航宙船長「まる」

吉村ことり

珈琲豆と猫

第1話「まるは航宙船の船長です!」


 「まる」は航宙船の船長である。


 まるはとても勤勉な船長だ。船内時間05:00には起床し、身だしなみを整えたらすぐに船内をジョギングを兼ねて視察。視察が終わったら幹部たちと朝食会議。食事のあとは船長室で執務。航宙管理局への定時連絡は正確で迅速。それが終わるとお昼寝タイム。副長に船の指揮権を渡したら、船長室据え付けのベッドで午睡を貪る。勿論これは、執務を効率よく進める為である。

 まるが取り仕切る、400人の人員を載せた独立武装貨物航宙船〈コピ・ルアック〉は、稀少物資の輸送を生業とする商船である。名は体を表すというか、船体は平たい珈琲豆の様な円盤型で、後方上下左右に計4本の有機形状のナセルが突き出し、さながら発芽しかけの珈琲豆である。

 〈コピ・ルアック〉は強力な船だ。船体をぐるりと囲むように重核子砲30門が並んでいる。重核子砲は一撃で直径1km位の小惑星は木っ端みじんにする威力がある。だが、最大の武器は珈琲豆のくぼみに相当する部分に設置された次元転移砲で、標的を別の次元に分解転移してしまう。正直、〈地球通商圏〉の王立地球軍(アースセクター)の正規宇宙軍とさえ、戦を構えることもできる強力な船だ。


 ということで、この強力な航宙船を率いるまるは、3つの難点を除けば、この界隈ではだれからも一目を置かれる船長だった。

 玉にきずとは言うけれど、この場合は「まるにきず」であろうか。少々の瑕疵かしはむしろ勲章ともいえよう。しかし、彼女のはちょっと厄介ではあった。

 まるの3の難点。1つめは、彼女が女性だということである。正直、荒くれ者が闊歩する武装貨物船業界だ。女だという事はかなりのハンデになる。ましてや、まるはミスコンテストに選ばれるほどの美貌とスタイルの持ち主だ。しゅっとしているという言葉がよく似合う。そして何よりかわいい。こんな乙女はどうしたって舐められてしまうに違いない。色恋沙汰は御免だ。

 2つ目は、とある事情で表には姿を現さないこと。武装貨物船は云わば、軍の戦艦に向こうを張って生きていくようなものだ。見栄えもそうだし、啖呵を切る船長が矢面に立つ場面は枚挙に暇が無い。それが出来ないというのは眉を顰められても仕方ない物だった。

 さて3つ目だ。これはいわば2つ目の「とある事情」そのものだった。宇宙は広い。まあ、彼女のような事情を持つものが居ないとは言わない。だが、400人の人員を抱える強力な武装船の船長では、ほとんど例のない事だ。さて丁度執務を終えた彼女がコンソールから体を離し、特製にしつらえたヘッドセットとグローブを外して伸びをした。大きな欠伸をした彼女の口には見事な牙が並んでいる。ぐっと背筋をS字型にして尻尾を傘の柄の様に巻く。優雅な身のこなしだ。疲れた彼女の口からは思わずため息のような鳴き声が漏れる。


「うにゃ、ううん」


 真っ白い体に漆黒の斑と燃える様な橙色の斑。エメラルドグリーンの瞳。ピンと伸びた髭に口から覗く牙。しなやかな体に長い尻尾。

 そう。

 まるは美麗な三毛猫(雌)なのだった。


 何故猫が武装航宙船の船長などをやっているのか?

 まるの船に乗って、秘密を明かされた船員が初めに疑問に思う事だ。


「簡単な事だ。船長が有能だからだよ」


 船長の脇に控える偉丈夫なイタリア人男性は決まってそう答える。

 彼は「ラファエル・チンクアンタ」。〈コピ・ルアック〉の副長にして、船長代理を任される男だ。彼がそう答えるとき、まるは「私は知らないよ」とばかりに横を向いて毛繕いをしている。もちろん、猫を飼った経験がある人にはバレバレの照れ隠しである。だが、実際まるは優秀で有能な船長だったから、別に何を恥じるでもない事でもあるのだが……誰もが知りたいのはそういう事ではなく、どうやってまるが今の地位にたどり着いたかだろう。

 まるの年齢は優に100歳を超えていた。化け猫である。……というのは冗談で、航宙を行うものには、延命薬物〈エリクシア〉が与えられる。所謂不老長寿の薬だ。宇宙航行というのは非情なもので、ワープ航行時の次元バブル=ワープシェルの内ならいざ知らず、亜光速航行では気が付けば何年もの時間を要する場合もある。普通の寿命では到底やってられないのだ。だから、まる以外の船長やら船員たちも、延命薬物(エリクシア)は普通に使っていた。その延命薬物(エリクシア)こそが、まるの運命を変えたのだ。

 時は90年ほど遡ることになる。


§


 まるはそもそも利発な猫だった。とある富豪の飼い猫で、一緒に航宙船であちこちを飛び回っていたから、いろんなものを見聞きしていたし、他の猫よりはるかに刺激を受けて居た所為かもしれない、普通の猫は1~2歳の知識と云われるが、まるは3歳過ぎくらいの利口さはあった。しかも生来の血統書付きの美猫であったから、いくつかの航路では姿を覚えられて、すっかり有名猫になるほどだった。実際、よく使う船の中は我が家みたいなもので、自由にあちこちに遊びに行くほどにはなっていた。そんな風に航宙船に常習的に乗るまるだったし、飼い主の計らいもあり、通常の乗客扱いではない特別な措置として、延命薬物(エリクシア)が与えられていたのである。そして運命はやってきた。


 まるはその日も、定期航路航宙船〈レインボーフラワー2〉での航宙の日々を過ごしていた。たまたま早めに目が覚めたまるは、早朝ベットでまどろんでいる飼い主に馬乗りになって顔を肉球で揉んで起こし、ご飯をせっつき、飼い主に眠い目をこすりながらコールしてもらった〈レインボーフラワー2〉のシェフから、早めの朝食として、美味しい鮪のヒレ肉を頂いて、たらふく食べて満足したところだった。

 そんなわけで、人間より一足早く食事を済ませた彼女は、無重力の船内を危なげなく泳いだり、回転により疑似重力が作られている場所では歩いて、展望デッキに来ていた。人工重力技術は異星人から入手できるものの、非常に稀少であり、定期航路船程度では装備されていない。だからまるは無重力になんとなく慣れてしまっていた。

 ようやく船内は食事時になり、主要な客は船長と共にレストランデッキに集まろうとしていた。だから、ここはがら空きになる。まるはそのことを覚えていたので、早めにご飯を頂いた後は、一人のんびりするために、よくここを訪れていた。

 船は亜光速航行中で、星はかすかにローレンツ収縮を見せて、宇宙の片側に寄せられたようになっている。この当時のまるは、まあまだちょっと利発なだけのただの猫だったから、それが何故かとかは知る由もなく、何となく不思議な光景がただただ面白かったので、透明アルミの頑丈な二重窓から、ぼーっとその光景を眺めていた。亜光速で物体にぶつかればひとたまりもないので、船体の前方の空間には薄青白く光る半透明の〈リフレクター・シェル〉が展開されていて、それが光景をより不思議に彩っていた。


 やがてその瞬間は来た。


 猛烈な衝撃で、まるは寄り添っていた窓から、反対側の壁まで吹き飛ばされそうになった。壁に叩きつけられていたら、或いは死んでしまっていたかもしれない。とっさに空中をもがき、猫一流の受け身の態勢を取ったものの、ほぼ無意味だった。それはまるの朧げな思考ですら、死を覚悟させるものが有った。人間の様な後悔の走馬燈は無いものの、まるの脳裏には楽しい旅の思い出が浮かんだ。だが、次の瞬間、彼女の視界は灰色の塊におおわれて、全身は何だかわからない妙な柔らかい物に包まれていた。衝撃で展望デッキ内に張り巡らされた緩衝壁が動作して、まるを絡めとり、ボール状に覆ったのだった。そしてしばらくの間、酷い揺れと警告音とともに、辺りは真っ暗になっていった。まるはと云えば、一人、いやひとにゃんで、ボールの中でパニックでもがき続けるのみだった。

 その事故は、航宙史上にも残る稀なものではあった。障害物を避ける〈リフレクター・シェル〉は前方に展開されていて、側面や後方からの衝突にはあまり考慮はされていない。亜光速で飛ぶ航宙船に通常速度で飛んでくる物体が側面や後方からぶつかる可能性は無視してよかったからだ。だが、その障害物はまさに盲点の側面から飛んできた。隣接して飛んでいた別の航宙船がトラブルを起こし、緊急対策で〈エンジン・コア〉を破棄したのだ。だが、破棄の際のベクトルが運悪くまるの乗っていた航宙船の側面に向かってしまった。直接衝突はしなかったが、〈エンジン・コア〉は〈リフレクター・シェル〉の利かない側面で爆発、亜光速の衝撃波は航宙船を襲った。人間の乗ったエリアは即座に無敵の防御壁〈フォースフィールド〉によって守られたものの、本来無人の時間帯である展望デッキは後回しにされ、衝撃波をもろに喰らった挙句、本体からブロックごと剥離してしまったのだった。


 どれくらい時間が経ったかなどという事は、多少利発なだけのタダの猫のまるには分からなかった。ただ、衝撃が収まり、まるを覆っていた衝撃吸収体のボールが自動的にはじけてデッキに放り出されて、唖然とした。

 デッキは巨大な亀裂が出来ていた。自動修復により穴は塞がれていたものの、デッキの空気は希薄で、周囲は猛烈に寒かった。さらに困ったことに、船体の回転による疑似重力は失われ、どんなに踏ん張っても猫掻きしてみても、まるは空中でくるくる回るだけだった。

 寒い!暗い!部屋壊れてる!息が辛い!なんか知らないけど空中に浮いてる!

 もう、パニックを起こすには十分すぎた。

 必死でジタバタしていると、先程はじけた衝撃吸収体の一部が流れてきた。手繰り寄せると、まるの体は少しだけ動いた。そして動き続けた。やがて床に到着して、必死で爪を出して床を掴む。しかしそれは、体を回転させて別の方向に弾いただけだった。


<うにゃあああああ、死ぬ、これはたぶん死ぬ!>


 猫は、許容量を超えたパニックを起こすとプッツンするときがある。今のまるがそうだ。もう状況の為すがままである。入りたくないお風呂に無理やり入れられて、必死で泣こうが引っ掻こうが叫ぼうが出してもらえなかった時の、あの絶望感だ。瞳孔は見開き、何もできずにだらんとしてしまった。再び何かに近づいて行き、とすん。とその場に落ちて、またバウンドしそうになった。

 偶然というものは、時に予想外の事をしてくれる時がある。まるが展望デッキに一人で残されたのも偶然だったが、事故に巻き込まれて命を長らえたのも偶然。そして3度目の決定的な偶然がやってきた。まるが着地したのは睡眠学習装置〈LMK‐1〉だった。ただちに装置の天蓋シェルが閉じ、彼女は装置の中に包み込まれた。


 "Learning Machine for Knowledge - 1"〈LMK-1〉は、人間を学習させるようにできていた。だが、現在は緊急対応状態であり、飛び込んできた生き物が現状周囲でただ一人の生き残りの複雑な生命体であることをセンサーから判定すると、この生き物を生存させる必要があると判断した。まずは充分な空気と温度だ。次にこの生命体の脳を調べる。学習させるにはとても貧弱な脳だ。どうするか。様々な可能性を検討した結果、この生命体の脊椎にメモリーインプラントを追加して、足りない脳の容積を補うことにした。緊急時に生存確率を上げるために、知能の低い子供でさえ専門の学者並みに生活させることもできる救急機能付きの最新型であったから、この決断は迅速であり、嫌がるまるを押さえつけ、インプラントを注入するのは造作もなかった。彼女は何が起こったのかもわからず失神した。そして、その間も学習装置による教育は続いていた。


§


 まるは数日眠っていた。目が覚めたときには節々が痛く、目がしょぼしょぼした。おまけに酷く頭が痛い。


<やれやれ、参ったわね。ここはどこだっけ……??>


 ひどい頭痛の頭を振りながら考えて、彼女は戦慄した。

 寝落ちるまでの自分がまるで赤ん坊のような感じに思えた。それより、今の自分の変化は何事だろうか?

 見回すと、何かのカプセルの中の様だ。


<……そうだ、何か事故に巻き込まれたんだっけ。亜光速航行中の事故なんてそうそうあるもんじゃないわ。私はラッキーなのかアンラッキーなのか>


 まるの頭の中に大量の情報が渦を巻いていた。情報で窒息しそうになったので、慌てて頭を振り、そして頭痛でうずくまった。ちょっと冷静になろう。


<私の名前はまる、誰もが認める美猫。ご主人様と一緒に航宙艦〈レインボーフラワー2〉で旅に出ていた。朝ごはんを先に頂いて展望デッキに来て、ちょっと珍しい亜光速航行中の宇宙を眺めていたら…もう何もかもが滅茶苦茶になったのよね。一体何の事故に巻き込まれたのかな……。じゃあ、ここは避難ポッドか何かの中かしら?>


 立ち上がって宙に浮き、辺りを見回すとスイッチらしきものを発見した。何故かそれが開閉ボタンだと認識できたので、前足で触るとカプセルがスーッと開いた。


 展望デッキだったものの中身は相変わらず惨憺たる状況だった。

 デッキに入った時にはまるで分らなかったものの意味が手に取るようにわかる。それは当然だった。〈LMK-1〉は選択的にまずこの状況に対応できる知識を優先して、まるに学習させたのだから。


<エアは十分に補給されているみたいね。この部屋の大きさに、私のサイズの生き物だけなら、エア自体は数か月は持つわ。食料は……ラッキー、展望ブロックは緊急時の脱出ポッドにもなる設計だったわ。多少なりともの備蓄が用意されている。貯蔵され居てる分は成人男性2週間分。10歳ちょい……とはいっても、延命薬物(エリクシア)を投与されているから、実際は4歳くらい……の猫の私の場合はその5倍は大丈夫か。取り敢えずしばらくじっと我慢しながら救助を待つことはできる訳ね>


 まるは状況を素早く分析し、そして、今の自分がなぜこのような状態なのかも把握した。


<私が入っていたのは救命カプセルじゃなくて、睡眠学習装置だったのね。名前は……〈LMK-1〉か。私がこの状態や、船内の事について精通していて、こんなにも鮮明な思考を行えるのは、〈LMK-1〉の緊急対応モードのお蔭。という事なのかしら>


 それにしても、と、まるはため息をついた。現状見渡した限りでは、彼女に何か手を打てそうなことはなさそうだ。それに第一、そもそもが彼女は猫だ。とにかく、何か食べた方が良いなと思って食料をチェックしていて、ちょっと困ったことを発見した。保存されている食料は当然ながら、人間向けなのである。

 人間が食べるもので、猫に害があるものは結構多い。チョコレートと葱類はご法度だ。塩分の多い食事も避けた方が良い。あとは過熱しないといけないものとか糖分の多い物とか。幸い糧食は非加熱のものは果物くらいで、あとは加熱処理済なので、気を付けるべきは塩分と毒になる成分を持つ食物だけだ。品目をリストアップさせて、アレルギー食品として処理させ、メニューに出ないようにした。結果として食糧の30%は破棄しなければならなくなった。まあ、仕方がない。まるは保存食の代表であるクッキーバーを選んでパネル操作で倉庫から取り出して食べ始めた。


<ああもう、前足でパネルやキーボードを操作するのは骨が折れるわ>


 先程からコンソールと格闘して、まるは心底疲れ切っていた。パネルを操作しようとして作用反作用で無重力の空間に流れて行ってしまうのは、足の爪を座席に引っ掛けることで回避できたが、猿と違って指一本一本を動かせる器用さは無いので、一番伸びている爪の先で慎重にポチポチやるのだが、これが存外に難しい。力加減を間違って、キーボードをべしゃっと押してしまい、不要な入力をしては削除キーで消す、という不毛な作業が度々たびたび発生してしまうのだ。ポインタデバイスも視線デバイスは人間の網膜に特化してあるので不可、タッチデバイスは大雑把になるし、ペンは持てない。ましてや音声入力は言わずもがな。アオアオ鳴いてみたところで「わかりません」と突っぱねられるだけだ。

 食事を済ませたまるは、これと云ってすることもないし、コンソールの操作に心底疲れたのもあって、この部屋で唯一寝心地の良い〈LMK-1〉に戻って丸くなり、ウトウトと眠りに落ちた。


 〈LMK-1〉は、人間でいえば得意満面の状態になっていた。勿論この装置にはAE(人工感情)等は組みこまれていないので、目標達成率の分析羅列と、次に達成すべきことの対比という形でそれは数値化された。この生命体=猫の知性化は想定以上の効果を上げていた。同時に苦悩もしているようで、ストレスの数値も見受けられた。ストレスの原因が操作系を十分にいじれないためだという分析結果が出たので、操作系改善策の自力での作成方法を学習コースに入れて、再び睡眠学習プログラムがスタートした。次に起きたときにはこの猫は、メカトロニクスの専門家になっているだろう。同時にこの猫に退屈の兆候が見えたため、知的生命体がよくやるいくつかのゲームについての知識をカリキュラムに加えた。これによって、チェス、将棋から、パズル、シューティングゲームなど、暇つぶしのゲームのルールや定石が多数、彼女のボキャブラリに加えられることになった。


§


 目が覚めるごとに、色々と出来ることが増えていく。それはこのサバイバルに対応できるように〈LMK-1〉が私を育てているのだなと、今ではまるも認識していた。数日前にピンときて自動工作装置で作成したマニピュレーション・グローブと対話ヘッドセットのお蔭で、機械の操作はすこぶる楽になっていた。以前はヒト語は何となくしかわからなかったが、このヘッドセットで猫流解釈が加わることで、極めて明確にわかるようになったし、私の言葉やゼスチュアも人間の言葉に変換されて機械に直接指示できるようになった。ただ、現状必要な亜空間通信機はまだ自作できていない。材料やインフラが足りなさすぎるのだ。


「あーやめやめ、今日はここまでにしとこっと」


 そう云って彼女はヘッドセットを外し、グローブも取って床に大の字で寝転がった。

 何とかして救難信号を亜空間通信で送り出せれば、生存の可能性はある。だがそのためには非対称量子共鳴装置を手作りするという気ちがいじみた作業が必要になりそうだ。人間ですら完成に半世紀を掛けた装置だ。猫の私には到底無理な相談じゃないの。彼女は心の中で悪態をついていた。〈LMK-1〉は彼女が壁にぶつかる度に色んな知識を植え付けてくれはするが、そろそろネタが尽きてきた感じがする。

 なんというか、知識を超えた、発想の飛躍というか、ブレイクスルーが必要なのだ。


 気を取り直して、先程取り出しておいた低塩加工のニシンの燻製を咥えて飲み込む。


<これは絶品なのだけど、そろそろ在庫が底をつきそうなのよね。あとは肉の缶詰とか、割と塩分が多いものになっちゃう。パックに入れて加工装置で水と一緒に加熱すれば、多少は塩分が下がるけど、膀胱炎や高血圧の可能性は日々上昇していくわけだし。味も飛んでパサパサしたものになるし。あー、魚みたいに泳いだり、鳥みたいに飛んで行けたなら、どこか生存可能な場所にたどり着けないものかしら>


 食べ終わったニシンのパックをダストシュートに入れる。パックは分解されてここの環境を動かすエネルギーになる。もしこの展望デッキのエコシステムに、バーニアでもついていれば、それをうまく推進力にして、自分から移動して助けを求めることもできるのかもだけど。所詮は緊急用に救命ポッドの様に閉じた環境を作り出しているに過ぎない。EVA(船外活動)でも出来れば、工作機で推進装置を作って外に設置行くこともできるかもしれない。しかし、猫用の宇宙服なんてものは無いし、工作機で作るには機密服の材料は高価過ぎた。色んな夢想が浮かんでは消える。


<嗚呼、いろいろ八方ふさがりだわ。ジタバタもがくのを止めて、責めて苦しまずに逝く方法を考えたほうが頭がいいのかしら>


 そうひとりごちて、頭をプルプルと振るった。マイナスの考えにとらわれるのは危険だわね。

 尻尾をピン、と立てて、居住まいを正してから箱座りする。猫が落ち着くために一番良い姿勢だ。


<一つ一つ可能性を再検討して見なきゃ>


 彼女はコンソールを操作して、リストを作り始めた。この中に何か手がかりが無いか、雲を掴むようだが、見付けなくては。もう後がない今となっては、リスクの大きいギャンブルであっても、可能性があるなら賭けてみたいと思っていた。あと少し、あと少しだけ……。


 〈LMK-1〉は不満だった。明らかにこの生命体は手詰まりを感じており、様々な学習の成果は、十分には出ていない。装置に含まれているライブラリはまだまだ潤沢にあったが、現状に関連性のある知識はネタ切れの様相を呈している。先程考え疲れて入ってきた生命体の体調は、ストレスと塩分の過剰摂取であまりよくない状態に進みつつある。現状で彼女が一番欲しているのは救助だ。そのためには現状では通信、或いはこのモジュールの移動方法だが、残念だが提供できる方法は提供されていないと推測される。彼女を極低温状態にして保存し、救難ビーコンを発信しつつ救助を待つ方法も検討したが、確率があまりに低いので除外である。恐らくは彼女もここまでの推測はすべて行っている筈である。学習装置はライブラリを検索し、自分に提供できるヒントを検索し続けた。的確な答えを、的確な答えを……。


 閃きは突然やってきた。脳には裏タスクというものがある。何かをずっと考え続けていると、そのうち、寝ている間やほかの事をしていても、意識の外で脳が働き続けて解答を探すのだ。これについてはいくつも歴史的な実話があり、例えば1865年にアウグスト・ケクレがベンゼン環の構造を解き明かしたとき、長い間ずっと考え続けていたある日、夢の中で自らの尻尾を咥えた蛇を見て着想した、という話が伝わっていたりする。

 そしてまるにやって来たそれは、〈LMK-1〉のデータ検索のたまものと、彼女の脳(拡張された部分も含め)の裏タスクの様な思考の賜物だったろう。まるが八方ふさがりを嘆いた日から幾たびかの睡眠を繰り返したのち、重い体を引きずりながら、残り少ない食料を吟味しているとき、ふっと湧くようにアイデアが浮かんだ。

 解答へのキーワードは既にすべてそろっていた。

 あとは彼女が気付くだけだったのだ。EVAが出来なければ、彼女の手の届く空間を逆に船外にしてしまえばいい。今のモジュールには無数の亀裂が入っていたが自動修復されている。つまりは修復の逆を行えばそこからエンジンが設置可能だ。エンジンは、作用反作用を長時間行えれば、基本的にはどんなエンジンでも加速を続けて、亜光速とはいかないまでも、目的の速度=元の航路ををかすめる軌道に乗る速度に到達することはできる。エンジンは物質をイオン化して噴射するエンジンが工作機械で製作可能だ。作ったエンジンを亀裂の充填剤を溶かしながら差し込み、再び固定すればいい。そして、そのための燃料はある。彼女が食べられなかった食料だ。エネルギー転換すれば十分な推進剤になるだろう。問題は時間だけだ。彼女が食べていたニシンにはビタミンAが豊富に含まれており、これは人工冬眠の仮死状態を維持する為に使える。人工冬眠自体は、適切な体のコンディションを作り出したのちに、減圧して体温と代謝を下げればよい。減圧時の体の保持は…〈LMK-1〉が最初の救命措置で使った方法の延長だった。


 彼女がこのすべてを有機的に結び付け、作業を開始したのは、彼女の人工冬眠可能時間を考慮しての帰還可能限界まであと10日という処だった。装置を組み立て、設置して配線し、プログラムを書き、自らの体調をチェックして献立を決め……、絶妙のタイミングで作業を完了させて、一か八かの掛けに出た彼女は、正確に調整したエンジンの心地よい推進音を、人工冬眠装置代りの〈LMK-1〉のカプセルで聞きながら、意識を薄れさせていった……。


§


 まるが次に目を覚ましたのは、15年後だった。モジュールは目的通り回収され、彼女は蘇生措置を受けていた。傍らには少し老けた飼い主、土岐氏の姿が有った。彼女が弱弱しく「にゃあ」と鳴くと、土岐氏は彼女を抱きしめてくれた。星間ネットワークは彼女の生還を連日大々的に報じた。曰く、「宇宙の迷子ネコ、奇跡の生還」。

 回復もままならない時からまるの元には取材が押し寄せたが、土岐氏が頑なに彼女のプライバシーを守ってくれたおかげで、もみくちゃになるのは避けられたが、それでもぽつぽつと断りきれない取材がやってきて、彼女はメディアに出続け、インタビューも受けた。インタビューに流暢に答える彼女を見て、彼女がとんでもない天才猫となってしまったことに対しては、土岐氏も最初は驚いたが、やがて受け入れてくれた。


 受け入れられなかったのは彼女の方だった。


 もはや彼女は、以前のような愛玩される存在では物足りなくなってしまっていた。生死をかけた闘いを切り抜けた彼女にはなんというか、闘争本能の様なものに火がついてしまっていた。もっと宇宙を飛びたい。せっかく手に入れた力をもっと有効に使いたい。幸いにして、彼女には十分な時間が有った。延命薬物(エリクシア)によって飛躍的に伸びた寿命によって、通常の猫はおろか、普通に暮らす人々を優に超える時間が有った。


「そう、時間さえあれば、やれない事なんてないわよ」


 まるの決心は、気まぐれな猫にしては実に固く揺るぎ無かった。なぜなら、それは自由の、更なる気まぐれのための決心だったから。彼女の毎日は、再び宇宙に、しかも今度は自由に飛び回るための努力に注がれていった。その努力は、土岐氏が彼女をペットではなく、一つの人格として受け入れるには十二分であった。しかも、彼女は得難いほどの才女だった。それは単に機会による学習だけで得られたものではない、彼女の行動力が有ってこその才能だった。


 それから14年後、まるは愛玩動物を止め、土岐氏のビジネスパートナーになっていた。まるの得難い経験は、航宙船の船長としての資質を開花させていたから、僅か乗員10人ほどではあったが、通商船を一つ任されて宇宙を飛び回り始めたときは本当にうれしかったし、彼女は実に有能だった。そこで知り合ったのが、土岐氏の知己であるラファエルだった。彼は生来の猫好きで、しかも有能な人物を見抜く目が有った。当然のように彼はまる船長にあっという間に心酔していった。やがて親友となった二人は、表向きはラファエルを船長に据え、彼女は更に宇宙船乗りとしての資質を伸ばしていった。

 まるの積み上げた功績は数知れず。10人の小型船〈ブルーマウンテン〉だったまるの船は、最初の5年で30人の小規模船〈八女煎茶〉になり、次の20年で武装を強化した80人乗りの中規模商船〈ハニーブッシュ〉となって、40年目、念願の強力な船を手に入れた。それが武装船〈コピ・ルアック〉。とある軍に納入されるはずだった宇宙軍の艦船だったのだが、当の軍が解体されてしまい、納品が宙に浮いていたのを土岐氏と共同購入したのだった。

 かくして、猫の彼女は、強力な武装宇宙船の船長としてのキャリアを歩み始め、この物語も始まるのだった。


「ラファエル副長、先方との連絡は?」

「すべて完了しています」

「よろしい、では太田君。ワープシェル展開、ワープ最大船速。目標は〈らせんの目太陽系〉行きの超空間ゲート」

「了解、復唱します――」


 彼女の指示により、太田一等航宙士がワープエンジンを始動すると〈コピ・ルアック〉のナセルに青い閃光が光り、周りを巻き込むバブル=ワープシェルが形成され、それが一気に時空を滑り出し……ワープした。


 次の冒険の始まりだ。

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