悪夢は甘い香り
マックスは洗面台の鏡に映る自分を眺めた。頭は
「これは……」
寝室に戻り、カレンダーを見る。
「2004年、四月——」
——20年前の、あの日だ。
と、
続いて、「リンダ、食べ物でふざけないの」
「リンダ、エレナ……!」
マックスは扉を開けて、恐る恐る居間へと向かった。
* * *
「あ、パパ。おはよう!」
小さな歯を見せるようにニコッと笑って、リンダはホットプレートにクリーム色の生地を流し入れていた。
「見て、今日はあたしが朝食のパンケーキ作ってあげるの!」
ホットプレートの上に、水溜まりのような形のパンケーキが焼かれている。甘い香りが鼻先を漂う。
「座って、あなた」
キッチンの奥からエレナの声が聞こえた。ちらちらと顔を覗かせて、リンダの様子を見ている。
「リンダ、そろそろよ。表面に穴ぼこが出てきたら、ひっくり返すの」
エレナはコーヒーを淹れながら、そわそわとリンダを見守る。
「分かってるもん、ママは黙ってて!」
リンダはヘラを握りしめて、じっとパンケーキを見つめる。
「やっ!」
パンケーキは綺麗にくるりとひっくり返った。中央部分が多少黒っぽいが、きつね色の表面は見事に焼けている。
「成功ね、リンダ」
母が近寄り、娘と小さくハイタッチ。
それから、リンダはマックスを見つめ、
「パパにあげるね」
「ああ、ありがとう……」
マックスは、椅子の背もたれに手をかけた。
が、その手を見つめたまま、座ろうとはしなかった。
「どうしたの、パパ?」
「あなた?」
「……いや、何でも無い。ちょっと新聞を取ってくるよ」
これは夢だ、と自分に言い聞かせる。それでも、二人の顔を見るたびに胸が張り裂けそうになる。
玄関から外に出て、後ろ手に扉を閉める。
震える喉で深く息を吸い込み、吐き出した。
「二人を、助けられない……」
朝の柔らかな光が窓辺から射して、居間を明るく照らしていた。
エレナとリンダはその光に包まれていたが、マックスが近づいた途端、真っ黒な十字の影が二人の背後に現れた。
死相だ。マックスの手から伸びた黒い影が、二人に死を招いていた。
* * *
「やあ、マックス」
突然、通りの向こうから呼び声。向かいに住むヘンリーであった。
マックスは慌てて潤んだ目を拭う。
「……ああ、おはよう。ヘンリー」
「どうした?目が真っ赤に見えるが」
道路を挟んでいるにもかかわらず、ヘンリーは的確にマックスの表情を捉えた。
「ちょっと夜更かしを」
「仕上げかい?」
仕上げ……、絵画のことだ。この年齢の頃は、悪魔祓いのほかに画業をしていた。しかし、絵画には才能は無いのか、あまり日の目を浴びずに終わってしまった。
マックスは頷いて合図をした。
「そうかい、まあ頑張れ」
ヘンリーはそう言って新聞を片手に、室内に戻ろうとしたが、
「そうだ、ケイティがリンダちゃんに『また遊ぼう』ってよ。娘の相手をしてくれて、俺も助かっているよ」
ヘンリーの一人娘、ケイティはリンダと同い年であった。病気がちで、マックスとは数回挨拶しただけだが、リンダとは仲良くしているようだった。
「ああ、伝えておく」
それじゃ、とヘンリーは扉を開けて入って行った。
* * *
ヘンリーとの会話で、落ち着きは取り戻した。
それでも、扉を開ける勇気が持てずに、玄関先で立ち尽くしていた。
——
悪魔の声が耳元で囁いた。
——この後、お前に電話がかかってくる。
「兄さんから……、隣町で数十人を苦しめた悪霊を祓うため」
――なぜ死相の原因が自分なのか、お前は分からなかった。ひとまず離れていようと、兄からの依頼を受けた。
「依頼の方も野放しにはできなかった。もし、私が行かなかったら」
——ハハッ、そうとも。ジェイソンは無事じゃ済まなかったろう。その他の住民たちもな。
で、帰ってきてどうなった?警察、救急隊、野次馬のごった返し。
お前は、引き止める警官を押しのけて、居間に入る。
朝に見た明るい居間が一変、ソファの周囲に飛び散った血しぶき。そしてソファの上に
「エレナの、霊だった……」
——お前さんの銃で自殺、だったかな?
「分からない、頭を撃ったこと以外は。死んだときの衝撃からか、エレナは死の直前の記憶がない。何があったのかはリンダだけが……」
——おお、マキシマス!そのリンダはどこかへ消えてしまった。
マックスは静かに頷いて、石のように固まってしまった。
悪魔が、気遣うような柔らかい声で続けた。
——分かるよ、マキシマス。二人の顔を見ると辛いよな。……でも、もう悩む必要はない。
マックスは顔を上げた。
——なに、簡単な話だ。俺と契約しよう。
お前は平穏な日々を取り戻すんだ。エレナもリンダも、決して失われることのない夢の世界で。
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