する。

 和志は激しく肩を上下しつつ、興奮気味に口を開いた。


「はぁ……はぁ……俺がやったのか!?」

「また起き上がられたら終わりだから、そんなこと言うのはやめろ……」


 和志に返事をしながら、一誠が腹部を押えて立ち上がる。コンバットナイフを投げるだけでも、身を痛めつけるような無理をしていたことが様子からわかった。

 蒼はしばらくしても悪魔が起き上がらないことに警戒段階を引き下げつつ、一誠に問いかける。


「大丈夫か?」

「心配ありがとよ。また紗綾ちゃんに治療してもらわねぇとな……」

「紗綾の治癒魔法なら安心安全。兄の俺が保障する」

「なんで兄のお前が胸を張る。まっ、これで今回の一件は──」

 

 安堵の息と言葉を一誠が吐いたその時、高笑いが空気を震撼させるように響き渡った。


「ははっはははっ、ようやってくれたわ!」


 弛緩した空気に投げ込まれた言葉に目を剥いて、うつ伏せの悪魔を全員が注視した。


「まだ死んでない!?」


 誰ともなく言ったものに、蒼が素早く身構える。

 悪魔が人間と同じ構造だと考えたのは、失敗だったのか?

 相手が超常の存在なのだから、心臓を貫けば倒せるかどうかは賭けだった。賭けが当たっていなかったのなら、勝てる手段はあるか?

 蒼は自分に問いかける。選択肢が浮かばない。和志や一誠の機転もあって不意打ちで倒すことができたものの、二度も通用するほど生易しい相手ではだろう。

 和志も一誠の様子を見る。悪魔との戦いで骨が折れたり、負傷していたりと満身創痍だ。これ以上戦わせるのは、彼らの身がもたない。

 蒼だけでも戦うことはできるだろうが、悪魔の苛烈な強さを知ったいまとなっては時間稼ぎが精々かもしれないと思う。

 のんびりと考えている時間はない。まずは状況を先に解決しなければ。


「離れろ!」


 蒼が叫んで、魔法を唱えようとするが──。


「心配せんでもええで」


 悪魔が制止て、自らを器用に転がして仰向けになった。

 心臓の付近には和志の剣によって穿たれたと思われる穴があり、決して再生していないことを示している。

 復活したわけではないようだが意識はある。危険な相手だ。いつ獰猛な牙を剥くかわからない。

 蒼は悪魔の一挙手一投足に気を張る。


「ワイは放っておいたら消える。だからな、穴が空くほど真剣に見なくてもええでって、勇者、お前、真面目かっ!」

「俺が倒してたってことで、いいのか……?」


 和志が自信がない顔をしつつ、一誠に問いかけた。

 悪魔がノリ突っ込みをしながら喋っているものだから、自信がないのも当然だろう。いつ動きだすかわかったものじゃない。


「そういうことらしいな。負けたわりにノリが軽いみたいだが」

「倒されたなら真面目モードでやる必要ないやろ、面倒やからな」

「適当なやつだ」

「そういう悪魔やからなぁ……まっ、ワイは本領発揮していないし、これも疑似的な体やったし、悔しないけどな」

「めっちゃ悔しそうなんだが、コイツ」

「悔しない言うとるやろ! ただの人間に負けたんは、釈然とせんが……あんたらの作戦勝ちや。胸張ってもええで」


 そう言われて、蒼たちは渋い顔をする。

 作戦と言っても、悪魔が蒼に注力していたこと、和志と一誠には関心がなく、確実な止めを刺していなかったおかげで虚を突くことができた。

 力で勝てたわけではない。ただ侮られていただけだった。それを理解している彼らの心境は複雑なものだ。

 悪魔の体から、黒い粒子のようなものが舞い始めた。まるで、存在が消えていくような粒。


「久しぶりに娑婆に出れて楽しかったで。んじゃあ、さいな──」

「待て」


 勝手に別れの言葉を言って消えようとした悪魔を止めたのは、蒼だ。

 いまだ警戒を解いてはいないものの、その瞳には問いかけたいことがあると書いてある。


「なんや勇者。もうそろそろ、この体も限界なんやけど」

「その勇者という言葉だ。俺は……勇者なんてものじゃない。何を指して、俺を勇者と言っている」


 勇者と言えば、物語では主人公だったり、何か特別な力を持っていたりするものだ。

 自分の使命だとかそういう、自分の心の中にある絶対的な力を持つ感情を。

 普通の人間なら、特別な力があればそれが強大であるほど、嬉しさに震えるのかもしれない。

 しかし、蒼の感情に芽生えたのは困惑だった。

 紅 久遠がいなくなってから自分というものすら、ずっと押し殺して生きてきた。勇者というのは記号として、人として生きる役割だとか、自身の存在を肯定するものだ。

 蒼は、自分が生きる役割がわからない。

 久遠を探したい、美久や和志のように自分で考え、自分で動くようになりたいと思っているだけだ。

 役割なんて大層なことを知る前の、砂粒ほどに芽生えた感情を知っているだけ。

 そんな自分が勇者だと言うのか?


「勇者言うたら勇者やろ。古今東西、人間が無意識化で望む救世の人物、英雄と同一視されるのが定番や。まあ自分を知りたいんなら、探すんやな。この世界には、いまの人間では理解し得ないことがごまんとある」


 悪魔の言葉は、荒唐無稽な妄想を垂れ流しているようにも思えたが、声色は真剣そのものだった。

 蒼に言えることはそれだけだったのか、悪魔はそれっきり黙ってしまった。けっきょくのところ、自分で探せとしか言っていない。


「詳しく教えるつもりはないということか」

「敵に塩は送らん。自分で真実に辿りつくんやな、すべてが始まる前に」

「すべてが始まる前? それを聞いても答えを喋るつもりはないか」

「当然やろ。辿りつけ言うとるやん。勇者と言えど人の子や──」


 そこで言葉を区切り、悪魔は疲れたように息を大きく吐いた。体が限界だというのは真実だったのだろう証拠に、悪魔の体が分解されて加速度的に黒い粒子となっていく。

 悪魔は目線を蒼に合わせて、実に楽し気な調子で言った。


「──どこまで真実に辿りつけるか、楽しみにさせてもらうで」


 悪魔はそれを最後に、空気へ溶け込んで消えていく。

 戦いの喧噪に包まれていた工場は打って変わって、静寂が訪れる。工場の天井や壁にできた傷口のような穴からは穏やかな空気が流れ込んで、この戦いが終わったことを蒼たちへ告げているかのようだった。


 ……

 …


 亡霊──悪魔との戦闘後、大魔法高等学校まで戻った蒼たちは、裏門で美久、紗綾と合流していた。まだ夜の冷気が残っている、朝日が昇り始めるかどうかという時間なのもあり、生徒や先生の姿はないので見つかることはないだろう。

 紗綾が、悪魔との戦いで重症の一誠に肩を貸して、木が等間隔に生えている一角へ移動する。紗綾は声の聞こえる場所より、静かなほうが魔法での治癒に集中できるらしかった。しばらく紗綾の魔法を受ければ、一誠も自力で立てるぐらいには回復できるだろう。


「で、死神が悪魔で、蒼が勇者だったんだよっ!」

「ふうむ、死神が悪魔になって、蒼くんが勇者ねぇ……なるほどねぇ」


 一誠が治癒魔法を受けている間に、今回の事柄である亡霊や悪魔について和志が喋り終えると、美久はゆっくりと目を閉じて顎に手を添えた。なるほど、と大袈裟なほど頷く。

 死神が、黒い繭に覆われてその中から悪魔が出てきたこと、その悪魔が蒼を勇者と呼んだこと。

 どれも荒唐無稽な作り話のようにしか聞こえず、美久が和志の発言を半信半疑に思っていることは、誰が見ても明らかだった。


「で、どこら辺が真実なの? 嘘の中に真実を混ぜることが嘘を通すために必要なことだけれど」

「いや、どっちも嘘じゃねーから! ほんとなんだって、なあ蒼」

「本当だ」


 美久が目を細めて、ジトっとした目で蒼と和志を見た。

 誰も嘘などついていないのだが、美久が実感を理解できるかは難しいところだ。なにせ実際に悪魔を見ていないのだから、疑っても仕方のないことではある。


「はぁー……」


 美久はしばらく蒼と和志をジト目で観察したあと、しょうがないとばかりに長い溜息をつく。信じられないというよりは、厄介な問題が増えたと言いたげだ。


「亡霊ってだけでも不可解な存在だったのに、悪魔やら勇者やらって困るわ……一応、聞くけど、蒼くんって勇者なの?」

「どう定義して、悪魔が俺を勇者と言っていたのか分からないから、答えようがないというのが正直なところだな……」


 どれも悪魔が勝手に言っていたことで、実感を伴った話ではない。あなたは勇者です、と言われて、それを実際に真実として受け止められる人間はそういないだろう。

 特に蒼は自分が進むべき方向性、自分の欲というものがはっきりしていないこともあって、自己の判断という面で回答を持っていないのも当然だ。

 蒼の返答を聞いた美久は、肩をすくめた。帰ってくる答えなど分かっていただろうから、演技のようなものだろう。


「ま、そうよね。いきなり勇者って言われても意味わからないし……とりあえずは理解したわ」

「信じてくれるんだなっ!」


 和志がガッツポーズで拳を胸の前まで振り上げる。信じてもらえることがそこまで嬉しいことなのか。普段の和志の扱いが垣間見える瞬間だった。


「最初っから信じてるわよ。ちょっと整理する時間をもらっただけ。悪魔や勇者ってものの意味については調べておくわ。そういうものが実際に存在するってことは、どこかにそれを証明する何かがあるはずなのだし」

「勇者のほうは悪魔が吹いた法螺かもしれないが」

「そこであなたたちに嘘をつくメリットがあるとも思えないし、勇者ってものに何かしらの意味はあるでしょう……。きっと、たぶん、おそらくは」


 自分で言っていて自信がなくなってきたのか、段々と眉を寄せながら美久は曖昧に言葉を締めた。

 美久はどうにか理性で納得しようとしているが、自分の中で本能的に消化しきれていないらしいことが表情からも窺える。


「おーい、ちゃんと話は終わったかー?」


 一誠が遠方から話しかけながら、紗綾と連れ立って現れた。

 一人で歩けるくらいには回復したようで、一誠は一見すると軽やかな足取りだ。


「だいたいの事情は聞いたわ。……あなた、歩けるの? 骨折してるんじゃなかったの?」


 美久がそう問いかけると、紗綾は納得していなかったのだろう、一誠を見ながら困ったように目を細めた。


「まだ完璧に治ってるわけじゃないんですけど、野木原さんがもういいと……」

「こんなもん、あとはしばらく安静にしてりゃ治るさ」

「こう言って聞かないんです……」

「一人で歩けてるみたいだし、一誠が大丈夫だって言ってるなら、いいでしょう」

「そうそう、紗綾ちゃんはとっととそこのお兄ちゃんを治してやりな。脇腹、痛むんだろ」

「……それなりには」


 一誠に指摘された和志が無意識なのか、脇腹を押さえた。本能的に出た行動だとすれば、そこは確かに痛むのだろう。

 紗綾はそれを見るなり和志に駆け寄って、治癒魔法を唱え始める。

 兄のことは心配だったが、一誠が自力で歩くのも困難な怪我をしていたから我慢していたのだろうことがわかる程度には、素早い動きだった。


「もう、お兄ちゃんも我慢しちゃダメだよ」

「すまん……」


 唇を尖らせながら言う紗綾に、和志は頭を掻きながら申し訳なさそうにする。

 一日前まではお互いを大事にしようとするあまり、本質的な言葉を紡がないで拗れていた兄妹の仲がいい会話に一同が安心したのを確認してから、美久が会話を再開した。


「一誠はこれからどうするの?」

「一旦のことだろうが亡霊は消えたんだ、またどこかに現れる亡霊を探す旅に戻るさ」

「……大丈夫なのか?」


 蒼が呟いたそれには、身体は大丈夫なのか、亡霊を追い続けるだけの感情は大丈夫なのか、そう言った意味が込められていた。

 一誠もそれはわかっているのだろう、ゆっくりと頷く。


「俺のことなら大丈夫だ。こういう経験は何度も経験してきてる。それより、蒼」


 一誠は蒼に視線を固定し、問いかける。

 自分に用があると思っていなかった蒼は、平時ではあまり表情の動かない顔で一誠を見る。

 なにか気になるようなことでもしただろうか? まったく心当たりがないと、蒼はそう思っていた。

 一誠は覚悟を決めた風でもなく、単純に言い放った。


「俺と一緒にこないか」

「……一緒に?」


 蒼は言葉の意味を咀嚼しようとしていたのか、間が空いてから顔を傾けて疑問を口にする。

 一緒にこないか、ということは文字通りの意味なのだろうが、どうして誘われたのかが露程も理解できなかった。

 一誠のように亡霊に対して憎しみや執着と言った感情があるわけでもないのに。

 言葉不足なのはわかっていたのだろう一誠が、話し出す。


「お前はさ、悩んでるんだろ?」

「……いや」


 一瞬息を詰まらせて歯切れの悪い返事に、一誠は問いかける。

 あくまで真剣に、蒼へ向けて。


「少しの間だけだったが俺の目から見て、お前はいまの自分に悩んでるように思えた。悪魔に勇者だなんだと不確実なことを言われていたことより、もっと奥底にお前の感じてるものがあるんじゃないか、このままソリューションにいるよりは、広い世界を見たほうが見識も広がっていいんじゃないかと思ってな」

「一応……私、ソリューションの前線基地を任されてる人間なのだけれど、引き抜こうとしているの?」


 美久が首を捻りながら呟いているが、蒼の耳には入ってこない。

 そればかりか、ガツンと鉄槌で横から殴られたような感じさえした。

 確かに迷っているのかもしれない、と思う。

 勇者と呼ばれたことに不快なものを感じていたわけではない。そんなこと、蒼にはどうでもいいことなのだ。

 自分が勇者であろうとなかろうと、そんなことは基本が定まってから次に考えるべき問題だろう。

 自分という基本から派生する存在が勇者であるなら、自分にこそ蒼は目を向けなければならない。

 なにをしたいのか、なにをするべきなのか。自分が持てる役割とは、なんなのか。

 蒼は、目線を自然と落とした。

 思考にいくら時間を費やしても、回答を持っていない蒼には役割がわからない。

 紅 久遠を失ってから──いや、彼女を失っただけが原因ではない。自分は元来から、そんな人間だったのだろう。蓋をしてあった記憶を開けてみれば、久遠の後ばかりを追いかけていた気がする。日々の寝起き、行動、遊び、そういうものすべてを久遠に委ねる。

 だから久遠がいなくなってからというもの抜け殻みたいな日々を過ごして、いまに至る。わざと鈍化して劣化させていく感情に、いつしか、これが自分なのだと思考停止するようになってしまっていた。

 久遠を探したいというのも事実、心の底から出てきたものだ。けれど、もっと根底にあったのは、円卓の騎士団に所属していたら一歩も前に進めないままという危惧だ。

 円卓の騎士団のランスロット卿として、自分を変えることもできたかもしれない。でもそうしなかったのは──自分のやるべきことを、やりたいことを確固たるものとして持っている美久や和志を羨ましく思ったから。

 一誠だってそうだ。彼は復讐心という一般的には理解され辛い感情をほの黒く滾らせながら、自分のやることだと全うしている。

 自分よりも人間らしく、役割を持って前を進み続ける彼らは灯火だ。

 少しでも彼らに近づきたい。それがいまの蒼が考え得る結論になる。

 蒼は呟くように、静かな声色で言った。


「俺は……勇者だなんだと言われても、自分が何者であるかを知りたい。世界に、人間に、自分に、どんな役割を持てる人間なのか、それを知りたい。美久や和志のように自分たちの役割を持って、やるべきことを持っている姿に近づきたい」

「いやぁ、照れるな」

「役割とかそんな大層な理由持ってるかな、お兄ちゃん……」


 和志が照れたように頬をぽりぽりと掻くのを見つつ、紗綾が苦笑を浮かべる。

 美久はすっと息を吐いて、答えを出そうとしている蒼を後押しするように、柔らかな表情を向け、蒼はそれに頷き、纏まっているかすらわからない、自分の頭の中にある想いを続けた。


「役割を知る手段はなんでもいい……のだと思う。一誠に付いていくことだって、一人旅することだって、何かの糧にはなるかもしれない。どの道を選択して知れることかはわからないが、俺が最初に心惹かれたのは、美久と和志だ。だからいまは傍にいたい、そう思う」


 蒼は喋り疲れたように、そっと息を吐く。

 掴みどころがなく、纏まっていない言葉だったかもしれないが、いまの自分が考えて出せる結論は美久と和志の近くで彼らを見て、自分の役割がなんであるか、知ることだ。

 もしかしたら結論はでないかもしれないが、その時はその時としてまた考えるしかない。

 一誠は蒼の言葉を最後まで聞いて、自分の中で消化するような時間を空け、微笑をたたえながら静かに頷いた。


「そっか、蒼の考えはわかった。そこまで言われちゃ、振られる理由としては十分だ」

「……すまない」

「なーに気にするな、しっかりと考えてるようで安心したぐらいさ。俺の提案はいつだって出来ることだ。また気が向いたら連絡してくれりゃあいい。その時は迎えにくる」

「わかった。その時はよろしく頼む」

「おうっ! ああ、そうだ。ついでなんだが和志はどうだ? 俺と来りゃ、亡霊退治できるぞ!」


 冗談めかして言う一誠に、和志は顔を伏せる。

 亡霊という言葉は、和志の思考を汚染するにはいまだ十分な言葉を持つ代物だろう。

 和志にとって最優先目標であった両親の仇を討つ想いは、まだ和志の心の中で病巣のように居る感情のはずだ。

 ずっと抱いていた執着というものは、簡単に捨て去ることが叶わないことを痛切に知っている一誠は、だからこそ冗談のようにしながらも和志に確かめようとしているのかもしれない。本当にそれでいいのかと。


「お兄ちゃん……」

「大丈夫だ」


 様子を見て不安げな紗綾に、和志は手を伸ばしてその頭をくしゃっと撫でる。

 伏せていた顔をあげ、からっとした憑き物が落ちた笑顔を紗綾に披露した。

 紗綾の感情に気づいて、自分が本当になにが大切か知った和志はもう違えない。


「一誠のお誘いは嬉しいけどな、いまの俺には手のかかる妹がいるからさ」

「もっ、もう! 手のかかるってどういうこと!?」


 紗綾はしんみりしていた雰囲気から一転、言葉尻を荒げるほどに納得いかないらしく、お兄ちゃんのほうが手がかかるんですけど!? と食ってかかって和志に詰め寄る。

 紗綾が和志の胸元をぽこぽこと殴っている仲睦まじい光景に、一誠はふっと吐息を漏らした。


「まっ仲が良くていいこった。繋いだ手、心、二度と離すんじゃないぞ」

「や、やめろって紗綾、力強い……わかってるよ。もう自分を見失ったりはしねぇよ」

「よし、信じた──」


 一誠はそう告げて全員を満足げに見渡し、一区切りつけるように頷くと、手を大きく振り上げて別れを告げる。


「じゃあ、またな!」


 ……

 …


 一誠を見送った和志と紗綾が連れ立って、医務室に向かう姿を見届けた蒼は、一誠が去っていった方向に一抹の寂しさを感じるものを向けた。


「どうしたの蒼くん、やっぱり一誠に付いていきたかったかしら?」


 美久が蒼の隣に並んで、優しく聞いてくる。

 蒼が美久たちに遠慮して自分の意見を言っていないのではないかと、心配してくれているのかもしれない。

 聞いてくれた以上は、今回の一件で感じた心の中にあることを告げるべきだろう。蒼は静かに口を開く。

 

「いや……美久は自分のやりたいことを表現することは大事だと言っていたな」

「言ったけど、それがどうかしたの……?」


 思ってもいないところで自分の発言を引き合いに出されたことに、美久は怪訝な顔を浮かべる。

 何が言いたいのかわからないとその表情は告げていた。

 蒼は太陽が昇って空が明けていく様子を、目を細めながら見つつ答える。


「やりたいことだけをしても正解にはならず、誰かを不幸にしてしまうこともあるのだな、とそれだけだ」

「それは和志のこと?」

「まあ、そうだ。和志は亡霊を倒して両親の仇を討ちたかった。でもそれに深く心を奪われた和志に妹の紗綾は苦しんで、自分のやりたいことだけを為そうとしてもよくないことに繋がる……一誠だってそうだ、一途なほど固執した憎しみはそれ自体が欲となり、自分すらも傷つける。それが少し恐ろしいもののように思えた」


 蒼の言葉に感じるものでもあったのか、美久はふむ、と腕を組み、目を閉じて、自分の心の中を整理するような間を置くと目を開き、静かに話し出した。


「……そうね。確かにやりたいことだけをするのが最も正しいことになるとは限らないわ。そういう、欲というのかしらね、は誰かを不幸にするかもしれないし、自分を不幸にしてしまうこともある。だから自分の中で何が必要で何が不要なものなのか選別して、自分の正しいと思ったことを、後悔しないようにするのがいいんじゃないかしら」

「自分の正しいと思ったことを後悔しないように……か。難しいな、わかりそうもない」

「ええ、とても難しいことだわ。生きている限り、ずっと自分の欲とは何か、正しいことをできていたのか、考え続ける人はいるでしょうね」

「美久もそうなのか?」

「私は……どうでしょうね。まだ齢17の小娘にはわからないことだらけよ。それにいまは、精一杯ソリューションの司令官を務めあげるだけだから」

 

 美久は寂しげとも優しげとも思えるような笑みを浮かべて空を仰いだ。

 視線は空の彼方に思いを馳せているようで、蒼には推し量れない感情を伴ってた。

 蒼はいつも毅然としている美久のことを感情を持ち得るものとして、自分の数歩先に進んでいる存在だと思っている。そんな彼女ですらも悩んでいるという。

 自分がわからないことを正当にするつもりはないが、自分のやりたいこと、欲望というものは人生を通して考え続けなければいけないものなのかもしれない。


「ただ単純に久遠を探したいと思うだけでは、ダメなんだろうな」

「探したいって思えるほどの人がいるっていうのは、大切な想いだと思うけれどね」

「……その想いだけではきっと俺は納得できなくなっているんだと、そう感じている」

「そっ、なら」


 と言いつつ美久は蒼の背中を景気づけるように盛大に叩いた。

 突然のことによろめいて、前傾姿勢になりながらも蒼は転げることなく踏みとどまる。

 背中がヒリヒリと鞭で打たれたかのように痛い。


「案外、痛いのだが」


 美久は空を仰いでいた時の表情とは違い、朗らかな笑みを作りながら蒼の背中を柔らかく、温かみのある手で擦る。


「思ったより力が強かったみたい、ごめんなさい。もしね、わからないなら考え続けなさい。あなたが何がしたいのかなんて私にはさっぱりわからないんだから。考え続けて、考え続けて……自分がこれだと思う答えがわかるまで悩み続けるの」

「これでも考えていたつもりではあるんだが」

「なら足りてないのね、もっと、もっと考えて悩むといいわよ。私は先に基地に戻ってるから。この時間の学校のしかも裏門にいるのって変だからあまり長居して誰かに見つからないようにね」


 背中に当てられていた手が離れて、美久が裏門から校内に入っていく。

 どうやら悩み続ける時間をくれたらしい。

 蒼は再び昇り続ける太陽を見て、思考を巡らせる。

 円卓の騎士団にいた頃は、自分が無であることを受け入れて思考する必要がなかった。

 自分の中では色々なものを受け入れてソリューションに来てからというもの、悩みは絶えず、わからないことが増えていく。

 だがそれは決して悪いことではないのだろう。もしかしたら人間らしい思考に近づているのかもしれないとすら錯覚できる。

 蒼の根源にあるのは、兵士として無気力に生きてきた自分だ。何の目的もなく、役割もなく、欲もない、ただ人形のような人間。


「ああ、そうか」


 蒼は納得したとばかりに深い息を吐くと、自然と生まれ出た感情を口にする。


「色々理由をつけても、俺は何もないことが嫌なんだ」


 久遠を求めているのは、生死を確認したいという感情もあるが、一番はまた彼女の後ろを付いていけるという安心感が欲しかったのかもしれない。

 美久や和志を眩く思ったのもそうだ。彼らは自分の数歩先を行き、蒼の持っていないものを持っている。彼らに近づけば意志とも言うべきものが手に入る気がした。

 自分の想いで円卓の騎士団を裏切ったところで結局のところ、誰かに縋り、頼ってしまっている。一歩進んだと思っても、それはきっと半歩にも満たない歩みで、何も変わらない程度のものだと、少なくとも蒼はそう感じた。

 そう感じてしまうのは自分というものが確立されていないから。

 吹けば消えるような灯火しかない心は、どんなことを思考して結論を出そうとも自分の考えを肯定できず、ゆらゆらと陽炎のように揺らめく。

 どんなことをすれば人間として空っぽだった心を少しでも満たせて、自分が確立されて役割を自覚することができるのだろうか?

 もっと簡単に言えば、自分という存在をどうやって自分であると自覚することができるだろうか?

 いや、自覚なんて大層なものでもないのかもしれない。自分が納得できるか、納得できないかだ。

 俺は自分の在り方にどう納得できるのか?

 蒼が自分に問いかけても、その答えは帰ってこなかった。


 第二十話 終わり

 第二十一話へ続く

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