第22話「珈琲豆は焙煎中!02:黒猫は悪戯がお好き?」

(承前)


「90……年って……」


 90年前の知り合い。黒猫。まるには心当たりは一つしかない。


<でも――何で「あいつ」がここに居るの>


 まるの頭には疑問が渦を巻いていた。その中から、辛うじて一つを選び出して尋ねる。


「私が90年前から知っている彼は、人の言葉なんて喋らなかったわ」


 努めて平静を保ったものの、人工音声にも動揺からノイズが乗っていた。その動揺を読み取ってか、黒猫は平然と答えを返してきた。


『まるだって喋ってるじゃないか。珍しくもないさ』


 それはそうだ、いや、そうだけどそうじゃない。


「私は好きでこうなった訳じゃないわ。あなたは――」


 そう。彼は普通の猫だった筈だ。もし黒猫が昔から知性化されて居たのだとしたら、彼がこの時代まで生きる原因を作ったもう一匹の雄猫――知性化されたオセロット・ヤマネコのピンインが黙っていなかったろう。


 そもそも、そのピンインでさえ、最初は音声を発することはしなかった。

 黒猫に起きた変化は、知性化だけではない。どうやってかまると同じく合成音声? を獲得し、機械の制御も出来ている。まるはサバイバルという必要に迫られてそれらを獲得した。この黒猫には何が有ったのか?

 あんな事故が二度三度と起きる筈もない。誰かが彼にこれらの力を授けたと考えるのが妥当だろう。


 黒猫はそんなまるの動揺を、逃げられなくなった鼠を甚振いたぶる様に面白がっていた。猫の性悪面が全開である。だが、邪悪とすら言えるその表情を、空色の目が辛うじて神秘的という言葉にすり替えている。90年前の若かった彼より魅力的であるとさえいえた。


『僕だって望んだわけじゃない』


 彼のその神秘的な目に、ふっと悲しみというか、空虚な色が見て取れたのは、まるの気の所為だったのかも知れない。

 彼は、これ以上の説明をするつもりはないらしい。

 状況から考えれば、人類圏で失敗が続いている雄猫の知性化を造作も無くやり遂げ、音声合成インターフェイスや手先を器用にする技術を与えることができる人物は一人しかいないし、その人物は今回の事件の発端でもあった。


「羽賀参事官なの? 何故?」


 そう、羽賀参事官を除いて、こういう出鱈目な不可能事を可能にしてしまう人をまるは知らない、いや、不可能事が可能になったといえば羽賀参事官だと思って殆ど間違いない。だが、まるの問いに黒猫は直接の答えを避けた。


『あーあ、ここは退屈で仕方がないや。羽賀さんは僕を閉じ込めて置こうとするし』


 そう、そこなのだ。

 彼はいきなり羽賀参事官との通話を妨害してきた。羽賀参事官がまるを呼び出した理由は十中八九この黒猫が原因だろう、でも何がそんなに厄介なんだろう。


「あなたと羽賀参事官の関係は何?」


 氷のようなまるの口調に、黒猫はスクリーンの中でやれやれという風に首を振ると、顔を洗い、そして正面に向き直って、獲物を見る目で答えた。


『ねえ、まる』


 雌猫にそういう視線を投げかける雄は、ろくなもんじゃない。しかもこいつの口調は90歳を超えているとは到底思えない。モチベーションが餓鬼そのものだ。


「なにかしら」

『さっきから質問ばっかり。つまんないよ。おばさん臭い。僕の好きだった可愛い三毛ちゃんはどこに行ったのかな?』


 この一言はまるの神経を逆なでするには十分だった。


「あなただって私と同い年じゃない」

『そうかな? 出会った時は君は既に10才だったろ? 既に延命薬物エリクシアを使っていただけで』

「この歳で4,5歳の差なんてないも同じでしょ」

『怒らせちゃったかな。ああごめんごめん。女性に歳の話をさせるなんて、僕も失礼な事をしてしまったね』

「――ふざけるのも大概にしてね」


 まると謎の猫の応酬を見て、周りはハラハラするだけだったが、勇気を持ってラファエル副長がそっとまるに伝えた。


「船長、挑発に乗らないで。相手のペースに嵌って仕舞います」


 これを相手が見逃すわけもない。


『船長! ハッ! 船長!』


 黒猫はちょっと毛づくろいをして、それから続けた。


『可愛かった三毛猫ちゃんは、おばさんになった上に船長様に。そこの猿は優秀な副官という訳か』


 まるはぐっと牙をかみしめる。お蔭で口の端が切れてしまって血が流れた。


「まるさん……」


 ラファエル副長は掛ける声をなくした。


「あのにゃんこ、誰なの? まるの知り合い?」


 神楽がラファエル副長に耳打ちする。


「ええ、私も本猫ほんにんは見たことが無かったのですけど。90年前、まる船長が普通の猫だったころにお見合いをしたという黒猫じゃないかと」


 そう、彼はまさにまるの見合いの相手だった猫だ。

 「普通の猫」だったはずの猫だ。

 知性化技術では普通の雄猫は知性化にことごとく失敗している。というか、事故で知性化したまるを除いて、「イエネコ」での成功例はほぼ無かった筈だ。

 その空色の瞳、ビロードの様な毛並み。名前は――あおめ、だったと思う。確信は無い。

 まるの脳は、知性化前そのときは、はっきりとしたことを覚えられるようには出来ていなかった。この子の名前を最後に聞いたのが運よく知性化直前の記憶だったから、たまたま焼き付けられただけだろう。


 では、この子はなんで私の名前を憶えてる?


「私の名前をどこで知ったの? 知性化されてもいなかった貴方がおぼえている筈がない」


 黒猫の空色の目には何とも言えない光がよぎった。悪戯っぽいというか、少し怒りを感じるような激しさ。


「おや、そこに話を持っていくとは流石だね。でも、それなら君も僕の名前は覚えていないって事だよね」

<いや、ちがう――私は彼の名前を憶えてる。でも、黙っていた方がよさそう>


 神楽と会食する為に人型プローブを装着する際、まるはヘッドセットを通信機能付きのものに取り換えていた。そのヘッドセットなら、相手に気づかれずにある相手と会話ができる。〈コピ・ルアック〉を支える頭脳。FERISフェリスの一部だけを切り離した存在。


『「ふぇりす」、聞こえる?』

『はい、まる船長』

『何とか羽賀参事官と通信を再開できない?』

『妨害を何とかしないといけないんですが、亜空間搬送波に干渉する技術とか、見当もつかないです』

『困ったわね……』

『時間移動して、障害の無い状態で連絡しては?』

『改変ペナルティの時間がまだ残っているから、どの時空間エンジンも使えないわよ』

『――使えますけど』

『えっ?』


 過去に戻って、というのはまるも考えなくはなかったが、時空間エンジンは時間改変の度合いによって相当期間のロックが掛かってしまう仕組みだ。そして最後に残っていたエンジンも、武装貨物船競争で使い、すべてにロックが掛かって居る筈なのだ。


『ちょっと待ってよ、どういう事?』

『先程の羽賀参事官の通信の際に、同時に送られてきたコードがありまして、説明を見ると、この〈渡会わたらい雁金かりがね〉の時空間エンジンのリセットコードでした』


 まるは何だか肩の力が抜けた。

 羽賀参事官あの人にとって、ペナルティって何なんだろう。


『手回し良いわね――でも、過去改変って怖くない? もし修復不能に破壊しちゃったら――』

『このエンジンの設計者に不都合が出る様な改変はキャンセルされます』

『ほんとに都合が良いわね――ピンインの改変がOKだったのは偶然かしら?』

『〈コピ・ルアック〉がワープシェルに包まれていて、修復可能状態だったからでしょう』

『ふむ――じゃあ、座標と時間は「ふぇりす」がセットアップできる?』

『はい、準備できています。通信前に羽賀参事官の場所に行きつけば宜しいですか?』


 黒猫はまるの会話の不自然な「間」に気がついた。


『何かおかしなことを考えていないかい? 君の船がたとえワープしても、追跡できる技量は持っているよ』

<あらそう、でも時空間移動だとどうなのかしらね。でも変に突っついて藪蛇な事態になるのは避けたいな――>

『「ふぇりす」、移動先は羽賀参事官の連絡の2時間前にして』

『了解しました、――なぜ2時間なんですか?」

『私達が到着できるはずの無い最短時間よ。正直、どこまでマージンを取ればいいかいまいち分からないしね……、あの子の知性化前に戻れれば一番いいんでしょうけど、いつ知性化したのか分からない以上、下手に過去に戻り過ぎると、改変規模をいたずらに大きくしてしまうだけだし』

『了解です。他の乗員の方への連絡は?』

『状況的に無理だわ、事後説明で済ますから、やってちょうだい』

『では、時空エンジン始動』


 「ふぇりす」が答えると、転移は一瞬で起きた。


§


 時空肝転移の座標は、惑星〈種子島〉の上空だった。

 時間移動もだが、移動手段としてもこれは出鱈目だ。制限が掛からなければ最強の移動法になるのだろうか。


「え、何が一体」


 太田航宙士はきつねに包まれている。

 ラファエル副長はちょっと戸惑ったようだが、まるが何かやったことは察した。


「船長、どうやったかは分かりませんが、時空間移動しましたね?」


 まるは頷きながら答えた。


「ええ、羽賀参事官が手回ししてくれていたわ」

「あの人は何でもできますね――。それで、現在時刻は?」

「羽賀参事官から先程の連絡が入る2時間前。参事官が私たちに最初の緊急連絡を入れる直前くらいかしら。事情を聞いたらすぐ元の時間線に戻らなきゃ」


 まるはそういうと、コックピットのパネルを操作しながら、「ふぇりす」に指示を出した。


遮蔽装置クローキング始動、察知されないように指示されていた座標に降下して」

「了解、遮蔽装置クローキング始動。降下します」

<ほんと、〈渡会わたらい雁金かりがね〉は色々ご都合よすぎる技術の塊だけど、それでも今回はどこまで有効か分からないのが怖いわ>


 まるは顔を洗いながら思った。


 羽賀氏の実家は、広大な農場の片隅にあった。片隅とはいっても広大な敷地で、お屋敷というか、かつて日本という国にあった「城」に近かった。


「ふあー。本当にあるんですね、こういう家って」


 加藤が口をあんぐりあけながら言った。


「個人で日本の城を立てて住んでる人なんてそうそう居ないわね」


 苦笑いしつつ、ラファエル副長がまるに相談する。


「しかし、どうやって彼の家まで行きます? 羽賀参事官からの救援要請が出ていたことを考えれば、既に周辺は黒猫氏の監視下にある可能性が」


 まるもそこは不思議だった。


「彼がどの程度の力を持っているかは全く未知数だし――。でも、羽賀参事官は私たちをここに呼び出そうとしていたんだから、何らかのコンタクト方法は確保していたと思う」


 話していると、奥の部屋が退屈で出てきた定標じょうぼんでんが提案してきた。


「知人を装ってしれっと訪ねていくとか?」

「一つの手だとは思うけど、黒猫は監視してるでしょうし、羽賀参事官が把握しているうちの船の乗員はチェックされている可能性が高いわね」

『では、個人向け遮蔽クローキング装置をお持ちください。それでも不安でしたら、まる船長のプローブを別人仕様にしましょうか』


 まるが今使っている大きな猫耳のついたアイドルみたいな人型プローブは、本来FERISフェリスが自分で使うために用意していたものだ。まるが発注したのとは別人である。まる自身が頼んだものは中年程度の女性をイメージしていた。


「まあ、次善の策かしら。あとは瀬木君、君も来て」


 瀬木法務部長は船長にいきなり指名されて虚を突かれて辺りを見回した。


「え? え? 私は法務ですよ、外に出てそんな活動をするなんて」

「でも、うちの船の乗員でしょ。大丈夫、一定以上の能力を持っている人間しか採用っていないから」


 まるがプローブを起動すると、落ち着いた感じの女性の姿が現れた。


「うん、こっちがしっくりくるわ。もうあっちは使わないで良いよね」


 まるのその言葉に、「ふぇりす」が即座に反応した。


『残念ながら、あちらの方が高性能ですよ。羽賀参事官がクラックして性能を引き上げていますから。こちらは比較するとかなり使用制限があるように感じると思います』


 無表情なはずの「ふぇりす」の声が何故か少しいたずらっぽい本来のFERISフェリスの声のように聞こえた。


「あら、そうなんだ……ちょっと残念」


 そういってから、まるはひとしきりその恰好で動き回っていた。


「確かにちょっと動きがぎこちないわね――」

<でもまあ、実用にならないって程ではないかな>

「じゃ、羽賀参事官の所に行ってくるわね、瀬木君も急いで」


 まるは遮蔽クローキング装置を動作させて、瀬木を連れてこっそり下船すると、畑の脇の畑道を羽賀氏の実家に向かってぽてぽてと歩き出した。


§


 羽賀氏の実家は酷い有様だった。

 ドアは破壊され、玄関のあらゆる家具がひっくり返され、カーテンやソファはボロボロだった。おそらく応接室だったろう次の部屋も、照明が落ちて中は真っ暗。

 自分の猫の視力を頼りに中を見たが、玄関同様、いやそれ以上に荒らされている。どれくらいが被害を受けているかは計りかねたが、奥の破壊された扉からさらに先を覗くと、同様な荒らされ方をしている。


「うわー……酷いわね」


 落ちているものなどを注意深くよけつつ、さらに部屋の奥に進んだが、人の気配はない。


「羽賀さーん!」

「羽賀参事官ー!」


 まると、一緒に来た瀬木が呼ぶ声はむなしく部屋に響く。


『「ふぇりす」聞こえる?』

『はい。どうされました?』

『このプローブって、いわゆる探査体プローブの機能はあるの? 赤外線スコープとか、動体センサーとか』

『もちろんあります。

 まるさんのヘッドセットインターフェイスから信号をとっていますから、

 「コマンド:したいこと」

 を思い浮かべて頂ければ、可能なことは実行できます』

『なるほど、便利ね』


 まるは早速

 「コマンド:人命探索」

 と実行した。


『動体センサー反応なし……赤外線反応なし……実行者以外の心拍音2つ確認。ひとつは実行者後方1ⅿ、もうひとつは地下です。入り口は不明』

「ふむふむ」

『コマンド:地下の心音のする場所の真上の座標までのナビゲーションを表示』

『経路表示。先の状態が不明な場所があるため、不完全です』

「いえいえ、これで何とかなるでしょ」


 そういいながら、瓦礫の中を経路表示とマーカーを頼りに歩いて行った。暗闇で人命探索にすると自動的に手の指先にライトがついた。何でもありだ。


「この下か……何か道具はないかな――」

『コマンド:工具』

『範囲が広すぎます、概要をどうぞ』

『コマンド:バールのようなもの』


 手が変形してバールのようになった。


「うわあ」


 瀬木がまるの体(実際は彼女が入っている人型プローブ)の変化に驚く。


<法務だからといってちょっと甘やかしすぎたわねぇ。うちの船員なんだから、もう少し現場に慣れさせないと駄目だわ>


 まるはそう内心思いつつ、変化した手で床をごんごん叩く。


<気付いてくれれば良いんだけど>


 変化はすぐに起きた。


『地下からの心音消失。停止では無く瞬間的に切れたため、目標が瞬間移動したものと思われます』

<あら、早速反応有ったみたいね>


 まるは対面のために遮蔽クローキング装置を切った。その瞬間、目の前に光の渦が出来た。それは徐々に実体を伴い、最後に羽賀参事官の姿になった。


「参事官、あなたは本当に半分人類なんですか?」


 やや呆れ顔でまるは聞いた。


「そういうあなたは……」


 そういって、羽賀参事官は自分がクラックする前の、まる用の人型プローブのデザインを思い出した。


「ああ、まるさんですか。空間転移を使っただけですよ。それにしても通信を送る前なのに……なるほど、時空間移動しましたね」

「あなたの手回しで一回分だけ使えるようになりましたから。あの黒いやんちゃ小僧が時空間移動にはまだ手を出していない、という賭けをしたんだけど、当たりみたいね」

「それも時間の問題ですがね――。申し訳ない、この事態の責任は私にあります」


 まるはこの発言である程度確信を持った。

 そして、阿於芽あおめと話して心に渦巻いていた疑問を、羽賀にぶつけてみた。


「あの子を知性化したのは参事官、あなたですね」

「厳密にいうと難しいですが、私が原因です。先日土岐氏から連絡を頂いて、あの子を引き取った後に、ちょっと込み入った事情がありまして――」

「今は実時間まであと1時間くらいしかないの、細かい話は後回しで」

「分かりました。そうそう、時間改変ペナルティの相殺は、あなたが今使っているのが最後です。もう使えませんよ」

「多分出来ないと思ってました。元の時空に帰った時に形勢逆転できる手を教えて下さい」


 そうまるが尋ねると、羽賀氏の顔が曇った。


「申し訳ありません。私には打つ手がありません」

「嘘でしょう? 今までどんな難事件も平然と遣り過ごして来られているじゃないですか」


 だが、羽賀参事官は横にかぶりを振って答えた。


「あの子、阿於芽あおめは、私のライブラリーの一部の知識を自由に操る能力を得てしまっています。大変に厄介です」

「一部――時空間移動関連もですか?」

「いいえ、今のところはそこまでは。基本は地球人類の科学と物理能力、重力制御関連までですね」

「それでもかなり洒落になりませんね――調停機構は手を貸してくれないんですか?」


 調停機構と言われて、羽賀参事官は乾いた笑い顔を見せた。


「だめです。まず、これは異星人間の問題ではないこと。そして何より調停者である私自身が引き起こした問題であることが原因で、機構の力を借りることは出来ません」

「割と薄情なのねえ」

「そういうものです。まるさん、今まで散々お力をお借りしていて、こんなことを頼める義理ではないのですが、あの子に対抗できる存在は、地球人類の知識と、猫の奸智を持った貴女だけです。お力を貸していただけますか?」

「私と、私のクルー。ね。この支払は高いわよ?」

「ああ、分かりました」

「じゃ瀬木君、この件は法務としてきっちり記録しておいてね」

「了解です」


 羽賀氏は失笑した。


「さすがまるさん、抜け目がないですね」

「ええ、これでも船長ですし。それで彼――阿於芽あおめの得た知識のデータベースか何かはないですか?」

「分かりました、一度元の時間にブレンドしてください」

「あちらでは通信妨害されているわ」

「問題ありません。貴女にマーカーを付けました」


 いつの間に――と、まるは思ったが、羽賀参事官の事だから、まあそんなもんだろうと納得した。


「分かったわ、急いで引き返します」

「よろしくお願いします。私も対策を打てる体制を作ります」


 さあ、おいたをする黒猫に反撃開始だ。


§


 元の時間軸に復帰した時、黒猫=阿於芽あおめはイライラし始めていた。


『何かおかしなことをした?』

<ばれたかな?>


 まるは警戒したが、阿於芽あおめは未だこちらの動きを伺っているようだ。羽賀参事官がどんな方法で彼の情報を送ってくるかは謎だが、彼に察知されない方法であることを切に願った。


「調べ物をしていただけよ。それより、こちらに通信を送って来た意図は何?」


 阿於芽あおめは表情を変えずに、じっとスクリーンからまるたちを見返している。


『なんだ、まだ羽賀さんと連絡は取れていないんだね』


 羽賀参事官は多分、敢えて教えてくれなかったのだと思った。この段階で知っていて何か拙い反応をしてしまうと、打てる手も打てなくなってしまう。


『僕はここから出て自由になりたいだけさ。調停機構なんかに関わるのは御免だし』

<ふうん。羽賀参事官はこの子を知性化して何をするつもりだったのかな。まあ、それはあとで良いわ>

『まる、たぶん君が一番厄介な相手なんだろうね。だから、動きを封じさせてもらうよ』

「『ふぇりす』緊急防衛体制!」


 ラファエル副長が叫ぶ。しかしそれもむなしく、いきなりまるの体が輝きだしたかと思うと、光の渦と共に消えた。


「ちょ――」


 それがまるが消える前に発した最後の言葉だった。


「何が起きた!」


 ラファエル副長の叫びが空しく響く。



§


 阿於芽あおめは裕福な家の猫だった。

 そして、血統書つきの猫だった。

 だが、22世紀から続く長い長い血統書を持つ三毛猫には及ばなかった。阿於芽あおめはまるに逢って心ときめいた。しかし、ただの猫だった彼の命は、もともとはその思い出とともに寿命で尽きる筈だった。あるヤマネコがちょっかいを仕掛けなければ。

 それは90年前のあの日の出来事だった。


「この部屋か」


 そんな声が聞こえてきた。まだ飼い主は微睡まどろんでいた。次の瞬間、彼は恐ろしい生き物の臭いを感じた。寝床を起き出してそろそろと入口に向かう。そこには巨大な猫が居た。


「フアアアアアアアッ、あおあああああああっ!」


 阿於芽あおめは全身の毛を逆立て、警戒の叫びを上げた。


「おっと御免よ、ちゃんとお風呂には入って来たんだが、やはり臭いは隠せなかったか」


 相手はなぜか人の言葉を発していた。


「あおぉううう!」


 阿於芽あおめはまた警戒の声を上げる。


「困るな、君の飼い主に起きて来られると厄介なんだ。ちょっと静かにしてもらうよ」


 甘い香りと共に、気が遠くなる。阿於芽あおめが遠ざかる意識の中みると、巨大な猫はどうやってか手にスプレーを持っている。それを拭き掛けられて彼は気が遠くなったのだ。

 そして、巨大な猫……オセロットヤマネコのピンインは、アンプルを取りだした。


「僕の予備の延命薬物エリクシア、50年はこの一回の投与で延命する。あとは君の運次第だね」


 アンプルの中には小さなカプセルが浮いている。アンプルの首を外し、先を彼の背筋に当てて圧入ボタンを押す。延命薬物エリクシアのインプラントが首から神経に沿って入っていく。全身のテロメアと脳神経の情報を保つ新陳代謝の促進、その他の寿命決定因子に働きかけるその薬物は、人用だけではなく、愛玩動物用にもさまざまな種類が開発されている。ピンインが使ったのは汎用の猫科動物用だが、イエネコにも効果はある筈だ。


「さて、本来の目的に向かうか」


 そういうとピンインは去って行った。阿於芽あおめも意識を失って昏倒した。


 彼の異変に飼い主が気が付いたのは、事件から20年後だった。最初飼い主は、誰の仕業かと犯人探しのをしたり、彼の延命薬物エリクシアのインプラントをその効果が切れる前に取りだすだのという話ばかりされていた。しかし飼い主は既に、彼を失う事を辛いと感じるようになっている自分に気が付き、彼をそのまま買い続けることにしたのだった。


 だが、二度目の延命は、その飼い主によっては為されなかった。40年目のある日、彼の飼い主は没落し、多額の負債を追ってしまったのだ。

 破産した飼い主は、知人――土岐氏に、彼を託した。このころは、失ったと思っていたまるが帰ってきてから、その知性を利用して航宙船の免許を取り、土岐氏の元を離れ、独立して中規模の航宙船の船長となっていた。


 だから、土岐氏は心に半ば猫型の穴がぽっかりと空いている状態だったらしい。それでも、飼い猫が欲しいとは思っていたが、まるの手前、新しい猫に手を出す気にもなれずに、心の空虚を持て余していた。知人の破産は土岐氏も心を痛め、せめてもの手助けで、その飼い猫の阿於芽あおめにを引き取ることにしたのだ。


 流石に45年ほども生きていると、喋ることは出来なくても、子供程度の知性は持つようになっていたから、飼い主が何らかの状況で彼を手放す決心をしたことは理解していたし、まるの飼い主である土岐氏の事もおぼろげに覚えていた。彼はそこで生きていくのだと思っていた。

 そう、確かに10年は、彼は土岐氏のもとで過ごしたのだ。だが、2度目の延命措置を受けた後のあの事故がすべてを歪めてしまった……。


§


「『ふぇりす』! まる船長の位置を特定してください!」


 ラファエル副長は叫ぶ。


『駄目です、船長のヘッドセットの信号で追跡を試みましたが、存在を感知できません』

「船長をどこにやった?」


 聞かれた阿於芽あおめも少し驚いていた。


「僕が知る訳がない。下手な芝居をして僕を騙そうとしても無駄だからね」

『人工音声の揺らぎを検知、彼も多少動揺をしている様です』

「船長――」


 ラファエル副長は、おそらくあの人が何かやったのだ、と思ったが、それでもショックは完全には収まらなかった。


 そして、当のまるもびっくりしていた。


「――っと待って……あら?」


 まるは喋りかけ言葉の後半を口にした後、激変した景色に頭が付いて行かず、目を白黒させていたが、はっと我に返ると、辺りを注意深く見まわした。そこはいかにも殺風景な直径5mほどのやや潰れたドーム状の真っ白な部屋の中だった。


『私の方が一歩手が早かったようですね』


 声はするが、見回しても誰もいない。


「羽賀参事官?」

『まるさん、済みません。阿於芽あおめが強行手段に出る兆候が有ったので、こちらも強硬策に出ました』

「ここは?」

『そこは隔離用ポッドの中です、私はその中にあるセンサーと有線で繋げていますが、その他の外界との一切の通信は遮断しています。阿於芽あおめに感知されることはありません』


 まるはちょっと情報を整理するために深呼吸した。


「参事官、正直、起きている事態の半分も私は理解していません。説明して頂けますか?」


 少しの間が有った。


『分かりました。お教えしましょう。学習ユニットをお送りしますので、装着してください』

「ええ、対処法を知るためにも必要だわ」


 見ていると、目の前にまるの手のひらほどの丸い装置が現れた。


『裏側についている端子を額に当ててください』


 言われるままに装着したまるは、そのまま硬直した。


「……始まりましたか……」


 羽賀参事官は、地下にある避難所の中でスクリーンを見ながらため息をついた。


「まるの状態はどうなんですか」


 傍らに居た何者かが語りかけてきた。人にしてはずいぶん小さい。身長にして90cm程だろうか。


「ええ、彼女が今回の鍵になります。阿於芽あおめが予想外の進化を遂げていない限りは何とか対処できると信じていますが……」


 その何者かは少し戸惑うような間をおいて答えた。


「それでも、女性に責任を押し付けてしまうのは気が引けます」


 羽賀参事官はかの人物の方を見て、目を細めて笑い、続けた。


「彼女はそんなことを気にするような軟な女性ではありませんよ」


 その何者かはうなだれた。


「分かっています」


 そして二人は、尻尾の先まで硬直して動かなくなっているまるを心配そうに見た。


「彼女、死んだりしませんよね?」

「ええ……多分大丈夫なはず……です」


 その何者かはぎょっとして羽賀参事官の方を凝視した。


「羽賀参事官……」


 見返す羽賀参事官の顔は、無表情に近い彼としては珍しく少し笑っているような感じだった。


「冗談ですよ。さあ、そろそろ彼女が起きてきます」


 見る間に、まるの硬直は解けて、まるはその場に香箱のように座り込んだ。


『お済みですか』


 まるは顔を上げ、少し喘いだ。


「ええ、分かったわ。かなり厄介ね」


 まるの頭は、一瞬で書きこまれた大量の情報を整理するためにオーバーヒートしかけていた。


「その前に」

『何でしょうか、まるさん』

「お水を一皿下さらない? 流石につらいわ。他の人物――猫の半生を垣間見るとか」


(続く)

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