イベントホール・悪魔との決戦

 悪魔は、口からどろりと黒い物質を吐き出した。床に落ちるが早いか、しゅう……と蒸発するように、それは消えてなくなった。


 「うへぇ……なんだあれは」とジェイソン。


 「恐らく、影を喰らっていたんだ。口には合わなかったようだが」


 気味悪がる二人の言葉に、悪魔はケタケタと笑う。


 「悪魔も腹は減るんでね。ところで、この体のあるじには会ったかい?何やら、このホテルのどこかに潜んでいたようだが」


 マックスは睨んだまま、何も答えなかった。


 悪魔は気にとめず、言葉を続けた。


 「この小僧からだ、二年前にこのホテルに来たのさ。やたらと霊力が強かったんで、魂を喰ってやろうと思ってね。だがヘマをこいて、魂だけ捕え損ねた。体をトカゲのしっぽみたいに切り捨てやがったんだ」

 

 悪魔はその姿を見せびらかすように、くるりと回った。


 「だから、体は人質としていただいた。魂の方はいずれ、体を取り戻しにくるだろうからな」


 「今の話、もしも本当ならば」

 ジェイソンは怒りに燃えた目を悪魔に向けた。


 「全身全霊で、お前を祓ってやるから覚悟せよ」


 「……ハハハハッ!霊力も無いのによく吠える!」


 その時、観衆からざわめく声が上がった。会場が白く霞んできたのだ。通路へと続く扉、窓の隙間から、濃霧が入り込んでいた。

 しかし、煙の臭いも火災警報もないために「これも演出なのか……」と誰かが一言。その言葉に安堵したのか、誰ひとり席を立たずに周囲を窺っている。


 悪魔はそんな人々を見渡して、せせら笑うように、

 「もうじき、白い妖精がくる。観客もお前たちも、無事に帰れるかなぁ……」


 マックスは、ロビーでのおぞましい数の死霊、そして白い妖精の姿を思い出した。ジワリと冷や汗をかく。


 「兄さん、時間が惜しい。先手必勝でいく」


 「よし来た。で、私は何をすればいい?」


 「これを持ってくれ」

 と、マックスは紫のストールを持ち主に返した。派手に扱ったために、少々ほつれている。


 「弟よ、これは神父ファーザートーマスが私の誕生日祝いに……」


 「そのストールには、まだ霊力を残している。そいつを使って、あの悪魔の注意を引いてくれ。その間に奴を捕まえる」


 「捕らえるのか?で、その次は?」


 「尻を叩いて、悪魔をあの体から追い出すさ」


 ジェイソンは思わず吹いた。マックスは子供の頃、「変なものが見える!」と言うたびに、父親に尻を叩かれた。その頃の恨みをこうして冗談ジョークにするのがおかしかった。

 

 「よし、やってやろうぞ!弟よ」


 「行こう!」


 二人は左右に分かれて、悪魔を挟み撃ちにした。


 ジェイソンはストールの両端を摘まんで、闘牛士のような姿勢で悪魔に近づく。


 が、悪魔はマックスにのみ興味を示した。自分の背後にマックスが立った途端、首だけをぐるりと回して、マックスに微笑みかける。


 「……兄上の影法師さん、誰かの後ろに回るのがお好きのようだな」


 「何とでも言え!」


 「隙あり!」

 ジェイソンがここぞとばかりに、ストールを広げて飛びかかった。

 マックスもまた、兄の動きに合わせて悪魔を狙う。


 悪魔は首をぐるぐる回して、両目両耳、口から大量の影の残留物を吐き散らした。


 「いかん!引くんだ!」


 その注意よりも先に、ジェイソンは顔一面に影の残留物を浴びた。

 すとん、とその場に崩れ落ちて、眠ったように意識を失っていた。


 「兄さん!」


 「おや……寝たのかい。良い夢をグッナイ神父パードレイアソン」


 「おのれ、何をした!」


 「何って、暗闇を浴びたら悪夢を見るもの——」


 ——きゃあっ!


 突然、観衆の中から甲高い叫び声。観客席は、すでに濃霧が立ちこめていた。その中で、首に手を当てて息苦しさを訴えている人々のざわめき。


 ——おい、やはり火事じゃないのか!


 ——誰か!うちの主人が息をしていない!


 ——こ、これも演出か?


 観客たちが席を離れようと慌てふためく中を、ひらひらと白い衣をなびかせながら歩く妖精の姿。


 「くそ、もう来てしまった……」


 「人の心配、している場合なの?」


 悪魔の声に、ハッとした。すぐ耳元から聞こえた。

 視線を舞台に戻す。悪魔が鼻先を掠めるほどに顔を近づけて、目尻を弓なりに曲げて微笑んでいる。


 「影法師さん。じゃあ、あなたもお休みなさい」


 悪魔は口から真っ黒な液体を吐き出して、マックスの顔に浴びせた。


 マックスは、深い眠りに落ちていった。 




 * * *




 マックスは、その日も静かに目を覚ました。目覚まし時計が鳴る、ちょうど五分前。


 ベッドから静かに這い出ると、洗面台に立ち、冷たい水で顔を洗い……、自分の顔をよくよく眺めた。


 40歳の頃の自分が、鏡の前に立っていた。

 

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