第二十一話 戦う理由

 世界フライ級タイトルマッチ。王者・天涯 千都てんがい ちいとVS挑戦者・フンサイ・ギャラクシアンの試合は後半戦に突入していた。


 序盤、二度のダウンで主導権を奪った天涯だが、6ラウンドでフンサイがダウンを奪い返すと、そこからは挑戦者がじわじわと巻き返しつつあった。ボディを執拗に攻めるフンサイの攻撃に、天涯の足が動かなくなってきていたのだ。


 8ラウンド以降はもう完全に接近戦、挑戦者フンサイの土俵での戦いになっていた。とはいえ王者天涯もインファイトが出来ない訳ではない、巧みなショートパンチを駆使して相手を押しとどめ、クリンチや突き放しの離れ際に正確な顔面への一撃で、前半に積み重ねた頭部へのダメージをさらに上乗せしていく。


 9、10、そして11ラウンドも終始挑戦者が押し気味に試合を進める。だがお互いに決定打を入れる事が出来ず、ダウンを奪えないでいた。ラッシュ中にも頑なにガードを外さないフンサイと、追い詰められてのクリンチやロープワークで巧みに凌ぐ天涯の攻防は、乱打戦に見えても確かな技術の攻防を見せ、大観衆を酔わせていた。


 ――カーン――


『第11ラウンド終了! いよいよ最終ラウンドに決着は持ち越されましたぁっ!』


 ゴングと同時に二人がレフェリーに分けられる。二人とも流石に満身創痍で、天涯はロープにしがみ付きながら、やっとのことで赤コーナーに辿り着いていたし、フンサイはボコボコに腫れあがった表情を朦朧もうろうとさせながら、千鳥足で青コーナーに向かうのをセコンドのサブロに抱きつかれて迎えられる有り様だ。



「なんで……あそこまで、するんですか」

 観客席のフンサイ応援団の中にいた門田菊かどたきくが、誰に問うでもなくそう呟く。戦いになんか縁の無かった彼女にとって、あんなになってまで殴り合い続ける二人の姿が理解できなかった。


「そりゃもちろん、カッコイイからさ」

 そう返したのは隣にいたスパーリングパートナーの南実尾なみおだ。彼もボクサーの一人として、あの舞台で戦う彼らに心からの尊敬と憧れを抱いていた。

「二人ともボロボロだろ? 痛いだろう、苦しいだろう。それでもくじけずに必死で戦う、ああいうのがカッコいいんだよ。男ってのはそうじゃなくっちゃいけないんだ!」

 ぐっ、と拳を握って力説する南実尾。彼に限らず格闘技に身を置く者なら誰でも知っている事、それは戦いに楽勝なんざありえない、自分の都合のいいように勝てるなんて夢物語だという事を。

 努力を重ね、苦しみ、葛藤し、痛い思いをし、それでも自らを鼓舞して戦う姿。それこそが自分の『カッコイイ姿』だという事を芯から理解しているのだ。


「カッコいい……それだけの、ために?」

「男にとってそれは全てだよ! だから菊ちゃん、しっかりと応援してあげてくれ!」

 女の子に声援を送られる。それもまた男にとっては、最高のカッコよさなのだから。



 赤コーナーにて。イスに腰かけた天涯がうがいの水と胃液を同時に吐き出しながら、トレーナーの赤池に懇願する。

「足が言う事を聞かねぇんだ……頼む、動くようにしてくれ」

「まかせとかんかい、ワシのマッサージは世界一じゃ」

 天涯の足を太ももから足先に向かってもみほぐしていく赤池。両足をふくらはぎまで揉んだところで「足の指を動かして見ろ」と指示を出す。

「ああ……ちゃんと動いてる」

「それが分かるならヨシだ、あと3分ぐらい戦えるわ」

 ここまで挑戦者の徹底したボディ攻撃で、彼の足は機敏さを完全に失っていた。痛めつけられた内臓、特に腸が悲鳴を上げ、脳に「もういい、休めっ!」と指令を出し続けている。

 だがくじけるわけにはいかない、何故なら彼は世界チャンピオンなのだから。

「絶対にKOしてやる! 必ずヤツに一撃をくれてやるぜ!」

「その意気じゃ。お前のパンチで奴のを消し去って来い!」



 一方の青コーナー。イスに座ったフンサイはタオルで顔面を冷やしてもらいながら、呆然と空中を眺めていた。熱を持った顔面が意識を薄れさせ、途切れそうになった時にふと我に返るを繰り返す。頭部に衝撃を受け続けたツケがたっぷりと響いて来ていた。


 だが、あと一押し、もうほんの一押しで世界チャンピオンになれるのだ。相手の天涯の下半身はもはや積み木同然で、もう一度薙ぎ倒せば立つことはできないだろう……だが、今のフンサイの状態で、果たしてそれが出来るのか?


「なぁ……なにかお話、して、くれよ」

 うつろ目のままフンサイがそう呟く。それを聞いたサブロと白雲 虎太郎うんこたろうは、彼の今の状態の深刻さを再認識する。

(意識が……途切れかけている。止めさせるか?)

 迷うサブロ。世界のベルトはもう目の前だが、この状態は命にすら係わるかもしれない。


「分かった。じゃあ私がほんの半月前に出会った、女の子の話をしよう」

 白雲がそう言って語りを聞かせる。便秘に悩み、そのせいで世の中を悲観して飛び降り自殺をしようとした、弱い女の子の話を。

 便秘を抜け出して、自分の中の宇宙を整え出して、今は元気に客席で彼を応援している、タイ語で『可愛い』の意味を持つ、ひとりの女性の話を――



 『FINAL ROUND!』


 ついに最終ラウンドのゴングが打ち鳴らされる。リング中央でポン、とグラブを合わせた二人が、さっと一歩引いてファイティングポーズを取る。


「かあぁぁぁぁっ!!」

 先に動いたのは天涯の方だ。マッサージで回復した足を前に出し、吠えて己を鼓舞して大砲のような右ストレートをぶちかます!

 ドン! とガードを直撃したそれに一歩のけ反るフンサイ、それでもピーカブーの前傾姿勢のまま、ずいずいと前に出て相手の懐に辿り着く。


 意識もうろうとしているフンサイだが、それでも確実にボディブローを放ち続ける。日々の練習でひたすら積み重ねて来た動きが、意志や心では無く、魂のパンチとして繰り出される。


 もみ合い、絡まり、レフェリーによって離され、また打ち合い、くっついて押し合う。

 1ラウンドの頃のキレも破壊力ももう皆無だが、それでもポンコツに成り果てた己の体で、懸命に戦い続ける二人の戦士。


 そんな彼らの姿に会場のボルテージは最高潮だ。空気をゆるがすチートコールに交じって、フンサイコールも徐々に大きくなってきていた。

 素晴らしい男の戦いを見せてくれているこの二人に、もはや国籍もホームもアウェイも大した問題ではない。

 ファンの一人一人が、より自分に投影し易い方を選んで、その姿に憧れてパンチの代わりに声を出す。


 ああ、何てカッコいいんだ、二人とも!



 ロープ際に押し込まれた天涯。もう口からはヨダレのように胃液が溢れているが、それでも歯をマウスピースごと食いしばって、乾坤一擲のパンチを打つスキを狙っている。

 一方追い込んでいるフンサイのほうは、顔を伏せているお陰で見れる王者の足がもうフラフラともつれそうなのを見て取って、ついにその一撃を放つ。


 相手を薙ぎ倒すための、そのパンチをっ!


 ビュゥンッ!


 空を切る必殺の一撃。ここまでのボディ攻撃を伏線として、最後にダウンを奪う為のへの左フックが、王者のスゥエイバックによってかわされた――


(待って、たぜえぇぇぇぇっ!!)

 天涯の目が光る。ずっと待って、待って、待ち続けたこのチャンスがついに訪れた!


 フンサイ・ギャラクシアンへの対策のひとつとして、彼はいわゆる『ロープ・ア・ドープ』というテクニックを収得していた。

 それは追い込まれた際のロープ際でののテクニック。ロープにもたれて空間を作り、反動で距離を詰めて押し返す。相手のパンチをロープの弾力で吸収し、こちらのパンチに加速をつける、追い詰められた状態でなお試合を支配する高等テクニックだ。

 だが、フンサイが頑なにボディばかりを打っていたため、そのテクニックがここまで生きなかった。だがこの土壇場でついに、自分からダウンを奪いたいという欲に駆られて、ようやく顔面を狙ってきてくれた!


「シィッ!」

 すっぱあぁぁん!


 ここぞとばかりに放った天涯のショートアッパーが、フンサイのピーカブーのヒジの間をすり抜けて、その頭を大きく跳ね上げた!

 その一撃は、ここまで溜めて来た彼の頭部のダメージを爆発させるのに、十分な威力だった。



(ああ……光が、見える)

 顔面を跳ね上げられたフンサイが、リングを照らす照明を見上げていた。それは一瞬で明と暗を反転させ、黒い光が彼の全身に降り注ぐような錯覚を思わせた。


 そしてその闇に、彼が飲み込まれようとした時――




 ――コーウンさーんっ! がんばれーーっ!!!――




 少女の声が、鮮明に聞こえた。ついさっき聞いた物語の女の子の声が。


 意識の霧が晴れていく、自分の記憶がさかのぼって行く、今日ここ、今に至るまでの自分の存在が、ほんの少し前に聞いたその少女の話を起点にして、繋がって行く。


 世界が、再び光のリングへと反転する。


「お、おお……オオオオオッ!!」

 顔を戻す、アゴを引く、持てるなけなしの力を、右拳に込めて……目の前の肉体に突き出す!


 ドン! という鈍い音が、会場に響いた。




 絶対王者が、胃液と、血と、苦し気な嗚咽を吐いて――


 まるで絵画の名シーンのように、ゆっくりと、リング上に――


 

 崩れ、落ちた。

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