第三章 男は女を売り捌く 3

 翌日。

 宿の自室で朝陽は鏡と向き合っていた。

 鏡面に映し出されているのはP‐ユニットでそうなるように設定してある中性的な容姿をした自分。遺伝子的に可能な範囲で好みにしたらこうなった。血は争えない。


 朝陽には母親が二人いる。

 父親はいない。科学技術により女性二人の遺伝子から生まれてきた子供。それが朝陽だ。

 何も特別な事ではない。そんなのは現代社会ではよくあって、驚く事でも、悲観する事でも、得意になる事でもない。ごくありふれた今の日常。

 だからそれに対して思うところは無かったのだが、幼い頃、まだ言語で思考できない頭でぼんやりと感じていた問題があった。

 ――自分は両親から愛されていない。


 朝陽には弟がいる。同じ日に生まれた、腹違いの弟。

 弟は可愛い。弟なのでもちろん男なのだがP‐ユニットによってホルモンバランスを調整されて少女の容貌をしていた。長い髪が良く似合っていて、よく笑う朗らかな子。


 そんな愛くるしい弟を、両親は溺愛した。

 元々女性同士で婚姻を結んで子を生す人達なので女の子の性質を好むのだろう。最初のうちこそ朝陽にも愛情を注ごうと努力していたように思えるが、幼少期の朝陽が男の外見をしていた為か時を追うごとに朝陽から興味を無くしていったようだった。


 それならどうして弟と同じにしなかったのか? そんな疑問も抱いたがその問いかけを口に出した事はない。言ってしまったら両親との間に目の逸らせない隔たりができる気がしたし、正直さして興味もなかった。それに、おおよその見当はつけてある。男の子も育ててみたい。そんな幼稚さから来るささやかな好奇心だろう。間違いないと確信している。なぜなら彼女らの子供であり、その性質を受け継いでいる自分がそう感じたのだから。


 弟の事は好きだった。朝陽によく懐いて後ろを着いて来たがったし、両親と同じで朝陽も弟を愛らしいと感じた。親の贔屓があった時、他の兄弟を疎ましく思うなんて話には事欠かないが、全くそんな風にはならなかった。悪いのは子を愛せない両親か、差別させる自分の魅力の無さが原因であって弟に罪過などありはしない。それに、自分が優遇されていると感じ取った弟は朝陽を慰めるように付き纏って構われたがった。だから親愛の情が翳りで覆い隠されるなんて事は、決してなかった。


 両親は嫌いだった。理由は単純明快で、実子を差別する陰湿な人間だから。どこかの時期を境にあまり会話をした記憶もない。

 かといって放任されていたわけでもない。両親の内の片方、朝陽を出産した母親は時折頬を撫でてきたり優しく抱き上げてきたりした。けれどその最中にさえ『自分の生んだ方がこっちじゃなければ……』というような、相手にする事を面倒臭がっている節があった。弟を胸に抱く伴侶へ羨望や不服の眼差しを向けている横顔が印象的で鮮明に覚えている。


 辛いとは、それほど思わなかった。朝陽は両親をひどく無価値な存在だと認識していたからだ。こんな人達に価値を認められなくても自身の真価が損なわれる事は無いと侮蔑していた。


 とは言うものの、自分の事は嫌いだった。

 無価値な人間から生まれて、その人達を深く理解する程に自分の性質が似通っていたから。嫌いな人達と同じ血が流れているという負の烙印が押されているから。我が身の事とは言え、そんな虫唾が走る奴を好きになれるはずがない。


 そんな時だ。牡丹と出会ったのは。

 子供を愛してしっかり育てているというステータスが欲しいらしい両親の勧めで弟と一緒に通う事になった音楽教室。そこに牡丹は居た。

 大和撫子な見た目に反して中身は快活。牡丹は人見知りも物怖じもしなかったので最初から多くの会話をした。妙に意気投合して、友達になろうと頷きあった。当然弟もその場にいて、三人で仲良しといった関係だ。


 牡丹は年上というアドバンテージを笠に着て様々なご高説を垂れた。


「アダムとイブが楽園から追放されたのはね、嘘をついたからじゃなくて責任転嫁したからなんだよ。蛇に唆されたって。楽園っていうのは世界のどこかにある土地の事じゃない。資格を持つ人間の周囲に形成される空間なの。人のせいにする人間は『楽園』の住人ではいられない」


「笑うっていうのはね、攻撃的な側面を持っているの。笑いかけるっていうのは恣意のある働きかけ。相手を自分の思い通りに動かしたいっていうね。何かを頼む時に笑顔になるのがその一例。笑いかけてやってるんだから自分を重宝しろ、丁重に扱えっていう脅しね。だから上手く笑えなくてもいいの。それはその人が他人を攻撃したくない事の証明だから」


 かつての牡丹は話が長く、校長先生の才能があったと思う。もちろん皮肉だ。

「哲学をし過ぎると解脱して涅槃ニルヴァーナへと至り思考を放棄してくうの心で生きるようになるの」とよくわからないことを言い出す前の、本が好きだというこの頃の牡丹が口にする言葉は心に残るものが多かった。中には受け入れがたいものもあったが、牡丹の語りが始まった時は必ず耳を傾けた。その言葉には他人の評価や顔色を窺った飾り気が無かったからだ。思った事は包み隠さず全部声に出す。


 朝陽には、常々湧き上がる仄かな憎悪があった。

 自分を『良い人』だとか『まとも』だと思い込んでいるくせに行動や言動が決定的にそれらとはかけ離れている悪辣な人間達がいた。その筆頭が両親で、内面を綺麗に見せたがる微笑みを浮かべながら「子供は宝だ」とどこかで聞いた言葉を他の親達と言い合っている様は悪魔の歓談に見えたし、それを眺めていると暴威を含んだ怒りとやるせなさが心の中で渦巻いた。


 そういった行動と言動の不一致が、牡丹の生き様にはなかった。

 だからこそ朝陽は牡丹を親のように慕って敬愛した。

 けれど同時に、その眩しさに嫉妬もした。自分とは異なる善良な人格。それに強い劣等感を覚えた。たびたびそんな気分にしてくる事を疎ましく思う瞬間すらあった。


 ――こんな穢れた人生を送るためにここにいるんだろうか。


 いつしかそんな風に考えるようになっていた。自分のみっともない本性にうちひしがれた。

 そんなある日、牡丹はいつもより真面目くさった雰囲気で朝陽にこんな話をした。


「朝陽くんは四葉のクローバーって知ってる?」

「うん。見つけると幸せになれるってやつでしょ」

「そう。じゃあどうやって出来るのかは?」

「たまに葉っぱが四つあるのが生えてくるんじゃないの?」

「ううん、違うんだって。人や獣に踏みつけられて、芽が傷付いたりすると葉の一つが分かれて四つになるんだって」

「へー……そうだったんだ」

「それがね、なんか似てるなって」

「似てる……?」

「うん。傷を知っていると優しくなれて、人を幸せに出来るようになる、みたいなところが似てるなって」

「人間に似てるってことね」

「ううん、そうじゃなくて……朝陽くん、私がなんの話してるかわかる?」

「……? 多少踏みにじった方がいい人間が出来る?」

「ちがうよー……私がね、四葉のクローバーを見つけた話だよ」


 牡丹は最後にそう言って、元気づけるように頬にちゅーしてきた。

 許すと。

 受け入れると。

 朝陽の存在を歓迎すると、牡丹の優し気な瞳がそう言っていた。

 どこまで見抜いていたのかはわからない。

 少なくとも『傷』を見つけてくれていたのだろう。

 そしてそこへ、そっと手を当ててくれた。

 それからは肩で風を切るように生き始めた。

 友達は大切にしよう。

 そんな平凡な気持ちを、胸に抱きながら。


「…………」


 朝陽は鏡に映った自分と見つめ合う。小学校の高学年くらいから自発的にホルモンバランスを調整して容姿を女性化させた。生意気そうな顔をしているが、わりと可愛い自信はある。

 日本人らしい黒い瞳。

 そろそろ切ろうかと思っていた、肩口まである癖毛の黒髪。鋏を使って手入れをする。


 台の上には化粧品が並べられていた。朝陽は百貨店で購入したそれらを次々に手に取っていくと自身の顔に化粧を施していく。手慣れたものだった。女装というのはもう死語だ。男が化粧をするのも可愛く着飾るのも当たり前にある事で、朝陽もそれなりに嗜んでいる。

 女性の美への探求は限りないようで、この世界の化粧品は地球の物と遜色がないくらい充実していた。


 まずは化粧下地でノリを良くする。肌にファンデーションを塗る。フェイスパウダーで崩れを防ぐ。瞼にアイシャドウを付ける。睫毛をビューラーで持ち上げる。マスカラで束感を出す。アイラインにはアイライナー。目元をグリッターでキラキラさせる。眉にアイブロウを施す。涙袋と小鼻にシェーディングで立体感を出す。要所をハイライトで明るく。唇にリップを引く。頬にチークを入れる。髪の毛先をヘアバームで遊ばせる。香水も振って、派手に仕上げた。

 作業が終わる。使い慣れない道具でやったにしては上々の出来なのではと満足する。


 昨晩、水分だけは摂って結局何も食べられなかった。

 フレイアに肉を食べたくない理由を話すと、共感しては貰えなかったが理解はしてくれた。

 牡丹は狼の身体で、香辛料のかかっている調理された肉を「うめぇ! 肉うめぇ!」と掻っ食らいながら「やれやれ、朝陽くんは繊細だなぁ。好き嫌いはよくないぞぅ?」と小馬鹿にするように憐れな人を見る目を朝陽に向けてきた。むかつく。牡丹の神経が剛毛なだけだろと言い返したくなった。

 やはり食料複製フードコピーで自分の肉を食べたことのある豪傑は面構えが違う。げに怖ろしき。人を食うという羅刹が如きその健啖さはいっそ清々しくすらある。


 今日ももう完全に日が落ち切っている。日中にシアと日用品の買い物を済ませて長期滞在できる宿を探した。料金は全部フレイア持ちだ。

 買い物の後シアと別れ、手渡して貰った生活費を使って化粧道具一式を買い揃えた。

 牡丹の捜索以外にも、やりたい事が出来てしまったからだ。


 なるべく早く、地球に帰りたくなってしまったのだ。


 この世界はどうにも生き辛い。そのうち元に戻るとはいえ左腕はなくなるし、今日はパンやサラダを食べられたが何が入っているかわからない料理は口に入れるのも無理だった。


 だから、帰る方法の探し方を考えた。

 最初に注目したのは『どちらの世界にも人間がいる』という点だ。

 これは異常なのだ。二つの世界に少なくとも見かけ上は全く同じ生物が生息しているのはおかしい。しかも魔力の有無なんて決定的な相違があるにも関わらず。大気の成分も生命活動を維持するのに支障がない。重力も同じようだし太陽もある。共通点が過多だ。


 二つの世界に何らかの繋がりや関連はある気がした。キリスト教にこんな言葉がある。『神は自分に似せて人間を造った』。同じ神が作った世界でどちらにも人間を配置したか誕生するように世界の骨子に手を加えている。そう考えてさらに深掘りしていく。


 昔、ここではない異世界に行った事がある。

 その異世界はコンピュータの中に人工的に創りだされた地球に酷似した電脳空間だった。学業の一環で、専用の装置で意識だけを飛ばして約三日間そこで生活した。

 そこには人間がいた。人が過ごしやすいように創りだした世界なので人に限りなく近いモノを作っておいたのだ。その人達は皆データだったが、疑う余地のない生命でもあったと朝陽は認識している。

 だから世界を作った神がいるのだとしたら世界の頂点に君臨する生物を模写した外見をしているのではないだろうか。でもそれは人間とは限らないし今いるとも限らない。今は創生の過渡期の段階で、もっと未来にしか生まれない生命体が目標の生物かもしれない。


 これはシミュレーション仮説と呼ばれている。

 人類がコンピュータ内に世界を構築して、その創世された世界でも何らかの手法で創世が行われ……と、世界が樹形図のように広がってマトリョーシカのような入れ子構造になっているのではと考える仮説だ。

 世界とはそういうもので、二つが近い世界だった。こう考えれば、どちらにも人間がいる事に説明がつく。


 結論すると、自分が仮想世界に行った時のようにこの世界の神が遊びに来ていると期待して手当たり次第に「あなたは神様ですか」と尋ねて、あるいはそういうビラをばら撒いて、見つかったらその神に頼んで地球に返して貰うというのが辿り着いた案だった。

 けれどこれをやったら狂人扱いだ。なるべくなら最後の手段にしたい。色んな世界を渡り歩いて人間の種を蒔いている種族がいるだけだとか、世界が一本の木に生っている果実の一つに過ぎないだとかも考えられる。同じ木に生っているのだから似るのは当然といった具合だ。こんな仮説は妄想の域だからいくらでも思いつけた。


 だから、次に目を付けたのは魔法だった。

 異世界に渡る魔法を探すか開発する。その為には必要なものが多いと感じた。

 金、人脈、知識、技術。

 朝陽の事情は至極に個人のもので、他者の協力は期待できない。

 フレイアやシアだってどこまで信じていいかわからない。今は庇護を受けられているがすぐに見捨てられるかもしれない。気が変わるなんていくらでもあるだろう。

 今日みたいに手間もかかれば金もかかる。いつ嫌気が差してもおかしくはない。

 孤独だった。

 信じられるものが、何もない。


 牡丹にしてもそうだ。本当に生きている確証もない。狼がそうであるように操られて動いていただけかもしれない。今この瞬間にも酷い目にあっているかもしれない。

 出来るだけ早く、何か手を打っていかなければいけない。


 そこで思ったのだ。

 だったら人間を狼のように傀儡にしてしまえばいいと。

 金も人脈も知識も技術も、魔力や権力も、もう既に持っている人達を支配して手に入れればいいじゃないかと。


 そしてこの格好をした。

 少し出ている喉仏を隠す為の襟付きのパフスリーブ。ゆったりとした足首まであるロングスカート。その上にフード付きのコートを羽織る。

 姿見に映るのは、大人になりかけている時期の少女。悪くない見栄えではなかろうか。

 濃い目のメイクは、一目でだとわかりやすくする為だ。

 本当にやるのかと弱気になって身体が竦む。


 娼婦のフリをして男に接吻する。そして口から唾液に混ぜたP‐ユニットを含ませて飲ませる。


 女性の口説き方なんてわからなかったし、そういった情事を受け入れやすいのは無責任に行為に及べる男だろう。だから女と偽って行動する事にした。

 時間をかければこんな事をする必要はないが事態は差し迫っているかもしれないのだ。手遅れになる前に打てる布石は打っておきたかった。

 魔物に襲われた時、朝陽は怖くて動けなかったのに牡丹は危険を顧みずに戦ってくれた。恐ろしい怪物に立ち向かってくれた。

 その結果、命を落とした。見殺しにした。

 牡丹の思いやりに報いる為ならなんでもするつもりだった。


『そんなことしなくていいのに』


 部屋の中でお座りしている狼から牡丹の声が聞こえた。


『私の為にそんなことしたら、もう口きいてあげないから』

「君は牡丹じゃない」


 朝陽は固い口調でそう言う。


「牡丹の記憶を利用して、俺の脳を介して再現している仮初の人格に過ぎない。本人の脳じゃない限り、本物に限りなく近く見えるだけで結局は偽物だ」

『私は……牡丹だよ? だからこれは牡丹の……私の言葉! こんな事やめよ? ね?』

「違う。君は俺の弱さだ」


 牡丹の言葉を拒むように否定して話を打ち切る。この幻想がこうして引き留めてくるのは、本当は逃げてしまいたいという弱い心の表れでしかない。


『…………でも、私はもうここにいるんだよ』


 ぽつりと零れる牡丹の呟きに、もう朝陽は答えない。

 ふと、ベッドの上に置いてあった牡丹の髪飾りが視界に入る。

 歩揺ふようという、その名の通り歩くと揺れる簪だ。

 及び腰になる心を叱咤して、簪を髪に挿す。

 少しだけ、勇気を貰えた気がした。

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