第十五話 絶対王者、天涯 千都(てんがい ちいと)

 朝。白雲ビル二階の一室で、私と白雲さんうんこたろう、ボクサーのフンサイ・ギャラクシアン(通称コーウン)さん、そして彼のトレーナーのサブロさんは……元気に快便体操を踊っていた。


「はいっ、腸をねじるつもりで反り返る~、息を吐きながらゆっくり大きく、いっち、にっ、さん、しっ! でってこい、うーんちっ!」

「「いっちにっ、さんしっ! でってこい、うーんちっ!」」


 世界タイトルマッチを控えた外国人ボクサーが、真顔でうんちとか快便とか言いながら体操をする姿はもうシュールの一言だ。

 でもこれって相当大事な事らしい。ボクサーには減量がつきものなのは知ってるけど、それでも飲まず食わずで試合にのぞむ訳にはいかない。なので快調なお通じで健康を維持したまま体重を落とすのが肝要なのだとか。


「117ポンド(53kg)、あと2キロ落とせばOKだね」

 トイレ後の体重測定でそう告げる白雲さん。っていうかコーウンさん、こんだけ引き締まった体なのに、あと2キロもダイエットしなきゃいけないの?

「順調だよ。これならオーバーワークにならずに5日後の計量に挑めるね」

ขอบคุณコープクン(ありがとう)、ทำให้ดีที่สุดタムハイディーティースッツ(頑張るよ)」


 思わず「とはー」、と息を吐く。半年も一年もかけて1キロ2キロのダイエットに一喜一憂している女性には想像もできない世界だ。


 朝食の後ジムに移動する。挨拶をしてジム内に入った瞬間、もわっとした熱気が冷えた私の肌をじゅん! と温める。体の芯が冷えているのに肌の表面が熱せられたせいで、暑いのになんか寒気がする。

「すごい暖房効いてますね……そこかしこにストーブあるし」

「タイは熱帯の国だからね、12月の日本では汗をかくのも一苦労なんだよ」

 そりゃそうか。あと6日で2キロも落さなきゃなんだし、部屋を暑くして汗をかくのは当然の作戦なんだ。


 で、早速コーウンさんは、なんと上下のジャージの上から雨がっぱを着こんで練習を始めた……うわぁ、ものすごく暑そう。

 柔軟体操からシャドーボクシング、なんかぶら下がったボールを叩く練習を終える頃には、顔面から滝のような汗を噴き出させていた。パンチを一発放つたびに、袖口から汗が飛び散るほどだ。


「だ……大丈夫なんですか? あれじゃ脱水症状になっちゃいますよ!」

「ははは、ボクサーならあのくらいは軽いよ。汗が出るって言う事はまだまだ余裕で落とせるって事さ」

 そうサブロさんが解説してくれた。話を聞くに減量苦のボクサーになると、絞れるだけ絞った結果、いくら運動しても汗すらかけずに熱中症で倒れてしまうケースすらあるそうだ。

 つまりまだ、コーウンさんには余裕があると言いう事らしい。


 私がその話に感心していると、白雲さんがこう声をかけて来た。

「さて。菊門ちゃん、私たちはそろそろ出かけるよ」

「え、どこに? っていうか主治医なのに、ここにいなくていいんですか?」

「減量は問題なさそうだからね。私たちはこれから対戦相手、世界チャンピオンの天涯 千都てんがい ちいと選手の練習を見に行くよ」


「え、ええっ!? 私達が見に行っていいんですか?」

 仮にも私たちは天涯選手の敵側のスタッフだ。そんなスパイみたいなコトしてもいいのかな?

「今朝一番で許可が下りたよ。撮影は禁止、ボクシング関係者でない主治医とその助手ならオッケーだってさ」


 そう言ってフンサイ・ギャラクシアンのロゴが入ったジャンパーを羽織る白雲さん。私も暑くて脱いでいたそれを手に持って、誘導されるままジムを後にした。


  ◇        ◇        ◇


 東京のど真ん中にデン! と居を構える超大手のボクシングジム、大羅おおら拳闘会に到着。

 コーウンさんが頑張っている貧乏ジムとは天と地の差があるなぁ……なんかマスコミの車が前の道路にいっぱい路駐してるし、入り口外まで見物人が溢れている。さすがは日本のヒーローという感じ。


「すいませーん。フンサイ・ギャラクシアン陣営の取材でーす、通して下さーい!」

 白雲さんが大声で中に向けて叫ぶと、居並んだ報道陣や練習生、コーチやファンたちが一斉にこっちを見て、くわっ! とでも聞こえてきそうな視線の威圧をかけてくる……ひえぇぇぇ怖っ!


 でも白雲さんは平然と人混みをかき分け、ジム内にずんずん進入していく。私も彼が開けた人のスキマを、身を縮めながら後を付いて行く……うわぁ、私日本人なのにものすごいアウェー感がするよう~。


 結局ジム中央のリングサイドまで辿り着く白雲さんと私。お揃いのフンサイ選手のジャンパーが完全に敵側丸出しで、その場の全員から向けられる敵意の視線が痛すぎるんですけど。


 でも、その中でひときわの殺気を向けていたのは、リングに仁王立ちしている選手だった。髪を派手な赤と金色に染め、ロープを片手で掴んでこっちを冷たい目で見降ろしている……あれは、ポスターでも見た選手、あの人が――


 絶対王者、『天涯 千都てんがい ちいと


「どうするね、チート」

 下から強面の初老の男性、いかにもボクシングのコーチらしい人が天涯選手にそう声をかける。

「いいですよ別に。ちょうどこれからスパーだし、見てってもらいましょうか」


 そう言ってゴングを鳴らせと指示を出す天涯選手。応えて向かいにいる大柄な選手が「お願いします!」と一礼し、ゴングが鳴ると同時に間合いを詰め、速く、鋭いパンチをビュンビュン打ち放つ。


 が、そのパンチは一向に当たらない。天涯選手は腕をだらりと下げたまま、上半身を前後左右に曲げるだけでそれらを楽勝で躱していく。まるでそんなノロいパンチがあたるかよ、とでも言わんばかりに。


 スドン!


(……え?)

 いつの間にか、対戦相手がひっくり返っていた。よく見ればロープまで追い詰められていたはずの天涯選手が、いつの間にかリングの真ん中に立っていた。彼の足元には、まるで急ブレーキをかけた車のタイヤのように、摩擦の跡が二本のレールを引いていた。


「次」

「は、はいっ、行きます!」


 二番目の選手が倒された時、ようやく私は天涯選手が何をしたかを見る事が出来た。手が届かないくらい間合いを開けていたのに、まるで瞬間移動のように一気に間合いを詰め、そのままパンチを突き出して相手の顔面を撃ち抜いたのだ。

(す……すごいっ!!)

 ボクシングを知らない私でも分かる。まるで大砲でも飛んで来たかのようなグローブの一撃! こんなのを食らったら例えコーウンさんでもひとたまりもないだろう。この人……めちゃくちゃ強い!


 三人目は同じようなダッシュパンチをお腹に食らって嘔吐しながらダウン。四人目は腰が引けて距離を取っていたところ、ノーガードのままずんずん間合いを詰めた天涯選手にタコ殴りにされ、五人目は思い切って接近戦に持ち込むも、突き上げるようなアッパーカット(っていうらしい)で跳ね上げられた顔を、ストレートパンチで撃ち抜かれて、リングに大の字に寝る事になった。


「フンサイ・ギャラクシアンに伝えておけ! これが大晦日のお前の姿だとな!」

 倒れた相手を指差し、私たちを睨み据えてそう告げる天涯選手。同時にジム内が歓声に包まれ、拍手とシュプレヒコールが巻き起こる。


――チ・イ・ト! チ・イ・ト! チ・イ・トッ!――

――チ・イ・ト! チ・イ・ト! チ・イ・トッ!――


 ぞくりとした恐怖と、圧倒的場違いアウェー感に襲われて私は縮こまってしまった。怖い、速くここから逃げ出したい……


「確かに伝えておきますよ。当日が楽しみですねぇ、絶対王者さん」

 私の不安をよそに、白雲さんがいたって呑気にそう発すると、そのまま涼しい顔を私に向けて「さ、帰りましょう」と、背中をポンと押してくれた。


  ◇        ◇        ◇


 帰りの車の中、私は思わず「こ、怖かったぁ~」と泣き言を吐いた。

 実際、あの天涯選手のパンチを食らったら、コーウンさんでも倒されてしまうだろう。私の頭の中で、大晦日にKOされたコーウンさんと、会場に鳴り響くチートコールのイメージが離れなかった。


「ははは。あんなのはパフォーマンスだよ。コーウン選手があんなビッグパンチを貰うはずがない」

「え? 白雲さん、ボクシング分かるんですか?」

「そりゃね。私もボクサーのドクターをたびたびやってるんだし。天涯選手、かなりのプレッシャーを感じているね」

 ええ、あれで?


「なにしろ日本の期待の星だ、もし万が一にも負けたら、ジムはもちろん日本のボクシング協会、スポンサー、タニマチ、そして専属のTV局にまで迷惑がかかる。日本のボクシング人気は冷め、日本人の地位を落とした存在とまで言われかねないだろう。負けられない立場ってのも大変だねぇ」


 その言葉に、心の中の氷が解けたような思いがした。天涯選手もまたイロイロと抱えている人なんだ、だから私たちに単純な強さを見せて虚勢を張っているのかも。


「よく、そこまで見抜けますねぇ」

「ははは。なに、彼はプレッシャーで少々下痢気味みたいだったからねぇ」

「ちょ!? なんでそんな事がわかるんですか?」

「気付かなかったかい?ビッグパンチを打った後、彼の括約筋、つまりお尻を締める筋肉がぎゅっと締まってたよ。大きく動くとモヨオシていたんだろうね」


 ……


「ど ん だ け で す か」

 あーもうこの『うんこたろう』は! どこまでうんこ中心に人を見てるのよ!!


「ま、そのせいもあって天涯選手も減量は問題なかろう。両者ベストコンディションで試合が出来そうだ、当日が楽しみだねぇ♪」

 鼻歌を歌いながらそんなセリフを吐くうんこたろう。確かに下痢気味なら体から水分を抜くのに苦労はないだろう、今の時点でどれだけ体重オーバーかは知らないけど。


「さぁ、コーウンさん、いや『フンサイ・ギャラクシアン』をベストに仕上げるよ。協力頼むよ菊門ちゃん!」

「わざわざ言い直すなら、私も普通に本名で呼んでくださいっ!!」


 ――大晦日、世界タイトルマッチまで、あと五日――

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