プロローグ 魂の感触 2

 朝陽の視線の先に現れた生物は、怪物としか言いようがなかった。

 真っ黒な体から無数に伸びる紐状の部位が多脚で地を這う昆虫の足取りで怪物の巨体を前進させている。距離はあるが、おそらくは見上げる程に大きいだろう。目算は三メートルを超えている。

 そして何より薄気味悪いのが……


 ――――じっ……


 視線。その体表には零れ落ちそうな大きな目玉が無造作にぞろりと並んで血走っている。


(な、なんなんだ、あいつ……?)


 怪物はこちらの存在に気付いていた。こっちへ向かって来ている。


「逃げよう、牡丹!」


 そう叫んで、朝陽は隣の牡丹に目を配る。

 着物姿の牡丹が青ざめた顔で見返してきた。咄嗟に体が動く。膝裏と背中に手を回して牡丹を抱きかかえる。

 身動きの取り辛い格好の牡丹に対して、朝陽は比較的動きやすいトレードマークのメイド服。ミニスカートだし靴はスニーカーなので、牡丹と違って問題なく走れる。気合を入れる時以外は生活のしやすさを優先してスニーカーにしていた。

 青々と生い茂った木々を縫って、柔らかな土を蹴散らしながら無我夢中で駆ける。

 転ばないように前方の景色を目に焼き付けて、振り返る。

 まだいる。そんな事は背後から聴覚へ届く気配でわかっていたが、距離を目視で確認してまだ安全だという確信を得なければ気がどうにかなりそうだった。

 巨体が仇となって小回りが利くこちらを追い込みあぐねているらしく、遭遇した時と距離は殆ど変わらない。


(この状況、どうすればいい……!?)


 怪物の正体は不明だが、その目的の推測なら容易だった。

 獰猛にして餓えた捕食者。怪物の全身がそう物語っている。


『朝陽くん、あの生き物って何なのかな……? どうしてあんなのがいるの……?』


 怯えを含んだ牡丹の声。

 事態を好転させる為ではなく不安を払拭したくて発せられたその無駄口に、窮地に立たされて切羽詰まっていた朝陽の神経が逆撫でられた。


『そんなの、俺が知るか!』


 心の余裕がなくて、思っていた以上に苛立ちを含んだきつい言い方になってしまう。腕の中で牡丹が身を縮ませたのがわかった。


『あいつの正体はわからない……けど、打開策は思い付いた』


 これ以上脅かさないように気をつけながらそう伝えると、


『……どんな?』


 牡丹が縋るように聞き返してきた。

 逃げる事から気を抜かず、考えを教える。


『あいつの目的はおそらく俺達の捕食だ。てことは、腹が減ってる。だから――』

『……あ!』


 最後まで言い切る前に朝陽の言わんとしている解決策に辿り着いたのだろう、牡丹の声が微かに希望を帯びる。


『他にもっとお腹が膨れそうな生き物を探して擦り付ければいい……?』

『そういうこと』


 朝陽はただ闇雲に逃げ回っていた訳ではなかった。怪物に他の餌を用意してやろうと野生動物を探していた。

 だが、一向に出くわさない。怪物が派手に騒音を立てているから遠ざかってしまっているのか。

 体力自体はまだあるが、遂に汗が頬を伝う。


(現状維持はいずれ詰みかねない。どうにか一瞬でも振り切ってどこかに隠れるか……?)


 そう考えてもみるが、怪物の外界感知方法がわからないからには下手な行動は命取りだと逃げ続ける以外の選択がとれない。

 流石に感じ始めた疲労に焦る。

 とにかく少しでも距離を稼ぎたくて最短ルートを通ろうと足場が目視で確認できない茂みを踏みつけた。脚力で撒けるならそれでもいいだろうと頭の片隅で考えたからだ。


「――――ッッ!?」


 踏みしめた茂みの中、想像していたよりも高い位置に固い感触があった。

 おそらく木の根。予想外の出来事にバランスを崩して盛大に転ぶ。その拍子に抱えていた牡丹を放り出してしまう。


「ごめ、牡丹、だいじょう――っ!?」


 急いで立ち上がろうとして――足が何かに引っ張られた。

 ぞっとして右足を見る。植物の蔦に絡みつかれていた。


(嘘だろ……!?)


 慌てて引き抜こうと足を暴れさせるが、蔦はしつこく頑丈でなかなか開放してくれない。

 藻掻いていたその数秒は、怪物が距離を詰めるのに十分なものだった。

 視界に影が差す。見上げると、無機質な異形の瞳と目が合った。

 息を呑む。そこにはなんの感情もなかった。歓喜も達成感も、何も含有しない空虚な視線。目は見る為の器官だから見る為に使っているというだけの単純な行為。全身から生えた触手がうねうねと動いている様に怖気が走った。

 追い付いた怪物は動きを止めて無数にある触手の一部をゆっくりと伸ばしてくる。

 食われる。死んだ。

 そう思った。


「――――ああああッ!」


 突如、裂帛の叫びと共に紫の何かが朝陽の後方から飛び出して怪物に肉薄した。

 視界の中に紫陽花色が鮮やかに舞う。牡丹が着ていた着物の色だ。

 たまたま近くにあったものを拾ったのであろう、牡丹は木の棒を両手で握り締めて自身の何倍もある怪物に立ち向かった。体表を覆う眼球の内、少女の背丈でも届く位置にあるもの目掛けて先端を突き出す。

 容赦なく体重を乗せて繰り出された渾身の一撃。尖った切っ先が柔らかな肉を穿ち、血飛沫を舞わせる――かと思いきや。

 バキッと。木の枝はあっさりと半ば程から折れて弾き返された。弓道での懐中のように直撃させたはずなのに怪物の眼球にかすり傷一つすら付けられていない。

 それでも驚かせて怯ませる事は出来たようで、怪物は瞼を閉じて身を強張らせた。

 けれどその直後、血走った眼球が零れ落ちそうな程に大きく瞳が見開かれる。反撃に激怒したのか怪物の体がぶわっと一回り膨張した。

 それは凶兆を予感させるには十分な変化だった。


「…………ぁ……」


 牡丹が漏らした淡白なその吐息は、自身の無残な結末を悟った響きを宿していた。

 怪物の触手が数本捻じれて絡み合い太い縄の形状を取る。力を溜めるように後ろへ引かれた。

 鞭のように振るわれた触手が朝陽の目の前から牡丹を攫い、すっ飛ばした。数メートルでは到底足りない大きな距離を弾かれて転がってゆく。

 呆けていたのも一瞬の事、硬直していた身体が弾かれたように動いた。絡まっていた蔓は靴を脱いでどうにか解く。立ち上がって牡丹の元へと駆け寄るともう一度抱き上げて再び怪物から逃げ出した。


「ハァッ……ハッ……!」


 荒く息を吐く。恐怖で呼吸が、動悸が加速する。目尻に涙が滲み、しゃがみ込んで泣き出したい気持ちと逃げなければという思いだけが際限なく増大していく。

 背後から届く怪物の気配に追い立てられて、無策に、がむしゃらに山中を駆けずり回る。


「…………!?」


 不意に、どこか遠くから響いた大きな音が耳朶を打った。遅れて仄かな振動が空気や地面から肌を痺れさせる。音はおよそ人の耳に届くとは思えない距離感で発生しておきながら、遠雷のようにはっきりと、断続的に聞こえてきた。

 それは縋るに足る一縷の希望に思えた。

 なにより、


(早く……少しでも早く牡丹を治療しないと……頼む、誰か……!)


 音の響いてくる方へ進行方向を変える。

 ぐったりと脱力している牡丹を抱える腕に力を込めた。

 茂みを抜けて、山肌が剥き出しになった山岳地帯へ辿り着く。

 そこで目に飛び込んできた光景は――


(人……! が、空を飛んでる……!?)


 尾根が稜線となった連峰がどこまでも続く雄大な景観の中、二点、目を引くものがあった。

 遮るものがなくなった開けた視界。遠方に人の姿が確認できた。

 けれど朝陽は、本当にそれが人間なのだという確信を持てずにいた。

 一人は背中から猛禽の茶けた翼が生えていて、空を舞っている。

 また地に足を着けてそれと対峙しているもう一人は、身体の周囲に炎を舞わしているからだ。炎は支えもなく滞空して、中心にある人物が動けば追従して蠢き空間を焦がした。

 翼の生えている方は男のようで、炎を纏うのは少女のようだった。

 あまりにも、奇異な光景。

 走りながらも気を取られて、注視してしまう。

 少女が跳躍し――驚くべき事に足に履いた金属質の長靴ブーツから白い火花のような光を噴射しながら――空を舞う男との距離を一瞬で削り取ると手に持つ大剣で斬りつけた。少女の身長ほどもある紅い幅広の剣。少女はそれを踏ん張りの利かない空の上で軽々と扱い目で追い切れない速度による斬撃で猛攻を仕掛ける。躱しきった翼の男が空を飛んで間合いから逃れれば、空中を蹴る仕草と同時に靴底から白い光を迸らせて少女は華奢な身体を再度突進させる。

 初撃合わせて三度繰り返し、攻撃全てが捌ききられた少女は追撃を断念したのか逆さを向くと頭を地上に向けたまま空を蹴りつけた。白光が放たれる。落下する途中で体勢を反転させて猛然といった速度で足場の悪い山の斜面に轟音をたてながら着地する。そのまま長靴ブーツで山肌を傷付けて滑りながらも姿勢を殆ど崩さずに、停止するまで間、空を仰ぎ翼の男を見続けていた。

 一連の流れは、僅か数秒というごく短い間になされたものだった。


「誰か…………」


 壮大な景色の中で繰り広げられる人知を超えた者達の戦い。普段であれば言葉を失い魅入る事もあったのだろう。だが、腕の中には沈黙する牡丹がいた。それが朝陽の忘我を押し止めた。


「誰かこの子を助けてくれぇぇぇぇ!!」


 叫ぶ。たった一声で、喉が嗄れそうな程に。彼我の距離はまだある。どんな大音声を出そうとも人間の声量で素直に届くとも思えない程の絶望的な距離が。だとしても叫ばずにはいられなかった。腕に感じる確かな重みを、万が一にも失いたくなかったからだ。

 それが、功を奏した。

 超人的な戦闘を繰り広げていた両者は、ほぼ同時に朝陽のいる方向を一瞥した。

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