第二章 スワンプマンはそれでもはしゃぐ 2
朝陽は狼から逃げ延びて生き残る術を探す。
相手の戦闘技能、その活用方法。目的。狼は狩りを群れで行う。目まぐるしく思考する。
逃げられるか。魔力を使ったフレイアの身体能力は「凄まじい」の一言に尽きるものだった。無理だと思った方がいいだろう。
木の幹に隠れるのをやめて正面から向かい合う。
こういう時は下手に背中を見せない方が、怯えて見せない方がいいだろう。
視線が交錯する。
魔物とは違い向こうも警戒している。こちらの様子を窺っている。そこに活路はあるのか。
再び風を感じた。身構える。
狼の周囲に緩やかな竜巻が発生した。枯れ草を纏う風が枝葉を揺らして自然がざわめく。
そこから透明な何かが放たれた。
鋭く細長い。こちらに向かってくる何かが景色を歪めている。速い。
(
すんでのところでしゃがんで躱す。胴体を分断する軌道の空気の刃が頭上を恐ろしい速度で通過する。
斬撃の進行上にあった樹木が切断される。大きな音はない。ゆっくりと巨木がいくつか倒れた。軽く避ける。
殺傷能力の高い魔法を使うし、図体のデカかった魔物と違って小柄で小回りが利く。
風が守って風が断つ。攻防一体。遠近対応。本体もある。まともに対処しようとすればどうしようもないだろう。
(……だったら)
覚悟を決める。
出来る事が、一つしか思いつかなかった。
手に持っていたP‐ユニットを襟元からメイド服の中に落とす。腰紐の辺りで止まった。
(もう一回今のを撃ってこい……!)
期待通り、狼の纏う竜巻から鎌鼬が放たれた。それを避けつつも、左腕を付け根の辺りから押し付けた。鋭利な刃物が肉に食い込む感触。濃密に感じる時間間隔の中、ある程度刃が入ったところで腕を迷いなく振り抜いた。綺麗に切断された左腕が空中を舞う。
(よし! これで……!)
自由落下が始まる前に右手で掴む。
出血は少ない。痛みもない。P‐ユニットでそう設定しておいた。止血や痛覚遮断機能は怪我をした時に使ったりするので扱いに慣れている。
腕と一緒に切られた袖から千切れた左腕を抜き取って狼の方へと差し出す。
「これで手打ちにしないか」
伝わらないと分かっていながらも語りかけてみる。
反応を待たず狼の少し前に左腕を放り投げた。
それほど大きい体ではない。腕一本でも十分腹は満たせるのではないだろうか。
動物は警戒していると食事をしないだろう。背を向けないようにじりじりと後退していく。
視界から狼が消える所まで移動する。どうやらうまい具合に見逃して貰えたようだ。残した腕を咥えて持ち去ったのが左腕の血液中に混じったP‐ユニットの信号で伝わってくる。
(あとは早めに食ってくれれば有難いんだけど……)
しばし待ってみる。
(きた……!)
それほど距離を取る事もなく、狼は朝陽の左腕を貪り始めた。
狼の体内に朝陽の肉、血液、P‐ユニット――科学によって製造された寄生生物が摂取されていく。吸収されたそれらは狼の体内へと侵入し、血液を巡って脳へと到達する。
(掌握、完了)
朝陽はそうして完全に、狼の肉体を自分の意志の支配下に置く。
狼の方へ歩き出す。まだ姿の見えない狼もこちらに向かって四肢を動かした。なぜか群れるのが嫌いらしくて仲間はいないらしい。地球の狼と違い群れで狩りを行わない生態なのだろうか。いや違う。この狼は同族を弱すぎると見下しているようだった。
合流する。魔法を扱う異世界の狼を侍らす。頼もしく感じた。意識を乗っ取っているので実質自分ではあるが。
失った左腕以上の役は果たしてくれそうだった。
複数の体を動かす事には慣れている。機械人形を操って行う対戦型のゲームは結構ハマった。
風を吹かせる。狼の魔力で魔法を使う。使い方は狼の記憶と身体が教えてくれた。
こういった間接的なやり方なら朝陽にも魔法は使えるようだった。
「すごいすごい! もうだめかと思ってた! 朝陽くんないすぅ!」
牡丹が快哉をあげる。スポーツの試合で活躍した時みたいなノリで労われた。
『あのさ、俺今正に片腕無くしたんだけどわかってる?』
「栄養を摂ってればそのうち元に戻るはずだし命には代えられないでしょ」
P‐ユニットを寄生させた人間は身体の一部が欠損しても徐々に修復される。そうでなければ朝陽だってトカゲの尻尾切りみたいに腕一本を犠牲になんてしたくない。
「なんにせよ良い判断だった!」
『う、うーん……サイコパスか何かなの? 知識としては再生するって知ってても実際に身体の一部がなくなったの、結構なストレスなんだけど……』
「身体全部無くなってる私よりマシじゃない?」
少ない文字数で完全論破されて朝陽はたまげた。何も言い返せなくなる。
「そんなことよりさ、この子の身体、私が使ってもいい?」
「…………え?」
あまりにも意外な提案をされて、朝陽は思わず素の声を出す。周囲を警戒しつつ、
『別にいいけど……獣の身体だよ?』
「全然いいよ! 私も魔法使ってみたいし!」
『牡丹が動かしてくれるんなら俺としては楽だし、お好きにどうぞ』
「やったぁ! もーらい!」
そう言って牡丹が狼の身体に吸い込まれるように消えていく。そんなわかりやすくする必要ないだろうに。演出に凝りたいようだ。
狼――牡丹はきょろきょろと周囲を見渡して、楽しそうにそこら辺を駆けまわった。
『電波が届かないところまで行かないでよ!』
『わかってるよ!』
獣の身体になったので会話の仕方を変えたのであろう、牡丹の声が意識に響いた。聞こえ方が違うだけでずっと朝陽にだけ聞こえる声ではあるが。
『朝陽くん! たいへん!』
風を操って落ち葉を打ち落として遊んでいた牡丹が朝陽の元に戻ってくるとそう叫んだ。
『この子の記憶見て!』
そう促され、牡丹に導かれて狼の記憶を探る。
そして――朝陽はそれに行きついた。
この狼は牡丹の亡骸を食べようとした事があったらしい。
だがそれは翼の男に阻まれる。「去れ」と言われて、相手との力量を悟ったこの狼は退いた。
腹が空いていた。ありつけそうだった餌が名残惜しくて後ろを振り返ると、翼の男が牡丹にそっと右手を当てていた。
次の瞬間牡丹が目を覚まして起き上がる。混乱したように翼の男を眺めたり周囲を見回す。
会話はなかった。牡丹は何かを話しかけたようだったが翼の男が口を開く事はなく、翼の男の影が盛り上がると牡丹を飲み込んだ。影はすぐに元に戻る。
(なんなんだ、これ。牡丹の身体が起き上がった……? どこに行ったんだ? 影の中……?)
影に飲み込まれていたが魔法的な吸収行為とは違う気がした。もしそうならわざわざ一度生き返す意味がわからない。推し量れない何かはあるかもしれないが、これは朝陽には希望に思えた。
(異種交配で生まれた生物は特殊な能力を持っている事が多いってシアさんは言ってたよな。人間に翼の生えた男……異種交配で生まれた、死者蘇生能力を持つ新種の生命。あの人が魔法で牡丹の体を修復して息を吹き返した……?)
そういう事なのだろうか。
ならば目的を変えなければいけない。翼の男の足取りを追う。
しかしこんな危険な場所で手がかりもなしに探し回ったところで見つけ出せる保証はない。
(これからどうするべきか――)
『あのさ! 言いたいことがあるんだけど!』
狼の中から勢いよくにゅっと飛び出した牡丹がギュイン! と朝陽の眼前に喜色満面を突き付けた。
「よっしゃあ! 俄然面白くなってきたぁ!」
ガッツポーズをかます牡丹の目が爛々と輝いている。何かに熱中し始めた時のそれだった。
『……わかってるのか牡丹。君の意識は今、同時に二つ存在している。これは結構な
「最高にハイってやつだぜぇ!」
いや話聞けよ。サムズアップしてんじゃねぇよ。
(ああもうだめだ。何があっても牡丹は牡丹。適当にあしらうだけでいいや)
とにかく目的だった牡丹の身体がもうなくなってしまっているので目標地点に向かう意味はない。この山から撤退する事にする。
『牡丹、はしゃいでるところ悪いけどもう帰るよ』
「おっけー」
牡丹はすっと狼の中に戻った。
思うところがあって、朝陽は狼になった牡丹に話しかける。
『それと、一つ言っておきたいことがある』
『ん、なに? 真面目な話なら三年後くらいに受け付けるよ』
『なるべく混乱を避けたいから、こうして牡丹のアバターを呼び出したことをフレイアって子には内緒にしたい。言う必要もないだろうし』
『うそつけ。ご主人様に甘えん坊だってバレたくないだけだろ、見栄っ張り』
『…………で、わかったの?』
『朝陽くんがぴえ散らかして私に慰めて欲しかった事を認めるなら頼みを聞くのもやぶさかではないよ』
『……もう! そうだよ! 一人じゃ耐え切れませんでした!』
『言えたじゃねぇか。偉い偉い』
そんないつもの他愛ない会話をしつつ、狼の身体で海外のアニメばりに器用なスキップをしながら歩く牡丹を伴い下山する。
他の動物に遭遇する事もなく無事に平原へ出た。
相変わらずだだっ広い風景。自分の存在がちっぽけに思える程だ。
「おつかれさま。ずいぶん大変だったみたいだねぇ。収穫もあったようだけど」
シアが迎えてくれる。また髪や瞳が光っていた。魔法で記憶を見ているのだろう。
「それにしても、なかなかやるわね」
なくなった左腕の肩口を見てから、次に狼を眺めて感心している。この世界の人達にとっては身体の欠損は日常なのかシアは朝陽の腕がなくなっているのを見ても軽い反応だった。
「この個体、たぶん『王種』だね。まだ子供みたいだけど」
「王種? それってなんです?」
「その種の中で稀に生まれる特殊個体。同族と比較して突出した戦闘能力を有していて、群れる事を好まない孤高の精神を持っている。と言われているのが王種ね」
だから一匹だったのかと得心が行く。
「ふーん、こいつレアなんですね」
「売ったら結構いい値段するよ、たぶん」
「うーん……それも一応は視野ですけど、とりあえず実用する方向で考えてます。この世界で生きていくのに魔法が使えないのは死活問題だろうし」
「それもそうね」
「そんな事より、シアさんは知っていたんですか? 牡丹が生き返っていること」
朝陽は自分の中にあった疑念を口に出す。諸々承知していそうなので簡潔に言う。
「ううん、そんなわけないよ」
シアは首を横に振った。
「万一があるとは言ったけど、ほんとにあるなんて思ってなかった。死体の放置に嫌な思い出があるだけ。顔見知りのゾンビとかもう二度と見たくないもの。知ってたら生きてるよってそのまま教えたよ」
とぼけているようには見えないが少々猜疑心を抱いてしまう。あまりにも言った事がどんぴしゃで当たり過ぎている。
(
あっちの牡丹はちゃんとまともな状態で動いていたのだろうか。
先行きを不安に思っていると、シアが「さて」と言いながらぺちんと手を叩いた。
「そろそろ日も落ち始めるし、町に向かいましょうか」
「……? なんでですか?」
行く目的がわからずに訊く。
「だって嫌だもの、知り合ったばかりの赤の他人が、それも男の子が自分と同じ家で寝るなんて。安眠妨害甚だしいわ。キミの宿泊場所を探しに行くのよ。無くしてるから靴も買ってあげなきゃだし、服も買い替えるか修繕しないと」
「あ、はい……すみません、なんか。ご迷惑おかけします」
すごい勢いの拒絶にしょぼくれる。
シアのその発言で現実に引き戻された。
これから此処で、生活していかなければならないのだ。
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