4話 魂の感触
翼の男は無表情だったが、少女の方は驚愕に近い調子で目を剥いた。
その瞳が映しているのはおそらく、牡丹を抱える朝陽ともう一つ。
背後に迫る怪物の気配が膨れ上がる。木々から抜け出して怪物との間に障害物を失い容易く追い付かれてしまったのだろう、怪物はもう吐く息すら感じられそうなほど近くまで迫っている。意味がないとわかっていながら首を回して後ろを見る。
再び、どうにもならない近距離に怪物がいた。その巨躯を前に、おぞましさから目を引き剥がすと牡丹を抱き締めて観念するように瞼を閉じて――
ズドンッ! と。背後から聞こえたけたたましい音と共に大地が揺れた。
衝撃にたたらを踏んで足を止める。中腰になって、耐えられずに片膝を着く。
何が起きたのかと朝陽は背後を振り返る。
「…………!?」
翼の男が立っていた。羽の生えた背を向けて、怪物の身体に右手を差し込んでいる。
そこを中心に、地面には盛大にヒビが入っていた。
怪物の不気味な体表がビクビクと痙攣する。
死んだのか、動かなくなったところで翼の男が右手を引き抜く。
怪物は支えを失いあっけなく崩れ落ちた。
ゆっくりと、翼の男が振り向く。
右手を血で真っ赤に染めて全身のそこかしこに返り血を浴びている。
でかい。身長は二メートル程ある。美貌と評して差し支えない鋭い顔付きに筋肉質な体格。背中に翼がある為か上半身は裸で、腰にはぼろい布を巻いていた。
ネコ科を思わせる縦長の瞳孔が印象的だった。一切の気兼ねなく見詰められる。深い知性を感じさせる金色に魅入られるようだ。
――いつ、ここまできたのだろうか? 今の一瞬で……?
数秒前まで遥か彼方にいた翼の男は、陽光に輝く金の髪を風に靡かせて当然のようにそこに立っている。
「あの」
けれどそんな疑問はどうでもよかった。
話しかけるのに恐れはなかった。個性的な外見であっても翼の男は窮地から救ってくれた命の恩人なのだし、血塗れなのは自分達の代わりに手を血で染めてくれたに過ぎないからだ。
「この子を」
謝辞も謝罪も礼も、何もかもを差し置いてまず牡丹が治療を受けられるように手配して貰おうと口を開いていると、
轟ッ! と熱い突風が吹き抜けた。
驚いて目を細める。
風が止み、朝陽は瞼を上げる。
いつの間にか目の前の状態が一変していた。
翼の男と入れ替わるように巨大な剣を持った少女が背を向けて立っている。纏う炎は空気を焼き、その熱が肌を炙ってくる。
少女は空を見上げていた。視線を追えば、空には地上を鳥瞰する翼の男。
事態の急転に混乱する。牡丹の容体は一刻を争うにも関わらず、身動きが取れずに両者の動向を見守ってしまう。
「貴様の要求通り、ここはおとなしく引き下がろう。だからそちらも今すぐ失せろ」
少女が言った。幼さは残るものの落ち着いた雰囲気の凛とした声音であり、それはどう聞いても日本語だった。
「…………」
翼の男はしばし黙考すると、無言で背を向け飛び去った。
はぁと溜息を吐きながら、今度は少女がゆっくりと振り返る。
「それで、あなたはどうしてこんなところにいるんです……か……」
険のある言い方で気だるそうに問いかけてきていた少女の言葉尻がこちらと目を合わせた途端急に消え入る。
まっすぐに見つめ合う。
初対面のはずなのに思う所がありそうというか、様子が変だ。
呼吸も思考も全部忘れるくらい驚いている。朝陽はそんな風に感じた。
だがそんな少女の驚愕に取り合っていられる場合ではない。
牡丹を差し出して口を開く。
「この子、大怪我して気を失ってるんだ。どこか治療が出来る場所まで案内して欲しい」
聞き慣れた言語を話す相手であれば問題なく要求が伝わるはずだと話を切り出す。
声をかけられハッとして自分を取り戻したらしい少女は訝しげに眉を顰める。朝陽の腕の中の牡丹へ僅かに目線を落とし、
「残念ですが、その人はもう……」
故人を悼むように目を伏せた。
――いや、ように、ではないのだろう。これは寸分の違いなくそのままの意味で受け取るものであり、朝陽の幼馴染である
足元が揺らいでいくような錯覚。
「そ、そんなわけ……っ!」
覚束ない足取りでよろめきながら纏まらない思考でぼやく。
少女の口が微かに開かれて、かけるべき言葉を探すように瞳がさ迷い……結局何も見つけられずに唇が引き結ばれた。
(これは……こんなのが……現実か? いや……)
もしかしたら、違うんじゃないか?
そう、実は、これは夢なのだ。政府が若者に人命の尊さを学ばせる目的で仕組んだプログラムの一環であり、所詮ここは空想のような世界なのではないだろうか? ……そうだ。そうに違いないのだ。そうじゃなきゃ、おかしいだろう?
うん、わかったよ。
もうわかったから、だから早くこんな夢から覚まさせて嘘だと言ってくれ。
そんな声のない叫びは風に消える。弛緩しきった牡丹に変化はない。
……どうしてこうなった?
牡丹が何か悪い事でもしたか? 死ななきゃならないような事、何かやったか?
やってないだろ?
つまり――
「牡丹は……死んでない。悪い事なんてなんにもしてないのに死ぬはずなんてない」
そう呟く朝陽へ、少女は痛ましいものを見る目を向けて厳しい口調で言う。
「なら……どうしてあなたはこれまで一度もその人の方を見ないんですか?」
「…………!!」
「本当はもう、わかっているんじゃないですか?」
どうして一度も見ないのかなんて、そんなのは決まっている。
目を向けてしまったら、きっとわかってしまうから。認めなくてはいけなくなってしまうから。非情な事実を、受け入れなければならなくなってしまうから。
「ちゃんと見ておいてあげてください」
間違いを正すような、あるいは思いやりで叱りつけるような落ち着いた声。
「その人が死んで欲しくない人なら、なおさら、ちゃん、と……?」
淀みなかった少女の言葉が唐突に途切れて怪訝な目を牡丹へと向ける。
え、と思い、やっぱり牡丹は死んでなんていなくて目を覚ましたんだと期待して目を落とす。それくらいしか今この場で少女が驚きを示す状況を思いつけなかったからだ。
「あ……」
牡丹の口から、ぶよぶよとした赤黒い血の色をした液体が蠢きながら這い出てきていた。
朝陽はその正体に心当たりがあった。学校の授業やネットワーク上で何度か目にしている。
実物を見るのはこれが初めてだったが、すぐにわかった。
通称『P‐ユニット』である。
P‐ユニットは胎児の時から全人類の体内に注入されている。身体能力の強化、脳機能の上昇、他者との思考による意思疎通などといった様々な機能と用途を兼ね揃えた人類の英知の結晶。宿主に益するように志向された思考能力と生存本能を持つ擬似生命体であり、健康管理など宿主の生命活動を補佐する役割も与えられている。
それが体外に排出される理由は一つしかない。
絶命時。P‐ユニットは宿主の生命活動が終わりを迎えると口腔から体外に這い出して球体となって硬化する。それは宿主の記憶を始めとしたあらゆる身体情報を然るべき施設へ劣化なく届ける為に組み込んである習性だ。
新しい肉体は科学技術で問題なく用意できる。朝陽の身近ではこれまでなかった事ではあるが、これを使用した死者の蘇生は事故死の場合のみ既に実行されているのだ。
(そうだ……なら……)
天啓にも似た閃きが脳を満たす。
(やっぱり、牡丹はまだ死んじゃいない……!)
なぜなら牡丹はこのP‐ユニットの中にいる。
これを待ち帰る事さえ出来れば、牡丹の人生を欠落なく続行できる。
肉体なんてものは着脱可能な魂の入れ物に過ぎないのだから。
こんなのは耐えられない。認められない。絶対に、許容できない。
牡丹がここで死んでしまう運命なんて、なにがなんでも否定してやる――!
もう必要ない、壊れてしまった牡丹の体を地面に横たえて、その胸元に転がる球体となった赤黒いP‐ユニットを両手で優しく掬い上げた。
人工物の魂は、まだほんの少しだけ生暖かい、金属の手触りだった。
「あの……」
声をかけられ、顔を起こして立ち上がる。
朝陽は改めて少女を見た。着ているのは軍服だろうか。全体的に白を基調としておりショートパンツ付きのフレアスカートもニーソックスも腰のベルトも、特注品のような高貴さだ。
似合っているとは言い難かった。少女の頭の天辺は朝陽の胸までしかないし、軍服なんて矮躯の少女と釣り合わない。なによりも噛み合っていないと感じるのは手に持つ大剣なのだが。
「…………」
鋭く細められた青い瞳と目線がぶつかる。光を強引に押し込めているかのような眼光。比喩ではなく、少女の瞳は実際に発光していた。後ろで纏められた腰まである小波のような赤い髪も同じように輝いていた。
幼さの抜けない顔立ちを見る限り少しばかり年下に見える。
ぱっと見は美少女と言って差し支えない容姿だ。
しかし女の子の表情は彼女の魅力を無碍にしていた。
仏頂面。愛らしい大きな目に燈る光彩は冷え切ったように濁り、鈍い。
「…………あなたは、誰なんですか」
形の良い小さな唇が割れて声をかけてくる。容貌通りの幼さ残る声音なのに無邪気さとはかけ離れた年不相応な大人の響きを宿していた。
「えー……と」
答えようとして言い淀む。自分は誰か。存外答えに窮する問いかけだった。
「
苛立たしげな少女の気迫に圧されて名前だけ告げる。
「名前だけ答えられても困ります。所属と目的は?」
可愛らしい見た目に反してやけに事務的な口調だった。
「……地球人。帰る」
不貞腐れたような朝陽の返答に女の子は不愉快そうに表情を歪ませて大袈裟に溜息を吐く。
「真面目に答える気はありませんか。あの男の仲間とも思えませんが……何か不都合があって素性は明かせませんか?」
「そういうわけじゃない。俺自身なんでここにいるのか分かってなくて……」
「はぁ……俺? その球体はなんですか?」
「これは…………」
見てわからない人間にこれが牡丹だと言って理解してもらえるのだろうか。
「……まぁいいです。遺体は疫病の原因となりかねないので……魔物のものだけ焼いておきます。その方をあなたの前で燃やすのは忍びないですし」
言うが否や少女の周囲を取り巻いていた炎が魔物の死体へと取り付き炎上する。
「あなたには私について来て貰います」
ここに居続けるのは論外なので異存はなかった。少女はおそらく力ずくで事を運べるだろうに、暴力で屈服させるつもりもないようなので信用できるのではないだろうか。
「……わかった」
だからもう、朝陽は思考停止で頷いた。そして続ける。
「こっちからも訊いていい?」
朝陽の承諾を得て踵を返しかけていた少女が振り返る。同時に周囲を取り巻いていた炎が虚空へと消える。
「構いませんが悠長にしている時間はありません。なんですか?」
「君は、だれ?」
自分がされた質問をそのまま返す。
「……これは失礼しました。私はアデイル軍の末席に名を連ねるフレイア・ラズヴェルナです」
身長が低くて睨むような上目遣いになっている少女は姿勢を正してそう名乗る。警戒されている事はなんとなく分かるのだが、殆ど無表情なのであまり感情が読み取れない。
アデイルグン。聞いた事はない。
こう言えばわかるだろうといった態度に認識のギャップを感じる。
おそらくアデイル軍。
やはり着ているものは軍服で、少女――フレイアは軍人なのだろう。
「へー、そうなんだ。フレイアさん……ね」
名を口にすると眉を潜められた。不快そうだ。気安く名前を呼ばれるのを好まないのかもしれない。
「で、さ」
歯切れ悪く核心に迫る疑問を投じる。
「さっき君の周りにあった炎……あれはなに?」
「私の魔力を炎に変換したものですが」
臆面もなく言い切られる。
「それは……魔法、なのかな?」
「魔法です」
当然とでも言わんばかりの断言。
魔法。そんなものの存在を、異世界なんてものの実在を、認めろとでも言うのか。
それが事実であれば、牡丹の蘇生は達成困難になってしまうだろう。
「君、日本語喋ってるよね?」
悪足掻きのようにそう訊くと、困惑したようにフレイアが小首を傾げる。
「…………? ニホンゴとはなんでしょうか」
「知らない? じゃあなんで言葉が通じてるの?」
「……? 言葉が通じるのは創造神の恩恵でしょう?」
「…………っ」
相手が創造神の恩恵という言葉に含まれる概念を既知している前提の発言。そういう答えを求めているのではないのに。
ありえない光景は散々見た。現実から目を背けている段階ではなかった。
これはもう、受け入れるしかないのだろう。
「戯れていられる状況ではないのでもう切り上げてもいいですか」
怪訝な顔をしたフレイアが冷たい声で言う。
「…………ああ、うん」
朝陽は諦念するように了承して、そういえばとふと気付く。
(これ、持って行ってあげないと……)
散漫となった頭でそう考えて、足元に転がっている牡丹の抜け殻から髪飾りを外す。
そうして促されるまま朝陽はフレイアに追従した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます