第11話2050年【感染経路7】
映像の編集を終えた佐伯が政府にそれを送信した直後、緊急で上戸がこちらに来る事になった。余程の事情がない限り、上戸が軍事施設や<ウイルス性新薬研究施設>に出向くことはない。
マスコミの対応に追われる政府と共に、予想だにしていなかった現状に頭を抱える上戸から電話連絡が入った。玲人、シャノン、佐伯が待機する執務室に緊張の電話のベルが鳴る。
君嶋は電話の通話ボタンを押した。それと同時に宙に浮かび上がったクリアウインドウに険しい表情の上戸の顔が映し出された。
『もうすぐ軍事施設に到着する』眉間に皺を寄せる上戸の声とヘリコプターのプロペラの回転音が重なり合い響く。『マスコミに先を越されるとは、なんという失態』
「……。貴様に言われなくてもわかっている。さっきから何度同じ台詞を聞かされればいい?」
『らしくないミスを犯したのはお前が生温くなったからだ。昔のお前なら到底考えられん事だ』
「用件は愚痴か? それともいびりか? 二つとも聞く気にはなれん」
『まあ、いい。到着後、すぐに執務室に向かう』
不快な電話を切った直後、鉄橋の封鎖に当たるC班の兵士から無線機に連絡が入った。
『君嶋指揮官! マスコミと市民が殺到して大変な事態です!』
兵士の声の奥にマスコミと市民の声が入り乱れた。
『24区で行われている実験はゾンビを創る実験だったんですか!? あなた達には答える義務がある!』
マスコミの台詞の後に市民が続いた。
『そうだ! 答えろ! 死神の手先の化学者どもめ! 出てきやがれー!』
予想していた事だ。隠しきれるわけがない。今夜、葬儀場で何体もの遺体が棺桶から這い出てくるはずだ。
突如として甦った親族に歓喜の涙を流すのも一瞬のこと。蘇生を果たした死者の双眸は、生前とは異なり赤すぎるほど赤い。
不気味な光景に度肝を抜かれ、同時に腰を抜かすだろうよ……
単調な口調で言った。
「絶対に鉄橋を渡らせるな。一歩たりともな。必要とあれば威嚇射撃もやむを得ない」
『イエッサ!』
威嚇射撃の許可が下りた瞬間、兵士は空に向かって連打で発砲した。
『バン! ババババババババ! バン!』
その後、群がるマスコミと市民に大声を張り、射竦める。
『下がれ! 下がれ!』
市民が悲鳴を上げる声が無線越しに響いた。
『きゃあぁぁぁぁぁぁ!』
マスコミが避難する。
『日本で銃を乱射していいと思ってるんですか!? あなた方軍は我々国民に知らされていない非公開の軍事組織であることは既に調査済みです! あなた達を派遣してまで、どんな秘密を東京24区は抱えているのか、我々には知る権利がある! 夕方の爆発音もこれに関係しているんじゃないですか!?』
その台詞に君嶋は口元を緩ませた。
日本で銃を乱射ねぇ……よかねえだろ。
俺達はあんたらの言うように特殊部隊だ。それも政府と絡むシークレット部隊だ。
銃を乱射しようとも、罪には問われない。
上戸を政府の犬と俺は言う。だが、お前達から見れば、俺達も上戸と同類なのだろう。
「絶対に鉄橋内に入れるなよ」君嶋は兵士に命令し、無線を切った。
玲人が君嶋に言った。
「銃を乱射するなんて、やりすぎだ」
「そうでもしないとマスコミはあの手この手で<化学島>に入ってくる」
「ですが……この事実が明るみになり、公になるのも時間の問題……」
「だろうな。だが、それまで阻止するのが俺達の仕事だ。その後、上戸らがいつものように隠蔽工作に走るだろう」
デスクに肘をつき、人差し指を玲人に向けた。
「公になったらどうするつもりだ? ウイルスを創ったのは新藤博士、あんただ」
一瞬唇を結んで、俯きながら答えた。
「わかっています。僕は……妻を蘇生したい一心でここまで頑張ってきました。ですが、どんな言い訳をしても、大勢の人達を殺めたジェノサイドなのでしょう……
それなりの罪に問われる覚悟はできています」
ポロポロと涙を零し、不安を口にする。
「賢人が……賢人が罪深い化学者の子供として世間から誹謗中傷を浴びせられることだけは、耐え難い……
世の中の役に立つロボットを開発し、様々な病に苦しむ人達を救いたいと願う優しい子なのに……僕のせいで……」
「……。質問したのは俺だが、お前が罪に問われることはないだろう。寧ろ、お前の才能を高く買う国は数多く存在する」
重苦しい溜息をついた。
「佐伯博士、あんたも元は普通の化学者だった。そしてシャノン博士も新藤博士と共に、多くの人々を救うべくBSL4のワクチンを開発してきた。
それなのに……いつから道を踏み外してしまったのか……俺も人の事は言えないけどな」
シャノンと佐伯もだんまりと唇を結んだ。シャノンは愛する玲人の為、そして化学者として未知なるウイルスへの研究に魅力を感じていた。
佐伯も同様の考えだった。もし、<死者蘇生ウイルス>の研究が成功したなら、自分の人生に輝かしい功績を残せる。
そんな理由から民間には知られていない研究に没頭したのだ。自分達だけはなく、死んだ研究員も同じ事を思っているだろう。なぜ、こんな事態に陥ってしまったのかと―――
静まり返った執務室のインターフォンが鳴った。声を聞かなくても、その主は誰なのか察しが付く。
『私だ、上戸だ』
「きやがったか」
君嶋はデスクの上に設置されたドアを開けるスイッチを押した。滑るように開いたドアの向こう側には、黒ずくめの上戸と共に三人のボディガードが立っていた。
上戸は執務室に足を踏み入れた。
「もっと楽しい時に会えればよかったのだが……いつも君嶋指揮官に会うときは緊急事態ばかりだ」
緊急事態という割に先程電話で会話したような焦燥感に満ちた緊迫感は見られなかった。上戸は颯爽した足取りで闊歩し、君嶋の近くに置かれた椅子に腰を下ろして脚を組む。
余裕すら感じさせるその表情を不審に感じた君嶋がたずねる。
「少しは愁眉が開けることでもあったのか?」
「ん? あるわけないだろ? どうしてそんなことを訊く?」
「深い意味はない。随分と余裕ぶっこいてやがるように見えたからだ」
「あっそう」軽く返事を返し、玲人に目をやった。「この軍事施設のラボの奥にある実験室はもう見たかな?」
「ラボの奥……」君嶋が言い掛けてやめた実験室のことだとピンときた。「いいえ。君嶋指揮官や矢崎副指揮官に見る必要はないと言われましたので。見る必要がないなら、知る必要もありませんから」
上戸は説明する。
「奥の実験室には人間が軽く収まる大きさの安全キャビネットがある。その中から君達化学者の姿は見えない。
警察の取り調べ室と一緒、マジックミラーになっている」
玲人、シャノン、佐伯は顔色を変えた。話を聞かずとも、上戸の台詞の先が読み取れたからだ。動揺した玲人は、ガタン!と椅子から立ち上がった。
「ちょっと、待ってくださいよ! それって、人体実験用のキャビネットってことですよね!?」
「その通りだ。理解力があるから楽だね、君達と話すのは。馬鹿は疲れる」
玲人に目を向けたまま言う。
「座りたまえ」
嫌な予感がする。耳を疑いたくなるような上戸の返答。玲人は、冷静とは言い難い表情で椅子に腰を下ろした。ふと君嶋の顔に目をやると、右手でこめかみを押さえ、口を閉ざしていた。
上戸は何食わぬ顔で言う。
「ワクチンを早急に作ってくれ。君にならできるはずだ。その為に最高の研究ラットを用意してある」
玲人の顔が強張る。シャノンと佐伯も同じ表情を浮かべた。
「早急? できるわけない! ワクチン開発にはかなりの年月を要すると、ご存じなはずでしょ!?」若干語気が強まった。「だから僕はあの時言ったんです! ウイルスが漏洩した場合を想定し、絶対的に研究が必要だと! それをあなた達政府が却下した!」
シャノンが言う。
「この際、責任転嫁なんて何の意味もないわ。今更……」
佐伯は恐る恐る上戸にたずねた。
「最高の研究ラットって……まさか人間じゃないでしょうね?」
淡々と答える。
「その通りだ」
血も涙もない氷のように冷たい双眸の奥には、慈悲の一欠片も持ち合わせていないようだった。まるで血の通わない無慈悲な殺戮マシーンに見えた。
「死刑囚を使う。問題ないだろう、どうせ処刑されるのだから。ただ……絞死刑より苦痛を伴うが、致し方あるまい。
人々の役に立つのだ。生前犯した罪も綺麗に洗われるだろう」
湧き上がる怒りを表情に出した君嶋。
「はっ」鼻で笑う。「聖職者にでもなったつもりか? ふざけやがって。人の命をなんだと思っている?」
「ふふ……あっはっはっは!」小さく笑った後、哄笑した。「何人殺めてきているのか、もはや不明の君嶋指揮官に“それ”を言われるとは、あっはっはっは!」
君嶋はギュッと唇を結び、デスクを叩いた。
「クソ野郎が……」
「クソ野郎イコール老獪(ろうかい)且つ狡猾ってことかな? 怜悧(れいり)なだけでは我々の世界で生きていけない。だが、それは君も同じだろう?」
「頭に来るぜ、ぶっ殺してやりたくらいだ」
舌なめりした上戸は、誘いの目を向ける。
「君になら色んな意味で殺されたいねぇ」
二人の会話などどうでもいいと言わんばかりに、動揺した玲人が再び椅子から腰を上げた。
「嫌です! 絶対に嫌です! 冗談じゃない! 僕らは明日、<ウイルス性新薬研究施設>で正しい実験を行うはずだった! 悍ましい人体実験ではなく、ラットで!」玲人は断固拒否し、頭を抱えた。「頼むから……もう、これ以上、最悪な父親にさせないでくれ……」
苛立った上戸は大声を張り上げた。
「甘ったれたるな! 裏社会に足を突っ込んだんだ。そのくらい覚悟してもらわないと困るんだよ!
泣き言は聞きたくない! 死なない限り逃れられないんだ! 新藤博士、君も私もな!
自由を取るか、死を取るか、二つに一つの選択しかない! 死刑囚(ラット)は明日の午前中に護送する。この私がやれと言ったらやれ!」
「……。そ、そんな」
心が辛い。いつもなら薄っすらと皺の入った手の甲に滑らかなシャノンの手があるはずのだ。そして背中を優しくさすってくれた。
だが今日はなかった……
突き離したのは自分なのに、苦境に立たされるとその手が恋しくなる。自分勝手な男であることは重々承知だが、賢人に嫌われ、シャノンまで嫌われたら……自分は生きて行けない。
当たり前の手が、当たり前ではなくなった時、その手の大切さを改めて知る。失ってから初めて自分にとってどれほど大きな存在だったかを考えさせられるものなのだろう。妻の時もそうだった。
愚かと思いつつもそれが人間なのかもしれないが、僕は自分でも呆れるほど愚かで脆弱だ。
天才化学者と謳われた男は妻を愛し、シャノンも……
妻と死別してから優しくしてくれた女性はシャノンだった。そんな大切なことに今更気づくなんて本当に心底愚かだったと馬鹿だったと思う……
シャノンはいつも僕に手を差し伸べてくれた。一度でも僕から彼女の手を握ってあげたことはあるだろうか?
妻も愛している。だけど、シャノン……今の僕にとって君は一番の理解者だ。皮肉なものだ。人生の窮地に陥り、初めて身近な女性の大切さを知るなんて……
恐怖に苛まれた玲人は、無言でシャノンの手を握った。シャノンは玲人の行動に驚き、ぱちくりと瞬(まばた)きさせた。
玲人に手を握られるのは初めてだった。これからの恐怖を考えると身の毛もよだつ思いだが、その恐怖を緩和してくれる愛しい手に優しい温もりを感じた。
自分勝手でその上脆くて、呆れるほど奥さんを愛している玲人を嫌いになれないシャノンは、そっと手に握り返した。シャノンに手を握り返された玲人は安堵した。嫌われていないと確信し、シャノンから手を離す。
上戸は脚を組み換え、三人に言った。
「悪いが、席を外してくれないか? 私からの話は終わった。あとは君嶋指揮官に用がある」
小心者で脆弱な玲人は鼓舞し、席から立ち上がり、声を大にして訴えた。上戸の襟首を鷲掴みにし、激しく前後に揺らした。
「あなたが僕達に用はなくても、僕はあなたに言いたい事がある! 人体実験は絶対にしない! 誰が何と言おうとしない!
どんな犯罪者であれ人間としての権利がある! 生体に<死者蘇生ウイルス>が感染したなら、それは遺憾な拷問でしかないのですよ!」
シャノンが言う。
「そんな事をしてまで生きていたいとは思いません! 死んだ方がマシだわ!」
佐伯も席から立ち上がった。
「俺も絶対反対です」
「君らが死んだ方がマシだと思っても、それは君個人の考えだろう。市民はどうかな?」
スパン!と玲人の手を振り払い、刺すような眼差しを向け、冷静に言う。
「人権蹂躙もやむを得ん……なぜなら……これを見ろ、君たちにも人体実験を行う理由が理解できるはずだ。だが、その前に」デスクに座る君嶋に歩み寄った。「君嶋指揮官、ちょっと立ってくれるか? アソコじゃないぞ」
君嶋は頬を引き攣らせ、席から腰を上げた。
「よくこんな状況でくだらん下ネタが吐けるな」
「君と二人きりで見る予定だったのだが、まぁ、いいだろう」
上戸は立ち上がった君嶋のズボンを固定するベルトを無理矢理避け、勢いよく下着の中に手を突っ込んできた。厭らしい手つきでグイッと男根を握る。
血の気が引いた君嶋は咄嗟に上戸の手を払い除けた。
「なにしやがる! 変態野郎が!」
三人はギョッとし、顔を強張らせた佐伯がボソリという。
「……。マジ?」
(そ~ゆ~趣味だったの? 全然知らなかった。マッチョ好きだったら俺らに興味ないよな。よかったもやしで)
口元を緩ませ、恍惚とした表情で手のにおいを嗅いだ。
「ああ……この素晴らしい匂いだけで私はイケそうだ。真夏のアソコの匂いは馨しい。まるで高級なスコッチのようだ。特に君のは格別だよ」
三人以上に不快な表情を見せた君嶋は、下着の中に違和感を感じた。異物が混入しているように思え、下着の中に手を入れ探ってみる。やはりプラスチック素材の小さな長方形の物体が入っていた。
「変態野郎、人のパンツに何入れやがった」
「本物の極秘情報だ」
上戸が仕込んだ異物を取り出して見てみる。掴み取った異物はUBSメモリーだった。奇怪な行動ではなく、普通に渡せないものかと口元の端を引き攣らせ、椅子に腰を下ろした。
「なにが “高級なスコッチ” だ。真夏のナニなんかくせぇだけだろ。馬鹿か」
「青い君にはわからない嗜好だ」
ズボンで軽く拭いたUBSメモリーをコンピュータに挿し込んだ。
「八十の爺さんになっても理解できねえよ」
玲人は固唾を呑んで見守る。
「…………」
暗号化されたデータを見る為の操作を終えると、コンピュータの画面上に機密情報が映し出された。それに目を走らせた瞬間君嶋は顔色を変え、小さな画面ではなく玲人達にもはっきりと確認できるよう、宙にクリアウインドウを立ち上げた。
宙に浮く大きなクリアウインドウに表示された極秘情報を目にした三人は愕然とする。
『全世界国家機密極秘情報 人工惑星<ノア>への永久移住・出発日時2050年8月11日』
十年前、環境破壊の激しい地球から緑豊かな人工惑星<ノア>に移住することを目的とし、東京湾の中心に建設された人工島に宇宙基地を設けた。
我々政府が<ノア>への移住権利券を通達する。<ノア>行き通達書を受け取った国民のみ移住を許可する。
【東京湾人工島宇宙基地から<ノア>行きスペースシャトル搭乗国民名簿2978名】
・・・・・・
【以上】
名簿には全国から選ばれた財力と権力を持つ国民の名前が表示されていた。有能な学者、名医と呼ばれる部類の医者、大学教授、やり手の弁護士、大企業の社長、当然の事ながら政府関係、そしてその家族たち。
その中には玲人や賢人、シャノン、佐伯、北に配属になった君嶋を含めた数十人の特殊部隊の名前も連なっていた。
玲人は震駭し、数歩後じさった。
「そ、そんな……一週間後……」
絶望とこの世の終焉を感じた二人も足の震えが止まらず、暫し沈黙が続いた。
「…………」
二〇五〇年現在、日本の人口推計は九八六九万人。年々人口減少の一途を辿る。文明が進むにつれ、便利になる一方、物価の高騰や税金の大増税が問題視されるようになった。
医療費もまた然り。高度な医療技術は目覚ましい進歩を遂げるが、急速な高齢化により、健康保険料の引き上げや医療費負担の増加が続き、適切な治療を受けられない人々が急増した時期もあった。
そして金銭的な事情を抱えた多くの若い夫婦は日々の生活費を含め、子供を産むことすらままならない。少子化の傾向にある我が国、日本。だが、それでも一億人近い人々が生活しているのだ。
シャノンはカタカタと震える手で口元を覆い、涙した。
「東京の人口の三分の一にも満たないじゃない……」
佐伯が声を張った。
「他の国民はどうなるんです!?」
つらっとした表情で人差し指で床を指し、「ここに残る」と返事する。昆虫のような冷たいその目が佐伯の怒りに火をつけた。
凄烈な佐伯の拳が上戸を狙うが、ボディガードがその拳を握り取った。佐伯の手より一回り大きな手でその拳をギュッと握り、力は自分が上であることを知らしめる。
「ライオンと兎。奇跡は起きそうにない。わかったらその手を下ろせ」
小馬鹿にされた佐伯は、久しぶりに頭に血が昇り、ボディガードの腹部目掛けて蹴りを仕掛けた。しかし、素早く脛で防御されてしまう。
「その脚癖の悪さ、君嶋指揮官でも感化されたか? それとも矢崎副指揮官か? どちらでもいいが、席に座れ」
「くそっ! ムカつくな!」
イライラしながら椅子に腰を下ろした佐伯は、頭を抱えて、深呼吸した。その後、単刀直入そしてシンプルに訊いた。
「十年前から人工惑星<ノア>に移住する予定で宇宙基地を建設したのか?」
「その通りだ。<ノア>に収まる人口は二万人弱。世界各国から有能な人々が集まる。この<ノア>は我々の理想郷だ。ありとあらゆる設備を整え、犯罪なき世界を目指す。
だが、時期が早すぎた。実際の予定は十年先だったのだ。まさかこんな事態に陥るとは夢にも思っていなかったからね。
十五個は欲しかった<ノア>が、たった一つの状態で旅立つことになろうとは少々誤算だったが仕方あるまい。元々、刑務所に服役している者も犯罪経歴のある者も移住は許可しない方針だった。死刑囚なんてもってのほか。だからラットとして使用しても構わんだろう」
「だからって……人体実験なんて……」声を震わせ、玲人がたずねた。「旅立ちは一週間後。まさか、一週間でワクチンを開発しろと仰るのですか!?」
「そうだ。解剖を兼ねて、鼠より人間の方がいいだろう? 死刑囚の犠牲と全人類どちらの命を取るかな?
現在、全世界の人口は約百億人。とは言え、我々先進国は人口漸減の傾向にある為、その殆どを占めるのは新興国だからどちらにせよ、彼らは<ノア>には行けん」
「命を天秤にかけるなんてこと僕にはできません! それにウイルスが全世界に蔓延するとは限らない! 空気中の滞在期間は約二週間。様子も見ずに……それこそ判断が早すぎます!」
ふー とわざとらしく溜息をつき、一瞬天井に眼球をやってから答えた。
「今も言ったが<ノア>に旅立つ予定は十年後だった。時期尚早故に様々な問題を抱えている。しかし、<死者蘇生ウイルス>の存在が公になったほうが厄介だ。
どこからともなく突然現れたゾンビウイルスは、<化学島>の有能な化学者新藤博士がワクチンを開発し、事態は終息を迎える。
そのシナリオが通じるのは一週間以内だ。それ以降は被害が拡大する為、誤魔化しがきかない。
タイムリミット内にワクチンが開発できたなら、君らと政府がメディアに顔を出せば、確実にヒーローになれるわけだ」
君嶋は腰から拳銃を抜き、銃口を上戸に向けた。
「ヒーローだと!? ふざけるな!」
だが同時にボディガードも銃口を君嶋に向ける。三対一、ボディガードの目は銃を下ろさねば殺すと言っているが、君嶋の目は殺されても構わないと言っている。
一人のボディガードが佐伯の頭に銃口を向けた。佐伯は軽く手を挙げ、君嶋に目を向ける。
「き、君嶋指揮官……」佐伯は声を震わせた。
(こいつら、マジでぶっ放す。ジョークでもなければ、はったりでもない!)
「銃を下ろせ。新藤博士さえいれば後はいてもいなくても構わない」
「卑劣な野郎だ」悔しそうに下唇を噛んで拳銃を下ろした。「いつもながらに吐き気がする隠蔽工作だな。陥穽(かんせい)と隠蔽が趣味みたいなクズ野郎だ」
「ありがとう。それは褒め言葉と受け取るよ。だが忘れるな、お前達も裏社会の一員ということを」
君嶋から玲人に視線を移し、ゆっくりと歩み寄った。
「兎に角、タイムリミットは一週間以内」
ペチペチと玲人の頬を叩く。
「<死者蘇生ウイルス>のデータはこちら側にも保存されている。君を<ノア>に連れて行く理由は、他にも面白いウイルス性新薬を創ってくれそうだからだ。よかったな息子共々理想郷に移住できて」
全人類の命が自分の肩にのしかかる。そして今まで経験のないプレッシャーも……無理難題なタイムリミットを押し付けられた三人は、頭が悶えるようだった。
玲人は頭を抱えた。
「たった一週間でワクチンを……無理だ……無茶苦茶だ」
「約束通り、ラットは明日の午前中に護送する。奴らも死ぬ間際に人類の役に立つんだ。きっと天国に逝けるだろうよ」
上戸は一同に背を向け、ボディガードに顔を向けた。
「帰るぞ」
君嶋はデスクの上のスイッチを押し、ドアを開けた。上戸は振り向くことなく、足早に執務室から姿を消した。その直後、玲人は崩れ落ちるように床に膝をついた。
「なんてことだ……不可能だよ。一週間なんて……」
君嶋が言う。
「やるしかないだろ。たとえ無理と招致でもな……
もしかしらってこともあるかもしれないだろ?
全人類の明日が博士、あんたらの腕にかかっている。人体実験は俺も反対だ。 しかし、やむを得ん」
玲人は発狂し、涙を流した。「こんなはずじゃなかったんだ! 何もかも、何もかも……」床に伏せ、泣き続けた。「誰か……頼むから、悪い夢だと言ってくれ!」
シャノンも佐伯も同じ思いだった。シャノンは何も言わず、涙を流し、佐伯は唇を結んでだんまりした。君嶋はそんな一同に言った。
「新藤博士、起きてしまった事は嘆いても解決しない。それで解決するならいくらでも嘆くがいい。一週間、全力を尽くすこと。今日何度目の台詞かわからんが、“やるべきことをやる”それだけだ。
シャノン博士、佐伯博士あんた達も新藤博士と共に……」
シャノンが返事する。
「はい……そのつもりです」
「俺も最後まで諦めず、ワクチンの研究をします」疲労が溜まった佐伯は眩暈を感じ、足元がふらついた。「少し、仮眠を取ってから、ミーティングにしませんか?」
君嶋が言う。
「ミーティングの必要はないだろう。明日の午前中に死刑囚が護送される。で、実験を行う。死刑囚がいなくては始まらん。
それに明日から僅かな仮眠しかとれなくなるはずだ。今日は休め。俺は都心部へ向かい、凛と交代してくる」
「俺は空き部屋で休ませてもらいます」
涙を拭った玲人は腰を上げ、君嶋にたずねた。
「賢人はどの部屋にいるのでしょうか?」
「西―45の空き部屋を使っている。室内番号は1007だ。ここのコンピュータで全て管理されている。確かめておいてやったんだ、感謝しろ」
「1007……十月七日。妻の誕生日だ……」そう思うと切なくて、また涙が込み上げてきた。「賢人……ごめんな……」
半ば呆れた顔を向けた。
「よく泣くヤツだ」
佐伯は空き室の西―20に向かい、玲人とシャノンは温かいミルクを飲むため食堂に向かった。ミルクには心を落ち着かせる作用がある。気休め程度にはなるだろうと、布団に入る前に飲むことにしたのだ。
二人は、カウンターに立つ調理ロボだけの静まり返った食堂のテーブルに注文したホットミルクを置き、椅子に腰を路した。
まるで玲人の席にだけ微震が起きたように、マグカップに注がれたミルクが揺れる。テーブルにミルクを置くと、シャノンがその手を握ってきた。
「私と佐伯君がついてる」
「きっと一週間で……いや、間違いなく一週間で無理だ……」
「……。初めから無理と思って挑んでは可能な事でさえできっこない。勇気を持つのよ」
「……。そうだね、君の言う通りだ。本当に君は気丈な女性だ。僕は化学者だから神様は信じないけど、きっと聖母マリアが存在したなら、君のように優しくて強い女性なんだろうね」
クスリと小さく笑った。
「大袈裟ね」
一呼吸置いて、玲人は真摯な面持ちで口を開いた。
「シャノン……僕は今から世界一勝手なこと言うかもしれない。僕は……シャノン、君を抱いた。それなのに妻を愛してる。そして君のことも……
君は僕の一番の理解者であり、研究員としてなくてはならない良きパートナーだ。
でもね……一緒になるわけにはいかない。妻を蘇生させたい一心から始めた研究で、多くの人を死に至らしめた。
そんな僕が幸せになるわけにはいかない。だけど、君には幸せになって欲しい。僕が始めた研究だ。君には幸せを放棄して欲しくないんだ。そして、賢人にも―――」
「馬鹿ね……」
玲人の手をしっかりと握り、悪戯な笑みを浮かべた。
「私にとって最高の幸せは、新藤博士……あなたと一緒に化学を語る時間よ。化学オタクな私を楽しませてくれる男性は、あなたくらいね。これからも友人として傍にいさせて。そして、私に化学を語って。
長い地獄のような日々が続くかもしれない。だけど、友人としてどこまでも付き合うわ。
そう……友人としてね―――」
玲人は目を見開き、シャノンの目をまっすぐと見つめた。
「僕は<ノア>には……」
「しー」人差し指を玲人の口元に持っていく。「何も言わなくていいの、わかってる。わかってるから」
玲人が何を言おうとしたのか、そして全ての胸中を理解した上でそっと抱きしめた。
「長い地獄もあなたといたなら、そこは天国よ―――」
一度男女の関係を交わした二人は、元の友人へと戻り、様々な覚悟を決めた。シャノンは部屋に戻り、玲人は賢人の部屋へと向かった。壁に設置されたインターフォンを鳴らし、問い掛ける。
部屋の解錠番号を君嶋から聞いたけど、敢えて開けなかった。
「僕だ、父さんだ。開けてくれないか?」
賢人が応答した。
『話すことはないにもない。言っただろ? あんたなんか大嫌いだって』
あんた……
そんな呼ばれ方したのは初めてだった。
「もう、父さんって呼びたくないか? そうだよな……呼びたくないよな」
(明日、人体実験を控えている。今奇跡的に仲直りできたとしても、また同じ事の繰り返し……
もしかしたら、嫌われた方が楽かもしれない。別れの傷が軽傷で済む……)
「賢人、お前は最高の息子だ。未来の希望、小さいロボット博士だ」
『子供扱いとかウザいから。俺はあんたとは違う。みんなの役に立つ研究をし続ける。てか、もう遅いから寝る』
「そうだな。賢人は人類に光を齎す科学者だ」ドアに手を触れ、頬を濡らす。「……。元気でな、賢人」
仲良し親子だったのにそっけない返事をし、インターフォンの受話器を切った。
『意味わかんない。じゃあな』
「賢人……」
通路の壁にもたれ、声を押し殺し、滂沱の涙を流した。
「本当に、よく泣く男だ僕は……君嶋指揮官に笑われてしまう……」
(明日から泣かない。だから今夜は泣かせてくれ……)
その頃、佐伯はベッドに横たわり、ハンディカメラの液晶画面を眺めていた。楽しかった日々へと想念を巡らせ、友人の鈴野の姿を見つめる。辛辣なきつい台詞も遠慮なく言ってくる鈴野は、本音を言い合える唯一の友だった。
「なあ……鈴野。大変なことになっちまったな。きっと、今夜中に多くの人達が亡くなる。どうしてこんなことになっちゃったのかな?
狂犬病が招いた最悪の事態。だけど、まさか狂犬病が原因でこんなことになるなんて誰が予想できた?」
一週間以内にワクチンを創らないと……<ノア>に行くセレブ以外、みんな……
「はぁ……」重苦しい溜息をつく。「疲れたけど、寝れるわけない。鈴野、見守ってくれよな」
鈴野の骨箱に目をやった直後、腕時計型携帯電話が鳴った。会議室でこっそり電話番号の交換を行った凛からだった。通話ボタンをタップすると、宙に浮かび上がったクリアウインドウに汗だくの凛が映し出された。その背景は軍事施設内の二階西棟の廊下だ。君嶋と交代し、一時的にここに帰ってきたのだろう。
『寝てた?』
「いや、なかなか眠れなくて」
『昨夜は夜勤だったんだ。で、こんな事態だし、全然寝てないないから君嶋指揮官が仮眠取れって気を回してくれてさ。まだ体力あり余ってるから大丈夫なんだけど、せっかくだから』
「休めって言われた時に休まないと、いつ休めるかわかんないよ。お言葉に甘えてってヤツだね」
『そーゆうこと』
「俺の部屋は西―20だよ」
『なんだ、近くじゃん。暗証番号は?』
「俺の誕生日、六月二十八日だよ」
『みんな安易だね。0628か、因みにあたしは三月五日、誕生日プレゼントよろしく』
電話が切れると、すぐに部屋のドアが開き、凛が室内に入ってきた。前腕から外した無線機を棚の上に置き、服を脱ぎ捨て、全裸になった。
「シャワー貸して」
ハンディカメラを手にして、凛の指先を握り、自分に引き寄せた。
「必要ない」
「だって、汗かいたし、臭かったらヤダ」カメラのレンズを掌で遮る。「撮るなよ! 恥ずかしいじゃんか!」
「生意気な友達が言ってたんだ。強気な女はベッドの上では子猫ちゃんだって」
「何言ってんだよ!? 誰だよそいつ、ぶっ飛ばしてやる!」
佐伯は威勢よく言い放つ凛の秘部に手を忍ばせた。その瞬間、凛は顔を紅潮させ、思わず声を上げてしまう。恥ずかしい一面を収めているハンディカメラが気になり、咄嗟に下唇を噛んで声を我慢する。
「カメラ、止めて!」
「止めたくない。ベッドに来て」佐伯はベッドサイドの棚に録画モードのハンディカメラを置いた。「撮りたいんだ。してるところ」
胸を押さえ、恥じらいを見せる。
「嫌だよ」
「凛と生きた証が欲しい。もうすぐ離ればなれになっちゃう気がするから……綺麗な凛を撮りたい」
「なに言って……」
佐伯の言っている意味が理解できない凛は、訝し気に首を軽く傾げた。だが、それを訊く余裕もなく、佐伯にグイッと引き寄せられ、ベッドに押し倒される。凛の蜜口に勢いよく挿入した佐伯は、不安な感情をぶつけるように激しく腰を振り乱した。
「あ! 純一、待って! あ!」
「凛、君が好き」
佐伯の頬を伝う涙が凛の頬にポタリと落ちた。どんな時も笑いを与え、明るく振る舞っていた佐伯も玲人同様に心底不安だったのだ。
親友までもが死に、無関係の研究員や多くの市民を巻き込んでしまった。主任の玲人が強くはないと知っている。だからこそ、自分がしっかりせねばと、気を張っていた。
凛を胸に抱いた瞬間、緊張の糸がプツリと切れ、涙腺が一気に緩んだ。とめどなく涙が溢れてくる。
「純一……」
(こんなあたしが純一に安らぎを与えてあげられるなら……)
「あたしも、好きだよ」
凛は何も訊かず、ただただ身を佐伯に預け、慰撫してあげた―――
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