ケイティ・ウィン

 湖を漂う、人影を乗せた小舟。

 夕日に煌めく湖面を背景に、何処へとなく進んでいく。


 マックスは桟橋に結びつけられた小舟に乗り込んで、その影を追った。

 背後から、貸しボート係をしていた男の引き止める声。


 「ちょいと、今日は店仕舞いだぞ!それに、霧が……」


 マックスは振りかえることなく、ただオールを漕ぎ続けた。


 しばらくして、視界が段々と霞んできた。

 夕霧が刻一刻と、マックスを包み込んでいく。


 湖上の全てが柔らかな橙色に染まる中を、影の気配を感じながら進み続ける。


 と、その時、

 「……マックス、マックス!どこだ?返事を……」


 岸の方から、ジェイソンの呼び声が響いた。


 「……お前は狙われて……あの影は罠だ、早く戻ってこい……」


 それでも、マックスは振り返らなかった。


 「兄さんとは約束したんだ、あの子を守ってくれとな。あの声は兄さんではない。悪魔め、お前だろう!」


  ハハッ……と霧の中から、笑い声が響いた。


 ──無視してもいいのかい?あの声は間違いなくお前の兄貴だと言うのに。


 「騙されんぞ」


 ──マキシマス、お前にとってはかけがえのない家族だろう?その家族の言葉を信じないで、わざわざ弱った俺様にとどめを刺しに来たというのか。


 「お前の手から娘を守ることが、今の私に出来る精一杯だ」


 ──お前の娘か?確かに欲しかったなぁ、その魂。でも、手を出すのは止めておくよ。


 「止めるだと?何を企んでいる!」


 ──いやなに、説明が面倒だ。自分の目で確かめると良い。


 その直後、マックスの乗った船の舳先へさきが、ドンッと何かにぶつかった。

 それは、マックスが追っていた小舟であった。その中に誰かがうつ伏せの状態で倒れているのが見える。


 カルロの影だろう、そう思いながらマックスは覗き込んだ。しかし、


 「なぜ、ここに……」


 そこにはジーナがいた。毛布で体を包んだまま、船底に伏せている。


 「ジーナ!どうしてホテルで待っていない」


 「謝らなきゃ……」


 マックスの声に、ジーナが頭を上げた。そして、

 「ロビーでね……貴方を眺めていたら、ふと思い出したんです。昔のことを……」


 ジーナは震える声で続けた。

 

 「マックスさん。私ね、強くなりたかったの。病気なんかに負けないような、強い体と心が欲しかった。駄目ですよね、病室に籠ってばかりの女の子が無いものねだりしてしまって……」


 毛布がパサリと落ちた。

 白いワンピースから伸びた青白い首や手脚から、黒い影が滲み出ている。


 「女優を目指したのも、そうなの。いつか憧れの存在になってみたい、そう望んで始めたんです」


 湖面が静かに揺れた。ジーナはふらりと倒れそうになる。

 体から滲み出た影は、無理に体に合わせようとする具合に、ジーナの動きに少し遅れて像を残した。


 「ジーナ……いや、ケイティ。やはりお前のその体は——」


 「ごめんなさい、マックスさん。元気いっぱいなリンダのこと、憧れてた」


 ケイティ・ウィンはゆっくりと顔を上げた。


 「……だから、奪ってしまったんだ」




 * * *




 「マックス!」


 そう叫んで、ジェイソンは桟橋を駆け抜けた。

 だが、すでに夕霧が岸辺にまで達しており、視界が悪かったために足を踏み外して、勢いよく湖に落ちてしまった。


 「いま……いくぞ。待ってい……」


 ジェイソンは溺れながらも、前に進もうとする。


 「神父様!」


 エリックが桟橋から飛び込んで、浅瀬までジェイソンを泳いで助け出した。

 エリックと貸しボート係の男は、二人がかりでジェイソンを引き上げる。

 貸しボート係はその足で、助けを求めてホテルに向かった。


 エリックはジェイソンの肩を掴んで、

 「神父様……この霧の中を進むのは危険です!それに貴方は片脚を痛めている」


 「それがどうした!マックスを助けよと叫んでいる、この心が!」


 「助けに行きたいのは僕も同じだ。ジーナは強がりだけど、根は寂しがり屋だから。それに、二年前のことも……」


 そう言って、エリックは桟橋に結びつけられた最後の小舟に乗り込んだ。


 「お主、何を!」


 「ご安心を!マックスさんもジーナも、僕がきっと連れて帰ります!」


 エリックはそう叫んで、夕霧の中に進んでいく。


 その後すぐ、ポーラが事故の調査を切り上げて、部下を連れて桟橋までやって来た。


 「まったく、どいつもこいつも警察を待てないわけ?」


 「すまん……」とジェイソン。


 二人は苦虫をかみつぶしたような顔で、深い霧に包まれた湖を見つめた。




 * * *




 ──マキシマス。お前の娘の魂は止めておく、と言った理由が分かったろう?

 ハハッ……取りたくても別人の魂だったわけさ。


 マックスは悪魔を無視して、ケイティに訴えかける。


 「……ケイティ、リンダの体を奪ったと言ったが、リンダの魂は……あの子の影はどうしたんだ!?」


 ケイティはそれには答えず、ブツブツと僅かに聞こえる声で、


 ……私のせい、私が望んだの、私のせい……


 何度も、そう呟く。


 左右にフラフラと揺れて、酩酊したような状態。


 ——さあさ、マキシマス。リンダのかたきを取ろうや。いや、お前たち家族全員の仇だな。お前のその手から現れる死の影を喰らわせてやれ。もともと死んだ人間の魂、すんなり飛び出るだろうよ!


 マックスは己の手を見つめる。確かに、近づくケイティに反応して、死の影が伸びている。しかし、


 ……この死の影はかつて、リンダに向かって伸びていたはずだ。決してケイティに反応していたのではない。


 「リンダ!その体のどこかに……ケイティの中に隠れていないか?」


 マックスはどうすべきか、分からなくなっていた。

 死の影を帯びた手をケイティに向けつつ、彼女の口から答えが返ってくることを望んだ。


 ──ああ、じれったい!さっさとけりを付けろよ。あの小娘が絶望している間に!


 「……ケイティの魂をどうする気だ」


 ——そんなことはこっちの勝手だ。さあ、早く!


 私はどうすれば良い?


 「……こんなとき、兄さんが居てくれたら」

 マックスの心に、陽気に笑うジェイソンが映った。


 「そして、エレナよ。私はどうすれば……」

 光に照らされて、瞳を細めながら笑うエレナ。

 

 二人ならば、きっと……────——


 マックスは拳を固く握り、手を引っ込めた。そして、大声で叫んだ。


 「ケイティ、しっかり気を持て!体から影が、お前自身が抜けてしまうぞ!」


 ハア……と悪魔はため息をついた。


 ──どこまでもお人好しだね、あんたは。


 「ケイティはリンダの友達だ、仇もくそもない!それに、ケイティが死んでしまえば、リンダの帰る場所からだも無くなってしまうかもしれん!」


 ——そうかい、そっちがその気なら……


 不意に、ケイティは揺れる体をピタリと止めた。


 「気な……なら……」


 ブルブルと身体を震わせ、白目をむいた顔をマックスに向けた。


 そこからは、どんな感情も読みとれそうにないが、口元だけは笑っているように見えた。


 その口がパクパクと開いて、

 「なら……これ、で……どうだ!」


 そう叫びながら、ケイティは湖に飛び込んだ。


 「くそ、悪魔が乗り移っている……!ケイティの意識が薄れたところに無理矢理入り込むとは!」


 このまま放ってしまえば、ケイティの魂もリンダの体も湖の底に沈んでしまう。

 かと言って、救い出そうとあの体に触れたら、ケイティの影はおそらく死の影に呑まれて……。


 マックスの額から汗が流れる。


 「ハハッ……早くしないと、リンダが、救えないぞ……!」


 悪魔の乗り移った体が浮き沈みしつつ、湖から首を伸ばしてマックスを挑発する。


 「簡単な話だ……ケイティの魂は諦めろ……マキシマス!」


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