第十六話「胎動の目覚め」

 第二章 亡霊編


 第十六話「胎動の目覚め」


 静寂に包まれた工業地帯で日が落ちた頃、アーサー王は二名を連れ立っていた。

 周囲に人影はなく、コンクリートで固められた地面が街灯に照らされて、延々と続いている。

 遠方には工場がそびえ立っていて、ここが工業地帯のはずれであることを示していた。

 前方で護衛するように周囲を警戒しながら威風堂々としているのは、顔を覆う白い仮面に頭部を覆う白い帽子、筋骨隆々とした肉体に円卓の騎士団の騎士服を身に纏うガウェイン卿――縁李 無頼。

 そしてアーサー王の隣には、白いローブをすっぽり全身を隠すように纏った者がいた。

 一向は現在、工業地帯のある施設を目指している。


「緊張しているのか」


 仮面を通しているのに、アーサー王から中性的で底冷えする声が発せられた。

 行く場所すら知らされていないのだから白いローブの者――この少年が緊張していても無理はないのだが、そんなことは関せずだ。


「いえ……はい。そうですね。緊張していないと言えば嘘になります」


 変声期前の幼さが感じられる声を持った少年は、円卓の騎士団なら付けるべき白い仮面をしておらず、少年の甘い幼さが残った面構えを夜風に晒している。

 内月 騎馬だ。

 騎馬は兵士として心から尊敬していたランスロット卿の裏切りに憤り、ランスロット卿を超える力が得られるとアーサー王に誘われ、ある場所に向かっている。

 自分の身に何が起こるかも知らずに。


「あまり緊張することはない。お前はそのままでいればいい」

「これから、何をするんですか?」


 アーサー王を前にすれば、大抵の人間は威圧感と不快感が募る声に竦むというのに、少年はそれがないとでも言うように自然体だった。

 年若いものにしては、いやに落ち着いている。


「お前の可能性を広げるためのものだよ。お前は、強くなりたいんだろう?」

「可能性、それで強くなれるんですか」


 抽象的すぎてよくわからない、と純真な声が語っていた。だがアーサー王は少年の顔色なんてものは見ずに、正面を向いている。

 事実、関心はないのだろう。冷淡な姿をしていた。


「なれるとも、ランスロット卿よりもっとな、お前は身を任せていればいい。それだけで、全て終わる」

「……わかりました」


 これ以上の会話はないと騎馬も察したのだろう、しばらく道なりに歩き続けると月明かりに照らされて、ぼうっと外灯で照っている研究施設に到着した。

 研究施設にしては大規模に見えず、一戸建て住宅が三棟連なっている程度のこじんまりした佇まいをしている。

 ここで、何が始まるというのだろうか?

 正面ゲートの警備を担当している円卓の騎士団の兵士が、彼らに敬礼する。


「アーサー王、ガウェイン卿お待ちしておりました。ガレス卿が研究室で御到着を待っておられます」


 兵士が言い終えると、来訪を歓迎するように正面ゲートが開いた。


「さあ、行くぞ」


 騎馬に言ったのか、アーサー王は呟くようにすると自然に吸い込まれるかの如く中へ入っていく。騎馬もそれに続いた。

 指導者として、兵士に労いの言葉もない。ただそうすることが当然のようだった。

 無頼は通りがかり、警備をしている兵士の肩に、ぽんと手を乗せる。


「ご苦労だな。息災か?」


 無頼は仮面をしているのに不思議と籠らない、重厚のある声で話しかける。

 この兵士は無頼が訓練を担当していたので、兵士用の質素な白い仮面をしていたとしても雰囲気でわかる。

 優秀と真面目が一体となっていたような教え子だ。

 蒼と違って兵士として自身の主体性を持ち、無頼にとっても自慢の一人である。

 

「ガウェイン卿の教え通り、健康を第一にやっていますよ」

「教練が無駄になっていないようで安心したぞ。体は資本だ、特に兵士にはな。警備は頼んだぞ」

「はっ、お任せください。小耳に挟んだのですが、ランスロット卿が裏切ったとお聞きしました」

「その件か。情報に間違いはない。ランスロット卿は円卓の騎士団から離反した」

「そう、ですか」

「残念だったか?」

「我々のような若年層の中でもトップクラスの実力を持ち、名誉階級を授かっていた人ですから尊敬していました。面識はありませんでしたけどね」

「過ぎたことだ。あまり気にすることでもあるまい」

「分かっておりますとも」


 揚々とした声に頷いて、無頼は正面ゲートを通った。


……


 白色の廊下で、いやに足音が反響していく。

 足取りに迷いはなく、狂いもない。どうやらアーサー王は、何度もこの研究所に足を運んだことがあるようだった。

 時が、歩が着々と進んでいく。

 廊下を曲がり、さらに奥の廊下へ進む。

 研究所内に入ってから、すでに数分が経っている。

 騎馬は研究所に入ってから、胸の奥がざわついているのを感じていた。

 期待、焦り、不安。そういった感情に由来するものとは、どれも違う。

 例えるなら、体と精神が浮ついている感覚。

 それが一番近い。

 体と精神が剥離しているように感じて、自分が行動を決定しているにも関わらず、靄がかかったような違和感が付きまとう。

 理由もなく、体が精神についてこない。

 どうしたことだろう?

 研究所に入ってから、それが顕著になっている。

 口さえ開かずにしばらく研究所の中を進むと、アーサー王は廊下にある扉の前で立ち止まり、振り返った。

 アーサー王の威圧的にも思えてしまう白色の仮面が、騎馬を捉えていた。

 

「ここに入り、道なりに進め。途中で職員に合うはずだ。それからは指示に従え」

「……はい」


 騎馬は物怖じすることなく、命じられるまま歩みだした。

 体と精神の違和感はある。しかし、それでは騎馬が止まる理由にはならなかった。

 おそらく、身を揺るがすような危険性があるだろう。兵士として最高峰のランスロット卿に力で追いつこうと言うのだ。もしかしたら人間として何かを失うかもしれない。

 漠然とした不安が体を通して違和感となって、止まれと精神を拒否しているのかもしれなかった。


「それがどうした……」


 ランスロット卿と同じ力を得て、自分は命令されたことを実直にこなす兵士になるのだ。

 ここで疑問を挟むような人間は、自分が望むような人間ではない。

 自分の、欲望ではない。

 普遍的でありながら異端に。

 自らの欲望のために、騎馬は足音が反響を繰り返す中を進んだ。


……


「お前は、あの純粋さを利用するのか」


 遅れて追いついた無頼は、廊下でアーサー王に問いかけた。

 そこには、否定的な感情が少なからず含まれていた。

 糾弾するようではあるが、実、アーサー王を止めようとはしていない。

 無頼は、騎馬をモルモットとして実行される実験内容を知っているにもかかわらず。


「不満か?」

「内月 騎馬の育った環境についてはもう調べた。ただ日々を漫然に、健やかに育ってきた変哲のない純粋な一般人だ」

「それは違うな。純粋ではある。だが、あれは歪な純粋だ。生まれて初めて人を殺した場面に遭遇しても、顔色ひとつ変えなかったのだろう?」


 聴いている者を底冷えさせる威圧的な声に、無頼は心臓に針を刺されているような気分を味わっていた。

 やはりアーサー王の声は不快にも感じ、慣れることはない。

 アーサー王は、大阪の湾岸で、蒼が所属不明の兵を殺傷した時のことを言っているのだろう。

 あの時、生物から死物に成り果てるの様を騎馬は目撃している。

 騎馬が初めて実戦に出た日、死物を見るのすら初めてだったはずなのに、騎馬は嘔吐もしなかった。

 誰しも初めて死体を見てしまったら、嫌悪感を抱くはずだというのに、素ぶりすらなかった。

 アーサー王の言葉通り、騎馬が普通の中に生まれた歪であることは、無頼が感じた限り疑いようがないことではある。


「……あの性格だから、あの心があるから扉を開く鍵になると?」


 苦々しげに無頼が返す。

 この先、騎馬に起こるであろう悲劇に、無頼の心は締め付けられるようだった。


「そうだ。扉と接続している私たちのような特殊な人では真に扉を開けない。ただの人ではいけない。人でありながら、人として精神が歪でなければならない。昔、魔法を使えるようになった者はセレニアコス病と呼ばれていたな、精神異常者、日本語訳通りの意味を持つ存在がいる」

「それが、内月 騎馬だと言うのか」

「その通りだ。日常の中にある歪。あれは自分のことを歪だとは露程も思っていないだろうがな。自分のことを違和感なく普通だと思っている人間は、精神異常者だと言わざるを得まい? 何を持って普通と定義する。人という種には普通という言葉はあるが、普通という指標はない。種の集合体の曖昧な価値観に頼っている限り、自らを普通だと信じているものほど心の底にあるのは精神の異常だ」

「そんな人間だから、そんな個体だから扉を開けるというのか……」

「なにを今更。お前は扉の開け方を知っているだろう。年を取ったのか知らんが、なにかと否定的になったものだな。もうお前は私たちという罪を背負い、歩き出した。その時点で、止まることは許されん。さらに言えば、お前は親友を手にかけた。人という種の中で最も愚かで、最も真理に到達した行動だ。お前は私たち側の人間だよ、縁李 無頼」


 淡々と述べて、アーサー王は歩き出した。

 これ以上問いかけても、アーサー王は足を止めないだろう。

 あれはもう止まることを破棄している。目的のために止まることをしらない、ただの悪魔だ。

 そして無頼も、自分がもう戻れない道にいるのはわかっている。アーサー王の誕生に手を貸した時から、自分の運命は外道の糸に絡めとられたも同然であることも。

 しかし、無頼は年を重ねて情を理解した。

 蒼の脱退を促し、騎馬を可哀想に思ってしまう。

 以前の自分なら想像もつかないほど、情に流された行動だ。

 それが、無頼の歩みを止まらせる。

 欲望を抱くことを否定する、円卓の騎士団のガウェイン卿であるものが持っていい感情ではない。

 人の心というのはなんと生きづらくて、変化していってしまうものか。

 数時間あれば、人の心というのは多少なりとも変わる。それが年単位であれば尚更だ。

 人の本質すら変えてしまいかねないものが、時間にはある。

 ずっと揺れ動くことなく生き続けるというのは、ただ生きるより何十倍も、何百倍も難しいし、異質なことだ。

 しかし、こうやって御託を並べてもアーサー王の言う通り、自分が止まれないことを無頼は知っていた。

 自分が殺してしまった親友を想えば、止まることなど許されない。

 勝者には、勝者の責任がある。

 深く傷跡のように存在する死を無駄にしないためにも、無頼は自分に進み続けることを命令するしかなかった。

 それが――人を踏み外した外道の道だとしても、自分の中にある欲望には抗えそうもなかった。


……


 研究所の一部屋に、アーサー王と無頼は足を踏み入れる。

 長方形の空間で、職員が忙しなく動き、実験の準備をしていた。

 中央に通路を生みながら。間隔を空けてデスクが規則正しく奥まで配置されている。

 デスクの上には、タワー型の機器とモニターがセットで置かれている。

 アーサー王から見て部屋の後方は全面がガラス壁で、その奥には部屋が設けられていた。

 ガラス壁の向こう――照明を反射する白い部屋の中央には、半身を覆うほどの大きさがある機械の椅子と、頭部を覆うのであろう笠のような機械が設置されている。

 研究室と実験室が併設された部屋と言うのが、一番正しいだろう。


「お待ちしておりましたよ、アーサー王」


 来訪に気づいたのは、研究所を任されているガレス卿――剣豪 正義が無精髭を撫でながら近づいてくる。。

 一瞬、熊が近づいてきたのかと錯覚するほどの巨体だが、これでいて動きは鳥のように俊敏、力は熊のように強力だ。

 ガレス卿の動きに気づいた職員が立ち止まろうとするが、アーサー王は手で制して、準備を進めるように促す。


「挨拶はいい、始められるよう準備を進めろ」


 一段と動く職員を置いて、ガレス卿がごまをするような笑みを浮かべた。

 この男は、世渡りというものをよく知っている。

 誰に逆らってもいいのか、誰に逆らってはいけないのか。

 誰に気に入られなければならないのか、誰に気に入られる必要がないのか。


「もうしばらくで、準備が完了致します。アーサー王、指揮を執られますか」

「実験は私主導で行う。お前たちは、いつも通り魔力量を計測していればいい。今回はしっかりとした反応を調査できるはずだ。ぬかるなよ」

「承りました」


 ガレス卿がアーサー王を通すように通路を開けると、アーサー王は隣部屋のガラス付近まで移動する。

 時期に、騎馬が現れることだろう。それを待つようだ。

 無頼は出入り口付近の壁に背を預け、その様子を観察していた。


「貴公もきていたか、ガウェイン卿」


 不満を隠そうともしない醜い声。ガレス卿はガウェイン卿を毛嫌いしていた。

 もちろんガウェイン卿はそれを知っているが、いつもと変わらない堂々とした姿で返答する。


「護衛でな。私は見ているだけだ。ガレス卿が心配するようなことはない」

「……ふんっ、そうならばよいのだがな」


 わざとらしく鼻息を鳴らして、ガレス卿はその巨躯を緩慢に揺らしながら立ち去っていく。

 あれで戦闘時は鳥のような身軽さなのだから、詐欺のようなものだ。これには魔法の力もあるのだが、それを含めても名誉階級を授かるのに違和感のない人材だ。

 ガレス卿は、日本でも古い家柄の由緒ある政治家系の出だ。

 故に、彼が最も見ているのは家柄だ。

 ぽっと出でありながら、無頼がアーサー王の側にいるのは高貴なものに集るハエのようにでも見えて鬱陶しいのだろう。

 アーサー王も無頼と同じく家柄はないが、ガレス卿は政治屋気質らしく絶対的に上の人間には逆らわない。この日本でやってはいけないこと、やることをわかっているのだ。

 なんとも欲深い。ただ上へ、向上心とも野心とも言うべきものをガレス卿は抱いている。

 いやはや本当に、円卓の騎士団にいるのが相応しい男だ。


……


 研究員と合流した内月 騎馬は、扉を通る。

 その部屋は、太陽のように眩しい照明に反射して、壁が目に痛いほど白い。

 入って左手にあるガラス壁に仕切られて繋がっている奥の部屋では、アーサー王が仮面の中からこちらを覗いていた。研究員も奥の部屋に大勢いる。

あちらは研究室で、こちらは実験室ということだろう。

 これから起こる実験内容を、騎馬は教えてもらっていない。

 アーサー王から、強くなれるということだけを教えてもらっていた。

 兵士然としたランスロット卿を超えるほどに強くなり、凛々しくも機械のような無機質さを得られるのだろうか。

 騎馬は、ランスロット卿に憧れていた。

 神を崇めるかの如く。傾倒していたと言っても過言ではない。

 特筆すべき理由があったわけではない。

 ランスロット卿を最初に見たのは、彼が作戦行動中の時だった。

 屋根上を飛び移るように疾走するランスロット卿。一目しか映りこまなかったとしても、その姿は騎馬の中で引き延ばされた永遠のように感じられた。

 彼の姿は、騎馬の運命だとそう言ってもよかった。

 それからランスロット卿の活躍を、ネットワークを使って自然に追うようになっていた。

 円卓の騎士団を讃えるプロパガンダが主なネットワークで知れる情報には限りはあったが、ランスロット卿が機械のように人を殺すとも、円卓の騎士団の人形であるように命令に背かないと言った一連の情報は入ってくる。

 冷静さ、平静さ、感情の存在する人とは思えないほどに兵士らしい兵士らしさ。

 騎馬は、憧れた。

 一般人である自分が手に入れられないものを、ランスロット卿は持っている。

 彼と共にあり、彼のようになりたい。

 その一心が叶ったのか、騎馬は円卓の騎士団に強制兵役されることになった。

 両親は騎馬が十五歳であること、教育課程中であることから抗議しようとしたものの、大日本帝国は欲望を禁止するという名の、個人の道が決められた独裁国家である。

 否応なしに、騎馬は円卓の騎士団に入るしか道がなかった。

 欲望が禁止されているのに、騎馬はそれを手にすることができる可能性の中にいた。

 欲望とはつまり、為すこと。

 人間のおおよその行動に当てはまるものであり、大日本帝国では曰く。

 死ぬ権利はない。

 生きる権利はない。

 人民の未来は、アーサー王の手の中のある。

 大日本帝国から通知されたものには、強制力がある。従わなければ、アーサー王に逆らったとして円卓の騎士団に連行される。

 どこに連行されるのか、それは誰も知らない。

 大事な部分は拒否し続けた結果、ある日、いなくなっているという状況だ。

 従わなければいなくなる。底冷えする恐怖を感じさせるそれは、人の行動を縛るのに最適なものだった。

 円卓の騎士団の命令に従いさえすれば、危害は加えられない。

 一般の目線から見ても、円卓の騎士団が用意する道にさえ乗れば、趣味程度の自由は保証されていたのだ。

 だから大抵の人間は、用意された道に従って生きている。少しの不満を覚えながら。

 自分の未来を道に乗せるだけで以降の全てが保証されるだから、人にとってこれだけ楽な環境もないだろう。

 煩わしいことは、全て円卓の騎士団が道を作ってくれる。

 自然に身を委ねればいいのだ。

 騎馬には、従うことができる才能があった。

 アーサー王を疑う余地などあるものか。

 憧れたランスロット卿のように、ただの歯車になる。

 研究員は要領よく騎馬を部屋の真ん中に備えられた、半身を覆うほどの大きさのある機械の椅子に座らせて、手足胴体に拘束具をつけていく。

 研究員は拘束する意味を話さず、騎馬は椅子に張り付けられたように固定され、笠のように頭部を覆う被り物をさせられた。

 外の世界との接点が断たれ、無が眼前に広がる。

 機械が発している環境音は聞こえるものの、同時に心音が耳に響く。

 無理からぬことだが、騎馬は緊張していた。

 平静に冷静にと、覚悟を決めるよう、騎馬は己に暗示する。

 あのランスロット卿のようになるのだ。

 ランスロットの名誉階級をいま継いでいる者はいない。それでも過去に憧れた偶像が、瞳の奥で燦然と輝く。

 それはまるで騎馬の心を全て飲み尽くすように、己の内へ広がっていく。


「準備完了です」


 言うなり、研究員が立ち去っていく。

 これで室内に残るのは、騎馬のみとなった。

 いよいよ、実験が始まるのだろう。


「内月 騎馬、これから実験を始める。心を穏やかに、心を内に委ねろ。そうすれば、お前にも見えてくるはずだ」


 アーサー王の氷を思わせる冷淡な声が、聞こえてくる。

 見える?

 言われたことをやるまでもなく、騎馬の心はすでに冷めきったようになっていた。

 目の前に広がる無に、不安はない。

 心が覚悟を決めたからか。不安を煽るように鳴っていた心音すら、段々と聞こえなくなってきた。

 騎馬には、才能がある。

 純粋な、染まる前の布だからこそ、何にでも順応できる。

 彼は白紙。

 彼は白地。

 彼は白布。

 ただの純白。

 純粋に己の偶像にあるランスロット卿になりたいという思いだけで、心は構成されている。

 暗闇の中で一筋の線として、アーサー王の声が騎馬を導いていく。


「そのまま、自らの深淵を、心の奥底にある扉を見つめろ」


 アーサー王は、扉と言ったか。

 そんなものこの空間の何処に? と疑問を呈するまでもなかった。

 無に、目を凝らす。

 閉ざされた中で見えるものなどない。でも確かにそれを感じることができた。

 いつの間にか、思考が無限に広がっていく感覚が騎馬を包み込んでいた。

 座っていたはずなのに、体が宙に浮いているようにすら感じる。

 生きている上では絶対に感じられないだろう、天にも昇る異常な高揚感が、全身を沸騰するかの如く駆け抜けていく。

 ああ、これは気持ちいいのだ。

 次第に自分と無の境界線が曖昧になって、混ざっていく。

 思考が溶けて、広がり、実感できる。

 そして、騎馬は突然に知覚した。

 心の最奥。心と無が溶け合った先にある、人の身であっては辿り着けないであろう扉を。

 それは変哲もない、ぽつんと無に浮かんでいる鉄で出来た扉だったが、ドアノブがない。

 これでは、宙に浮かんでいるだけの壁と相違ない。

 だが、本能はこれは扉だと主張している。同時に、本能がこの扉を開けてはいけないと警告してくる。

 扉から身が竦むようでいて、得たいの知れない感覚が襲いかかってくる。

 災厄。この感覚を言葉で表すなら、これが正しいだろう。


「さあ、扉を開け放て」


 威圧感と冷酷さを兼ね備えた中性的な声が、残響のように無の空間へ響き渡る。

 アーサー王の声は、なおも空間へ永久に広がるよう、鳴り続ける。


「なにを躊躇うことがある。お前の望んだものは、目の前にある。お前はランスロット卿のような兵士になるのだろう? すでに扉の前にお前はいる、あとは蛮勇を持って開くだけだ」


 不思議な気持ちが、湧き上がる。

 開けてはならないと思っていたのに、アーサー王に語られた瞬間、扉を開けるべきだと心が強制してくる。

 騎馬は人智が及ばないこの扉に、惹かれ始めていた。


「……欲しいか」


 しばらく思索していると、またどこからか声が鳴る。

 今度は、腹の底に重りでもつけられたように響く、静かな声だった。

 聞いたことのない声だ。アーサー王のものではない。

 では、誰なのだろう。この精神空間に介入できるのは。

 不思議なことに、昔から知っている声な気がしてならなかった。

 

「お前の望む力を与えよう。お前の望む欲望を叶えるだけの力を与えよう」


 騎馬にとって、その言葉はひどく甘美なものに思えた。

 普段ならば絶対に不審に思ってしまう言葉でも、アーサー王の声すら及びもつかない強制力があって、騎馬は逆らえなかった。

 ああ、安心して心を――すべてを委ねてしまおう。

 扉に、思考が引きずり込まれる。


「僕の、欲望は」


 すらすらと自分でないような口が動く。

 それは恐怖ではなく、喜びだった。


「ランスロット卿のように立派で、強く、機械のような、正しい人間に」


 思考が雄弁に語る。


「正しいことを、正しく正確に行えるように。もう正しくない人間ではいたくない。真っ直ぐに迷いない人間に」


 それは内月 騎馬が抱えていた、真っ白な欲望。

 自分としての正確さを求める彼の欲望。

 際限なく正しいことなど、人間には不可能だ。

 人は完璧な生き物ではない。だが、彼はそれを欲望としていた。

 一見、ただの変哲もない欲望である。誰もが自分の正しさ、完璧さというものを求めているだろう。

 しかし傲慢と我欲に塗れた騎馬の純白な欲望は、変哲というには間違いすぎた。

 人の命令を聞いて、ただの人形として生き行くこと。他人に自分を委ねられる異常さ。

 それを成せるだけの力を。

 そう、彼は明らかに世界に生まれた異物だった。

 扉を開くのに、最適な人物だった。


「ああ、僕は……俺は」


 扉は騎馬を飲み込むようにして口を開き、彼を誘っていった。



 第十六話終わり

 第十七話へ続く

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