第十四話 フンサイ・ギャラクシアンという男
夜の街を、私たちが乗ったワゴン車がジムへと向かって走る。
「え? タイじゃニックネームで呼ぶのが普通なんですか?」
「そうだよキクモンちゃん。こっちでは『チューレン』って言ってるけどね」
空港で合流したボクサー、フンサイ選手のトレーナーのサブロさんにそんな話を聞かされる。タイ人の名前は基本すごく長くて覚えにくいので、個人個人が自分にあだ名をつけて、それで呼び合うのが普通だそうだ。
(うー、それ知ってたら『菊門』なんて名乗らなかったのに……
ちなみにサブロも
ちなみにフンサイ選手の
「ああ。コーウンはお爺さんが日本人だから、その影響だね」
そう解説を入れてくれるサブロさん。そういえばさっきはカタコトながら、白雲さんに日本語で挨拶してたっけ、言われてみたら納得だ。
ちなみに私たちは全員が『フンサイ・ギャラクシアン』の文字が入ったジャンパーを着ている。なんでもこれを着ているとフンサイ陣営のスタッフ認定になるそうだ。
「陣営をはっきりしておかないと、いらぬ揉め事を引き起こしかねないからね」
そう白雲さんが説明してくれた。なにしろ対戦相手は日本のヒーローなのだ、その敵を支援している私たちは、ある意味日本人としての裏切り者、スパイみたいな目で見られる事もあるらしい。
ならむしろ最初からそれをアピールしておけば、無用の摩擦を避けられるというわけだ。
うーん、スポーツの世界って結構めんどくさいなぁ。ま、私もこの仕事が無ければ日本人選手の方を応援してたんだろうけど。
ちなみに当のフンサイ選手はスタッフや白雲さんと楽しそうに談笑している。といってもずっとタイ語なので何言ってるのか全然わかんないんだけど。
最初に見た時はクールな印象があったけど、こうして見ると親しみの持てそうな人だなぁ……。
そんなこんなでボクシングジムに到着。
ジムに入るや否や、大勢の練習生やトレーナさんたちが「おお!」「来た」と色めき立っていた。まぁ世界タイトルマッチに挑むほどの強豪選手が来たんだから無理もないか、皆さんにとっても
「早速、汗を流したいそうです」
通訳したサブロさんの一言にジム内がぴりっ、と張り詰める。世界ランカーともなれば、例え練習でもその一挙手一投足に、みんなの熱い視線が集まる。
バッグのファスナーを開け、その中に手を突っ込むフンサイさん。きっとそこからトレーニングウェアを出して着替えるんだろう。その際にはさぞ鍛え抜かれた肉体が……。
「「?」」
なんかフンサイ選手、かがみ込んでバッグに手を突っ込んだまま動かない。あれ、ひょっとして何かトラブルかな? 忘れ物とか。
「
そのままの姿勢でそう言い放つフンサイさん。それをサブロさんが通訳する。
「『諸君、私はタイの英雄だぞ』、と言っている」
うん、知ってる。だからこうしてみんな注目して……
「
(なんで誰も 私のサインをねだらないんだあああああああっ!!)
突然立ち上がって、涙目でそう叫ぶフンサイさん。その右手にはしっかりとマジックペンが握られていた……えーっと、つまりぃ……あー、そういう。
「サ、サイン下さいっ!」
「俺にもオナシャス!」
「色紙、色紙、このさいノートでも!」
「このサンドバックにも一筆書いてくれんかのう」
とたんに書くものを持ってフンサイさんに殺到するジムのみなさん。えーっと、汗を流すんじゃなかったっけ? っていうか随分おちゃらけたヒトだなぁ、最初のイメージすっ飛んじゃったよ。
皆に囲まれて和気藹々とサインをしていくフンサイさん。せっかくだから私も手帳にサインして貰った。まぁこれ私の排便日記の手帳なんだけどね(笑)。
でも、その後はさすがに凄かった。着替える際に見せた裸ひとつとっても、鍛え込まれているのと引き締まっているのが両立していて、まさにギリシャの彫刻もかくやの、戦う男の肉体だった。
……着替えの途中に私の方を見て「
柔軟運動から始まって、なわとび、シャドーボクシングを経てサンドバック打ちに移行した時には、もう誰もが息を飲んで見守るしか無かった。
なんていうか……オーラが見えるって言えばいいのか。彼が別次元の戦士である事が、動作の一つ一つやサンドバックを叩く音からもはっきりと感じられる。
ちなみに白雲さんはサブロさんの隣で練習を見ながら、マメにメモを取ったりサブロさんに色々と質問していたりする。なるほど、確かにあれなら主治医なのもうなずけるかなぁ……ウンコネタが出なきゃだけど。
基本トレーニングが終わり、いよいよリングへと上がるフンサイさん。
「さぁ、軽くスパーして今日はおしまいだ。パートナーの諸君、頼むよ」
「「ウーッス!」」
何人かの選手がヘッドギアを付け、そのうちの一人がリングへと上がる。フンサイ選手よりずっと大柄で力もありそうだ。
カーン! とゴングが打ち鳴らされ、お互いがグローブを合わせてファイティングポーズを取る。と、パートナーの人がまず右、左、右と空気を切り裂くようなパンチを放つ。
それをやや大きく回避したフンサイ選手が、突然声を張り上げる。
「
その声にサブロさんが一度スパーリングを止め、ロープ際まで上がってフンサイさんの言葉を聞いている。聞き終わった彼が相手選手へこう通訳した。
「
――びりっ――
「いいん、ですね!」
パートナーの人が不敵に笑って、自らの顔をバンバンと叩く。下で待機している他の人たちも皆、にやりと笑みを見せて気合を入れ直す。
殺気が充満するジム内、正直女の私には息苦しいくらいだ。なんとなく怖くなって小走りに白雲さんの横まで移動する。
「いいん……ですか? もし試合前にケガでもしたら」
私の言葉に白雲さんはふっ、と笑って、にこやかな顔でこう返した。
「コーウン君に必用なのは、実戦さながらの殺気だということさ。さぁ忙しくなるよ、覚悟しておいて」
その言葉の意味はすぐに分かった。6人用意されていたスパーリングの相手が、全員KOされるまで、ものの10分もかからなかった。
私は白雲さんやジムドクターと一緒に、倒された人達の手当てに追われることになったのだ。
(これが、世界の頂点を狙うヒト……)
ついさっきまでおちゃらけた笑顔を見せていたフンサイ選手はもう、そこにはいなかった。
世界タイトルマッチを控える最強のボクサーが、オーラと見まごうような湯気の汗を発しながら、その場に不敵に佇むのみだった――
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※タイ語指導:土岐三郎頼芸(ときさぶろうよりのり)様
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