第17話2050年【殺人ウイルス】
佐伯は、右腕に走る激痛に顔を歪めた凛を抱き上げ、ベッドに寝かせた。かなり痛みが増してきているようだ。唇を震わせ、額には脂汗を滲ませている。
凛が無理矢理外した点滴針の先端から滴り落ちる点滴薬に目をやった佐伯は、困った表情を浮かべ、デスクに歩み寄った。
自分は医者ではないので点滴針の射し方を知らない。三浦を呼ぶ為、デスクの端に立て掛けられた内線番号が載った表に目を走らせた。
会議室の内線番号を電話に入力する。三回目のコールで君嶋が電話に出た。子機から浮かび上がったクリアウインドウに君嶋の顔が映し出された。
『君嶋だ』
「佐伯です。凛が点滴の針を外してしまったので三浦先生をお願いできますか?」
『話もほとんど終わったから俺もそっちへ行く』
「痛がっているので早めに来て頂けると助かります」
『お転婆娘に大人しくしてろと伝えておけ』
呆れた声でそう言った君嶋は電話を切った。佐伯は、再び凛の許に歩み寄り、椅子に腰を下ろした。
「痛くなんかない……」
「君嶋指揮官に “大人しくしてろ” って伝えておけって言われたよ」
意地っ張りな凛はもう一度言う。
「ぜんぜんヘーキ。脚を吹き飛ばされた時に比べたら痛くないし」
言えば言うほどムキになる性格なのは承知の上。だから余計な事を言わずに凛の頬にキスするだけにした。
「わかったよ。でもね、安静にして」
(顔色だって悪いのに……我慢し過ぎだよ)
コクリと凛は頷く。
「うん。君嶋指揮官の命令だしな」
二人が会話を交わしている中、静かに自動ドアが開いた。ドアの向こうには深刻な面持ちの君嶋と三浦が立っていた。
佐伯は、思ったより早く駆けつけてきてくれたので安堵する。ふと見れば、三浦の口元が赤く腫れ上がり、鬱血していた。<ノア>への移住でひと悶着遭ったのだろうと、おおよその察しはつくので訊く気はしなかった。
<ノア>行きのスペースシャトル搭乗者名簿に三浦の名前は記載されていたが、兵士らの殆どが地球に置き去りにされる。
しかし、高齢者の三浦がレッドソウルで蔓延した世界に身を置き、通年サバイバルの生活を送るのは容易ではない。
医学の知識を活かしたサバイバル術を頭の中でなら繰り広げられるが、それは飽く迄コンピュータを用いたシュミレーションと変わらないのだ。
現実世界において体力が着いていかないのが現状であり、特に最近は本人も年齢的な体力の衰えを感じていた。
矮躯(わきく)な三浦は、か弱く、持病もある。<ノア>行きの搭乗券を得る権利を手にできたなら、わざわざ苦労の道を歩む必要もないだろう。だから三浦は<ノア>に行くことを選択した。
だが、兵士達は三浦を仲間として対等に見ていた。その結果、兵士達に罵倒され、打擲(ちょうちゃく)されたのは顔の傷を見れば一目瞭然だ。
長年苦楽を共にしてきた三浦が一抜けで<ノア>に行くのだとしたら、それは彼らにとって裏切りに他ならない。ましてや結束の固い組織ではなおさら。
君嶋ら兵士達のミーティングは、<死者蘇生ウイルス>と<新型狂犬病ウイルス>のワクチンが完成する見込みは極めて薄い、それを前提とし、様々な話が進められたのだろうと佐伯は悟った。
だが、佐伯本人も同じ考えだった。
たった一週間のリミット。やらねば完全にゼロだが、余りにも無謀な試み。
上戸を介して指示を下す政府は、万が一ワクチンが開発できたなら、自分らの利益と所有物にできるわけで……
不可能だとしても……死後も頭部に大きな損傷を受けない限り、不老不死でいられる<死者蘇生ウイルス>のデータは既に彼らの手の内だ。
彼らが一番欲しかったモノは、もうとっくに手に入れているのだから……
地球にも無力な人々にも、何の未練もないのだろう……
佐伯は重苦しい溜息をついた。
「凛の点滴をお願いします」
三浦は頭をを切り替え、医者の眼差しを見せた。凛に説教を始める。
「何故点滴の針を抜いた? 感染症を起こしたらどうするんだ。凛よ、今が一番大事な時。だからこそ大事にしてもらわにゃ困る。誰の体でもない。自分の体なんだぞ」
「ああ、わかってる」
当然の叱りの声ではあるが、凛はウザったい姑のお咎めを聞くかのように返事し、悔し涙を浮かべて君嶋の目に視線を移動させた。
「申し訳ありません、君嶋指揮官。貴方に何か遭った時の為に副指揮官のあたしがいる。それなのに……」
涙が頬を伝った。
「くっそ……まるで襤褸雑巾だ……」
その台詞に君嶋より先に佐伯が怒りの声を上げた。
「襤褸雑巾だなんて誰も思っていない! 二度と言わないでくれ! 俺は凛を誇りに思っているんだから!」
そして優しく言った。
「どんな女より―――誰よりも―――誇りに思ってる」
佐伯の言葉が胸に沁みた。
「純一……」
君嶋も佐伯と同じ事を言う。
「佐伯博士の言う通りだ。矢崎は俺にとって最高の部下であり、戦友だ。滅多なことを言うもんじゃない」
凛は尊敬している君嶋からの言葉に涙が止まらなかった。
「君嶋指揮官……」
君嶋は生きる意志が誰よりも強い凛の髪の毛をくしゃくしゃし、「安静にしてろ、命令だ」と笑みを浮かべて言った。
ギュッと下唇を噛んで、溢れる涙を堪えた凛は、「イエッサ」と返事を返した。
消毒液が染み込んだカット綿を手にした三浦が凛に歩み寄る。
「ちょっとチクッとするぞ」
いつものぶっきらぼうな男口調で言った。
「子供じゃあるまいし、さっさと射してくれ」
三浦は凛の腕をサッと消毒し、点滴の管を手にして手早く針を射した。点滴の調節を行いながら、佐伯と凛が触れなかった話を口にする。
「お前さん達の名前が搭乗者名簿に載っていたが、どうする気だ?」
凛がそれに答えた。
「お前は行くんだろ? 兵士にぶん殴られたそのツラを見りゃわかる。あたし達は行かない」
「ワクチン開発が成功したにせよ、どうせ十年後には<ノア>だ。私は行かせてもらう」
君嶋が言った。
「俺も<ノア>には行かんが、十年後も行く気はしない。こんな状況でなければ、十年後は地球に残された人々が新たな文明を築き上げていくはずだ。政治も何もかもな。より良い世界を目指してこの地で生きて行くさ」
「ポジティブでいいね。私はもう年だ。あんたらと一緒にされては困る」君嶋から佐伯に視線を移した。「ワクチン開発だってのっぴきならない状況なんだろ?」
漸く口を開く佐伯。
「だけど、全力を尽くしている」
(わかっているならいちいち訊いてくるなよ。ムカつくな)
君嶋が佐伯の肩に軽く手を置いた。会議室に行く前に、“話がある” と佐伯に言った君嶋は、そろそろ本題に入りたい。
「俺も様々な対処に追われ忙しい立場だ。新藤博士達と一度話がしたい」
「あ、はい」佐伯は凛に目をやった。
凛はコクリと頷く。
「行って。あたしは大丈夫だから」
佐伯は痛みに震える凛の手を握った。
「もし、眠れるようなら眠った方がいい」
とてもじゃないが、痛みで眠れそうもない。だけど愛する人に心配をかけたくなかった。
「……。そうさせてもらうよ」
凛の性格を熟知している三浦は、余計な事は言わずに、さりげなく口を挟んだ。
「鎮静剤をもう少し追加するからきっと眠れるはずだ」
君嶋はデスクに歩を進め、玲人とシャノンが実験を行うラボの人体実験室の内線番号を電話に入力した。子機から浮き上がったクリアウインドウに玲人が映し出された。
『はい』
「俺だ。<死者蘇生ウイルス>と<新型狂犬病ウイルス>について、お前達に聞きたい話がある」
玲人は佐伯と同じ事を言う。
『僕達も<死者蘇生ウイルス>と<新型狂犬病ウイルス>についてお話があります』
全員同じ事を考えているかもしれない、と君嶋は思った。
「今、シャノン博士と実験室を出られるか?」
『はい。ハンディカメラをセットするから大丈夫です』
「二階南棟のバーに来てくれ」
『わかりました』
君嶋は電話を切り、佐伯に言った。
「行くぞ」
「はい」君嶋に返事した佐伯は、三浦に軽く頭を下げた。「凛をよろしくお願いします」
顎髭を触りながら頷く三浦。
「ああ、任せなさい」
佐伯は凛に優しい目を向け、君嶋と共に医療室を後にした。
・・・・・・・
二階南棟のバーにて―――
仄かな照明に照らされたバー店内。蛍光灯で “BAR” と模られた小さなネオン看板が光るカウンター席の奥には、バーテンダーの役割を熟す蝶ネクタイをつけた調理ロボットが一台立っており、せっせとグラスを磨いていた。
フロアに歩を進めた君嶋と佐伯は、テーブル席へと腰を下した。佐伯は初めて入ったバーに首を巡らせ、防弾ガラス張りの窓越しに見える景色に目をやった。
夕焼けが反射した東京湾の水面は、眩いほどのオレンジ色に輝いている。波打つ度に美しい光彩が揺れ動く光景は、一枚の風景画のようだった。
景色はこんなにも綺麗なのに……全てが単なる悪い夢であって欲しいと虚しい懇願をする。
辛い表情を浮かべた佐伯の後方から、こちらに向かって歩を進める足音が聞こえた。振り返らなくても誰なのか察しはつく。
佐伯と向かい合わせに座っている君嶋が言った。
「さっさと座れ」
玲人は君嶋の隣の椅子に腰下ろす。
「すいません、お待たせしました。カメラを操作するのは久し振りだったので……」
佐伯の隣に腰を下ろしたシャノンが言った。
「いつも佐伯君任せだったので手間取ってしまいました」
「前置きはいい。本題に入ろう」君嶋が言った。「人体実験は進んでいるのか?」
玲人が答えた。
「生体から<死者蘇生ウイルス>を感染させた囚人のうち二人は四時間五十分で絶命し、残る一人はまだ生きていますのでカメラをセットしてきましたが、直に絶命するかと思います。
長くても二十四時間以内と思っていましたが、そこまで持たないでしょう。おおよそ、五時間程度です」
「……。そうか」
生体に感染てしまえば助ける方法もないのか……
もし、世界中の人間に感染したなら、人類は滅亡する。
完全なる殺人ウイルスでしかない……
その後、<新型狂犬病ウイルス>に犯された連中により、絶命した連中もレッドソウルと化す。
世界はレッドソウルで埋め尽くされる。
しかも、質(たち)が悪い剽悍な<新型狂犬病ウイルス>に感染したレッドソウルで―――
「それでですね……」玲人が言う。「<死者蘇生ウイルス>を生体に感染させた場合、何故即座に死に至らしめるのかをシャノンと考えたんです」
「ストップ」佐伯は正面に座る玲人に掌を向けた。「まさか、また神がどうとか、くだらない話じゃないでしょうね?」
「すまない、ずっと頭が混乱してて……でも基本的な事を考えたんだ。その基本に辿り着くまでずっと混乱していた」自分の心の弱さを反省する。
神仏、カルト、まじないを一切信じない根っからの化学者の佐伯は、一安心した。
「そうですか。それなら話をお願いします」
君嶋が言った。
「死体に投与した場合は生前と変わらない。だが生体に投与した場合ウォーカーのように豹変する。俺も疑問に感じていた」
玲人は説明する。
「結論から言えば、感染すべき宿主ではないからです。<死者蘇生ウイルス>にとって飽く迄宿主は死体です。生体ではありません。
地球上には数多くのウイルスが存在します。他の動物を宿主にしている場合目に見える症状がなかったのに、突如人間に感染すれば恒常性に重篤な悪影響を及ぼすウイルスが多々あります」
シャノンが言った。
「宿主の負担を減らす為、毒性は弱く、感染力は強く。宿主の細胞内で自己のコピーを複製させるのがウイルスなんですが、時としてそのような場合があるんです」
合点がいった佐伯が言った。
「ウイルスの自殺ではなく、宿主の問題だったのか……死への時間差はラットや犬、霊長類など種族の違いによるもの。生体は本来の宿主ではないから遅かれ早かれ結局は死ぬってわけか」
君嶋が納得した。
「なるほどな、そういうことか」
いつもの玲人らしいまともな台詞が聞けた佐伯は、口元に笑みを浮かべた。
「漸くいつもの主任に戻ってくれて安心しました」
「で、肝心なワクチンの方はどうなっている?」玲人らにとって無謀な命令とは知りつつも、危惧せずにはいられない。
「…………」
一瞬唇を結んで口を開いた。
「病原体であるウイルスを人工的に投与する。勿論、弱いものをです。その後、体内で抗体が作られ、外部から侵入したウイルスから身体を守る事ができる。
つまり、生物の抗体形成を利用したのです。君嶋指揮官もご存じでしょうけど、これがワクチンの論理なわけです」
「……。論理なんか訊いちゃいない。質問の趣旨からずれている」
「口で言うのは簡単なんですよ、口で言うのは」玲人は頭を抱える。「これがどれほどまでに難しいことか……あなただってわかっているはです」
佐伯が言う。
「困難を極める作業です。<死者蘇生ウイルス>も<新型狂犬病ウイルス>も一筋縄ではいかない。特に<新型狂犬病ウイルス>は、インフルエンザ以上に異変性が強い」
ウイルスの中でも非常に異変性が強い事で知られているインフルエンザは、たった一週間程度で姿を変えてしまう。インフルエンザが大流行するとワクチンが通用しなくなる一番の理由がそれである。
「異変性……」君嶋の顔つきが変わった。「俺が感じていた疑問は多分それだ」
シャノンが言った。
「私達が伝えたかったのも異変性に関してです」
佐伯が頷く。
「俺も」
玲人が言った。
「みんな同じ事を考えていたというわけか……佐伯君が退室した後、僕とシャノンもそれについて話し合っていたんだ」
佐伯が言った。
「<ウイルス性新薬研究施設>の廊下で狂犬になったシロの頭を強打したんです。その後シロは暫く倒れていました。脳細胞に感染するわけだから、それが一番ダメージを喰らうだろうと思ったからそうしました。
だから、凛達と共に闘ったウイルス研究施設内でも<新型狂犬病ウイルス>に感染した罹患者の頭を蹴っ飛ばしたんです。でも倒れなかった」
君嶋が言った。
「ウイルス研究施設でレッドソウルの頭に銃弾をくれてやった時、絶命した連中も中にはいたはずだ。生きていた奴は、佐伯博士が言うように一時的に倒れただけ。人間で言えば気絶していたに過ぎない。
だがスカイツリー前にいたレッドソウルは頭に、一、二発銃弾を浴びせても気絶もしなけりゃ倒れもしない。ショットガンで頭を吹き飛ばすか、風穴をがっつりと空けるか、でなければ倒せなかった」
玲人は強調し、人差し指を立てた。
「そう、強くなっている。もし通常のウイルスが宿主の細胞内で毒性を強化し、強さを増したなら宿主である人間や動物は死ぬだろう。
しかし、<新型狂犬病ウイルス>は宿主を守る為に強くなった。結果、自己や己の種を増やすことへと繋がる」
シャノンが言う。
「それも、こんな短期間にね」
君嶋は一縷の望みが絶たれたような気がした。最悪な事態が頭を過る。
「まさか、この先……恐水症の症状が無くなるわけじゃあるまいな……」
玲人が答える。
「それはないと思います。飽く迄狂犬病ウイルスなので。ですがこれからまた進化し、強さを増していくはずです」
「そうか……だが、事態は最悪だ」重苦しい溜息をつき、唇を結んだ。「俺はそろそろ現場に戻る」
「わかりました。僕達の話も以上ですから」
返事を返した玲人は、ふと窓越しの景色を望む。
夕焼けのオレンジ色は既に夜の漆黒に呑み込まれていた。燦然たる満天の星空に煌々と輝く大きな満月の隣で、人工惑星<ノア>の眩い光が海を照らしている。切ないほどに美しいその光景が玲人の心を締め付けた。
脆弱な自分の現実逃避かもしれないが、平穏だった日々へと想念を巡らせたくなった。
自宅マンションから眺める東京都の夜景は、地上にも星々が散りばめられかのように、ネオンが煌びやかでとても綺麗だった……
だが……今夜は闇夜と大差ない。
(点々と光が点されているだけだ。まるでのどかな田舎町じゃないか……)
窓越しを見ながら一考した玲人は、全国規模の停電に陥ったのだと理解した。
今頃、全国各地の被害状況はどうなっているのか……自分達が招いた惨事だ。憐憫の情という言葉は使うべきではないかもしれないが、申し訳ない気持ちと可哀想に思う気持ち、そして哀れみの気持ちでいっぱいになった。
玲人が言った。
「軍事施設や病院関係は充電が可能な半永久式ソーラーパネルが取りつけられているから停電にはなりませんが、住民の皆さんは今頃どうされているのか心配です」
「それなら、もう手は打ってある」
君嶋は席を立った。
「俺は初めて政府の命令に背く。アイツらは国民を捨てたんだ。だったら好き勝手やらせてもらうことにした。
気密性の高い疫病センターは本来であれば、感染者の隔離施設でもある。しかし、感染を防ぐ為の目的でシェルターとして使わせてもらうことにした。勿論周囲は軍人で固め、レッドソウルの侵入を防ぐ」
「疫病センターをシェルターに……。確かに自宅に身を隠しているよりずっと安全かもしれませんね」
「上戸を含め政府らは、最後の情けでエナジーバンドの許可をした。工場をフル活動し、どの国も今エナジーバンドを必死に作っているはずだ。
明日の朝一にここに届く。一カ所に集まっていてくれた方が配布しやすいしな」
玲人は、賢人に<ノア>の一件を伝えていない。いつ伝えるべきか……それともこのまま……
そうだ……確かにワクチン開発が成功する確率は極めてゼロに近い。だが自分達は期限寸前まで諦めるわけにはいかない。
だが、失敗に終われば、君嶋指揮官曰く、地球上残った人々はソウルレッドと闘いながら生きて行く。
流通もなければ何もない。食糧難に陥るのは目に見えている。その時、賢人が開発したエナジーバンドが役立つだろう。
「…………」玲人は唇を結んだ。
「たとえワクチン開発が失敗に終わったにせよ、俺達は荒廃した世界で懸命に生きて行く。俺達軍人がいるんだ。レッドソウルなど殲滅させてみせる」
「君嶋指揮官……」
その台詞に小さな希望の光を感じずにはいられなかった―――
この人が指導者になれば人類の未来は明るいものになるかもしれないと―――
そう思いたかった―――
三人の視線が君嶋に集中した。その視線に縋る思いを感じたが、自分のやるべき事の為に席を立ち、カウンターに歩を進ませた。
「いつもの」
調理ロボットは棚に陳列されたテキーラを手にした。
「はい、畏まりました」
ショットグラスに注ぐのかと思いきや、水用のグラスに並々と注ぎ、君嶋に差し出した。これが君嶋流の景気づけだ。
唖然とする三人を余所にグビグビと飲み干し、カウンターに空のグラスを置いた酒豪の君嶋は、顔色一つ変えずに三人に言った。
「じゃあ俺は行く。お前ら、朝から何も食ってないんだろ? 体力勝負だ。腹ごしらえした方がいい」
全く食欲が湧かない。しかし、君嶋の言う通りだ。自動車だってガソリンを入れねば走らない。人間だって同じだ。エネルギーを摂取せねば倒れてしまう。
実際、軽く眩暈がする。空腹より心理的なものからくる症状なのかもしれないが……
「……。少し休憩を取ろうかと思います」
「そうしたほうがいい。マジでぶっ倒れるぞ」
三人に背を向けた君嶋は、バーから通路に出て歩を進ませた。その直後、賢人とフレンド君が食堂に入っていく姿が見えた。
食券の自動販売機の手前でうろうろしている賢人に目線を向ける。きっと、話し掛けても露骨に嫌な顔をされるだろうと思っていた君嶋だったが、以外にも賢人の方から歩み寄ってきた。
「矢崎さんが大怪我したんでしょ? フレンド君から聞いたんだ。痛くて食べられないかもしれないけど、お見舞いに持っていこうと思って。矢崎さんの好きなメニューはどれかな?」
優しい子だ。凛を心配し、メニューを選んでいたのだ。君嶋は目を細め、口元に笑みを浮かべて教えてあげた。
「もしかしたら鎮静剤が効いて寝ているかもしれないから、目覚めた時に手軽に食べられる食事の方がいいだろう」君嶋はツナサンドとオニオンサラダのセットを指した。「矢崎が好んで食べるのはコレだ。米よりパンが好きらしい。それから、飲み物はジャスミンティーが喜ぶだろう」
「ジャスミンティー? 超以外。女の子らしいじゃん」
「一応、ああ見えて女だからな」亡き息子に向けるような優しい目線を向けた。
賢人に話し掛けてもらえたことが嬉しかった。全国各地で苛烈を極めた戦いが続く。穏やかな時間など何処にもありゃしないと思っていたが、僅かな安らぎの時を賢人に貰ったような気がした。
「……。ねえ、おじさん」澄んだ双眸で君嶋を見上げた。「今頃、工場ではエナジーバンドを作るのに必死だと思う。きっと今夜は徹夜だ。俺にも何かできることないの? みんなの為になることがしたいんだ。俺、身長が小さいから防護服はちょっと大きいかもしれないけど、何でも手伝うよ」
「賢人……」
正義感と慈悲に溢れるその眼差し。潔癖なまでに人として反する行いを嫌う。だからこそ、玲人が許せなかったのだろう。ましてや信じていた父親だ。だが、本心から嫌ったわけじゃない。時間が解決してくれる。
しかし、その肝心な時間がないのだ。<ノア>出発の日が刻一刻と迫っている。
(新藤博士……あんたは、<ノア>には行かんだろう。さっき話ていてわかったさ。だからこそ、大事な息子とこんな別れ方でいいのか? いつ賢人に言うつもりだ? 十二歳の子供にとって、親と離れるのは余りにも酷だ。どうするつもりなんだ?
それとも……ワクチン開発が成功する見込みでもあるというのか? 俺達は僅かな成功率に賭けてもいいのか? 希望を抱いていいのか? どうなんだ、新藤博士……)
心の中で玲人に問い掛けた君嶋は、暫し唇を結んでから、賢人の頭を撫でた。
「賢人、お前はよくやった。エナジーバンドが皆の役に立つ」
「……。でも」
「じゃあ、おじさんからのお願いだ」屈んで小柄な賢人の目線に合わせた。「矢崎の傍にいてやって欲しい。アイツは悍婦だから、病室を抜け出すかもしれん」
「わかったよ」コクンと頷き、フレンド君に言った。「矢崎さんの看病をしよう」
フレンド君が返事する。
「はい。私はいつでも賢人博士と一緒です」
「なぁ、賢人。お父さんとも話してやれ」
時間が必要だと理解をしつつも、言わずにはいられなかった。今の玲人には賢人の笑顔が必要であり、一番の力の源となるはずだ。
自分も親を経験している。だからこそわかるのだ。愛する我が子の笑顔こそ、親にとってかけがえのない宝だと―――
しかし、賢人は頑固だった。頬っぺたを膨らませ、君嶋に背を向けた。
「忙しいんでしょ、行きなよ。俺達は矢崎さんのところに行くから」
「……。凛を頼んだぞ」
(やはり、駄目だったか……)
君嶋は言葉を付け加えずに通路に歩を進ませ、いくつかのドアを突っ切り、更衣室に入った。素早く防護服を着用し、暗視スコープ双眼鏡を首に掛けて、再び通路に足を踏み出した。
その後、屋上のヘリポートに続く正面手前の階段を上り、それぞれ現場に配置した部下達に考えを巡らせた。
自衛隊と共に民間人の救助に当たる者、疫病センターで警備に当たる者、そして街中を跋扈しているレッドソウルと闘う者。もう誰一人として犠牲者を出したくない。
だが、今夜も多くの部下や自衛隊、そして民間人の犠牲が被(こうむ)られる。そんな現実に憤りを感じた。
君嶋は重苦しい溜息をつき、屋上のドアの取っ手を回した。狭い階段室から広いヘリポートに足を移動させると、生温い潮風が防護服を掠めた。
ここ北側全域には、月明かりが溶け込んだ紺碧の海がどこまでも広がっている。大規模な停電によりネオンが失われた為、閃々とした星々が地平線を鮮明に照らしていた。
(海の向こう側も、東京と同じ悲惨な状況だろう。歴史上もっとも最悪なパンデミックだ……)
多くの人々が<死者蘇生ウイルス>に犯され、<新型狂犬病ウイルス>に感染したレッドソウルの餌食となり、苦しんでいるはずだ。一人でも多くの命を救いたい、そんな大きな使命感に駆られた君嶋の耳にプロペラの回転音が聞こえた。
君嶋は上空を見上げた。一機の汎用ヘリコプターがこちらに向かってくる。どうやら部下が迎えに来たようだ。
<化学島>において特殊部隊に与えられたヘリコプターの総機数は五機。そのうち三機が機関砲等の対地攻撃兵器を搭載した軍用ヘリコプター(攻撃ヘリコプター)で、残り二機が汎用ヘリコプターとなっている。
今まで続いた戦闘にてヘリコプターを活用しなかった理由は、兵器による上空からの攻撃では民間人に危険を及ぼす可能性があったからだ。
だが、今は部下達が民間人の救出に当たっている。街中にはレッドソウルが蔓延るだけだ。上戸を介した政府の命令なんざクソくらえと言わんばかりに、君嶋ならではの作戦に出たのだ。
やはり上空からの攻撃は、広範囲で敵に打撃を与えらる。戦地であれば地上からの銃攻撃により撃墜される恐れもあるが、レッドソウルは銃を持たない。
俺達人類は屈しない、必ず勝つ! 覚悟を決めた君嶋は、ギュッと唇を結んだ。そして心の中でもう一度誓いを唱えた。
必ず一人でも多くの人を救うと―――
闘志が漲る君嶋の足元の砂埃が、風圧によって巻き上がった。明確なヘリパットのマーク “H” の文字が描かれた離着陸の位置へと距離を縮めた汎用ヘリコプターが着陸した。
操縦士の安岡を含め、武装して搭乗した六人の兵士が君嶋に顔を向けた。ヘッドフォンを装着した安岡が君嶋を急かし、大きく手招きする。
「早く乗ってください、君嶋指揮官!」
「言われなくても今乗る」
汎用ヘリコプターに乗った君嶋は、兵士の一人から得意の機関銃を受け取り、給弾式ベルトを肩に掛けた。
上昇する機内で、銃に弾を装填する兵士の一人に君嶋がたずねた。
「現場の状況は? 都心部はどうなっている?」
答える兵士。
「疫病センターそして病院の隔離施設等に民間人を搬送している最中ですが、今のところ問題は起きていません。
都心部は相変わらず多くのレッドソウルが猛威を振るっていますが、上空からの攻撃により形勢逆転したかと思われます」
「そうか」
何とかこちら側が押しているようだ。何とか乗り切れるかもしれないと思い、ふと前方に広がる停電した街並みに目をやった。それから浜辺の波打ち際に目を転じた。何もないはずの砂浜に、ゴロゴロと何かが転がっている。それも大量に……
小さな的(まと)に狙いを定めるダーツように眇めて凝視する。しかし、暗くて視界が悪い為、よく見えない。胸元にぶら下げた双眼鏡を手にし、覗いてみた。物体の正体を捉えた君嶋は愕然とする。
緑を帯びたその視界の先にはっきりと見える―――
死体―――
数千、いや……数万の夥しい死体が波打ち際に累々と横たわっていたのだ。
水面に浮いている海水でふやけた死体。
身体の一部が掛けた死体。
レッドソウルなのか非感染者の民間人なのか、ここからでは判別できない。
だが、元をたどせば<新型狂犬病ウイルス>犯された者達も人間だ。余りの変貌ぶりに悍ましいアンデッドモンスターにしか見えないが……
彼らが人間だったことを忘れてしまいそうだった。
「酷い……最悪の光景だ」君嶋の目に涙が浮かんだ。「クソ……」
太陽が地上を照らしていた時間帯、君嶋はジープで鉄橋を渡っている。その時は人っ子一人浮いていなかった。
どこかの国でなくなった者達が東京に流れ着いたのか……
どこの国の人間なのか高性能の暗視スコープ双眼鏡を用いてはいるが、それこそ、この距離から判別するのは難しい。
深刻表情の君嶋に安岡が言った。
「今日は猛暑日でした。炎天下に晒された死体の腐敗が進行し、全身にガスが溜まって膨らんだ状態の死体処理に追われてました。
この殺人ウイルスの次に、腐敗した死体から別のモンスター病原体が発生しては元も子もないので、否応なしに山積みにして燃やす作業の繰り返しでしたよ」
君嶋は一言だけ「……。ご苦労だったな」と返事を返した。これ以外の言葉が思い浮かばなかったのだ。
この光景に慨然とし、自ずと口数も減る。忌々しくさえ感じる<ノア>が放つ光に目をやり、唇を結んだ。
都心部が近くなるにつれ、生温い風に運ばれてきた死臭が辺り一帯を呑み込んでいるようだった。きっと、防護服を着用していなければ、凄まじい戦場の光景を思い起こさせるだろう。
君嶋にとって死臭は、戦地で幾度となく嗅いできた臭いだ。この臭いが平和な日本に蔓延するとは思ってもみなかった。酷い臭いだが長時間底に留まれば、不思議とそれが当たり前の匂いなんだ、と頭が勝手に認識する。
嗅覚は脳ににおいを運び、運ばれてきたそのにおいで外部の情報を処理する。死体が放つ臭いに鼻が慣れるということは、脳の感覚も麻痺しているということ。
(そのうち、波打ち際に寄せられた夥しい数の死体も当たり前の光景だと感じるようになるのだろか……
感覚の麻痺は人を狂わせる。恐怖でさえ麻痺していく。街中で暴動が起きなきゃいいが……)
汎用ヘリコプターは東京湾を越え、視線の遥か先に見えていた都心部に突入した。上空から都心部を眺臨する。平和の象徴だったネオンの光りの代わりに、建物から燃え広がる炎の光が目立っていた。穏やかな日常を炎が全て奪い去っていく。逃げ遅れた市民の悲鳴が聞こえてきそうだった。
大規模な出火から立ち上る灰色の煙が周囲数キロに渡り、広範囲で魔の手を伸ばしている。自衛隊のヘリコプターが上空から懸命な消火活動を行うが、炎は当分収まりそうにない。
双眼鏡を覗いた君嶋は、墨田区の方向に視線を向けた。<新型狂犬病ウイルス>に感染したレッドソウルがスカイツリーに登っていた。余りにもレッドソウルの数が多い為、鉄骨部分など覗く場所がないくらいだ。いったいどれだけの人間がレッドソウルになってしまったのだろうか、と全国の国民を慮(おもんぱか)る。
その時、上空を飛んでいた一機の自衛隊の攻撃ヘリコプターがスカイツリーに登っているレッドソウルを狙撃し始めた。夥しい数の銃弾に身体を撃ち抜かれ、見るも無残な姿で幾千ものレッドソウルが地上に落下していった。
武器を持たぬレッドソウルを撃ち落とすなど容易いように見えた。しかし、レッドソウルは素早い手足で鉄骨を這い上がり、次から次へと攻撃ヘリコプターに飛び掛かっていった。バランスを崩した攻撃ヘリコプターは、レッドソウルの群れをぶら下げたまま旋回し、勢いよく落下していく。
激しく回転するプロペラが鉄骨に当たり、銃器から放たれた弾丸の如き勢いよく折れた破片がこちらに向かって飛んできた。飛び散るプロペラの残骸に当たれば、自分達の機体も墜落しかねない。顔色を変えた君嶋が叫んだ。
「危ない!」
他の兵士らも咄嗟に声を上げる。
「安岡! 避けろ!」
兵士ら以上に声を張り上げる安岡。
「言われなくても!」
安岡はすぐさま機体を横向きにし、急降下させた。プロペラの破片は、間一髪で機体を横切っていった。
内心、焦りを感じた。掌も冷汗でぐっしょりとしていたが、危機を乗り切った安堵感からか得意げな口調で生意気を言った。
「腕がいい操縦士の俺様でよかったな」
「ああ、全くだ」兵士の一人が安岡に返事を返した。
「疫病センターまで気は抜くな」君嶋が言った。
「イエッサ、君嶋指揮官」
君嶋らは助かったが、墜落した自衛隊の攻撃ヘリコプターは爆発し、機体から高らかに炎が上がった。
一同は追悼の意を込め、炎に巻かれゆく機体を見つめた―――
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