湖畔のホテル・シングルルーム

 案内された部屋は地上から四階にあった。年代物の調度品が並び、ホテルの風貌と同じような古さを思わせる装飾だった。埃は綺麗にはらってあるが、机や椅子、化粧台ドレッサー、カーテンやテーブルランプのシェードには深い染みが付いている。長い時を経て付いたものだ。ベッドのシーツだけが眩しいくらいに白く、かえって不気味な印象を与えている。しかし、マックスにとっては総じて過ごしやすい環境だった。


 窓を開けて、外の景色を眺めた。日の落ちかかる広い森林と、赤い空をそのまま映している静かな湖。四月の終わりの肌寒い風が窓を抜けて、部屋に入り込んできた。

 マックスは椅子を窓辺まで運び、毛布を肩にかけて座ると、ぼんやり湖を眺めた。


 その景色は、エレナとの新婚旅行で訪れた湖を思い出させた。


 ——エレナは白いワンピースにショールを羽織り、麦わら帽子を被っていた。空は青く、雲一つない快晴。桟橋を渡って小舟に乗り、湖の中央へと漕ぎ出した。エレナが手を水面へと伸ばす。「冷たい!」と引っ込めて、こちらに顔を向けた。柔らかな四月の光に照らされた、眩しい笑顔。


 「マックス。ほら、冷たい……」


 彼女が白い手を差し出した。マックスはその手に触れた。指先はなるほど、冷たかった。


 そのとき、エレナの白い手に、黒い影が引っ付いた。


 「マックス!」


 エレナは影を払おうと手を振り回した。体のバランスを崩してしまい、小舟から落ちそうになる。


 「エレナ!」


 エレナを助けようと手を掴んだ。しかし、影はマックスの手から流れ出て、エレナの腕、肩、首を這うように染めていく。やがて影は顔にまで達して、全身を黒く覆ってしまった。

 影に覆われたエレナは実体を失い、柔らかな太陽の光に差し貫かれたその体が、透き通っていく。


 「マックス……」


 エレナの影は、もがくことを諦めていた。代わりに、項垂れた額に手を当て、まるで頭痛をこらえるような姿勢をとった。


 その時、ドォン……、と銃声が響いた。彼女の麦わら帽子が飛ばされて水面に落ちた。空に吸い込まれるように、やがて帽子は湖の中に消えていった。


 小舟は、黒革のソファに変わった。気がつけば、自宅のいつもの居間だった。

 マックスはただ独り座ったまま、エレナの座っていたソファの跡を見つめた。


 エレナ、君を守らなくてはいけなかったのに……————



 * * *



 マックスは目を覚ました。日はすでに落ちて、青い夜のとばりが視界を覆っていた。湖の沿道に立っている街灯の明かりだけが、頼りなげに灯っている。


 妙な夢を見てしまったな、と独り言ちた。若い頃の思い出さえ、夢魔に好き勝手変えられてしまうのか、歳は取りたくないものだ……。


 ぱたりと肩から毛布がずり落ちた。マックスは前かがみになり、毛布を拾おうと手を伸ばした。

 ふっ、と何かが背後を通った。風ではない。マックスは視線を毛布から気配のする方に移していった。


 「……おっと」


 薄暗い窓辺の隅に、小さな黒い影がぼんやりと立っている。椅子に座るマックスと背丈がちょうど同じくらいの、子供の影。 


 マックスは呼吸を止めて、影をじっと見つめた。


 子供の霊、悪意は……持っていない。ただ、冷たい空気をまとっている。自分が死んでしまったことは知っているようだ。おそらくは不幸な死を迎えた地縛霊か?


 害のない幽霊だと知ると、マックスはふうと息をついた。そして、「何か用か?」とぶっきらぼうに訊ねた。


 怖がらないマックスに、子供の霊は警戒心を解いたように一歩ずつ近づいてきた。


 薄暗がりでも、子供の服装が見えた。グレーのチェック柄のジャケットと半ズボン、白い靴下に黒い革靴。顔は翳っていて見えないが、ポケットに手を突っ込み、脚をピシッと伸ばしている。


 どうやら男の子である。あの子ではない。


 男の子の霊は、さらに近づいてきた。頭の上にベレー帽を被っていた。胸元には黒い蝶ネクタイ。お洒落に着込んでいる。この霊はかつて、旅行客だったようだ。少なくとも地元の住人らしくはない。


 「何か、伝えたいことがあるのか?」


 男の子はポケットから手を抜くと、窓の外に指を指した。


 「……湖?」


 その時、部屋の扉が、ドンドンッ、と叩かれた。マックスは扉の方を向いた。子供の霊が、サッと部屋のカーテン裏に隠れた。


 「マックス、居るか?」


 と威勢のいい声で、ジェイソンが扉を開けた。



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