第十八話 序盤の攻防

 会場にゴングが鳴り響き、レフェリーが「ファイッ!」の合図とともに両手を交差する。応えて王者天涯と、挑戦者フンサイがリング中央でパンッ、とグラブを合わせる。


「始まったっ!」

 観客が固唾をのんで見守る中、両者は早速鋭い左ジャブの応酬に入る。空気を切り裂き、速く鋭い突きが両者の間で交錯する。


 シュパッ、パン、パンッ!


「さぁ、どっちが先手を取るかな?」

 門田菊の横で、フンサイのスパーリングパートナーを務めていた南実尾なみおがそう語る。彼は菊にお願いされて、この試合の状況を彼女に詳しく解説する事になっている。

 まぁ菊もこの試合までに、いくつかのボクシング漫画を見て勉強はしてきたのだが、まだまだ専門的な事に疎いのは仕方の無い所だ。


 ビシィッ!

 鈍い音が響く。今までグラブで受けていた両者のジャブを、天涯が顔面に貰ってしまったのだ! よろけつつロープの方まで後退するチャンプ。

「打ち勝った、チャンスですっ!」

「いや……危ないっ!」


 ドバン! と強烈な打撃音を響かせて弾き飛ばされたのはフンサイのほうだ。ジャブを貰った天涯はそれで後退すると見せて距離を取り、遠距離砲の右ストレートを相手のガードの上から叩き込んだのだ!


 途端に会場が「おおおおおっ!」と沸く。一撃で相手を押し戻すその強烈なパンチに、今日も天涯のKO勝ちを期待して胸を躍らせる。


「ひ、ひえぇ、飛ばされましたよ、今」

「大丈夫だ。コーウンさんしっかりガードしてる」

 その南実尾の言葉通り、すぐさま立て直してジャブの応酬へと戻るフンサイ。インファイターの彼は両こぶしを鼻面に合わせる「ピーカブー」という構えから小さく左ジャブを、時には右のジャブも交えて攻め立てる。

 対する天涯はオーソドックスに構えて立てた両腕で体を守り、左ジャブを返しながら、やや後ろに引いた右の大砲ストレートを撃ち込むスキを伺う!


 パンッ、と乾いた音がして、またしても王者の顔がのけ反る。フンサイはここぞとばかりにガードを固め、大きくインステップして相手の懐に潜り込み……


 ズバアァァーン!

 天涯の下からの突き上げるような一撃に、またしてもリング中央まで叩き返される挑戦者フンサイ


「スマッシュか!」

「すまっしゅ?」

 下から斜め上へと打ち出す、一撃で相手をKO出来る威力を持つ打法。特に懐に潜り込もうとするインファイターを突き放すのには、これ以上ない有効なパンチ。


 その豪快な一撃に一またも沸きかけた観客が、一瞬で声を飲み込んで押し黙る。なんとフンサイは強打など何するものぞと再び体を縮め、一気に天涯との間合いを詰める。


 そしてついに、王者の懐の中まで潜り込んで見せた!


「捕まえたあぁっ!」

「こ、怖くないんですか、あのヒト!」

 一気に得意距離に付けたフンサイが、左右のフックやボディブローで天涯を一気に押し込んでいく。むろんガードはされているが、低い位置からの一発一発が強い圧となり、王者を一気にロープ際まで押し込む!

「行け行けえぇぇぇっ!」


「いやあぁぁぁ、チートーっ!」

「やばいやばいやばい、フンサイの必勝パターンじゃねぇか!」

 沸き立つコーウン応援団とは逆に、会場全体は悲鳴と焦燥に包まれていた。ジャブの応酬ですでに二度打ち負け、反撃のパンチも効果なく相手の得意パターンに……まさかの1ラウンドからの窮地に、日本人ファンの動悸が早くなる。


 その次の瞬間、天涯の剛腕が三連続で唸りを上げる。


 バチン! バン! ズッバアァァン!


 右ショートアッパーで突き上げ、左フックで横に殴りつけ、とどめとばかりに右ストレートをぶちこむ王者。この三発でフンサイはまたもリング中央まで弾き飛ばされてしまった。


「な……何だ今の連携は!」

「ひえぇぇぇ……生きてます、よね? コーウンさん」

 菊が顔を引きつらせてそう問う。無理もない、1発でも吹き飛ばされた王者のパンチを連続で3発も食らったのだから。

 南実尾も思わず息を飲む。今のは明らかに懐に入った相手を返り討ちにする為の連携だ。アッパーで頭を上げさせ、フックでバランスを崩したところで顔面にストレートをぶち込む。練習で洗練されてきて始めて撃てる、実に強力で凶悪なコンビネーションブロウ。

 ……あれが、『世界』のレベルか!


「でも大丈夫そう、全部ガードしてたみたい。さっすが!」

 さすがに突進の足は止まったが、フンサイはしっかりとピーカブーに構えたまま、目線で王者の追撃を防いでいた。


 ――カーン――


 ここで第一ラウンドが終了する。両者ともに相手を一瞥すると、自分のコーナーに帰っていってイスに腰を下ろす。同時に観客からの盛大なため息の大合唱が、会場の空気を弛緩させる。


  ◇        ◇        ◇


 挑戦者のコーナー。白雲氏にうがいの水を含ませてもらいながら、トレーナーであるサブロの問いを聞く。

「どうだい、世界の実力は」

 うがいの水を吐き出した後、口を腕で拭いながらフンサイは不敵に笑い、闘志あふれる口調でこう返した。

「まだまだ隠し玉がありうそうだな、そうこなくては!」


  ◇        ◇        ◇


 一方、王者のコーナーでも腰を下ろす天涯に向き合って、トレーナーの赤池がジャブを貰った箇所を診察している。

「噂以上だな、フンサイ・ギャラクシアン。とにかく!」

 王者のグチの通り、フンサイはパンチを出した後ガードに戻すのが異常に早かった。彼にしてみればパンチを交換するつもりでも、こっちは食らっても向こうはガードが間に合っている状態だ。

「あの名伯楽サブロ独特の指導だ。パンチを撃ち抜かずに拳半分で止め、戻しを早くして防御を固めつつじわじわとダメージを蓄積させる、やっかいな相手だな」


 1ラウンドの攻防で、天涯は一度もクリーンヒットを得る事が出来なかった。見た目は派手に吹き飛ばしたが、それも全てガードの上だった。

「ったく、カウンターを狙う作戦は早速ダメかよ」

「それくらいじゃなくちゃ面白くない。こっちは二の矢、三の矢まで用意してるんだ。じっくりと世界戦を楽しみたまえ」


 セコンドアウトのブザーが鳴る。気楽に言ってくれるぜと毒を吐きつつ立ち上がる天涯。

 向こうでもすでにフンサイが臨戦態勢だ、おうおうやる気十分じゃねぇかと心に檄を飛ばし、次のファイティングプランを心と体にスタンバイさせるチャンピオン。


 ――ラウンド2――


 ゴングが鳴り、両者がリング中央に向かう。再び始まるジャブの応酬……と思いきや、小さな捨てパンチの後で王者の方から間合いを詰め、そのままフンサイに抱きつきクリンチに行く。

 そして次の瞬間、まるでダンスのように体を半回転させたかと思うと、鋭い左フックを入れつつ一瞬で体を入れ代えた。


「ターンエスケープ……リング中央でアレやるか?」

 南実尾の驚きの通り、あれはコーナーを背負った選手がそこから脱出するための戦法だ。まさかラウンド開始早々に真ん中であんな事をするなんて……。


 ――ドンッ!――


 次の瞬間、吹き飛んだフンサイが、リングに尻もちをついて倒れていた。


 観客が総立ちになって歓声を上げる。レフェリーがダウンを宣告し、カウントを始める――。


 そのカウントを聞きながら、フンサイは呆然として、一つの疑問だけを頭の中で反芻していた。


 ――何が、起こった?――

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