12話 薄暗い部屋の中で

 翌日。

 宿の自室で朝陽は鏡と向き合っていた。

 鏡面に映し出されているのは、P‐ユニットでそうなるように設定している、女の子にしか見えなくなった自分。

 控えめそうな、守ってあげたくなる感じだ。遺伝子的に可能な範囲で好みにしたらこうなった。

 血は争えない。


 朝陽には母親が二人いる。

 父親はいない。科学技術により女性二人の遺伝子から生まれてきた子供。

 それが、朝陽だった。

 何も特別な事ではない。そんなのは現代社会ではよくあって、驚く事でも、悲観する事でも、得意になる事でもない。ごくありふれた今の日常。

 だからそれに対して思うところは無かったのだが、朝陽が幼い頃、まだ言語で思考できない頭でぼんやりと感じていた問題があった。


 ――自分は、両親から愛されていない。


 朝陽には弟がいる。同じ日に生まれた、腹違いの弟だ。

 弟は可愛いかった。弟なのでもちろん男なのだが、生まれた時からP‐ユニットで調整されて少女の容貌をしていた。長い髪が似合っていてよく笑う、朗らかな子。


 そんな愛くるしい弟を、両親は溺愛した。

 元々女性同士で婚姻を結んで子を生す人達なので、女の子の性質を好むのだろう。最初のうちこそ朝陽にも愛情を注ごうと努めていたようにも思えるが、幼少期の朝陽が男の外見をしていた為か、時を追うごとに興味を無くしていったようだった。


 かといって、放任されていたわけでもない。

 両親の内の片方、朝陽を出産した母親は時折頬を撫でてきたり優しく抱き上げてきたりした。けれどその最中にさえ『自分の生んだ方がこっちじゃなければ……』というような、朝陽の相手を面倒臭がっている節があった。弟を胸に抱く伴侶へ、羨望や不服の眼差しを向けている横顔が印象的で鮮明に覚えている。


 ――それならどうして、弟と同じにしなかったのか?


 そういった疑問も抱いたが、その問いかけを口に出した事はない。

 言ってしまったら両親との間に目の逸らせない隔たりができる気がしたからだ。

 それに、おおよその見当はついていた。

 たぶん「男の子も育ててみたい」という、ささやかな好奇心だったのだろう。


 牡丹と出会ったのは、そんな風に寂しく思っていた時だった。

 子供を愛してしっかり育てているというステータスが欲しいらしい両親の勧めで弟と一緒に通う事になった音楽教室。

 そこに、牡丹は居た。

 大和撫子な見た目に反して中身は快活。牡丹は人見知りも物怖じもしなかったので最初から多くの会話をしたし、妙に意気投合して友達になろうと頷きあった。当然弟もその場にいて、三人で仲良しといった関係だ。


 牡丹は年上というアドバンテージを笠に着て、様々なご高説を垂れた。


「アダムとイブが楽園から追放されたのはね、嘘をついたからじゃなくて責任転嫁したからなんだよ。蛇に唆されたって。楽園っていうのは世界のどこかにある土地の事じゃない。資格を持つ人間の周囲に形成される空間なの。人のせいにする人間は『楽園』の住人ではいられない」


「笑うっていうのはね、攻撃的な側面を持っているの。笑いかけるっていうのは恣意のある働きかけ。相手を自分の思い通りに動かしたいっていうね。何かを頼む時に笑顔になるのがその一例。笑いかけてやってるんだから自分を重宝しろ、丁重に扱えっていう脅しね。だから上手く笑えなくてもいいの。それはその人が他人を攻撃したくない事の証明だから」


 かつての牡丹は話が長く、校長先生の才能があったと思う。もちろん皮肉だ。

 「哲学をし過ぎると解脱して涅槃ニルヴァーナへと至り思考を放棄してくうの心で生きるようになるの」とよくわからないことを言い出す前の、本が好きだというこの頃の牡丹が口にする言葉は心に残るものが多かった。

 中には受け入れがたいものもあったが、牡丹の語りが始まった時は必ず耳を傾けた。その言葉には他人の評価や顔色を窺った飾り気が無かったからだ。思った事は包み隠さず全部声に出す。


 朝陽には、常々湧き上がる仄かな憎悪があった。

 自分を『良い人』だとか『まとも』だと思い込んでいるくせに、行動や言動が決定的にそれらとはかけ離れている悪辣な人間達がいた。その筆頭が両親で、内面を綺麗に見せたがる微笑みを浮かべながら「子供は宝だ」とどこかで聞いた言葉を他の親達と言い合っている様は悪魔の歓談に見えたし、それを眺めていると暴威を含んだ怒りとやるせなさが心の中で渦巻いた。


 そういった行動と言動の不一致が、牡丹の生き様にはなかった。

 だからこそ朝陽は牡丹を親のように慕って敬愛した。

 けれど同時に、その眩しさに嫉妬もした。自分とは異なる善良な人格。それに強い劣等感を覚えた。たびたびそんな気分にしてくる事を疎ましく思う瞬間すらあった。


 ――こんな穢れた人生を送るためにここにいるんだろうか。


 いつしか朝陽は、そう考えるようになっていた。自分のみっともない本性にうちひしがれた。


 そんなある日、牡丹はいつもより真面目くさった雰囲気で朝陽にこんな話をした。


「朝陽くんは四葉のクローバーって知ってる?」

「うん。見つけると幸せになれるってやつでしょ」

「そう。じゃあどうやって出来るのかは?」

「たまに葉っぱが四つあるのが生えてくるんじゃないの?」

「ううん、違うんだって。人や獣に踏みつけられて、芽が傷付いたりすると葉の一つが分かれて四つになるらしいよ」

「へー……そうだったんだ」

「それがね、なんか似てるなって」

「似てる……?」

「うん。傷を知っていると優しくなれて、人を幸せに出来るようになる、みたいなところが似てるなって」

「人間に似てるってことね」

「ううん、そうじゃなくて……朝陽くん、私がなんの話してるかわかる?」

「……? 多少踏みにじった方がいい人間が出来る?」

「ちがうよー……私がね、四葉のクローバーを見つけた話だよ」


 牡丹は最後にそう言って、元気づけるように頬にちゅーしてきた。

 許すと。

 受け入れると。

 朝陽の存在を歓迎すると、牡丹の優しげな瞳がそう言っていた。


 どこまで見抜いていたのかはわからない。

 少なくとも『傷』を見つけてくれていたのだろう。

 そしてそこへ、そっと手を当ててくれた。

 それからの朝陽は、肩で風を切るように生き始めた。


 ――友達は、大切にしよう。


 そんな平凡な気持ちを、胸に抱きながら。


「…………」


 朝陽は鏡に映った自分と見つめ合う。小学校の高学年くらいから自発的にホルモンバランスを調整して容姿を女の子にした。

 朝陽自身、こうしたのがどうしてなのか、はっきりわかっていない。

 これが好みだと思ったからなのか。

 両親に興味を持って貰いたかったからなのか。


 見つめ返してくる、鏡に映った黒い瞳。

 そろそろ切ろうかと思っていた、肩口まである薄く茶色がかった黒髪。鋏を使って手入れをする。


 台の上には化粧品が並べられていた。

 朝陽は百貨店で購入したそれらを次々に手に取っていくと自身の顔に化粧を施していく。手慣れたものだった。女装というのはもう死語だ。男が化粧をするのも可愛く着飾るのも今となっては当たり前によくある事で、朝陽もそれなりに嗜んでいる。

 女性の美への探求は限りないようで、この世界の化粧品は地球の物と遜色がないくらい充実していた。


 作業が終わる。使い慣れない道具でやったにしては上々の出来なのではと満足する。


 昨晩、水分だけは摂ったが結局何も食べられなかった。フレイアに肉を食べたくない理由を話すと、共感しては貰えなかったが理解はしてくれた。

 牡丹は清々しいまでの健啖さを発揮している。

 狼の身体で香辛料のかかった調理された肉を「うめぇ! 肉うめぇ!」と掻っ食らいながら「やれやれ、朝陽くんは繊細だなぁ。好き嫌いはよくないぞぅ?」と朝陽を小馬鹿にするように憐れな人を見る目を向けてきた。むかつく。牡丹の神経が剛毛なだけだろと言い返したくなった。

 やはり拾った棒切れ一本で怪物に立ち向かった豪傑は面構えが違う。


 今日も、もう完全に日が落ち切っている。

 日中にシアと日用品の買い物を済ませて、長期滞在できる宿を探した。

 料金は全部フレイア持ちだ。

 朝陽は買い物の後シアと別れ、手渡して貰った生活費を使って化粧道具一式を買い揃えた。

 牡丹の捜索以外にも、やりたい事が出来てしまったからだ。


 なるべく早く、地球に帰りたくなってしまったのだ。


 この世界はどうにも生き辛い。

 そのうち元に戻るとはいえ左腕はなくなるし、今日はパンやサラダを食べられたが何が入っているかわからない料理は口に入れるのも無理だった。


 だから、帰る方法の探し方を考えた。


 最初に注目したのは『どちらの世界にも人間がいる』という点だ。

 これは異常なのだ。二つの世界に少なくとも見かけ上は全く同じ生物が生息しているのはおかしい。しかも魔力の有無なんて決定的な相違があるにも関わらず、だ。

 大気の成分も生命活動を維持するのに支障がなかったりと、共通点が過多だった。

 二つの世界に何らかの関連はある気がした。

 そう考えてさらに深掘りしてみたものの、あれこれ考えても上手く解決策に結び付けられなかった。


 だから、次に目を付けたのは魔法だった。

 異世界に渡る魔法を探すか開発する。その為には必要なものが多いと感じた。


 金、人脈、知識、技術。


 朝陽の事情は至極に個人のもので、他者の協力は期待できない。

 フレイアやシアだって、どこまで信じていいかわからない。

 今は庇護を受けられているが、すぐに見捨てられるかもしれないのだ。気が変わるなんてことはいくらでもあるだろう。

 今日みたいに手間もかかれば金もかかる。いつ嫌気が差してもおかしくはない。

 孤独だった。

 信じられるものが、何もない。


 牡丹にしてもそうだ。本当に生きている確証もない。

 狼がそうであるように、操られて動いていただけかもしれない。今この瞬間にも酷い目にあっているかもしれない。

 出来るだけ早く、何か手を打っていかなければいけない。


 そこで思ったのだ。

 だったら、人間を狼のように傀儡にしてしまえばいいと。

 金も人脈も知識も技術も、魔力や権力も、もう既に持っている人達を支配して手に入れればいいじゃないかと。


 そしてこの格好をした。

 少し出ている喉仏を隠す為の襟付きのパフスリーブ。ゆったりとした、足首まであるロングスカート。その上にフード付きのコートを羽織る。

 姿見に映るのは、大人になりかけている時期の少女。悪くない見栄えではなかろうか。


 濃い目のメイクは、一目でだとわかりやすくする為だ。


「…………っ」


 本当にやるのかと、弱気になって身体が竦む。

 娼婦のフリをして男に接吻する。

 そして、口から唾液に混ぜたP‐ユニットを含ませて飲ませる。


 女性の口説き方なんてわからなかったし、そういった情事を受け入れやすいのは無責任に行為に及びやすい男だろう。だから女と偽って行動する事にした。

 時間をかければこんな事をする必要はないが、事態は差し迫っているかもしれないのだ。手遅れになる前に打てる布石は打っておきたかった。


 転んだ朝陽が魔物に襲われた時、牡丹は危険を顧みずに戦ってくれた。恐ろしい怪物に立ち向かってくれた。

 その結果、牡丹は命を落とした。

 朝陽は怖くて動けなくて……見殺しにした。

 牡丹の思いやりに報いる為なら、なんでもするつもりだった。


『そんなことしなくていいのに』


 部屋の中でお座りしている狼から牡丹の声が聞こえた。

 朝陽はちらりとそちらへ視線を向ける。

 人間の所有物だとわかるように狼の首には首輪が巻かれている。

 そこに牡丹のP‐ユニットが鈴のように取り付けてあり、狼の体内にある朝陽のP‐ユニットと独立した繋がりが設定されていた。


『私の為にそんなことしたら、もう口きいてあげないから』

「君は牡丹じゃない」


 朝陽は固い口調で言う。


「牡丹の記憶を利用して、俺の脳を介して再現している仮初の人格に過ぎない。本人の脳じゃない限り、本物に限りなく近く見えるだけで結局は偽物だ」

『私は……牡丹だよ? だからこれは牡丹の……私の言葉! こんな事やめよ? ね?』

「違う。君は俺の弱さだ」


 牡丹の言葉を拒むように否定して話を打ち切る。この幻想がこうして引き留めてくるのは、本当は逃げてしまいたいという弱い心の表れでしかない。


『…………でも、私はもうここにいるんだよ』


 ぽつりと零れる牡丹の呟きに、もう朝陽は答えない。

 ふと、ベッドの上に置いてあった牡丹の髪飾りが視界に入る。

 歩揺ふようという、その名の通り歩くと揺れる簪だ。

 及び腰になる心を叱咤して、簪を髪に挿す。


 少しだけ、勇気を貰えた気がした。

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