第18話2050年【疫病センター1】

 ほんの一時の休憩を取る玲人ら三人が座る席に、人数分のハンバーガ一と烏龍茶をトレイに載せた調理ロボットがこちらに歩を進めてきた。


 テーブルに食事を並べた調理ロボットが玲人にたずねる。

 「以上が注文の品ですが、本当にアルコールは要らないのでしょうか? 元気になりますよ」


 「アルコールは苦手でね。全員、すぐに真っ赤になってしまうんだ」


 「そうですか。軍事施設内の皆様は大半が大酒呑みなものですから。ではごゆっくりどうぞ」トレイを脇に挟めてカウンターへと戻った。


 佐伯がシャノンに言った。

 「珍しいね、シャノンがファストフードを食べるだなんて」


 「……。気分が落ち着かないと、どうしてもね。でも、ママが作るハンバーガーの方が美味しいわ。世界一よ」


 「へぇ、食べてみたな」


 「マッシュポテトとパンケーキも絶品なの」


 シャノンにとって母国の味は、一種の精神安定剤の役割を果たしているのだろう。遠く離れた日本で暮らし、早数年の歳月が経った。しかし、これほどまでに不安を感じたことはなかった。


 日頃から健康に気を遣い、野菜を多く摂取することを心掛けているが、クラッカーを砕いてつなぎに利用した手作りハンバーグをサンドしたハンバーガーは、シャノンのママの味だ。


 ハンバーガーに母国を感じながら、アメリカを立つ前にママが言った言葉を思い出した。


 ―――遠く離れた日本で愛する人に出逢えたなら、何があってもその人の手を離しちゃダメよ。


 どんな時も愛を掲げて支え合って生きて行くの、パパとママのようにね―――


 「…………」


 (愛を掲げて……

 私は新藤博士を支えるわ、きっとママもそうしなさいって言うはずだから)



 シャノンは玲人に目線をやった。


 友人に戻ると誓ったのに、男として玲人を求める自分がいる。


 だけど、これも一つの愛の形なのだと、心の中で強く感じた。


 「実験室にカメラはセットしてあるけど、食事を終えたらラボに戻りましょう」シャノンは頭を切り替え、二人に言った。「君嶋指揮官も休みなく必死なのに、いつまでも休んでいられないわ」


 佐伯が言った。

 「そうだね。何が何でも成功させないと……このままでは被害が拡大する一方だし……」


 玲人は烏龍茶を口に含んでから、どこか疑念を募らせる表情を見せた。

 「なぁ……ずっと考えていたんだが、冷静に考えておかしいと思わないか?」


 シャノンと顔を見合わせた佐伯は、眉根を寄せ、訝し気にたずねた。

 「何がですか?」 


 玲人は説明し始めた。

 「<死者蘇生ウイルス>が空気中に滞在する期間は約二週間。それなのに、その経過を待たずに<ノア>に行くなんて……考えれば考えるほど、彼ら政府が焦っているようにしか思えない」


 突然の玲人の発言に首を傾げる佐伯。

 「新藤博士も言ったじゃないですか、温暖化の影響で自然災害が多発しているから地球を捨てるって」


 「確かに言ったけど、今すぐどうこうってわけじゃないだろ? 実際、そうだとしても<ノア>への移住は十年先だった。どう考えても何かが引っかかる。そうだ、冷静になるんだ……」強調し、もう一度同じ言葉を繰り返す。「冷静に……」


 シャノンも理解できない様子で右手の掌を軽く天井に向けた。

 「何が言いたいの? 全てはパンデミックが引き起こした惨事でしょ? <ノア>の移住だって同じことよ」

 

 「僕が言いたいのはそうじゃない、そうじゃないんだ」玲人は真摯な面持ちを二人に向けた。「上戸さんを含めた政府は重大な “何か” を隠しているような気がする。君嶋指揮官も知らないとんでもないことをね。それも世界規模で……」


 佐伯が言った。

 「お言葉を返すようですが<死者蘇生ウイルス>以上の危機はないかと思います。少なくとも俺には考えられません。

 俺達が無事ワクチンを開発し、事の終息を迎えた後、誤魔化しのシナリオが通じるタイムリミットが一週間なんだって、上戸さんが言ってたじゃないですか。

 それ以上の期間に渡り民間人の目を瞞着させられない。結局のところ弁解が厄介だから逃げたいだけなんですよ」

 最後に吐き捨てるように言った。

 「人類を捨ててでも自分達が良けりゃそれでいいんです、アイツらは」


 「私も佐伯君の言う通りだと思うわ」


 玲人は懸念する。

 「いや……僕はとんでもない大惨事を招く事態を隠しているような気がしてたまらないんだ。それが何なのかはわからないけど……」


 「今ある最悪な状況を上回る事態なんてあり得ないわ。勿論、これ以上の大惨事もね」


 シャノンと佐伯に何を言われようと思い込みの激しい玲人は、身震いしながら頭を抱えた。

 「……。たまたま、その “何か” が一週間後だったんじゃないかって思ってしまう。パンデミックがあろうとなかろうと地球を捨て<ノア>に行く予定だったんじゃないかって」

 

 「考えすぎよ、新藤博士……」根拠のない “何か” に恐れる玲人の手を握った。不安症の一面を持つ玲人の心を理解しているシャノンは、優しく宥める。「あなたは怯えているだけ。私達だって怖いわ」


 玲人の心の弱さが引き起こした戯言(たわごと)だろうと思った佐伯は、小さな独り言を言った。

 「……。これ以上最悪な事態なんてあり得ない、あってたまるかよ」


 「僕の考えすぎだろうか……」


 苛立ちを見せた佐伯が小声ながらに毒づく。

 「でしょうね、また恒例の」


 (漸くまともになったと思いきや、またコレかよ。ウイルス学者としては天才的な才能の持ち主だ、それは認めるけど……メンタル面が弱すぎて全く頼りにならない。ガチでイラッとする)


 佐伯の辛辣な台詞が耳に入らないほど、玲人は深く考え込む。

 「…………」


 恐怖に駆られた感情からの錯覚だといいのだが―――釈然としない。何かが引っかかる。


 とんでもない事態が勃発する前触れを感じずにはいられなかった。


 直、鎌首を擡げるような戦慄に襲われる予感がした。恐怖心が頭から消えない……


 玲人は、暫しだんまりとし、緊張を孕んだ恐怖で乾いた喉を潤した。


 これ以上の恐怖は要らないと願いながら―――





・・・・・・・・・







 乗り捨てられた自動車の放置地帯となった国道の上空を、君嶋らが搭乗した汎用ヘリコプターが飛ぶ。自動車を跳梁するレッドソウルが蔓延る都市部は、通信機関そして交通機関の全てを失っていた。


 国道沿いから少し離れた位置に疫病センターに入る並木道がある。その手前に設置された消火栓を利用し、<新型狂犬病ウイルス>に犯されたレッドソウルの侵入を防ぐ目的でアスファルトに水を撒く自衛隊の姿が見えた。


 汎用ヘリコプターが風切り音を響かせながら上空を進む。周囲360度に渡り武装した護衛の軍人が配置された疫病センターの上空に辿り着いた。厳重な警戒態勢を維持した駐車場にはヘリコプターが並び、何台ものジープ、そして一般車両が停車していた。


 白い軽自動車から幼い子供を抱きかかえた若い母親と、父親と見られる男性が車内から降り立ち、自衛隊に守られながら疫病センターへと入っていった。君嶋の部下もしくは自衛隊から疫病センターが避難場所だと聞かされた市民が自ら運転し、命からがらここまで来たのだろう。


 君嶋は再び国道に視線を戻した。十台のジープが無造作に放置された自動車の合間をすり抜け、疫病センターの方向にタイヤを走らせていた。きっと自宅に身を潜めていた民間人の搬送に携わっているジープに違いない。


 乗車している自衛隊も勿論武装しているはずだが、レッドソウルの数が半端じゃない。君嶋らが銃を構え、地上を蔓延る標的に狙いを定めた時、案の定、走行中のジープ目掛けてレッドソウルが飛び掛かっていった。


 よく見れば、鈍重なレッドソウルがどこにもいない。現時点、世の中を徘徊するレッドソウルの大半が<新型狂犬病ウイルス>に犯された罹患者である事を悟った。


 人間離れした身体能力、恐ろしく剽悍なアンデッドモンスター―――


 唯一の救いは、たった一つの弱点、恐水症であることだけ。水さえ浴びなければ最強であり、そして異変性も強い。種を増殖させる為に、これから先、更なる知能をつける可能性もあるだろう。


 最悪な敵で埋め尽くされた国道を見下ろした君嶋らは、地上を跋扈するレッドソウルに向かって機関銃を乱射させた。


 今しがたジープに襲い掛かったレッドソウルの身体から血飛沫が舞い、アスファルトに斃れていく。

 レッドソウルの血液を浴びたジープを双眼鏡で覗いてみると、ハンドルを握っている自衛隊員が君嶋に向かって親指を立てていた。


 ―――ナイス!


 軍人なりの感謝を受け取った君嶋は、口元の端に笑みを浮かべた。巷説を含めた全ての情報が錯綜している。

 そして、その中に存在する真実の情報を未だ知らされていない彼ら自衛隊。管轄は国のシークレット特殊部隊の指揮官である君嶋が握っている。

 文句の一つでも言いたいところだろうが、それでも命を懸けて闘う軍人同士の間で固い結束のようなものができていたのだ。


 君嶋は思う。


 真実を伝えるべきだろうかと―――


 上空からの攻撃を開始し間もなくして、後方からプロペラの回転音が聞こえた。君嶋が振り返る前に操縦士の安岡のヘッドフォンに音声が流れた。


 『俺だ、レッドソウルだらけだな』


 後方を見れば、守山が操縦する攻撃ヘリコプターがこちらに向かって飛んでいた。


 「よお、兄弟、生きてたか」親友の声に安堵し、悪戯な笑みを浮かべる。


 『当たり前だ、バカ野郎』口元の端に笑みを浮かべた守山は、君嶋の無線機に音声を繋げた。『君嶋指揮官、ここは俺らに任せてください』


 君嶋が無線機に口を寄せる。

 「俺ら?」


 『もうすぐ水を満たした自衛隊の大型輸送ヘリが到着します。水で一気に片付けますよ。君嶋指揮官は早く疫病センターの中へ』


 「油断するなよ。連中は知恵をつけて襲ってくるはずだ」


 『イエッサ』


 この場を守山と直やってくる自衛隊に任せた君嶋は安岡に命じた。

 「疫病センターに急げ」


 「了解」君嶋に返事し、守山に言った。「気をつけろよ」


 『お前もな。後で会おう』


 「おう」


 安岡は疫病センターの敷地内へ機体を向け、駐車場の空いている箇所へと移動させた。ここは単なる駐車場であり、ヘリポートではない。その為、それ専用のヘリパットのマークはないが、慣れた様子でアスファルトとの距離を縮めて着陸させた。


 エンジンを停止させた汎用ヘリコプターから君嶋ら一同が降り立つと、エントランス付近で警備に当たっていた部下が足早に駆け寄ってきた。


 「お疲れ様です、君嶋指揮官」


 「ご苦労さん。現在の状況を教えてくれ」


 「多くの市民が集まっています。被災地の避難所と同じ状況かと思います。そして……この惨事の事の発端の説明を求めています」一瞬間を置く。「君嶋指揮官、一つ言わせてもらってよろしいでしょうか?」


 「なんだ?」


 「今自分達が行っている救助活動は政府の指示ではありません。全ては君嶋指揮官の許。市民に全てを打ち明けるべきかと思います」


 「お前が判断することじゃない」


 「しかし……」


 「しかしもクソもない。与えられた任務遂行に集中しろ。余計なことは考えるな」


 「……。イエッサ」


 君嶋も混迷を極める状態であった。長年に渡り、政府に仕えてきた。誰もが避けて通りたがる汚い仕事を二つ返事で請け負うのが自分達の任務だった。


 そして命令外の行動を取ったのは今日が初めてだ。


だが、これ以上、国民を瞞着し続けるということは、人権蹂躙に等しいのではないだろうかと良心の呵責があった。


 <ノア>に行くにしろ、行かないにせよ……事実を伝えるべきか……それとも……


 実際に多くの国民が亡くなっている。だからこそ伝える責任はあるはずだ。当然、全ての者に知る権利がある。


 無論、上戸らは自責の念など微塵も感じないだろうが……


 大惨事の原因を作ったのは自分達軍ではない。とは言え、<ウイルス性新薬研究施設>の異変に気づくのが遅すぎたと言われれば元も子もないのだが。


 しかし、陳謝ではなく、せめてありのままを説明する。それが人としての道理ではないかと考えていた。先程から何度も同じ事を考える君嶋だったが、最善の結論に踏み切れずにいた。


 重苦しい溜息をついた君嶋は、部下を引き連れ、白い外壁のエントランスを潜り、疫病センターに足を踏み入れた。消毒液のにおいが漂う院内の右手には、誰もいないガランとした会計カウンターが広がっている。


 エントランスから真っ直ぐ歩を進め、エレベータ前で警備に当たっている武装した自衛隊にたずねた。

 「シークレット特殊部隊の君嶋だが、市民はどこにいるんだ?」


 自衛隊が答えた。

 「地下一階の隔離病棟です」


 安岡がエレベーターのボタンを押した直後、ドアが開いた。一同はエレベーターに乗り、地下一階へと降り立つ。


 開いたドアの先に、待合室に設置されたソファに座る大勢の市民の姿が見えた。そして座り切れない者に関しては、持参した寝具に包まり、床の上で休んでいた。


 千人以上の人間が敷き詰め合っているのにも関わらず閑寂な待合室には、顔色が優れない者が大半を占めている。皆、疲労困憊のようだ。それ故、喋る気にもなれないのだろう。避難所に当てた他の病院でも、疲れ果てた市民で溢れ返っているはずだ。


 君嶋らは市民の間を歩いて廊下を進む。市民は横目で一同をちらりと見るが、武装した軍人を見慣れてしまったせなのか、すぐに視線を逸らし、仮眠を取り始めた。


 それに、真実を知りたい彼らが待っているのは特殊部隊だ。君嶋ら特殊部隊も自衛隊も似たようなBDUである為、素人には見分けがつかない。今まさに自分達の目の前を通過している人物こそが特殊部隊の指揮官であることに気づけず、疲れた瞼を閉じるしかなかった。


 何となくそれに気づいていた君嶋は唇を結び、歩を進ませた。待合室を突っ切った廊下の左右には隔離病棟が並んでいる。病室のドアの隙間をふと覗くと、身体の調子が思わしくない高齢者がベッドに横になっていた。


 本来なら感染症に感染した疑いのある患者を収容する施設だが、ここに集まっている市民は皆、非感染者だ。だからドアを閉める必要もなく、誰でも行き来が可能なので全室のドアは開きっ放しになっている。その為、各病棟から子供のぐずる声が漏れていた。


 目の前の病棟からも幼い女の子の泣く声が聞こえた。子供の様子が気になった君嶋は、市民で犇めき合っている病棟に足を踏み入れた。


 若い母親に抱っこされた女の子を、ぬいぐるみを手にした若い父親が懸命に宥めている姿が目に映った。その隣に座る首からカメラをぶら下げた若い男と同年代の女も、お菓子で女の子を泣き止ませようと奮闘していた。


 安岡が気づく。

 「カメラ小僧と女性ではなく、女の子とあの夫婦、さっき駐車場に停まっていた白い軽乗用車から降りた家族じゃありませんか?」


 よく見れば安岡の言う通り、駐車場にいた夫婦だ。

 「ああ、確かに」


 君嶋は夫婦に歩み寄った。

 「泣き止まないのか?」


 女の子の父親が言う。

 「見りゃわかるだろ」


 母親に手を差し出す。

 「どら、貸してみろ」


 いちいち突っ掛かってくる父親。

 「モノじゃないだからそんな言い方ないだろ」


 強引な君嶋は、母親に抱かれた女の子の脇の下に手を入れ、持ち上げた。亡き息子も夜泣きが酷かったせいもあり、泣く子をあやすのは得意な方だ。とは言え、自分は家を空けることが殆どだった為、殆どは妻に任せっきりだった。しかし、自宅にいる時は良い父親でいたかった。だから自分なりに努力したつもりだ。

 

 「ちょっと、あんた勝手に」


 憤然とする父親を余所に、女の子は涙を拭った。女の子の両親もカメラ小僧と女性も、兵士ら一同も目をぱちくりとさせ、驚きの表情を見せた。

 

 大柄で強面な君嶋が抱っこしたなら余計に泣きそうなものだが、泣き病んでしまったのだから驚くのも無理はない。


 君嶋が女の子にたずねた。

 「名前は?」


 「夢ちゃん」おしゃまな夢は親指を折って君嶋に小さな掌を向けた。「今日は夢ちゃんの誕生日なんだよ。四歳になったの」


 「……。そうか」

 (誕生日がこんなことに……)


 母親は涙を拭い、父親が言う。

 「そうだ、せっかくの誕生日だってのによ……」


 「おじちゃん、おっきい。あたち、おっきい人、大好き」夢は、筋肉で盛り上がった君嶋の胸に顔を埋めた。「あたち、大人になったら、おじちゃんのお嫁さんになる」


 君嶋はきょとんとして軽く笑った。

 「嫁?」


 お嫁さんの意味を知ってか知らずか、夢の可愛い台詞に周囲にいた年配者の顔まで綻んだ。それとは対照的に恥ずかしい思いをした母親は赤面する。


 「この子、大きな男の人を見るといつもこうなんです。ホント、恥かしい」


 軍人嫌いの父親が君嶋に嫌味を言う。

 「でっかい毛むくじゃらのテディベアと勘違いしてんじゃね?」


 安岡が仲間とクスクスと小声で笑う。

 「ホラーかよ。随分とおっかないテディベアだな。噛み殺されそうだ」


 ぎろりと睨む君嶋。

 「なんか言ったか?」


 ビクリと身を強張らせた安岡は、必要以上に背筋を伸ばす。

 「いえ、何でもないっす」


 女の子を母親に返した君嶋に、カメラ小僧と女性が歩み寄ってきた。カメラ小僧が軽く背伸びして君嶋の耳元で囁いた。

 「あんた、自衛隊じゃないだろ? 微妙に自衛隊のとBDU違う。噂の特殊部隊だな?」


 単なるカメラ小僧にしては鋭い洞察力だ。

 「…………」


 女の子の父親がカメラ小僧の肩をグイッと引いた。

 「言うつもりか?」


 静かに頷き、「大丈夫だ。お前達の事は言わない」と返事を返してから、君嶋に言った。「話がある。ちょっと来てくれ」


 君嶋の後ろに立つ安岡たちは顔を見合わせ、警戒した。カメラ小僧の隣にいた女が君嶋の腕を引っ張り、病棟の外へと誘導する。


 通路に出ると、正面の水飲み場の窪んだ位置へと君嶋を押し込んだ。そしてカメラ小僧が安岡達に言った。

 「下っ端に用はない。このおっさんだけでいい。あんたらはすっこんでな」


 安岡が右眉を上げ、腹立たしい表情を浮かべた。

 「下っ端だと!? このクソガキが!」


 「よせ、安岡」水飲み場から顔を出した君嶋が喧嘩っ早い安岡に目を向けた後、カメラ小僧に言った。「因みに俺の名前はおっさんじゃない、君嶋だ」


 「オッケー、じゃあ君嶋さんよ、ちょっときてくれ」 

 

 横一列に幾つかの蛇口が設置されている狭い水飲み場に押し込まれた君嶋は、冷たいタイル張りの壁に軽くもたれ、胸の前で腕を組んだ。


 誰かが蛇口を閉め忘れたのか瀝瀝とした音が響いていた。それが気になった君嶋は組んだ腕を伸ばして水を止めた。


 「水は貴重だ」


 民間人にもレッドソウルとの戦術は伝わっている。君嶋の小声で発した独り言を無視し、男は語り始めた。


 「俺は稔(みのる)。ガキ扱いされたけど、童顔なだけで二十七になる。こっちは俺の妹、七穂(ななほ)だ。俺の職業は戦場のカメラマンだ。三日前まで仕事でイラクに行っていた」


 七穂が言う。

 「あたしは単なる平凡な保育士よ。お兄ちゃんみたいに危険な仕事はできないわ」


 詳しい情報を知りたいのだろう。それはわかっていた。

 「で? 用件は?」


 だが、稔は君嶋の予想とは全く異なる話をし始めた。

 「俺達市民は厚生労働大臣の話なんか信じちゃいない。マスコミの報道が正しいと思っている。だから敢えてウォーカーをレッドソウルと呼ばせてもらう。

 街中には自我を失ったレッドソウルで溢れ返っている。もし、レッドソウルの中に自我を保つ奴がいたとしたら、そいつらはモルモットにされるのか? 

 それとも自我を失ったレッドソウルの自我を取り戻す為の何らかの手段となるのか? どっちだ? 教えてくれ!」


 まるで、通常のレッドソウルを知っているような口ぶりだ。君嶋はたずねる。

 「自我を保ったレッドソウルを知っているのか?」


 「俺の質問に答えろよ」


 真実を言うまいか決めかねている為、言葉を濁した。

 「……。さあな」


 七穂が稔に言った。

 「あたし、みんなが助かる為ならモルモットになっても構わない」


 「七穂……」

 七穂の強い意志を感じた稔は意を決した。

 「イラクから帰ってきた俺と妹、そして両親と共に二日前温泉旅行に出かけたんだ。だけどレッドソウルが街中を徘徊し始めて、道路は事故の嵐だ。

 そして俺達家族も交通事故に巻き込まれた。車内から命からがら逃げ出した矢先、両親はレッドソウルに噛まれて自我を失ってしまった。

 襲い掛かってくる両親から逃げた俺達は、後で最悪の状況を知ったんだ。俺達兄妹の身体に起きた最悪の異変を―――」真剣な眼差しを君嶋に向けた。「俺の目を見てくれ」


 稔は左手の人差し指で下瞼を下に引っ張り、右手の人差し指で黒目に触れた。ススっと黒目を下にずらし始めると、その上から深紅に染まった眼球が顔を出した。


 黒いカラーコンタクトレンズでカモフラージュした深紅の目を見た君嶋は、稔と七穂が死者から蘇生を果たした通常のレッドソウルだったことを知る。


 稔が話し終えると七穂がTシャツを捲り上げ、自分の上半身を君嶋に見せた。ブラジャーに包まれた豊かな乳房の間にある盛り上がった谷間の中心に、ぽっかりと赤い穴が空いていた。空洞から向こう側が見える。そして両端にある抉れた肺も。


 「無我夢中で自我を失った両親やレッドソウルから逃げたわ。そして冷静になった時、お兄ちゃんが言ったの。あたしの胸にパイプが刺さってるって……

 びっくりしたわ。死んでるのに動けるんだもの。でもね、お兄ちゃんの目も真っ赤だったの。兄妹そろってレッドソウルになっちゃったみたい」

 七穂はポロポロと涙を零した。

 「今年のクリスマス、結婚式を挙げる予定だったの。でも、もう無理ね。ウイルスに生かされているアンデッドモンスターでしかないんだもの。それに彼とも連絡がつかない。生死すらわからないの。不安だし、彼に逢いたい。それなのに、こんなお化けみたいな身体で……自分でもどうしていいかわからない。潔く死にたかった……」


 稔は七穂を抱きしめた。

 「そんなこと言うなよ……。大丈夫だ、お兄ちゃんがついているから」


 余りにも哀れな七穂の上半身。漏洩したウイルスが一人の女性の幸せをも奪ってしまった。傷ついているのは彼らだ。自分が犯されているウイルスも知らずにいるんだ、不安で胸が張り裂けそうだろう。だからこそ、君嶋は彼らだけには<死者蘇生ウイルス>の真実を語る覚悟を決めた。


 「モルモットになることもなければ、自我を失ったレッドソウルの自我を取り戻す為の役に立つこともない」


 必死な稔。自分達の身体を蝕んだウイルスの正体をどうしても知りたい。

 「どういうことだ!? 頼む、教えてくれ!」


 君嶋は<死者蘇生ウイルス>について教えた。

 「君達は<死者蘇生ウイルス>の罹患者だ。死体に投与したなら、生前と変わらぬ姿で蘇生を叶える人工ウイルスだった。君達の姿が本来のレッドソウルの姿だ。但し、生体に感染した場合は殺人ウイルスでしかない。

 そして、今街中を蔓延っているレッドソウルは最悪な誤算……

 狂犬病ウイルスを持った犬の体内で<死者蘇生ウイルス>との改変が起き、エマージングを引き起こした。<新型狂犬病ウイルス>として―――」


 人類を破滅へと導く殺人ウイルスを生んだ玲人への怒りが込み上げた。

 「狂っていやがる! 新藤って野郎は人の命を弄ぶ最低な化学者だ! 人間じゃない!」


 稔の隣で号泣する七穂。

 「平凡ながらにも幸せだった……あたし達の人生を返して欲しい!」


 誰もが玲人への怒りを感じるのと同時に恨みを募らせるだろう。だから躊躇する気持ちが一理あった。


 「妻を蘇生させたい一心で人類が手を出してはならない研究に手を出してしまった。深すぎる愛ゆえに天才が招いた結果がこれだ……故意に殺人ウイルスを創ってしまったわけじゃない。最悪の偶然が重なり合ったんだ」

 何を言っても彼らの人生は返ってこない。言い訳にすぎない苦しい台詞を途中で切り替え、静かにたずねた。

 「さっきの夫婦もレッドソウルなのか?」


 言わないと約束した手前もあり、稔は一瞬唇を結んだ。しかし、自分達が予想していた真実からかなりのずれが生じた為、コクリと頷いた。


 「アイツらは俺達の親友だ。健(たける)と梓(あずさ)。アイツらも家族旅行中に交通事故に遭って、俺達と同じ事になった。夢が泣いていたのはカラコンがゴロゴロするから」


 涙を拭いながら七穂が言った。

 「あたしみたいな大怪我に関しては痛みは感じられないのに、小さな違和感とか掠り傷は何となく感じるのよ」


 駄々をこねて泣いているだけだと思っていた夢の涙の理由を知り、居た堪れない気持ちになった。一瞬間を置いた君嶋は、稔に目をやった。

 「君達以外に死者から<死者蘇生ウイルス>に感染した通常のレッドソウルを他に知らないか?」


 稔は目を泳がせた。

 「いや……」


 七穂が説明した。

 「あたし達がここに来たのは真実を知る為よ。あたし達同様、自我を保ったレッドソウルにも会ったけど、彼らはモルモットされることを恐れ、真実よりも逃げる道を選択したの。だからあたし達の口からは何も言えないわ。

 それに彼らに言われたの、自分達は消息を絶つから誰にも言わないと約束して欲しいって。たとえどんな真実が隠されていようとも絶対に。そう念を押されたわ。だから、ごめんなさい」


 君嶋は、秋葉原で見かけた遊直と遊介の兄弟が気になっていたのだ。彼らの安否が知りたかった。だが、二人は教えてくれそうにない。

 「もし、顔がそっくりな十代の兄弟に会ったら伝えてくれ。君達をモルモットにする気はないと」


 二人は顔を見合わせた。たぶん、あの兄弟を知っている、そんな風に思えた。

 「わかったわ。伝えておく」


 「頼んだ」


 稔が言った。

 「なあ、君嶋さん。俺達のことは……」


 「ああ。誰にも言わない。他の市民にとっては赤い目の君達も、街中で猛威を振るうレッドソウルも大差ないはずだ。カラコンは外さない方が賢明だろう」


 「ここにいてもいいのか?」


 「この場を離れれば<新型狂犬病ウイルス>の餌食になる可能性が高い。死体から<死者蘇生ウイルス>に感染した罹患者と非感染者が共存しても、感染の心配はない。だからここで大人しくしていた方がいいと思うがな」


 自分の体の醜さを気にする七穂は、俯いた。

 「化け物みたいな身体のあたしがいても迷惑じゃないの?」


 七穂のことが不憫でならない。女としての幸せと命を奪われ、挙句の果てに映画さながらのウォーカーのような体になってしまったのだから。


 「何言っている。迷惑なわけないだろ」口元に優しい笑みを作った。「俺は君が化け物だなんて思っちゃいない。さあ、行こう」

 

 疫病センターに集まった民間人に真実を伝える決心をした君嶋は、兄妹を引き連れて部下が待つ通路へと足を踏み出した。




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