湖畔のベンチに佇む

 マックスはホテルのエントランスを飛び出し、湖の周囲を歩き回った挙句、ホテルから離れた場所のベンチに腰掛けた。


 しかし、マックスの見つめる先は広大な湖でなく、己の手のひらであった。ジーナ・ウィンと顔を合わせた時のことを、ずっと思い悩んでいた。


 ──私のことを覚えてはいなかった。それに名前も違う。しかし、この手に現れた死の影はあの時に生じたものと同じだ。そして何よりもエレナの面影が……。


 ミズ・ウィンはリンダである、マックスはそう確信した。


 「会いたい、確かにそう願った……」


 ──しかし、私が彼女の死の原因ならば、どうやって会えばいい?


 「ここに居たの」


 突然、幼い声がした。顔を上げてみると、グレーのジャケットに半ズボン、ハンチング帽を被った少年。


 「皆が探しているよ。どうして、そんな子供みたいに逃げ回るの?」


 「……小生意気な坊主め。お前こそ悪魔から体を取り返した後、どこに居た?」


 少年はマックスの傍に腰掛けた。


 「隠れ家。このホテルのことなら、どんな場所でも知ってるよ。かくれんぼ大会があったら優勝だね」


 「それで、トム・ソーヤーみたいに隠れて様子を見ていたのだな。私のあとを追いかけてきたのは、なぜだ?」


 「……じいちゃんに教えてほしいことがあるの」


 「なに?」


 「二年前に、悪魔に体だけ持ってかれちゃった。でも、お母さんは僕が湖で溺れて死んだと思ってるんだ。僕のお葬式でもたくさん泣いてた。だから……」


 少年は落ち込んだようにうつむいて、

 「お母さんに会ってもいいのか、分からないんだ」


 さらに小さな声で呟く。


 「お母さん、僕のために建てたお墓の前で、新しい人生を生きるって決心してた。今さら会いに行っても……」


 マックスは少年を見つめた。

 二年間、ずっと魂の状態のまま孤独に過ごす。それがどういうことなのか、マックスには想像もできなかった。


 「……お前さん、いま幾つだ?」


 「八歳だよ。でも、悪魔に取られた二年を足したら十歳」


 「私は、六十になる。お前さんのおよそ六倍生きていることになるが、正直に言ってお前さんほどの辛い経験はしていない。だから、どうすべきかなんてことは、私にはとても言えない。でもな……」


 マックスは言葉を探しながら続けた。

 「母親がどんな気持ちでいるのかは、分かっているつもりだ。例えば、二十年間も行方不明だった娘が生きていると信じて待っているひとを、私は知っている」


 「奥さんだね。じいちゃんの夢に来てた……」


 「ああ、エレナだ。強くて優しいひとだよ。すっかり諦めていた私の心を覚ましてくれた」


 マックスは夢で逢えたことを思い出して、微笑んだ。

 「お前さんの母親も、そうじゃないのか?」


 少年は頷いた。


 「お前さんが生きていると知ったら、きっと会いたいはずだ。たとえ新しい日々を生きていようともな。それは間違いない」


 「うん……」

 少年は、伏せていた顔を上げて、思いを巡らせていた。


 マックスは今一度、自分の手のひらに目を落とした。

 ──最愛のひとにどうやって会えばいいか悩んでいるのは、自分も同じではないか。なにを偉そうに。

 そんな思いがふと頭をよぎった。


 二人はそうして黙ったまま、しばらく湖を眺めていた。




 * * *




 「こんな所に居たんですか」


 不意に、男の声がマックスに飛んできた。その方を見ると、ジーナと一緒に居た男だ。息を切らして近づいてくる。


 「神父様に頼まれましてね、お迎えに上がりましたよ」


 男はそこで一息つくと、

 「僕の自己紹介もまだでした。エリックと言います、エリック・P・スチュワート。はじめまして、マックスさん」


 「君は……ミズ・ウィンの」


 「ええ、ジーナとは付き合っています。同じ劇団で働いているんですよ。僕は裏方だけど」


 「そうか……勝手に飛び出して、悪かったな」


 マックスは落ち着きを払って、立ち上がった。ベンチの横を見ると、少年は音もなくその場から姿を消していた。


 「風のような奴だな」


 「え?」とエリック。

 

 「いや、何も言わずに本当に申し訳ない」


 「いいえ、なにか理由があるにちがいないって、神父様がそう仰っていました。僕もそう信じます」


 「つい取り乱してしまったのだ。ミズ・ウィンは、知り合いに似て……」


 マックスは、本人に直接聞くことのできない小心者の慎重さで、疑問に思ったことをエリックに尋ねた。


 「……ところでつかぬことを聞くが、ジーナ・ウィンというのは、その、本名なのか?」


 「ああ、その名前ですか」


 エリックは淡々とした調子で答えた。


 「本名ではないんですよ。あいつは女優のジーナ・ローランズに憧れているんです」


 エリックは、何事かを思い出して顔をほころばせる。


 「出会った日、『私のことはグロリアって呼んで頂戴』と言っていました。映画の影響を受けているのが丸わかりで、こちらが気恥ずかしくなってしまうくらいで。それにグロリアってイメージでもなかったものですから、変えてくれないかと劇団の仲間と一緒に頼んだわけです。それで今の芸名に落ち着きました。本人もすっかり馴染んでましてね。仲間内にもジーナで通ってます」


 「そうか、芸名だったか」


 「ええ、それで本名は——」


 マックスは胸を動悸が激しくなった。聞きたいような、しかし耳を塞ぎたいような思いに囚われた。


 「ケイティです、ケイティ・ウィン」


 ──ケイティ?どこかで聞いたような……。いずれにせよ、リンダの名前ではないのがおかしい。

 

 もう一度だけ会って、確かめてみよう。マックスはそう心に決めた。




 * * *




 ホテルの前まで戻ると、マックスは異変に気が付いた。

 エントランスが、戸惑う人々で溢れかえっている。


 その中に、暗い表情のジェイソンの姿。マックスは急いで兄のもとに向かった。


 「おお、弟よ!大変なことが……」


 「何があった?エントランスがやけに騒がしいが」


 「お前が去り、エリックさんにお前のことを頼んだ後だった。突然、ロビーの古ぼけたシャンデリアが落ちてきおって……ジーナ嬢の真上に。だが、異変を察知したカルロが——」


 「何だって!?」


 マックスは顔を真っ青にして、ジェイソンの言葉を最後まで聞かずに、エントランスの人込みへと割り込んで行った。

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