第20話2050年【疫病センター3】

 遊直は空の拳銃を握り締めた。

 「そうだな。生きている可能性が少しでも残されているなら助けないとな! みんな、絶対油断するなよ」


 空の拳銃に視線を下ろした蒼井がたずねた。

 「弾入ってへんのに、何しに使うねん」


 答える遊直。

 「脅しくらいにはなるだろうし、それに素手で殴るより相手にダメージを与えられるから」

 

 「なるほど」


 数メートル歩いて乱暴な言葉が飛び交うドラックストアに辿り着いた三人は、割れたショーウィンドウから荒れ果てた店内の様子を窺った。


 案の定、物資の強奪戦が繰り広げられていた。マスクを装着して言い争う数十人の人々が、床に横たわる死体を踏みつけ、我先にと食料品を奪い合う。特にレトルト食品コーナーや、飲料コーナーは殺気立った人々でごった返していた。


 猛暑日が続く日々。いつ水道が止まるかわからない不安に駆られている住民にとって、飲み物は必要不可欠だ。それに彼らはエナジーバンドも信用していない。まるで戦場のような店内に怖気づいた三人は、恐る恐る飲料コーナーに目をやった。


 その直後、斧を担いだ前方の男が、ペットボトルに入った水をカートに放り投げた。すると、金属バットを手にした女が、男のカートの中から即座に水を奪い取った。


 逆上した男は女の頭部を斧で勝ち割り、水を奪い返し、再びカートに戻して言った。

 「俺の水を奪うとは命知らずなブスだ! だから死んだ!」


 平和だった日本とは思えない信じ難い光景だ。周囲の人々の眼も血走っており、我関せずと言わんばかりに飲料を手にしていた。


 命の危機に瀕した人々の集団心理ほど恐ろしいものはない。他人の死より、我が身の命を繋ぐ物資の方が大事になってしまったようだ。


 頭部がぱっくりと割れた女の死体を踏みつけながら飲料に手を伸ばす人々。その群れを押し退けた男の連れと見られる友達が「このブス、ここでレッドソウルになられてはマズいんじゃね!?」と声を張った。


 すると男は「頭を斬り離せばいい話だ!」と言い放ち、女の首元に斧を振り落した。


 華奢な女の首が瞬時に断裂し、頭部が撥ね飛んだ。目を見開いた状態の斬首は、人々の足元に転がっていった。が、誰一人として目もくれず、一心不乱に物資物色を続けていた。


 人々によって無意識に蹴られた斬首が恰もサッカーボールのように、こちらに転がってきた。驚いた三人は跳び退った。


 「なんなんや……」


 「警察も来ない。そして……今はここに軍もいません。その上、国を動かす指導者である政治家はどこかに雲隠れ。法律が破綻した今、手段を選ばない人間で世の中は埋め尽くされるでしょう。ですが……これが人間の性だと思うのは……」遊介の口調はどこか憂いを帯びていた。「余りにも哀しすぎます」


 「寄り添い合って生きることを選択した人達だっている。例えば俺達みたいに。そして避難所に逃げた人達みたいに」ギュッと握り拳を作った遊直が言った。「二週間の辛抱だ。二週間経てば……」


 「それはウイルスの滞在期間です。二週間後にレッドソウルが消滅するわけではありません」


 遊直は頭を抱え、落胆した。

 「どうなっちゃうんだよ!?」


 蒼井は床に倒れている頭部を失った男の死体に目をやった。間違いなくドラッグストアの制服だ。


 足蹴にドラックストアに通っていたので、殆どの店員と顔見知りの蒼井。けれども頭部を失っているの為、肝心な顔を確認できずにいたが、心の中で死を偲んだ。


 「…………」(こんな最悪な死に方で可愛そうに……そうや、麻里子ちゃん……)「店内に麻里子ちゃんもおるかも……」


 一歩足を踏み出した蒼井の方をグイッと引いた遊介。

 「待ってください」


 「なんやねん!」


 「こんな時に出勤する人なんているでしょうか? もしかして店長が職場に出勤したのは昨日なのではありませんか?」


 遊介の台詞に一考する蒼井。しかし、何も思い出せない。

 「わからへん……」


 「精神的ショックが引き起こした一時的な記憶の欠落でしょう。だとしたら麻里子さんはいない可能性が高いですよ」


 それならそれに越したことはない。きっと避難所に避難しているはずだと、麻里子の無事を信じたかった。

 「はよ、カラコンゲットせえへんと。俺達も避難所に急ぐんや」


 「はい」


 遊直が言った。

 「たぶん、俺達は飲まず食わずでも大丈夫なはずだ。だってそもそも死んでるんだから」


 「せやな。口寂しいけどな」


 「店内に入ります。兄ちゃん、イミテーションの拳銃を構えてください。恰も弾が入っているように装ってくださいよ」


 弾が込められていなければイミテーションと大差ない。カラーコンタクトレンズはリーズナブルな価格のコスメコーナーの一角に陳列されている。


 その場所は―――今しがた女の首に斧を振り落した男がいる飲料コーナーの手前だ。


 拳銃を構えた遊直を先頭に店内に足を踏み入れた三人。蒼井は出入り口に展示されているサングラスを手に取った。勿論、カモフラージュの為に。


 殺気立った連中に深紅の双眸を見られては、それこそ命取りになる。レッドソウルの証である色には敏感なはずだ。慎重にならねばと肝に銘じてサングラスをかけた。


 食料品に群がる人々を押し退け、コスメコーナーに辿り着いた。度数なしのお洒落カラーコンタクトレンズの黒が収まった箱に遊介が手を伸ばすと、同じ商品に手を伸ばしてきた男がいた。


 それは奇妙な服装の男だった。額には天冠。それに白装束。死人の格好なのに、何故かサングラスをかけていた。そして、その後ろには、男とお揃いのサングラスをかけた茶髪のギャルが一人。どう見てもミスマッチなペア。


 顔を強張らせた蒼井。

 「なんや、お前ら気色悪い……」


 遊介が言った。

 「死体コスプレなら秋葉原でどうぞ。ってか、全然流行ってませんけどね」


 拳銃を男に突きつけた遊直。

 「その手をカラコンの箱からどかないと撃つぜ!」

 

 男は両腕を左右に伸ばし、女の前に立ちはだかった。

 「亜美ちゃんを傷つけたら許さないぞ!」


 怖がる亜美は樹の背後に隠れた。

 「樹君」


 男は昨日轢死した樹だ。女は渋谷でレットソウル化した亜美だった。だが、遊直らは互いにレッドソウルである事に気づいていない。そんな時、遊介がピンときた。


 「兄ちゃん、ちょっと借ります」拳銃を遊直の手から取った遊介は、樹と亜美に拳銃を突きつけ、鎌をかけた。「どこを撃ち抜いて欲しいですか? 僕らはあなたを殺すことに何の抵抗もない冷酷無慈悲なトリオですから。そ~だ、頭にしましょう。即死です」


 遊直と蒼井は顔を見合わせ、同じ事を考える。

 「…………」

 (弾、入ってねぇし)

 

 おっかなびっくりの樹は「あ、頭以外……お願いします」と言ってきた。


 「ふ~ん、やっぱりですか。なるほど、頭以外は不死身ですよね」


 納得した遊介は、素早く樹のサングラスに手をやり、軽く下に下げた。すると思った通り深紅の双眸が見えたので、名刺代わりに自分の双眸もチラリと見せてあげた。


 「えぇ!?」驚きの声を上げた樹。「マジかよ」


 「はい。僕ら全員、そんなところです」


 蒼井が言った。

 「なんや、お仲間だったんかい」


 大阪弁が移ってしまった遊直。

 「ホンマ、吃驚や!」


 「イントネーションがちゃうで」


 亜美が言った。

 「健さん達以外にも、あたし達と同じ状態の人がいるなんて……」


 遊介がたずねた。

 「健さん?」


 「今朝方あたし達と同じ状態の家族三人に出会ったの」周囲の人々に会話を聞かれては困るので、自分達がレッドソウルである事を伏せながら説明する。「小さな女の子を連れていたけど」


 「避難所に行ったのでしょうか?」


 「さあ、わかんない」首を傾げた。「だって、まだその時は避難指示が出てなかったもの。一緒に行動するかって聞かれたけど、何となく断っちゃって」


 肩を落す遊介。

 「そっか……」


 「電話番号を交換したんだ。でもね、残念ながら全然繋がらなくて……。さっきも電話してみたんだけど、やっぱり繋がらなかった。きっと通信機関が麻痺しちゃったのね」


 「はぁ……」重苦しい溜息をつく。「ですよねぇ」


 「仕方ないじゃん。早くカラコンゲットして……」と言った後、遊直は間を置き、周囲を見回す。「店長の言うように口寂しいからお菓子くらい欲しいよな。飲料とカップ麺とかは怖そうな人達が群がってるから近寄りたくないし」


 「それよりも懐中電灯とかサバイバル用品をかき集めた方がよさそうです」


 蒼井が言った。

 「バックヤードに行けばもっといろいろあるかもしれへん」


 遊介はリュックサックを背から下ろし、カラーコンタクトレンズを放り込みながら返事した。

 「そうかもしれませんね」


 一同は店内の奥にあるバックヤードへと続く扉を目指して走った。その時、カップ麺が積み上げられた左手の陳列棚にいた数十人の人々の内 一人の男が空気中に蔓延した<死者蘇生ウイルス>に感染して苦悶し出した。


 この場にいる殆どの者達が武器を手にしている。人々は男がレッドソウルに変貌する前に、手にしていた武器で頭部を強打し始めた。だが、男は斃れることなく、頭部を流血させた状態で起き上がり、自分を攻撃してきた人々に猛威を振るった。


 悲鳴が飛び交う陳列棚の横を通過する一同。早く事を済まさねば、ここにいる人々は次々とレッドソウルと化すだろう。今まで空気感染を逃れていた事自体が奇跡に近いのだから、と比較的冷静な遊介は思った。


 扉の正面に辿り着いた蒼井は、軽く押すだけで開く扉を両手で弾き飛ばした。蒼井に続き、バックヤードへと靴底を滑らせた一同は、物資を手に入れようと期待していた。


 それなのに……


 残念ながらストックされた商品は既に人々によって強奪された後であり、まるで台風が去った後のように荒らされていた。


 唇を結んで肩を落し、がっかりした遊介。

 「やはりですか……。僕たちの考えは甘かったようです」

 

 「手ぶらで避難所まで行くのは不安だよな」樹が言う。「せめて懐中電灯くらい欲しいよな」


 「最悪や」息を整える蒼井の耳に啜り泣く声が聞こえた。「みんな、ちょっと静かに」口元に人差し指を添えて強調する。「耳を澄ましてみてくれや。泣き声が聞こえへんか?」


 一同は耳を澄ました。バックヤード内の奥の突き当りに見えるドアの方向から、確かに泣き声が聞こえる。それも女性のようだ。


 そのドアの手前には、男子更衣室と女子更衣室と書かれたプレートが施されたドアが二つある。普通の流れで考えれば、奥の部屋は社員の休憩室だろう。


 遊介が言った。

 「もしかしたら騒動が始まってからずっと隠れていた店員さんかもしれませんよ」


 「そうかもしれへんな。行って確かめんと……麻里子ちゃんかもしれへんし」


 一同は休憩室に歩を進めた。先頭を行く蒼井は、休憩室のドアの取っ手を回した。やはり、室内は休憩室だった。


 八畳スペースのこじんまりとした休憩室に置かれたデスクの下から泣き声が聞こえたので、蒼井がそちらへと目線を下ろした。


 そこには膝を抱えて泣く麻里子の姿があった。そして、驚いたことに彼女の双眸も深紅に染まっていたのだ。


 驚愕の光景に息を呑んだ蒼井は、レッドソウル化した麻里子の服装に目をやった。


 白い半そでのブラウスに、紺色のベストと同系色のツインのタイトスカート。いつもの制服だ。


 遊介曰く、こんな緊急時に出勤する者などいないはず……。だとすれば、麻里子は昨日からこの場にいたという事になる。


 「麻里子ちゃん! 俺や! 蒼井や!」サングラスを外し、エプロンの胸元に引っ掛けた。「ずっと隠れていたんか?」


 何度も頷きながら安堵の涙を涙を流す麻里子は、デスクの下から這い出てきた。よく見てみれば、腹部に包丁が刺さっていた。


 「蒼井店長……あたし……あたし」


 驚いた蒼井は床に膝をつき、麻里子を支えた。

 「大丈夫か! 何があったんや!?」


 「突然押し寄せてきた客に刺されたの。その後一時的に気を失って、意識が回復した時には店内はめちゃくちゃよ。怖くなったあたしは休憩室に逃げ込んだの」


 「なんやて? 酷い事する奴がおるもんやな」


 亜美が言った。

 「そのお腹の包丁、抜いた方がいいんじゃない?」


 「でも何だか怖くて……抜くの痛くないかな?」


 「大丈夫だよ、たぶん。抜いても死なないし……てゆーか、もう死んでるけど。怖い気持ちはわかるよ。でもさ、ずっとそこに刺さったままじゃ邪魔そうだし、ゾンビっぽい……」つまりグロイと言いたい。


 「俺が抜いてあげるから、目を瞑っていたらええ」


 「うん……」


 麻里子は目を瞑り、蒼井にしがみついた。麻里子を胸に抱けたらと、何度もこんなシチュエーションを想像した。


 しかし、皮肉にも最悪な状況下でそれが叶うことになってしまい、嬉しさなど微塵も感じなかった。それどころか、好きな女性が傷つく姿に、哀しい気持ちが込み上げる。


 蒼井は麻里子の腹部に刺さった包丁をそっと抜いた。


 身体は動く。だが、実質上……死んでいる。死後二十四時間以上経過した麻里子の腹部から勢いよく血が噴き出すことはなかった。蒼井は、血が付着した包丁をデニムの腰部分に押し込んだ。勿論、武器にする為に。


 「抜いたで。もう大丈夫や」


 「ありがとう……」


 蒼井を見上げる麻里子の瞳は生前と変わらぬ可愛らしい形だが、眼球の色はレッドソウル特有だ。顔色も若干土気色を帯びており、青白い生気の抜けた色をしている。そんな麻里子の冷たい頬を撫でて蒼井は言った。


 「麻里子ちゃん、よく聞いてくれな。俺達は避難所に向かおうと思う。民間人に悟られんように黒いカラコンをせなあかん」


 「わかったわ」


 遊介はリュックサックの中からカラーコンタクトレンズを出し、箱を開封して一同に渡した。

 「毎日のケアとしてコンタクトを取り外した後は、洗浄するべきなんでしょうけど、ぶっちゃけ死体の僕達にはその必要がありません。決して外さないように」


 一同はデスクの上に置かれた卓上鏡を見ながらカラーコンタクトレンズを装着した。カラーコンタクトレンズを始めて装着する男性陣は、互いの顔を見ながら目をぱちくりさせた。


 「なんやろ、目がデカくなった気がするわ」


 麻里子が教えた。

 「目を大きく見せる為に通常の眼球より大きく作られているの。これでアイメイクすると、ぱっちりアイズの出来上がりよ」


 「へー、女の化粧は凄いんやなぁ」


 「ねえ、避難所に行くなら彼の……」麻里子は樹に目をやる。「白装束は奇妙じゃない? 更衣室に社員の私服があるはずだから着替えた方がいいかも」


 歩を進めながら頷く蒼井。

 「確かに奇妙や」


 樹が言った。

 「仕方ないじゃん。葬式だったんだからさぁ」


 「これから行動を共にするんやし、取敢えず、みんな、自己紹介しようや。俺はここの地下街でお好み焼き屋を経営しとった店長の蒼井や」


 「あたしは麻里子よ」


 「俺は遊直、で俺にそっくりなこいつは」遊直は遊介を指す。「弟の遊介」


 「俺は樹」亜美を自分に寄せた。「こっちは亜美ちゃん」


 遊介は「物資物色失敗です。ゲームソフト捨てなきゃよかったですよ」と小さな独り言を言ってデスクの上に上がっていた懐中電灯と卓上鏡をリュックサックへと放り込んだ。「せめてこれだけでも」


 「遊介、サングラスもしまっておこう」


 サングラスは秋葉原の路上で死んでいた女の子がかけていたものだ。遊介は感謝の念を籠め、リュックサックへと収めた。

 「そうですね、僕たちを助けてくれましたから」


 「行くで」


 全員無事で避難所まで辿り着きたい! と責任感に駆られた年長者の蒼井は、休憩室のドアを開けてバックヤードに顔を出す。店内で暴れるレッドソウルの呻き声と人々の悲鳴が響いていたが、幸い通路には人っ子一人いなかった。


 レッドソウルから逃げ惑う非感染者は、逃げ道がないと思われるバックヤードより、店内の外に出たいはずだ。その為、出入り口へと殺到しているだろうと読んだ。


 だとすれば……自分達のようにドミノ倒しで絶命する人達もいるかもしれないと、遊介と遊直そして亜美が同時に思った。


 だって、自分達も同じ死に方をしているのだから―――


 だが、状況が少し異なる。広い街には逃げ場があった。けれども、この狭いドラックストアには逃げ場がない。


 地下街共に、ここは密集した空間だ。自我を失ったレッドソウルの餌食なってしまう可能性の方が高い。自我を保った状態でレッドソウル化した自分達は、ついていたのかもしれないと考えを巡らせた。


 休憩室からバックヤード内に足を踏み出した一同は、狭い通路に歩を進めた。まず手始めに手前に位置する男子更衣室を覗いてみる。ここにもレッドソウルはいなかった。


 しかし休憩室とは打って変わり、かなり荒らされていた。その為、殆どのロッカーの扉は開いた状態だった。また、鍵が掛かっていた箇所は、無理矢理 工具でこじ開けられた痕が見られた。


 それから正面の壁上部に取りつけられた小さな曇り硝子は割られ、床にガラス片が散乱していた。空気の入れ替えに利用する程度の大きさの窓だ。たぶん窃盗目的で侵入した者が出入り口に利用したのだろう。


 更衣室に足を踏み入れた一同は、衣服も盗まれているかもしれないと諦めながらロッカーを覗いてみた。扉が破壊された内部には、着古してヨレヨレになった衣服が残されていた。他のロッカーにも似たような状態の衣服がハンガーに掛かっていたのだった。


 どうやら更衣室を荒らした者の目的は金品だったらしい。安っぽい品物には目もくれなかったようだ。この最悪な状況に金品は不要と考える一同。衣服調達が目的だった為、好都合だった。


 樹は早速ロッカーに手を伸ばした。白装束の下に下着を身につけていないので、麻里子と亜美は気を遣い背を向けた。


 「ノーパンでジーンズ穿くの初めてだよ」と独り言を呟いた樹は、素早くTシャツとデニム地のハーフパンツに着替えた。

 丁度、棚卸時に使ったと見られるスニーカーも入っていたので、さっと足を通して麻里子に目をやった。

 「麻里子さん、包丁が刺さっていた箇所が不自然に破けているから、これ着なよ」と振り向いた麻里子に紳士物のパーカーを放り投げた。


 「ありがとう」パーカーを受け取り、羽織った麻里子。やはり紳士物なだけあって少し大きい。

 

 死体の中に埋もれて身を隠していた蒼井は、衣服から発せられる腐敗臭が気になっていた。自分のロッカーの中に入っていたTシャツを着て、スウェットパンツに穿き替えた。

 「洋服についた殆どの血は俺のもんやないしな。そう考えると気味悪くてしゃーないわ」


 遊介が蒼井に言う。

 「そう仰らずに。死者の皆さんのお蔭で命拾いしたんですから」


 「なんや、偉い大人びたこと言うやん自分」口元に笑みを浮かべた。「いっちょまえになぁ」


 「……。いっちょまえって……一応、来年は高校生になりますからね。中坊は今年で卒業です。

 とは言え、平和な世の中に戻ってくれない限り、僕達の学校生活もありませんが」


 「……。大丈夫や、きっとどうにかなるさかい」


 「学校生活より……ここからどうやって出る? 今頃、店内は狂ったレッドソウルだらけだよ」


 と言いいながら遊直は、壁上部の割られた小さな窓硝子に手を伸ばした。身長162センチの小柄な遊直の頭部から15センチほど上部に、窓硝子の冊子下部が位置する。この場に侵入した者は細身で長身だったはず。


 例え複数犯であったとしても、出入りに使用する脚立 もしくは仲間を持ち上げる必要がある。それにはアンカー的な役割を買って出る者が必要だ。だが、その役割を熟すにはかなりの脚力を要するだろう。


 樹が言った。

 「蒼井さんが最初に地下街の通路に出るんだ。その後、女子。突然女子を通路に出しては、万が一レッドソウルの襲撃に遭った時危険だし。でもって、俺は最後に出る」


 「いや、俺が最後でいいで」


 脚力には自信はないが、この中で一番長身の蒼井。どう見ても樹は170センチ前後だ。この窓を越えて通路に出るには難しいと言える。だから自分が適任だと感じた。


 「大丈夫」微笑む樹。「俺、陸上部で棒高跳び専門だから。この程度の高さなら棒がなくてもぜんぜんイケる」


 とは言われても不安な蒼井。

 「大丈夫かいな……」


 「うん。大丈夫だよ」


 亜美は樹の手を握り、身体を密着させた。

 「樹君、超かっこいい」


 照れ笑いする樹。

 「そ、そんなことないよ」


 その時、更衣室のドアの向こうから呻き声と足音が聞こえた。遂にバックヤードの通路にレッドソウルが侵入したようだ。


 「つまり、残る餌食は僕達だけってことですね」遊介が言った。「早く逃げないとヤバいですよ。僕達が既に罹患者だからと言って、このウイルスの様々なメカニズムがわからない以上、噛まれるのは危険です」


 自我を失って暴れ出す要因は、生体から感染した場合と死体から感染した場合の差だ。だが、彼らは<死者蘇生ウイルス>について詳しい情報を知らない。


 「そうやな。それにあいつらに噛まれたら五体満足じゃいられないで。腕の二三本はなくなるやろ、絶対」


 遊直が言った。

 「どっちにしろ危険だよ。こんなところで話し込んでいる暇はない。早くここから脱出しよう!」


 その時、更衣室内のドアの取っ手が激しく左右に動いた。ガチャガチャと揺さぶられる壊れそうな取っ手の音が、一同に緊張感と恐怖を与えた。取っ手も木製のドアも、急がねばもってくれそうにない。


 刻一刻を争う状況。蒼井は、窓枠内部に収まった割れた硝子で怪我をしないように、慎重且つ素早く窓を全開にし、地下街の通路に身を乗り出した。


 蒼井の下半身を持ち上げた男性陣が声を合わせる。

 「せーの」


 首を巡らせて通路の様子を確認した蒼井。


 雑貨屋が建ち並ぶ通りは、ドラックストアの正面玄関付近と同様に悲惨な状態の死体が転がっていた。特に身体の一部が分離してしまった死体が多くを占めている。


 やはり……襲撃されたなら五体満足ではいられない。


 が、不幸中の幸いが一つ。目の前に地上に続く階段があったことだ。


 路上に放置された自動車のドライバーの大半は、レッドソウル化してしまったはずだ。それ故、鍵はつきっ放しのはずである。


 地上に出て即行、自動車に乗ってエンジンを掛けた自分は、ハンドルを握って避難所に急ぐ―――


 頭の中で段取りを組むが、この状況で予定通り事が運ぶのだろうかと内心不安でいっぱいだった。


 「無事にみんなで辿り着かんとな……」一瞬、唇を結んで覚悟を決めてから合図した。「レッドソウルはおらへん! 今や!」


 「おう!」


 掛け声と一緒にグイッと持ち上げられた蒼井は、反動をつけて通路に降り立った。


 「よっしゃ! 次、はよう来い! レッドソウルがドアを壊さんうちに!」


 続いて、蒼井の声を合図に亜美が冊子下部に手を掛けた。一同の中で最も小柄で華奢な亜美は、自分の身体を持ち上げられそうにない。


 「俺がやるよ」と樹が亜美の両脚を抱えて持ち上げた。


 レッドソウルの群れが押し寄せるドアの向こうに注意を払いながら遊直が言った。

 「バカか! こんな時に彼氏風吹かせてんじゃねぇよ」


 「そんなんじゃないから! てか、まだ付き合ってないし! 亜美ちゃんは軽いから言ってるんだよ」


 「どうでもいいですよ、そんなこと! 早くしてください!」


 樹に持ち上げられた亜美が通路に降り立った直後、焦燥に駆られた遊介は、麻里子の腕を引っ張った。


 「さあ、急いでください!」


 「う、うん」


 比較的運動神経がいい麻里子は反動をつけて身を乗り出す。三人は麻里子の足元を持ち上げた。蒼井に麻腕を引かれた麻里子は通路に降り立った。


 その瞬間、視界に広がった死体の絨毯に驚き、吐き気を催して咽返る。苦しそうに咳き込む声が更衣室で待機する三人の耳にも届いた。


 麻里子以外の一同は、ある程度死体を見慣れている。しかし、ずっと休憩室に隠れていた麻里子が地下街に広がる惨烈な状況を知るはずもなく、今初めてそれを目にし、トラウマになるくらい大きな衝撃を受けてしまう。


 双眸に涙を溜めた。

 「酷い……こんな事が現実に……」


 「大丈夫かいな」


 「ごめんなさい……あたし……」


 麻里子の背中をさすってあげた。

 「しゃあないわ。俺も吐きそうになったしな」


 「ありがとう」


 麻里子と蒼井の遣り取りが更衣室に聞こえた。


 通路に横たわる死体は見るに堪えがたいものがある。実際、遊直達も何度もショックを受けた。勿論、樹や亜美も。


 「はよう、次」蒼井が三人に声を張った。「急ぎや!」


 「次はどっちだ!?」樹が遊直と遊介を見た。「早くして」


 弟に先を譲る遊直。

 「遊介だ」


 「兄ちゃん、先に通路で待ってます」


 「おう」


 遊直と樹は遊介を通路側に出した後、樹が言った。

 「おデブがいなくてよかった」


 「ホントだな。みんな痩せ形だからこの窓から抜けられる」


 冊子に手を伸ばした遊直は、反動をつけてジャンプした。タイミングよく樹が遊直を持ち上げた瞬間、廊下に群れを成すレッドソウルがドアに体当たりしてきた。


 大きく軋むドアに焦った二人。


 特に樹は動揺の色を隠しきれなかった。遊直の脚を抱えようとするも震えた手が言うことを聞かない。


 通路側にいる蒼井が遊直の上半身を引っ張り上げた。


 なんとか遊直が通路に降り立った直後―――しのったドアが破壊され―――レッドソウルが一斉に更衣室に押し寄せてきたのだ。


 バックヤードの通路に犇めく群れ。その数おおよそ百匹以上。


 店内の人々は生体から感染した為に鈍重だが、狭い更衣室に機敏な動きは必要ない。


 何故なら……数メートル歩いて腕を伸ばせば、樹を捕らえられるからだ。


 「うわぁぁぁぁぁぁぁ! 来るなぁぁぁぁぁ!」


 樹の悲鳴に驚いた一同。亜美が声を上げた。

 「樹君!」


 窓から更衣室の様子を窺った蒼井は、最悪な状況に目を見開いた。だが、通路側にいる自分達にはどうすることもできない。


 焦燥感に駆られた蒼井。

 「樹! はよう!」


 樹を心配して飛び跳ねる小柄な亜美。身長が足りなくて中の様子を見れなくとも、レッドソウルが更衣室に侵入してきたのだろうと悟ることはできた。


 「大丈夫!?」大声を上げた。「樹君!」


 気が気がじゃない一同。遊直は、蒼井の腰に収めてあった包丁を抜いた。

 「俺を肩車して! 樹に群がるレッドソウルを刺して時間を稼ぐ!」


 牽制くらいにはなるだろうと遊直なりに考えたのだ。即座に屈んだ蒼井は、遊直を肩に乗せた。そして樹を引っ張る為に遊介が亜美を肩に乗せた。


 亜美が「今助けるから!」と声を張ると、その後に続いて麻里子が声を張った。「樹君! 頑張るのよ!」


 樹は窓の冊子に手を掛けた。普段の心理状態ではいられない恐怖に駆られ、優れた運動神経を発揮できずに焦りばかりが募る。


 懸命に飛び跳ねる樹。ガクガクと震える足元に群がり始めたレッドソウルが腕を伸ばしてきた。


 亜美は必死に樹の手を引っ張り、遊直は包丁をレッドソウルの腕に突き刺して牽制と攻撃を同時に仕掛けた。


 歯を食いしばった樹は力を振り絞る。亜美と麻里子が樹の手を思いっ切り引いた。

 「頑張って!」


 包丁を振り回して攻撃し続ける遊直。

 「早く引き上げて!」


 樹の上半身が通路に乗り出した。もう少しでこちら側に引っ張れると確信した時、腕を伸ばす数十匹のレッドソウルが樹の脚に爪を立ててきた。レッドソウルの爪が樹の皮膚を傷つけていく。


 「助けてぇ!」樹が脚をじたばたさせ、レッドソウルの顔面を蹴ろうとする。「やめろー! 離せよ! クソー!」


 蒼井は遊直を支える手を一時的に離し、渾身の力を込めて樹を引っ張った。蒼井の咄嗟の判断により、漸く一同が立つ通路に投げ出された樹。


 遊介の肩から降りた亜美が樹に駆け寄った。皮膚が捲れ上がった痛々しい状態の脚に手を振れた。


 「大丈夫? 樹君」


 涙の目で痛みを堪える樹。

 「う、うん……」


 重体もしくは命を奪った傷に関しては無痛覚の状態だ。だからこそ、刺殺された麻里子は平然としていられる。それは疫病センターにいた七穂も同様だ。


 けれども、それとは対照的に擦り傷や違和感に関しては、生体同様に痛覚を含めた感覚がある。


 樹は精神的なショックもあってか、かなり痛がっている様子だった。なかなか起き上がれそうにない。


 蒼井は肩から遊直を下ろし、樹を抱き上げた。無事に樹を救えた安堵感から軽い冗談を言う。


 「男を胸に抱くのは趣味やないし、落ち着くまでやで」


 「すいません、ありがとうございます」


 しかし、安堵する一同とは対照的に、遊介は人差し指を立て強調しながら、脅かすような台詞を口にした。


 「今まで何人もの人達がウイルスに感染していく様子を見てきました。罹患者となり暴れ出すのも個人よって多少の時間差があるようです。

 それから素早いゾンビに噛まれた場合はその位置によっても、ゾンビになるまでに時間差が生じる事を発見したんです。

 咬創が頭部に近い方が発症が早いようです。その辺は若干狂犬病に似ているかもしれません。

 とは言え、僕達のように死んでからゾンビになった場合と、生きてたまま突然ゾンビになった場合にも大差があるようですが……そもそも、それらが同じウイルスなのか、それとも……別物なのか僕らに知る術はありませんから……報道機関やネットも停止してしまいましたしね」

 早口で説明し、トイレに目をやった。

 「と言うわけで、トイレに急ぎましょう!」


 蒼井が首を傾げた。

 「トイレ? なんでトイレやねん」


 疑問に答える遊介。

「患部を洗うんです。自我を失ったレッドソウルに掴まれて負傷したのに、そのままにしておくのは気持ち悪いですしね」


 狂犬病ではっとした遊直は、包丁片手に階段の下にある男子トイレに駆けた。

 「なるほどね、じゃあ急がないと」


 遊直と遊介に急かされた蒼井達は男子トイレに急いだ。


 「ほな、急ぎまひょ」樹に目をやる。「大丈夫か?」


 「痛いですけど、なんとか……」不安げな目を向ける樹。「俺、感染してないよね?」 


 「心配せんでええ。てか、俺らは既にゾンビの……いやいや、レッドソウルの罹患者や」苦笑いする。「但し、レッドソウルにも種類があるようやけどな。

遊介君曰く、奴らの爪に引っかかれたのにそのままにしておくのも不衛生やしな。今の状態で厨房に立ったら保健所の職員にすっ飛ばされるで」


 トイレのドア付近で遊介が言った。

 「安心してください。突然自我を失ったりはしないと思います。店長も仰られたように、僕らはとっくにレッドソウルです。飽く迄念の為です」


 石鹸で患部を洗う事により細菌やウイルスは死滅する。狂犬病に感染している可能性のある犬に噛まれた場合、患部を直ちに石鹸で洗って洗浄した方がよい。


 勿論、その後は医療機関へと急ぎ、ワクチンを接種する必要がある。患部を洗浄する行為は飽く迄も応急処置であり、病院いらずというわけにはいかない。


 しかし、この<死者蘇生ウイルス>は感染威力も強い。故に感染後は凄まじい速さで脳内細胞に辿り着き、感染者は罹患者となる。


 その為、通常のウイルス対策は無意味であり、常識も一切通用しない。寧ろ、遊介と遊直が記憶しているゾンビ対策マニュアルの方が役に立つかもしれない。


 細かい情報を知らない自分達にも確実に言えるのは、このパンデミックを引き起こしたウイルスが人をゾンビに変えてしまうという事だろう。


 今まで架空の存在だと思われていたゾンビウイルス。だからこそ常識など通用しない……


 ウォーカーマニアでもありウイルスマニアでもある遊介は、それを理解していた。それでも、患部を洗った方がいいと考えトイレに急いだのだ。


 包丁を構えた遊直は、慎重にトイレのドアを開けた。そこにレッドソウルはおらず、死体もなかった。


 公衆トイレ独特の排泄物による汚臭は漂うが、死臭に比べたら我慢できる範囲だ。死臭に慣れてきたとは言え、生肉が腐敗する悪臭と大差ない。正直きついものがある。


 遊介は、白い陶器の洗面台に設置された液状石鹸に腕を伸ばした。

 「脚を洗面台に乗せてください」


 「うん」蒼井の腕からタイル張りの床に下りた樹は、洗面台に右脚を乗せた。「傷口に滲みないかな」


 樹の横に立った亜美が身体を支えてくれた。

 「頑張って、樹君」


 「ありがとう、亜美ちゃん」


 「見ててムカつくんで、イチャつくのやめてもらえないでしょうか」


 遊介の台詞に赤面したのかもしれないが、土気色なので見分けがつかない。

 「イチャついてなんかいないし! なんなんだよ、さっきから」


 液状石鹸を手に垂らした遊介は、若干荒っぽく樹の脛をごしごしと洗い始めた。

 「これでいいでしょう」


 「もう少し優しくできないのかよ?」


 「できませんね。大袈裟なんじゃないですか?」


 石鹸の泡を洗い流そうとした遊介。最近には珍しくセンサー付きの蛇口ではなかった。「随分と古典的な」と小さな独り言を言いながら蛇口を捻った。


 が……肝心な水が出てこない。


 遊直が言った。

 「遂に水道が止まったのか」


 「すばしっこいレッドソウルに襲われた時、水に拘らなくてよかったですね。全員死んでましたよ。きっとあの時も水道は止まっていたでしょうから」


 絶命した時間帯の理由で、麻里子共々剽悍なレッドソウルの対処法を知らない蒼井が眉を顰めた。

 「どういうことや?」


 遊直は説明する。

 「すばしっこいレッドソウルは水で対処できるんだ。ホント、まるで狂犬病だよ。だから俺達も道中でのバトルで水を使ったりしたんだ」


 「そんな方法が……だったらあの時水を使えばよかったやん。もしかしたら水道が止まってなかったかもしれへんやろ?」


 「周囲の店は閉まっていたし、どこにあるのかわからない蛇口まで誰が行くんだよ。その短い足で死体を飛び越えて、走って、レッドソウルを避けて。

 そこに行きつくまでに死んでしまうだろ? ちょっとは考えてくれよな、俺達より長く生きているアラサーなんだから」


 ふて腐れた蒼井。

 「短くて悪かったな。てか、遊直より長いで」


 遊直が説明している間に、樹の左脚を洗った遊介は、個室トイレに向かった。水洗トイレのタンクの蓋を開け、そこに張った水を掬い、樹の脚の石鹸泡を洗い流した。

 

 「よし、これで安心です。奴らの爪が刺さったと思うだけで気分がよくありませんからね」


 樹が言う。

 「ありがとな、遊介」


 「そうですよ、感謝してくださいね」手についた水滴を振り落した。「さて、急いで避難所へと向かいましょう」


 樹がたずねた。

 「ところで、避難所はどの辺にあるんや?」


 「それが僕達にもよくわからないんです。自動車を走らせれば避難所に向かう人達や、軍のジープと擦れ違うはず。彼らに訊くのが一番いいかと思います。ひょっとしたら同乗できる可能性もありますしね」


 同乗できればそれに越したことはないが人数が多い。だが、自衛隊や大きなワゴン車なら大丈夫だろう。

 「それもそうやな」


 「それにしても、何故……すばしっこい部類と通常のゾンビのようにのろくさい部類がいるのでしょうね」


 「さあ? 俺に訊かれてもわからへんよ」


 <新型狂犬病ウイルス>を知らない一同。今起きている惨事に多くの疑問を抱えるが、それらを考えるより、まずは避難所に急ぎたい。それから数々の謎をみんなで列挙したいと考えていた遊介は、通路へと歩を向けた。


「地下街の電力もいつまでもつかわかりません。これから先、暗闇に満ちた世界で僕らは生き抜かねばなりません」

 

 闇夜を導く街頭やネオンの光。全国規模の停電に陥った今、それらに頼ることはできないのだ。


 崩壊した文明社会―――


 これほどまで不便なものなのかと改めて痛感し、リュックサックから懐中電灯を取り出して前方を照らした。


 麻里子が顔を強張らせた。

 「怖いこと言わないでよ」


 「麻里子さん、実際、遊介が言う通りだよ。俺が先に行く」包丁を手にした遊直が先頭に立ち、トイレのドアを開けた。レッドソウルがいないことを確認し、通路に出る。「着いてきて」


 通路に歩を進ませる一同は、階段に辿り着いた。遊直がコンクリート造りの階段の先に続く地上に目をやった直後、蒸し暑い地下街に夜風が流れ込んだ。


 但し、爽やかさは一切感じられない。何故なら、地下街に負けじと死臭を帯びていたからである。


 そして、その生温い風が横ぎったのと同時に、走行する自動車のエンジン音が聞こえた。


 非感染者の動きを感じた遊直。

 「俺達も行こう。くれぐれも油断しないこと」


 階段に足を乗せたその時、発狂に近い女の悲鳴が地下街に響いた。間違いなく地上からだ。


 非感染者がいるなら、そこに蔓延るレッドソウルの餌食になる人々もいるということだ。


 怖くて躊躇する気持ちはある。それでも避難所に行きたい。安心できる室内でゆっくり休みたい。正直、疲れたのだ。


 頭部さえ無事なら不死身である彼らの体力は無限だが、心は生前と変わらない。身体の疲労ではなく、心労が大きかった。


 だが、今後も昨日同様に沢山の悲鳴を聞くだろうし、怖気づいていられない。


 慎重に足を動かした遊直の双眸に、月明かりに照らされて、たゆたう影が映り込んだ。


 「グルルルル……」


 遊直は息を呑んだ。

 「お出ましだ」


 遊介が言う。

 「素早いタイプでしょうか? それとものろいタイプでしょか?」


 「……。わかんない。のろくさいレッドソウルだといいけど……」


 蒼井の後ろに麻里子が隠れ、樹の後ろに亜美が隠れた。

 「樹、好きな女を守りたいなら、攻撃に備えて構えるんやで」


 「わかってる。蒼井さん、台詞はカッコいいけど、足が震えてるよ」


 「気のせいや」


 口周りを血塗れにしたレッドソウルが歩を進ませてきた。おそらく、今しがた聞こえた女悲鳴の原因を作ったレッドソウルだ。


 深紅の双眸を光らせ、階段の下の一同を凝視している。その鋭い目をじっと見据える洞察力に長けた遊介は、レッドソウルが食肉目である事に気づいた。


 自分達はイヌ科やネコ科の動物のように暗闇でも何不自由なく見える眼を持ち合わせていない。レッドソウルになってから感じた眼の変化は、視力が上がったことくらいだ。


 何故、悍ましいアンデッドモンスターでしかない奴らが、自分達より優れた能力を持つのか不思議でならなかったし悔しかった。


 そして同時に思う。


 秋葉原で災難に巻き込まれた時、周囲にいたレッドソウルに食肉目はいなかったと……

 

 気のせいかもしれないが、日に日に進化しているように思えてたまらなかった。遊介が感じたレッドソウルの変化は、間違いなく玲人が言っていた異変性だろう。


 「遊介、構えろ! 来るぞ!」


 注意を促す遊直の声にはっとした遊介は、咄嗟に構えた。威嚇するレッドソウルが素早い脚をこちらに向け、飛び掛かってきた。


 この瞬間、一瞬にして一同の疑問が解決した。それも嫌な方向に……


 「素早いレッドソウルだ!」注意を促す遊直。「みんな気をつけろ!」

 

 二十段以上ある階段を飛翔し、大口を開けて鋭い歯を向けてきた。一同に噛みついて種の増殖を図るつもりだ。


 遊直は手にしていた包丁をレッドソウル目掛けて投げ飛ばした。当然、狙いは額だ。勢いよく空気を斬り裂いた包丁は、見事に額に命中した。


 「よっしゃ! ゲーセンでダーツゲーム鍛えてよかった!」


 遊介以外の一同は歓喜の声を上げた。

 「やった!」


 そう簡単に斃れるはずがない。遊介が声を張る。

 「安心するのはまだ早いです! 兄ちゃん、店長、忘れましたか!? 銃弾に三発ぶち込んで漸く息の根を止められた事を!」


 階段中央に着地したレッドソウルは斃れることなく、額に包丁を突き刺した状態でこちらに駆けてきた。


 「マジかよ!?」武器を失った遊直は数歩あとじさった。「なんなんだよ!? ちくしょう!」


 一同が絶体絶命の窮地を感じたその時―――突然、ロケットの如く地下街に水が流れ込んできた。


 後方から放水を浴びたレッドソウルは通路に倒れ、痙攣し始めた。

 

 何事かと息を切らして前方の階段を見上げる一同。その目線の先には、赤い消防車の手前でホースを抱えた消防隊員が立っていたのだ。


 「大丈夫かー!?」


 大声で呼び掛ける消防隊員に答える遊直。

 「ガチ、感謝! 助かりましたぁ!」


 「ホンマ、死ぬかと思った」


 「全くですよ。今度こそヤバいって思いました」


 腰を抜かしそうになった樹。

 「ビビったぁ」


 麻里子と亜美も手を取り合い、安堵した。


 「よかった」ホッと胸を撫で下ろす亜美。


 「このアホンダラ!」と蒼井がレッドソウルを蹴ろうとした時、ショットガンを携えた守山が階段を下り、銃口を定めて発砲した。


 一発で頭部を吹き飛ばされたレッドソウルから目を離した一同は、守山に歩み寄った。軍隊と消防隊員と邂逅したお蔭で、無事に避難所に行けそうだ。


 蒼井が守山に言った。

 「俺達、避難所に行きたいんやけど、どこが避難所に当てられた医療施設なのかわからんから困っていたんや。ホンマに助かったわ」


 「俺はシークレット特殊部隊に所属する守山だ。直ぐにヘリで連れていこう」


 「おおきに!」


 喜びと安堵感に満ちた一同の眼の奥を不自然に感じた守山は、自分の正面にいる蒼井の双眸をじっと凝視する。防護服のヘッド部分から覗く訝し気な表情に気づいた蒼井は、はっとして目を逸らした。


 (ここでバレてはマズいやんか。俺達は避難所に行かれへん。見捨てられる……いや、それどころかモルモットにされるかもわからへん)


 自分の半分以下の年齢ではあるけれども一番冷静な判断ができる遊介の腕を肘で軽く突く。当然、遊介も守山の表情が気になっていた。


 遊介は小声で言った。

 「ええ、わかっています」

 (着いていくべきか、行かないべきか……)


 「お前らひょっとして……」一同の正体に勘付いた守山は、消防隊員に聞こえないように独り言のようにボソッと言った。「なるほど。それで黒のカラコンか」


 その台詞に一同は得も言われぬ恐怖を感じ、数歩あとじさる。守山は一同の恐怖とは対照的に、小さな体を震わせて怯えていた亜美に笑みを浮かべた。


 「大丈夫だ」その後、蒼井に歩み寄り、耳元で囁いた。「今しがた自分の上司から無線連絡を受けて聞いたんだけどさ、君達と同じく自我を保ったレッドソウルが避難所にいるから安心していい。当然、身の安全の為にその事実を周囲の民間人には伏せている」


 「ホンマかいな……嘘やないやろな」


 「疑い深いなぁ、嘘じゃないよ。因みに君達の姿がレッドソウル本来の姿だ」


 「どういうことですか?」すかさず前に出た遊介。


 「説明しろよな」遊直もズイッと前に出た。


 「ヘリの中で説明するから着いてきなよ」


 蒼井が言う。

 「モルモットにせえへんよな?」


 「するわけなだろ? 安心しろって言ってんじゃん」


 遊介は不安げな表情の一同に言った。

 「安心してもいいかと思います」


 守山の後ろに続いて階段を上った。路上に停車した消防車の周囲には多くの消防隊員と、ジープに乗った自衛隊が待機していた。


 そして上空には数機のヘリコプターが飛んでいる。安堵したせいもあってプロペラの風切り音がどこか心地よく思えた。




 無線機に口を近づけた守山は、特殊部隊の仲間が登場した上空の攻撃ヘリコプターにコンタクトを取った。


 「俺だ、新宿区の疫病センターまで市民六人を搬送したい」


 『あいよ』君嶋とやり取りしているわけではないので、緩い返事を返す操縦士。『今、一人下ろすから市民の誘導を頼む』


 守山も同様、仲間同士の雑談口調で返事を返す。

 「おっけー」


 遊直と遊介が目を輝かせて呟く。

 「スゲー、攻撃ヘリだ」


 「アレに乗れるなんて興奮しますね。ゲーセンのゲームとは一味違いますよ、リアルですから」


 「だな、俺達ラッキーだ。ヘリからゾンビをバンバン撃ち殺すゲームは面白かったな」


 「はい、最高でしたよ」


 頬を引き攣らせる蒼井は、高所恐怖症だ。

 「お前ら呑気やな。ヘリやで、高いところと飛ぶんやで、めっちゃ怖いやんか」


 「別にヘーキです」


 「ホンマ逞しいわ」


 バランスを取りながら上空で静止する攻撃ヘリコプターから、ウエスト位置に命綱をつけた兵士が下りてきた。


 「アイツが一人ずつヘリに乗せてくれる。しっかり掴まるんだぞ」


 双眸を輝かせた遊直と遊介だったが、蒼井は青白い顔がより一層青みを増したような感覚に襲われた。

 「いややなぁ……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る