さがれ悪魔よ!

 「アタタ……首が凝ってしまった」 


 ジェイソンは目を覚ました。舞台上は冷たい霧に覆われ、不気味なほどの静けさに包まれている。

 観客席に目を向けた。観衆は皆、深い眠りについたように動かない。


 そして舞台上の明かりを避けるように、薄暗い中を、白い霧状のものがぐるぐると歩き回っているのが見えた。


 「な、何だあれは……」


 ジェイソンは初めて見る白い妖精に目を丸くしたが、悪魔との闘いに気持ちを切り替えようと、周りを一瞥する。が、肝心の悪魔の姿はホール内を見渡しても見つからなかった。


 「早く決着をつけねばならんのに」 


 ——そうだな。悪魔め、どこに行った。


 「ん?おい、マックス。どこから喋っている?」


 ジェイソンは、体に違和感を感じた。


 ——どこって……。


 頭の中でマックスの声が響いた。


 ──しまった!兄さんの夢を経由したから、魂が兄さんの体を起点として目覚めてしまった!


 「……私の頭の中にお前が!?」


 ──ともかく、早く自分の体に戻らねば。兄さんの重たい体では、霊力を使いこなすのは至難の業。よしんば兄さんが覚醒したとて、その年齢では体の節々から力が抜けてしまうに相違ない。


 「人の体に入った途端に饒舌になりおって……。しかし、なにがあったか知らんが、吹っ切れたようだな、弟よ」


 ──感じるのか、兄さん。


 「まあな、そして……」


 ジェイソンは天井を見上げた。その視線の先に、両腕をシャンデリアに括り付けられたマックスの姿。まるで十字架に張り付けられたような体勢であった。

 そして、そのマックスを見張るように、子供の姿をした悪魔がシャンデリアの上を陣取っている。


 「見つけたぞ。戻るべき体と、全ての元凶」


 ジェイソンの鋭い視線に悪魔は気が付き、

 「おや、お目覚めか!よく眠れたかい、神父パードレイアソン!」


 「おかげさまでな……いや、無駄話はよそう。そこに縛り付けられた我が弟を返してもらうぞ!」


 「後で返してやるよ!ハハハハッ……心臓と魂を引っこ抜いてからな!」


 ──おのれ、悪魔め……。


 「……おや、今のはマキシマスの声か?まだ目覚めた様子はないのに、何処にいる?」


 悪魔は手を額にかざして、マックスの行方を捜し始めた。


 ——兄さん、どうやら私がジェイソンこのからだに居ることに、奴は気がついていない。


 「不意を衝く好機だな」


 ——ああ。だが、元の体に戻るためには、兄さんがあの体に触れる必要がある。悪魔の目をくぐり抜け、シャンデリアの近くまで行けるか?


 「……宙に浮けと?」


 ——無理か……ん?あれは……。


 イベントホールの中をぐるぐると踊り回る死霊たちの輪を散らすように、黒い影が大挙して方々から生じた。

 その影の群れは、悪魔を取り囲むように集まった。そして、その中の一人が進み出て、

 「悪魔よ!シャンデリアに吊るされし御仁を離すがいい!」


 「なんだぁ……貴様は……」


 ——あれは、ルシールか!


 その影の姿と声を、ジェイソンはマックスの魂を通して感じ取ることが出来た。


 「おお、初めて影とやらを認めた。しかもあんなにたくさん!」


 悪魔はルシールを見つめて、

 「ははぁ……どこのどいつかと思えば、副支配人とカルロの操り人形どもじゃないか。どういうことだ、マキシマスに恩でもあるのか?」


 「そういうことだ。カルロの支配から我らを解き放った御仁である!この存在に代えても、貴様から引き離す所存だ!」


 「生意気な従業員どもめ!おい、霧の中の死霊ども!こいつらにご退場願え!従わぬならば、人質とした観客の魂を一匹ずつ喰ってやるがいい!」


 影の群れに抑えられていた霧の死霊たちが再び動き始めた。


 が、ルシールは野太い声で言い返した。


 「白い妖精、そして儚き死霊ども!生きている観客の魂は我々が避難させた!貴様らの好きにはさせん!」


 「なに……?影の分際で!白い妖精よ、こいつらを叩きのめせ!」


 「返り討ちだ!マキシマス氏を守り通す!」


 イベントホール内に、白と黒の霊たちの不気味な声が轟いた。白と黒が激しくぶつかり合い、入り交じり、舞台上はモノクロームな混沌と化した。




 * * *




 「マックス、この混乱に乗じて、お前の体にたどり着きたいが」


 ——天井まで昇れるか?舞台裏に梯子があれば……。


ジェイソンは腰を低くして、舞台袖に潜り込もうとするが、

 「神父パードレ、動くんじゃねぇ!」


 ジェイソンの背を、観客席の椅子が飛んできた。椅子を間一髪で避けたが、容易に動けないことだけは判別した。


 「くそ……目の好い悪魔だ」


 「ハッハァ……マキシマスの行方を探さねばならんのだ。手間をかけさせるな」


 「余所見は禁物だ、悪魔よ!」

 

 油断した悪魔のもとに、ルシールの突撃。悪魔の視界を奪うように、ルシールの影がその体に纏いつく。


 「……小賢しい!離れろ、部下に嫌われていたくせに!」


 「昔の話をするな!」


 ——くそ、絶好の機会だが、シャンデリアまで届かない……。


 その時、ジェイソンの体がふっと、軽くなった。


 「おお……?体が、浮いている?」


——兄さん!?


 ジェイソンの両肩と腰の周りに、細長い紐のような影が結びつけられている。それが天井から吊下がり、ジェイソンの体をゆっくりと持ち上げていた。


 ——この紐は、カルロの……。


 この様子に気が付いた悪魔は叫んだ。

 「カルロよ、お前の仕業か!?これは一体どういう真似だ?」


 カルロは上手いこと姿を隠していた。悪魔が困惑する中、するするとジェイソンはマックスのもとに近づいていく。

 

 悪魔に焦りの色が見え始めた。紐を裁断しようとするが、ルシールの影に覆われて、身動きを取れない状況が続く。


 「白い妖精!あの宙を浮く男を止めねば……お供え物が逃げてしまうぞ!」


 悪魔は白い妖精に目を向けた。その時、段々と白い霧の濃度が薄くなってきたことに気が付いた。

 

 イベントホールの窓と扉が開いて、その向こう側にゆっくりと霧が流れていく。窓を仕切るための深紅色のカーテンが、ゆらゆらと翻っていた。


 悪魔は焦りを隠すことができず、

 「馬鹿な!俺の力の範囲内で霧を払えるものなど……」


 揺れるカーテンの切れ目から、ちらちらと見え隠れする子供の霊の姿。


 「あの小僧……風を起こしたのか!?」


 悪魔と目を合わせた子供の霊は、挑発するように手を振った後、シャンデリアを指し示した。悪魔の目はその指先を追った。


 「……時間切れだ、悪魔よ」


 シャンデリアに吊るされたマックスが、苦しそうに声を上げる。その体に、がっしりとしがみつくジェイソン。


 「起きやがったなマキシマス!時間切れとは何のこと……」


 「窓の向こうだ」


 窓の向こうの薄暗い空は、微かな青色に滲んでいる。その中に、僅かに白んだ景色がぼんやりと映り始めていた。


 「朝が来た……」


 「そういうことだ、お前も死霊たちも、力が弱って来る時刻」


 その声を合図に、イベントホールから全ての霧が吸い出され、白い妖精もまた、ふらふらと扉の外へと動いて行く。


 「待て!願いを……俺とカルロの願いを叶えよ!ここを地獄のホテルに仕立てあげるのだ!善き魂を堕落させるため……」


 ルシールの影を吹き飛ばして、悪魔は白い妖精の後を追った。そして、その白い衣を引っ掴んだ。


 衣が払い取られ、妖精の顔が露わとなった。青白い頬の、深淵にくぼんだ目を持った男の姿。襤褸のようにズタズタに切り裂かれた法衣、そしてその頭には錆だらけの王冠。


 「お前は……白き乙女ではない!霧の湖に消えた、王——」


 王の霊は、悲しみを湛えた表情で悪魔を見つめる。


 悪魔は思わず叫び散らした。


 「白き乙女ではなかっただと!乙女の祈りでなければ、願い事もくそもない!誰だ、『白い妖精ヴァイス・フィ』などと可愛らしい名を付けたのは!じじいばかりがそろいやがって……」


 「……そう言われると心苦しいが、お前もそろそろ潮時だ」

 マックスは、ジェイソンから銀の十字架を受け取り、悪魔に向けて言い放った。


 「さがれ悪魔よ!」


 子供の体から悪魔が吹き飛び、額に二本の角、背中に黒い翼を持った姿が飛び出した。


 ——おのれ、マキシマス……!


 マックスはすかさず声を張り上げた。

 「霧に消えた王の魂よ。白き乙女はすでに天に昇った。死んだのだ、恋人と共に!もしも二人に対して悔いが残っているならば、一切の悪に目をつぶってはならぬ!悪と戦い続けよ!己の中に善を呼び戻すがいい!」


 王の霊の暗闇のような目が、一瞬、煌めいた。

 そして、悪魔の首を掴み、出入り口へと引きずって行く。


 ——やめろ!放せ、老いぼれめ!


 王は一切の耳を貸さず、そのまま朝靄の中へと進んでいった。


 悪魔は最後の力を振り絞り、叫んだ。


 ——許さん、許さんぞ……マキシマス、イアソンよ。王の霊ともども、いつか必ず呪い殺してやる!


 ハハッ!ハハハハ………………——————————————




 * * *




 湖に、朝の光が満ちていく。


 かくして、悪魔と死霊たちは霧の如く消え去った。

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