湖畔のホテル・シングルルーム
案内された部屋は地上から四階にあった。年代物の調度品が並び、ホテルの風貌と同じような古さを思わせる装飾だった。埃は綺麗に
窓を開けて、外の景色を眺めた。日の落ちかかる広い森林と、赤い空をそのまま映している静かな湖。四月の終わりの肌寒い風が窓を抜けて、部屋に入り込んできた。
マックスは椅子を窓辺まで運び、毛布を肩にかけて座ると、ぼんやり湖を眺めた。
その景色は、エレナとの新婚旅行で訪れた湖を思い出させた。
——エレナは白いワンピースにショールを羽織り、麦わら帽子を被っていた。空は青く、雲一つない快晴。桟橋を渡って小舟に乗り、湖の中央へと漕ぎ出した。エレナが手を水面へと伸ばす。「冷たい!」と引っ込めて、こちらに顔を向けた。柔らかな四月の光に照らされた、眩しい笑顔。
「マックス。ほら、冷たい……」
彼女が白い手を差し出した。マックスはその手に触れた。指先はなるほど、冷たかった。
そのとき、エレナの白い手に、黒い影が引っ付いた。
「マックス!」
エレナは影を払おうと手を振り回した。体のバランスを崩してしまい、小舟から落ちそうになる。
「エレナ!」
エレナを助けようと手を掴んだ。しかし、影はマックスの手から流れ出て、エレナの腕、肩、首を這うように染めていく。やがて影は顔にまで達して、全身を黒く覆ってしまった。
影に覆われたエレナは実体を失い、柔らかな太陽の光に差し貫かれたその体が、透き通っていく。
「マックス……」
エレナの影は、もがくことを諦めていた。代わりに、項垂れた額に手を当て、まるで頭痛をこらえるような姿勢をとった。
その時、ドォン……、と銃声が響いた。彼女の麦わら帽子が飛ばされて水面に落ちた。空に吸い込まれるように、やがて帽子は湖の中に消えていった。
小舟は、黒革のソファに変わった。気がつけば、自宅のいつもの居間だった。
マックスはただ独り座ったまま、エレナの座っていたソファの跡を見つめた。
エレナ、君を守らなくてはいけなかったのに……————
* * *
マックスは目を覚ました。日はすでに落ちて、青い夜の
妙な夢を見てしまったな、と独り言ちた。若い頃の思い出さえ、夢魔に好き勝手変えられてしまうのか、歳は取りたくないものだ……。
ぱたりと肩から毛布がずり落ちた。マックスは前かがみになり、毛布を拾おうと手を伸ばした。
ふっ、と何かが背後を通った。風ではない。マックスは視線を毛布から気配のする方に移していった。
「……おっと」
薄暗い窓辺の隅に、小さな黒い影がぼんやりと立っている。椅子に座るマックスと背丈がちょうど同じくらいの、子供の影。
マックスは呼吸を止めて、影をじっと見つめた。
子供の霊、悪意は……持っていない。ただ、冷たい空気を
害のない幽霊だと知ると、マックスはふうと息をついた。そして、「何か用か?」とぶっきらぼうに訊ねた。
怖がらないマックスに、子供の霊は警戒心を解いたように一歩ずつ近づいてきた。
薄暗がりでも、子供の服装が見えた。グレーのチェック柄のジャケットと半ズボン、白い靴下に黒い革靴。顔は翳っていて見えないが、ポケットに手を突っ込み、脚をピシッと伸ばしている。
どうやら男の子である。あの子ではない。
男の子の霊は、さらに近づいてきた。頭の上にベレー帽を被っていた。胸元には黒い蝶ネクタイ。お洒落に着込んでいる。この霊はかつて、旅行客だったようだ。少なくとも地元の住人らしくはない。
「何か、伝えたいことがあるのか?」
男の子はポケットから手を抜くと、窓の外に指を指した。
「……湖?」
その時、部屋の扉が、ドンドンッ、と叩かれた。マックスは扉の方を向いた。子供の霊が、サッと部屋のカーテン裏に隠れた。
「マックス、居るか?」
と威勢のいい声で、ジェイソンが扉を開けた。
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