第8話「猫なんだから発情期くらいあります!(後編)」
(承前)
まるは、90年前の土岐氏と、ばったり廊下で遭遇してしまった。
思わず、いつものように後足で立ち上がって両手を顔の右にそろえるポーズをするところだったが、この時代のまるはそんな事をしないので、流石に堪えた。しかし、全身の毛が逆立つのは堪え切らなかった。
「おや?まる。どうしたんだい。ご飯を食べてた筈だけど」
<ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい! どうしよう?!>
「何をそんなに怒ってるんだい。んー?」
そういいながら、土岐氏はまるを抱きかかえた。彼女がビジネスパートナーになってからは、彼女の「人格」を尊重してやらなくなった行為だった。
「にゃ、にゃあぁん」
まるは必死で鳴いてみる。すると、土岐氏、首をかしげる。
「あれ。ずいぶん重い気がするな。食べ過ぎたのかい?」
まるは目を丸くして、「失礼な人ね!」と抗議しようとしてギリギリで自制した。
「あ゛~お」
猫語で何とか応対する。こうなるんだったら、ヘッドセットを外しておけばよかった。と思い直して、腰のシークレット・ポシェットを思い出す。荷物はそこに入れている。一見すると分からないが、細かく触られると異物感が有る筈だ。出来る限りそこを触られないように、体をねじって腕を飛び出して廊下に降り立つ。
「うにゃっ」
短く鳴いてじっと土岐氏の顔を見つめる。これは昔からやっていたアイ・コンタクト会話だ。
<お願い、今は構わないで>
「んー?……機嫌が悪いのかい?」
「にゃっ」
「そうか……ごめんよ、小さなレディ。構い過ぎたんだね」
土岐氏はそういって背を向けると、廊下を去って行こうとした。
<……あ。待って……>
まるはこの後、土岐氏とは15年に渡る長いお別れが来るのを知っていた。だから、こういう形で終わりたくない。
「にゃ~~ん」
精一杯の甘え声を出して見た。土岐氏は振り返り、しゃがんで顔の高さをまるに近づけると、にっこり笑った。髭面で、一見するとちょっと厳ついイメージのある土岐氏だったが、笑顔が最高にキュートな男性だ。別れを思うと、思わず涙がじわっと出て、泣きそうになる。
そんな顔を見せたくなくて、まるはくるりと後ろを向いて、尻尾で答えた。
「あんまり遠くに行くんじゃないぞ」
土岐氏の呼びかけに、
<ごめんね。その約束は守れないわ。帰ってくる私を15年後まで待っていて>
と、一人噛みしめて「だっ」と、駆けだすまるだった。
<未来の私と彼との関係をちゃんと保つ為にも、このミッションは成功させないといけない。泣いてる暇なんてない。急がなくちゃ>
§
アレクシアは、自室の前まで来て、はっとしていた。
なんと、寝巻のままの自分がドアを開けて出て来ていたのだ。
<ちょっと待って!こんなの記憶にないわよ>
さっと背を向けて誤魔化してみた。
「あーねえ、ちょっとそこの船員さん」
猛烈に眠そうな声で、過去のアレクシアは、未来のアレクシアに呼びかけた。未来のアレクシアは、わざとだみ声で答える。
「なんでしょうか?」
過去のアレクシアは、不審そうに
「ん~~~?」
と云ったが、すぐに
「あんたも風邪なの? 参ったよねえ。私なんて厨房係だから、風邪が治るまで仕事もろくにできないのよ。お給金減っちゃうわ」
「まったくだね、困った問題だ。げほがほ」
と、とっさに機転を聞かせて応えてみる。
「お水を頂きに行こうと思ったんだけど、よく考えたら私、出歩いちゃダメなんだったわ。部屋に戻るわね」
「あ、ああ、そうしたほうがいい。お水はあとで届けさせるよ」
過去のアレクシアは猛烈な欠伸をしてから答えた。
「そうしてくれると助かるわあ、ふあああああああああ。私寝てるわ」
そう答えると、過去のアレクシアはドアの向こうに消えると、ドアをぱったりと閉じた。その機に乗じてドアのロックを操作する未来のアレクシア。
<ごめんねえ、お水は誰も持ってこないわ。あなたは多分寝ぼけてるんだろうから、起きたら気のせいだと思って欲しい。まあ、あの事件があるから、それどころじゃなくなるかな>
量子力学的レベルの問題が未来に響くことも、ごくまれにある。
しかし、大方の時間旅行による事象において、重要なのは「未来に重要なイベントの結果が伝わるか否か」である。
大抵の大きな事象は「未来に向かう慣性」の様なものを持っているため、多少の細かいノイズ的な事象が入っても、大きく変わらない未来につながる。ごくごくまれに、バタフライ・エフェクトを地で行くような大変革が有るのだが、それはなんというか、精密に計算されたドミノ倒しというか、インクレディブル・マシンというか、ピタ云々というか、そういった「装置」の為せる技か、さもなければ「キー」になる事象を書き換えてしまった時だ。
例えば、世界の命運を左右する計算をしている、正常に動作するはずのコンピュータのナノサイズの配線を切ってしまうとか、そういう類のピンポイントに関わる具象的な事だ(いや、普通はフェイルセイフなコンピュータを使うでしょうけど)。どことも知らない粒子を一個壊したから世界が変わってしまう。という可能性はほぼ無い。針の穴を通すような作業をしないと時間が修復できないのだったら、ほとんどだれが来ても修復なんてできる訳もない。時間自身の慣性が、修復のお手伝いをしてくれるから、今回のまるが行おうとしている時間修復が現実味を帯びるのである。
だから、まるとアレクシアの二人が過去の人々に出会った事実は消えないが、重要なキータームを崩していない限り、未来が激変することはまずないと思ってよい。
異星人は過去に戻る手段と共に、歴史の改変を、高次元からの変化を俯瞰することで探知する装置、歴史改変度数探知装置(History modified frequency detection device=ヒモフレディ)も与えてくれていた。ヒモフレディには現在は、彼女らが元もと居た歴史線からのかい離を示す表示が出ていた。
かい離の開始点はあと30分後、ピンインがやってきて、過去のまるに接触するところからだった。彼女らの接触によるかい離は回避されていた。
§
未来からの観測により、ピンインが変動を起こす要因は、いきなり過去のまると接触した所為だと思われた。恐らくは、突然に現れた普通の猫の数倍の体躯のオセロットを見た過去のまるが逃げ出し、遭難エリアである展望デッキに行かなかったのだろう。
まる自身の記憶だと、早めの御飯を食べた後は、特に誰と出会うことも無く、展望デッキに向かっていた。いかに邪魔せずに、過去のまるを展望デッキに向かわせるかがカギだ。
未来のまるは、食堂の隅にあるまるの食事スペースを、陰からちらりとのぞいた。
「うんにゃうんにゃ♪」
過去のまるは、まさに今お食事中だった。
<あー…。なんとなく覚えてるわ。この朝のごはん美味しかったなぁ>
実際、良い材料を使った贅沢なメニューだったのだが、直後に無茶苦茶な目に遭って遭難し、ろくなご飯を食べなかった所為もあってか、このご飯はまるの中でとても美化されていた。
タイマーを確認すると、歴史改変まであと15分。
<『過去の私』は食事を食べ終わるまでは動く気配はなさそうだし、ここは離れてピンインの出現ポイントを調べないと>
まるはその場を離れ、山猫氏の出現予想ポイントに向かった。どうやら、彼は出現した時に重なり合わない場所だったらどこでもいいという、かなり大雑把な座標指定をしていたようで、船内の多目的ホールが出現予想地点だった。船内時間で早朝とはいえ、人影がちらほらある。よく見ると、まだ乗客は部屋にいるらしく、船員がくつろいでいた。
ホールに人が居なければ困る、という事態は、時間線からしてなさそうであるし、このホールにピンインが出現した結果の時間線の変更は若干認められる。
<結構人が居るわね。こんな場所に彼が出現したら、それこそ時間改変の火種をばら撒いちゃうじゃない。ちょっと人払いしたほうがいいかな>
未来のまるは、このホールから関係ない人を退去させる方法をちょっと考えた。騒ぎを起こして警報を鳴らすと、ピンインの出現以上に予測不能な事態を生んでしまうから却下だ。もっと自然に人を動かしたいところである。まるはこの時かなり早く起きて、早朝から仕込みをしているシェフにご飯をねだった。夜間シフトの乗員以外は、早朝業務の時間の筈である。どちらにしろ、そろそろ引き継ぎ時間だし、ホールでウロウロしているようなタイミングではないはずだ。
<ホールにいるのは男性船員4人。……ははあ、こいつら、十中八九サボり船員だわね。さて、そうすると……>
「こらそこの船員!あんたたち未だ業務の時間じゃないのっ?」
人の声で脅してみた。
「うわわわ、も、申し訳ありません」
ビンゴ! 船員どもはぞろぞろと退去していった。
さて、これで奴が来ても大丈夫。まるは、ホールの隅っこで時間が来るのを待つ。
『船長、こちら〈
シークレット・ポシェットに入れていた通信機から、アレクシアが連絡を入れてきた。
『了解、こちらもピンインの出現予想ポイントから人を退去させて待機中ぅってあれ、ちょっと!』
未来のまるの視野に、過去のまるがやって来てしまった。
『予定外の自体、私が来ちゃったわよ。どうしよう、私が出ていって止める訳にもいかないし』
『私がそちらに急行しましょうか?』
『ダメ、貴女がこちらに来る前にピンインが到着してしまうわ。別の方法を考える』
<どうする、どうする、あと何分も無い。あ、過去の私そんなところでくつろぐんじゃない。ああああああ、どうしようどうし……ああもう時間が!>
時間切れ。
§
1時間前の〈コピ・ルアック〉のラボ。
ピンインは新しい知性化にわくわくしていた。
特に、
「過去に干渉できる、いや、過去に行くことができる?」
『可能ですが、非常にリスクが大きい装置です。操作はご遠慮ください』
「ふむふむ。わかった」
口では大人しく了解して見せたピンインだったが、そんな事で引き下がるつもりはなかった。要は、上手くやればいいのだ。そういう風に「了解」していた。
「じゃこっちの装置は何だろう」
『そちらはですね…』
ひとしきり、
そのタイミングが約1時間なのは学習でわかっていたので、ソフトウェアワームを船内ネットワークに放ち、彼の最近の行動に対する
「これでアリバイ作りはオッケー。と」
しかし、実はすでに一部の記憶は加工を済ませてあったために、永続記憶に送られていた。そのおかげで彼の犯行が明るみに出たわけだった。次に、記憶喪失状態の
「あとは、この通訳機能を
ナノマシンによる通信機能を過去で動作させられるように、モバイルコアにプログラムをして、
「よし、これで移動準備完了」
次に彼は、移動先を
彼は台の上に飛び乗り、自分を中心とした半径1m程度の空間を、過去に向かって転送開始した。
§
「どんがらがっしゃーん!」
大音響とともに、ホールほぼ中央に、ピンインと、周辺の装置であったはずのものが、彼を中心に球形に切り落とされた「がらくた」となって降り注いだ。
これには、未来のまるも度肝を抜かれた。しかし、一番驚いたのは過去のまるだった。
全身の毛を立てたと思いきや、一目散に元来た通路に走って行った。そして……。
「どすん!」
過去のまるが走って行った通路の奥で、何かがぶつかる音がした。
「あああああああああ、もうダメだわ」
未来のまるが叫ぶと、がれきのど真ん中できょとんとして周りを見回していたピンインが、彼女の方を向く。
「え?あれ? 何がどうなって、え?」
<この阿呆のすっとこどっこいのガキがあああああ!>
なんとなく歴史改変の概要が見えてきた。
要するに、このガキがろくに計画もせずに、好奇心だけに突き動かされて、不十分な態勢で過去旅行に来たのがまずかったのだ。
彼が出現したことも大事件だが、過去のまるは、彼が巻き込んで過去に持ってきてしまった瓦礫の音で心底驚いて、とっさに逃げ出したあげく、どこかの壁にでもぶつかって、気を失ってしまったのだろう。
「そこのガキ!なんて事してくれたのよ!とにかくこの時代の私を追うわよ!」
あと20分もしないうちに「例の事故」が起きる。そこまでに歴史を修正しないと。
「は、はいっ」
未来のまるはピンインを連れて、過去のまるの行先に向かった。
過去のまるは、壁に突進して突っ込んだあげく、例の緩衝材に包まれて、ボールになっていた。
「やだ何これ」
まるは自分の有様に苦笑した。どうやら、まるが突っ込んだ衝撃を危険と察知したらしい。なるほど、この状態で身動きが取れずに居る間に、事故が発生してしまうわけね…。
「ピンイン、手伝って。この子を事件が発生する前に、あるべきところまで動かすわよ」
「お、おう」
ピンインは事態が把握できていないらしい。どうやら、事故の事は知っていても、具体的な状態についてなどはろくに学習せずに来たらしい。未来のまるは見事な手さばきで、結束テープを使ってピンインの背中に過去のまるが入ってい緩衝材のボールを載せた。
「時間との勝負よ、慌てずに走るからね」
未来のまるは、ホールから展望デッキに向けての道を、ピンインと走る。
<確かあの朝は、ホールから出た後は誰ともすれ違わずに展望デッキに抜けたと思う。でも、ホールで油を売っていた船員の事は忘れていた。他にどれくらい忘れていることがあるのかしら>
未来のまるは、必死で過去の事を思い出そうとした。しかし、知性化前の記憶だし、どうにも曖昧な点が多く、正確な記憶とは程遠かった。多分、直後に大事件が起きたために、特に印象の強かった記憶が強化されて残ったのだろうが、同時に、知性化の影響で必要な部分以外がすっぱりと抜け落ちたのだろう。
「ピンイン、貴方はなぜこんな馬鹿げたことをやろうとしたのよ」
「僕は……僕はただ、貴女にもう少し僕を見てほしかったから……」
「だったら!」
未来のまるは立ち止まった。ピンインも立ち止まって彼女の方を見る。
「だったら正攻法で来なさいよ。こんな真似して、歴史を壊しちゃったら、何も残らないじゃない」
「……」
まるは再び走り出した。だが、ピンインは少し立ち止まって考えていた。
「急ぎなさいよ。この私が消えちゃってもいいの?」
「嫌です!……嫌だけど」
「なに?」
「この航宙が終わったら、もう貴女とは会えなくなる。せっかく知り合った、心の通じる相手なのに……」
未来のまるは苦笑した。
「いいこと?」
「はい?」
「まだ肉球もつるつるしてるようなガキが、生意気言ってるんじゃないわよ」
彼女の言い様に、ピンインは面食らった。そして、肉球がつるつるしてるのなんて、赤ん坊の事じゃないか。と、云おうとした。だが、彼女の顔が、猫の笑い顔だと気がついて、尻尾をぴぴんと震わせた。
「あなたはまだ若いじゃない、延命の投薬も受けるのよね。
ピンインの耳の先がほのかに赤い。赤面している、という事なのだろうか。
「分かり……ました。先を急ぎましょう」
二匹は再び走り出そうとした。だが、未来のまるは違和感を感じた。
「ちょっと待って! 隠れて」
ピンインは云われたとおり、通路わきに身をひそめる。
未来のまるはT字路に出るとくるりと見回した。そこには、予想外の相手が居た。
§
アレクシアは、固唾を飲みながら、
まる船長が動き出してから、一瞬は、時間線がほぼ修復された状態に見えたのだが、今それが微妙な状態になっていた。
「船長、どうしました。再び時間線が安定しなくなっていますよ」
『あ、アレクシア。ちょっと拙いことになったわ、予想外の相手と遭遇しちゃって』
「どなたです?」
『名前も覚えていないんだけどね。恋のさや当てが始まりそうな感じ。この船に乗ってる私へのペアリングの相手とばったり遭遇しちゃってるの』
「えーっ。どうするんですか?」
『とにかくピンインを迂回させたい。ただ、過去の私はドジって緩衝剤ボールになっちゃってるからそのまま運んでいるんだけど、そろそろ解けるころなのよね。あまり時間も無いし』
アレクシアは手早く船内の状態を調べて、迂回路を見つけた。
「船長のいるブロックから2ブロックほど戻ったところで、梯子でのぼる展望デッキに続くメンテナンス通路がありますね。ピンインは人の機械を操作できますか?」
『できる筈よ。指示してみるわ』
未来のまるは、ピンインに声で指示した。
「2ブロック戻って、梯子でのぼって、メンテナンス通路が展望デッキに繋がっているわ」
「わかった」
ピンインはだっと走り出した。
<さて、残るはもう一匹の男か>
未来のまるの前には、懐かしい美しい黒猫が居た。まるの中ではかなり美化されている思い出だったが、今逢ってみると、結局彼は、知性化されていないただの黒猫に過ぎなかった。
<昔の未練、っていう奴かなぁ>
「なーう」
まるは呼びかけてみる。
「あぉう」
黒猫も声を返してきた。黒猫と、尻尾を絡めながら猫の挨拶をしてみる。
<駄目だわ、吹き出しちゃいそう>
どうにも、原始的な猫同士の逢瀬の感覚が、彼女の中では過去のものになっていることに、嫌でも気づかされた。
<さようなら、私のきれいな思い出>
次の瞬間、まるは相手を軽く威嚇した。
「ふぁーっ!」
雄猫は面食らった顔をした。上手くいきかけていたのに、突然の拒絶だったからだ。だが、すぐに彼女の身体にふわりと残った、オスの残り香に気が付いた。イエネコでは到底太刀打ちできないヤマネコの臭気。
黒猫は、今の自分では到底かなわない相手の気配に気圧された。そして、名残惜しそうな顔をしながら、元来た道を引き返した。
「なあん」
黒猫は一度振り返ると、悲しそうに泣いた。彼の精いっぱいの抵抗だったのだろう。
<バイバイ>
未来のまるも、黒猫の悲しそうな声に呼応して、ちょっと泣いていた。
<あれ?>
まるにはこの黒猫の悲しそうな素振りに、妙な
仔猫の時に発現する「キトゥン・ブルー」ではない、成猫の青い目。シャムの一部の血統に発現するらしい。黒い身体に青い目、それはとてもエキゾチックな雰囲気だった。
<そうだ、この子の名前、確かその目にちなんでいたっけ。あおめ。確か、そんな名前だった気がする。もし私が事故に遭っていなかったら、あなたの伴侶になっていたかもしれないわね。でもさようなら、あおめ。あなたの姿に既視感があるのは、私の罪悪感かも知れない>
「さて、こんな事してられないわ」
まるは走ってピンインの後を追った。
ピンインは、展望デッキ手前に降りて、背中にくくりつけられた、過去のまるの入った緩衝剤を必死で剥がそうとしていたが、自力ではどうにもうまくいかなかった。そこに未来のまるが来た。
「遅くなってごめんなさい、手伝うわ。御免ちょっと痛いかも」
べりっ、と、テープを急いで剥がす。
「あいたたた」
「流石にちょっと一杯毛が抜けたわね。ごめんなさい。でも、ゼロ時間まであと5分しかない」
緩衝ボールを展望デッキの中にコロコロと入れる。
「これで何とかなるといいんだけど」
展望デッキのドアをロックし、ピンインを連れてまるは再び走り出した。
「アレクシア!現状報告!」
『船長、やりました、修復されています。早くこちらに戻ってください!』
どうやら、かなり乱暴な修復だったが、上手くいきそうだ。あとは未来のまるたちはこの時間線から離れて、元の時間線に復帰する必要がある。その時に、二つの経路の自分をうまく同期しなければ、元の世界に戻れない。
問題は倉庫までの道のりだ。途中誰かに有ったら、まるはどうにかなっても、オセロットのピンインはただでは済まない。人に遭遇せずに全速力で向かわなければ。
そこで、ピンインは何かを思い出したようだった。
「あ、そうだ。これ使いましょう」
彼が取り出したのは帽子のような小さな装置。彼が頭に乗せたその装置を軽く操作すると、彼の姿は消えた。
「異星人の個人用の
「そんな便利なものがあるならさっさと出してほしかったわよ」
<あーもう、私のさっきの苦労は何だったの>
まるも隠蔽装置を使って消え、二人は真っ直ぐに倉庫までたどり着いた。残り時間30秒だった。
§
二匹が隠蔽を解いて近づくと、アレクシアが小型艇の入口を開けた。
「準備は出来ています、急ぎましょう」
まるとピンインが船内に入る。
「よし、事故まであと5秒!」
まるが考えていた「脱出時の操船」は、この時に乗じることだった。
「操縦は私がやる!」
まるは操縦席に飛び移ると、船を浮上させた。
「どぅん!」
その瞬間、巨大な振動が来た。
「よし、例の事故だわ、この機に乗じて脱出するわよ!」
まるはワープシェルを動作させた。かなりの振動が起きたはずだが、そもそもが事故の振動で船体が引っ掻き回されている。
「ワープドライブ始動!」
レインボーフラワー2の船内から、〈
「時間跳躍準備。未来時空座標固定。時間跳躍エンジン始動!」
世界がほぐれ、そして再集約した。
§
目の前には、懐かしい〈コピ・ルアック〉が居た。だが、彼らはまだ時間旅行から脱出していない。
「時間線の誤差は?!」
まるはすぐに
「本来の時間線との誤差0.0001%未満。帰って来たああああ」
だが最後の差異だけが赤々と光っている。
「帰還ボタンを押すことで、私たちはこの時間の自分たちと
時間線の外にいた自分たちは、まだこの時間線に「帰還」は出来ない。
今度は、自分たちをこの時間線に合わせて「ブレンド」する必要がある。例えば、ピンインによる時間改変は無かったことになっているから、まるとアレクシアは出発すらしていないはずなのが、現実にはそうなっていないからだ。
この「ブレンド」の仕組みは、何度も
この場合、ピンインは過去に戻る原因を打ち消されていないため、100%の姿で船内に再現される。ほかはこの時空のいるべき場所に再生されるのだ。
「じゃあ、帰還!」
帰還ボタンを押した次の瞬間、まるは茫然としているラファエル副長たちの前にいた。
「えっと……ただいま」
§
「つまり、船長とアレクシア料理長は、過去に行って時間線を修復してきた。という事ですか」
胡散臭そうに聞くラファエルに、〈
「というかね、私の一部がそうだ。ということ。帰還時に『ブレンド』されたのよ」
彼女の中は非常に妙なことが起きていた。知性化前の記憶が一部ダブっている。
「正史」と「改変後」の両方の記憶があるのだ。同時に、過去に戻っていた記憶もあるが、もう一つの記憶ではそれは存在しない。ピンインがどこかに行ったと思ったら、〈
アレクシアも奇妙な経験を抱えてしまっている。これは時間認識の同一性の崩壊だ。
「時間旅行は危険すぎるわね。時間改変の危険もあるし、旅行した本人の自己同一性にも問題を引き起こしかねないわ。本当に必要なとき以外は封印しましょう」
「それが賢明のようですな」
かくして、〈
§
それから二日は、まるとピンインとまるの緊張も取れ、和やかな旅となった。彼は朝食会議にも招待され、研究中の面白い話なども披露された。
だが、最後の日の朝食会議で彼が話した内容は、ちょっと引っかかった。
「私の名前の読み方、おかしいですよね?」
「どういうこと?」
「私の名前の発音記号ですが『shengren』なのです。本来はシェンレンなのですよ。ピンインという発音は、本来正しくないんです」
「ふむ……」
それはいちばん最初に聞かされた時にも引っかかった内容ではあった。
「それと、〈地球通商圏〉から派遣されたという巨大戦艦ですが、なぜ字が〈大自在天〉で、呼び名が〈マヘーシュヴァラ〉なんでしょうね?単に『シヴァ』の方が通りも良い筈です」
「中国とインドの文化がかなりいい加減に混ざっているわね。まさか、未だに〈地球通商圏〉は統一されていない……とか?」
「あるいは」
「私自身も知性化前の事だから、記憶はほとんどありません。でも、何と云えばいいんでしょう。とても妙な世界にいた気がするのです」
「興味深い話ではあるわね」
「でしょう?まあ、話しの種程度の事ではありますけど」
ちょうどアレクシアが、まるとピンインに特製のパイを持ってきていた。
「いいえ、とても面白いわ。あとで調べてみますね。では御飯にしましょうか」
特に確証の無い話でもあったし、この時は、その話はここでおしまいになった。
§
夕刻、いよいよ最後の超空間ゲート通過も終わり、〈コピ・ルアック〉は〈蝶の翅太陽系〉の、巨大コロニーの前にいた。すでに、迎えの船は到着してドッキングを済ませている。
「それでは船長。色々お騒がしたり、大変お世話になりました」
ピンインは迎えの職員との手続きをしながら、まるに別れを告げた。
「また今度会う時には、少しは成長して頂けていると助かりますわ」
まるも、社交辞令以上の意味を込めて答えた。
「船長にときめいて頂ける程度には、自分を磨いておきますよ」
そういって背を向けて、職員と一緒に去ろうとした後、再び振り返った。
「あ、そうそう」
「?」
「例の黒猫君ね。この歴史だと、延命措置受けているらしいですよ」
「え?」
「あなたのすぐ近くにいるかもしれませんね。さて、僕も負けてられません。じゃ、また♪」
「ちょっと待って、え?」
どうやら、まるはモテるらしい。
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