レストラン・テラス席
正午過ぎの太陽が湖上にキラキラとさざ波打つ時刻、マックスはジェイソンからの内線で、遅めの昼食を取ろうと誘われた。深い眠りを妨げられたマックスは、そこまで食欲を感じなかったが、兄の怪我の具合を確かめたいという思いもあり、カフェ・レストランに足を運んだ。
「おはよう、というには遅すぎだな」
マックスが給仕の青年に連れられて現れるや、にやりと意地悪そうに笑って、ジェイソンは丸いサングラスをかけた顔で空を仰ぐ。
「寝ていないのか、兄さん」
「いやいや、少しだけ寝たよ。だが明るい日差しがもったいなかろう」
マックスは兄に頷くと、給仕におすすめのランチメニューを注文し、同じように空を眺めた。
「それはそうだが、太陽の傾き加減では眩しくなりそうだな、この席は」
「サングラスを持ってこなかったのか。わはは、馬鹿め」
ジェイソンは丸いサングラスをずらし、茶目っ気たっぷりの瞳を弟に向けた。
マックスには、その瞳に妙な違和感を感じた。が、それよりも兄の脚の方が気がかりだった。
「シャンデリアから落っこちて、本当に大丈夫だったのか?」
悪魔を霧の彼方に祓った後、ジェイソンはずるりとマックスの体から滑り落ちてしまったのだ。
「持ってきた杖が役に立っとる。おっと失礼……」
ジェイソンは言葉を切り、マックスの背後に顔を向けて、和やかに手を振る。マックスが後ろを向くと、テラス席にいる他の客たちが微笑んでいた。
「人気も上々だな。イベントは無事に成功した、というわけか」
イベントは以下のように幕を閉じた。
ジェイソンが舞台に落下、苦痛をもらしている間に、観衆たちがむくりと起き始めた。魂が元の体に戻ったのである。
何が起こったのか、と困惑した表情で立ち上がる観衆たちに、ジェイソンはとっさの対応を取った。大声で張り上げて、
「皆々様、本日は夜を徹しての降霊術イベントにご参加下さり、感謝の言葉もありません!先ほど皆さまが体験なさったことは、幽体離脱と呼ばれる現象。これほどの集団規模、
観衆たちは呆けたように口を開けたまま、ジェイソンを見つめていた。
しかし、意識がはっきりし始めると、人々は、兄弟が悪魔と闘っているのを見たと語り出した。
ジェイソンは説明に窮してあたふたとしていると、舞台袖からカルロが颯爽と登場した。多少、髪や服装を崩していたが、顔色を目いっぱい明るくして、
「皆さま!当イベントにご参加くださり、また大変長い間お付き合いくださり、本当にありがとうございました!最後に、今回の主役にもう一度盛大な拍手を!」
観衆たちは煙に巻かれたような具合だったが、悪い霊を祓ってくれたことをなんとなく感じ、妙にすっきりした気分で惜しげなく拍手をジェイソンに送った。
ちなみに、割れるような拍手が終わって観衆が会場を出る間、マックスは誰にも気付かれずにシャンデリアから吊り下がったままだった。
「やれやれ、ホテル内を歩くたびに握手とサインを頼まれる。顔が割れると大変なものだよ」
「サイン会だけ不意になったのなら、それぐらい快く受けるべきだろう?兄さん」
「お前のサインを頼んでくる奴もいるぞ……。ところで腕は何ともないのか?シャンデリアに
「カルロが紐を使って負担を軽減してくれていた。それでなんとか……」
「そのカルロだが、妙な事を話し合っていたな、弟よ」
「なに、報酬はきちんと払うって話だ。あとは昔話だよ」
戦いの後、カルロはマックスを事務室に呼んだ。
カルロは悪魔との出会いを語った。戦場から脱走兵として逃げてきたこと、国境を超えることができずに怯えていたこと、四辻で悪魔と出会ったこと、契約することで守ってやる、と悪魔に誘われたこと……。
そうして、このホテルまでたどり着いた。初めは一介のベルボーイに過ぎなかったが、悪魔の力により、現在の地位まで上りつめた。代わりに、多くの魂を要求され、被害者は浮浪者や宿泊客に留まらず、従業員まで含みだした。
「いい加減に止めなくては。そう感じていました。悪魔と言い争いになり、奴は『最後に聖職者を堕としたい』と言ってきました。それで、あなた方を呼んだわけです。が、見事に祓っていただきまして……」
「悪魔を消滅させることはできんよ。まだ気を抜いてはいけない」
「ええ、わかっております。私と奴は一心同体でしたから。それに、私の悪魔との契約は、まだ続いています」
カルロはそう言うと、悪魔が入っていたバッグを取り出して、中を開いた。
バッグの底に、心臓が鼓動を打って横たわっている。
「私の心臓です。契約の際に担保として抜き出されました。それが元に戻らず、こうして動いたままでいる……まだ継続中なのです。悪魔は霧の中に封じられましたが、いつまた現れることか……」
あなた方も、お気をつけて……。カルロはそう忠告して、マックスを部屋に帰した。
「……悪魔に要注意か。湖のどこかに潜んでいるのか?」
「さすがに昼間には何も起きないと思うが」
マックスがそう呟きながら、湖に目を向けると、湖上に一隻の小舟が浮かんでいた。
小舟の上には、ホテルの客だろうか、一組の男女が乗っていた。
マックスの視線に気づき、ジェイソンもまた小舟を見つめた。
「なかなか、絵になる光景だな」
「……ああ」
小舟の二人はどちらも二十代半ばくらい、暗い色の服を着た男と白いワンピースにショールを羽織った女性。
マックスは自室から湖を眺めていた時に見た夢を、思い出していた。
「──失礼致します。コーヒーのおかわりはいかがでしょうか?」
不意に、給仕の青年がコーヒーポットを片手に近づいてきた。そして、二人が小舟を見ているのを認めると、
「イアソン様、マキシマス様、あの小舟に乗っている方とはお知り合いで?」
「え?いや……ただ、美しい風景だと思って眺めていたのだが」
「左様でしたか。ちなみにですが……」
ここだけの話、とでも言いたげな顔で給仕の青年が兄弟にひそひそと、
「あの小舟に乗ったご婦人、舞台女優らしいんですよ。隣町で興行中とのことです。本日から当ホテルにお泊まりだとか」
「ほお、どんな演目だろう」
「すみません。そこまでは……、確かフロントに広告用のパンフレットがあったと思いますが、取りに行きましょうか?」
いや結構、とジェイソン。
「ご用の際はいつでもお声かけを。ところで
青年はもじもじとしながら、色紙をどこからか取り出して、
「あの、もしよろしければ、マキシマス様のも」
* * *
それからしばらくして、自室に戻ろうとロビーを通った際、カルロが到着した宿泊客をもてなしているのが目に入った。その中に、小舟に乗っていた二人の姿もあった。
カルロは兄弟に気が付き、「おお、ご兄弟、こちらに!ちょうどあなた方の話をしておりました」
カルロは二人を呼び寄せて、一人の婦人を紹介した。
「ご兄弟、こちらはジーナ・ウィンさんです」
「はじめまして、
マックスがおや、と驚いている間に、ジェイソンが横から口を出した。
「おお、ここでマックスと呼んだ方はあなたが初めてだ。皆にはマキシマスと紹介しましたからな。はじめまして、私が神父イアソンです。ミス・ウィン」
ジーナはにこやかに笑って、
「結婚しておりましたの。別れてしまいましたが」
「これは失礼を。ミズ・ウィン」
彼女が手を差し出した。ジェイソンは恭しく、その手の甲にキスの
その時、マックスがさっと身を引いて、その場から足早に離れた。
「おい、マキシマス!挨拶くらい……」
遠く離れながら、マックスは胸の動悸を抑えていた。
——ばかな。会いたい、と願ったが、こんなに早くに。それに、私はまだ……。
彼女が手を差し出したとき、マックスは己の手を見た。死の影がちらちらと滲み出したのを、はっきりと感じ取ったのだ。
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