第二十四話 南国の儚い恋
(……なにこれ)
タイ国。南国の太陽が降り注ぐパタヤ・ビーチに水着で佇む私、
小説や漫画でよくある『青い空、エメラルドグリーンの海、プラチナ色の砂浜』なんて陳腐な表現が、今まさに現実として目の前にある。
でも実際にそこに立って見ると、とてもそれが現実の光景とは思えなくて、私は声すら出せないでいた。
あの世界タイトルマッチから半月。タイに帰国して療養していたコーウンさんがようやく回復したということで、地元で盛大なパーティが行われるらしい。そのゲストとして
もっとも白雲さんとコーウンさんやサブロさんには予定済みだったみたい、あの後正月開けてすぐに私にパスポートを取らせたのからしても明らかだ。
ほんの一か月前、冬のドブ川に飛び込もうとした私が、今は南国のリゾートビーチにいるなんてねぇ。
実はあのうんこたろうに出会ったのもその後もみんな夢で、死後の世界で幻覚を見てるんじゃ、なんて思う程だ。
「
波打ち際で
今日の夜のパーティまで、私はコーウンさんの
軽い階級のボクサーである彼はリングを降りるとちょっと背の低くてやせっぽちの(よく見るとめっちゃ筋肉質だけど)、あまり人目を引かない男性であり、そんな彼に同じく貧相な私がカップルとしてくっついていたら、とても噂の世界チャンピオンには見えないだろうという、白雲さんとサブロさんのアイデアだった。貧相でごめんなさいねぇ……。
まぁコーウンさんも退院してすぐだし、今夜は記念パーティなんだからそれまではゆっくりうとリラックスしたいのは分かるので、協力するのはやぶさかではない。役得も十分だしね。
でもやっぱり場違いというか、世界王者に対して私じゃ役者不足だとは思うけど。
だけど素に戻ると。コーウンさんはその肩書きよりずっと子供っぽい人だった。体脂肪率が極端に少ないせいで水に浮かずに泳ぎが苦手で浮き輪が手放せなかったり、ボール遊びをしていても私に負けまいとムキになったり、挙句に地元の若者たちのダンスに交じろうとして思いっきり身バレして(当たり前でしょ)、私を連れて速攻でビーチから逃げ出したりと、一緒に居て退屈しない人だった……よく逃げ切れたなぁホント。
その後は有名な水上マーケットで食事や買い物をしたり、ゾウの村で一緒にゾウの背中に乗ったり、なんか日本のお寺を何重にも重ねたようなトゲトゲしい建築物を見て回ったりして過ごしていた。
うーん、これは果たしてデートに見えるんだろうか。
なにしろ生まれてこの方男の人とデートなんてした事無いし、お相手は仮にも地元のヒーローなんだし、言い寄って来る美女なんていくらでもいるだろう。
もし周囲の人たちがコーウンさんに気付いたら、私が彼女なんてとても思われないだろうし、私を置き去りにしてそのままお持ち帰りされても不思議じゃない気がするなぁ。
ちなみにコーウンさん、カタトコの日本語なら話せるし、私も年末はずっと彼やサブロさんと一緒にいたせいで、タイ語のニュアンスならなんとなく理解できるようになっていた。なのでコミュニケーションはたどたどしくも取れているし、そんなやりとりが案外お似合いのカップルに見えるのかもしれない。
陽も落ちかけた時、彼に誘われて花屋さんに立ち寄った。男の人にしては珍しいな、なんて思ってたら、コーウンさんは店員さんに話して、あらかじめ用意していたものを出して来てもらっているみたい……なんだろ、勝利の記念の花か、な……!?
「ハイ、キク、プレゼントダヨ」
「……えっ」
彼が私に差し出した花束は、色とりどりの菊の花だった。
「これ、私に?」
「ウン。キクト、オナジナマエノハナ」
「あ……ありがとう、ございます」
それは知ってる。でもそもそもタイにも菊の花がある事の方が驚きだ、そしてそれ以上に人生初の男性からのプレゼント、しかも本来なら雲の上の人にそこまで気を使ってもらえたことの方が……
「あ、あれ、ヘンだな……なんか、涙が」
目からあふれ出す熱いものが止まらない。私の人生に、こんな暖かい、現実離れしたようなシーンがあるなんて。
貧相で、父親のDVに晒され、母はいなくなって、逃げるように都会に出て、そこで世間の風の冷たさを味合わされた。
そんな私が今、地球の全く別の場所で、ありえないほどの幸せを感じているのだ……そう思うと嬉しさと、そして今のこの時間が終わらなければいいのにという不安や焦燥がまぜごちゃになって、涙が止まらなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
「すいません、取り乱しちゃって」
「シンパイシマシタ。デモ、ヨロコンデモラエテヨカッタデス」
私が大泣きしている間、コーウンさんは相当オロオロしてたみたいだけど、店員さんに「あれは感激して喜んでるの」みたいなことを言われたらしく、店を出てからもずっと私に気を使ってくれていた。あはは、エスコートするつもりが、逆にされてるよ私。
まぁそんなわけで、今は夕日の見える海岸の公園に二人で座っている。南国の黄昏は日本のそれよりも圧倒的に美しく、そして雄大で色鮮やかでもあった。周囲のヤシの木や沸き立つ入道雲が、よりそれを印象的に盛り上げている。
ああ、もうちょっと私が魅力的な女性だったらなぁ。だったら今ここで世界一の男性と、ちょっとは恋人気分を味わえるのに……。
「ネェ、キク」
「はい」
「ソノ……アリガトウ」
その言葉に「ヘ?」と首を傾げて彼に向き直る。彼は海と夕日を見たまま、その戦士の顔に穏やかな笑みを見せて、歌うように言葉を続ける。
「アノトキ、キミノコエガキコエタ。モシアノコエガナケレバ、ボクハ、タオレテイタ」
頭にハテナマークを浮かべる私に、彼はたどたどしく説明する。あの12ラウンドで天涯選手のアッパーを受けた時、彼はもう意識を失ってダウンするしか術がなかったとか。
――コーウンさーんっ! がんばれーーっ!!!――
私が無我夢中で叫んだあの言葉が、彼の意識を試合につなぎ止めたみたいなのだ。
折しもその直前の
貧相な自分、薄幸の女、そして世をはかなんで自殺しようとまでした弱い私が、うんこを研究するイケメンの変人に救われた事。中毒患者と快便体操を踊り、浮気の復讐者を尾行して、そして外国からのボクサーと一緒に、わずかな時間を一緒に過ごした私のお話を。
「あはは、お役に立てて良かったです」
心からそう思う。私なんかの声援がコーウンさんの人生をいい方に繋げられたなら、それだけでもあの時に飛び降りなかった意味がある。こんな私でも誰かの役に立てたんだ……まだまだ
よかった、本当に。
「シッテイルカイ? タイデ『キク』トイエバ、『カワイイ』トイウイミガアル」
「え? そう、なんですか?」
それは本来のタイ語ではなく、若者のスラング的なニュアンスだそうだ。
「あはは、だったら私、この国じゃ随分、名前負けしてるなぁ」
手元の菊の花を見て思わずそう呟く。日本じゃ菊の花は国の象徴ともいえる一輪で、どちらかというと形の整った美しさを示す所がある。どっちにしても私には似合わない……いや、時代遅れの女の子の名前という意味じゃ似合ってはいるかな。
「キク、キミハ、カワイイヨ」
「へ?」
ちょ、このムードでそんな事言わないで……ちょっとその気になっちゃうじゃないの!
「
彼がまるで歌うように言ったその言葉の意味を、私はその時、知る由もなかった――
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※タイ語指導:土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり)様
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