優しいひとに影が差す
聞き覚えのあるエンジン音が聞こえ、そして止まった。
カーテンの隙間を覗くと、向かいの家にフォード・フィエスタが駐車している。
「帰ったのか……」
挨拶くらいはしておこう、ヘンリーはそう思った。
家から出て、マックス宅の前へ。
「おや?」
マックス家のポストを見る。
数日分の新聞紙が詰め込まれていた。
……マックスは几帳面なやつだ、帰ったのなら、すべて取り入れるのが普通。
さらに扉に目を移す。
わずかに開いている。その奥から、
ひゅう……————──
風が吹いた。
「おい、マックス?」
ヘンリーは扉をわずかに開けて声をかける。
が、返事はない。
「入るぞ?」
マックス宅に足を踏み入れた。
* * *
しん……と静まった家の中を、ヘンリーは静かに進む。
ふと、背後に人影がチラついた。
「嫌な予感が……ん?」
居間の隅、黒革のソファの上にぼんやりと影が見えた。
「……なんだ、そこにいるじゃないか」
マックスだった。俯き加減に頭を垂れて、ソファに腰掛けている。
「……おい、どうした?」
マックスは眠りについてるように、動かない。
ヘンリーは触れようと、手を伸ばす。
が、その時、
「見えるんですね、ヘンリーさん」
背後から低い男の声。
何事かと振り向く。
すると、キッチンの物陰から
「いま、貴方はソファに手を伸ばした。一体何に触れようと?」
「なに……?」
ヘンリーがソファに向き直る。
そこには、マックスの姿は無かった。
「……まさか!」
神父は凍てつくような冷たい声で、
「ヘンリーさん、あなたはマックスが見えた。もはや魂でしかない男を」
「な、なんだよ、あんたは」
ヘンリーはそこで、ハッとした。
目の前に居るのが、著名な
「あんたは確か……」
「私のことはよい。だが、私の弟があなたに言いたいことは、分かるかな?」
ヘンリーの背後で、カタッ……と僅かな音が立った。
ソファに向き直る。
真っ黒な影が、ヘンリーを覆い尽くすように壁を這い上がっていた。
そして、耳元でマックスの声が響いた。
——私に死の影を纏わせたのは、お前か……
「マックス、どこだ!どこに?」
——リンダにケイティの魂を入れたのも、お前だな……
ヘンリーは全身が震えだした。
——エレナを撃ったのも……
「ち、違う!あれは──」
「あれは!?」
ジェイソンが答えた。
ヘンリーは舌打ちをして、その場から走り出した。が、
「動かないで」
玄関の前で、ポーラが拳銃を構えていた。
「自分がどうして銃を突きつけられているか、分かるわね?」
「……あれは、事故だ!『撃て』なんて命令しなかった!」
そう言いながら、ヘンリーは目を四方八方に動かした。逃げ道を探しているようだった。
「……ケイティを生き返らせてやりたかった。リンダがもぬけの殻になりゃ、何でもよかったんだ。そこに魂を降ろしてやれる。でも、エレナを殺す気なんて俺には——」
ぐふっ……!と突然、ヘンリーは息を苦しそうに吐いた。そうして、その場に崩れ落ちる。
ジェイソンの拳が、ヘンリーの腹部にめり込んだのだった。
ポーラは銃を下ろして、
「今のは見なかったことにするわ、神父さん」
「助かるよ。ところでこの男の罪状は?」
「殺人罪には問えないわね。科学的な根拠で立証できないし。それでも、エレナさんやマックスさんの魂が浮かばれるなら、拉致監禁罪でも強盗罪でも、どんな罪でも被せてやる」
「き、ひ、ひ……」
突然、ヘンリーの目がぎょろぎょろと動きだした。
「
「悪魔……ホテルの奴とは別の」
ひひひ……とヘンリーの口をついて、悪魔が全てを話した。
「ケイティを生き返らせてやる代わりに、素晴らしい霊力を持つ
「もうよい!」
ジェイソンは十字架を突きつける。
「悪魔よ、地獄へ還るがいい!」
ひ……ひひ……ああ、熱いなぁ……いやだなぁ……——————
悪魔の気配が消えた。
ヘンリーはぶるぶると震えながら、その場に伏せていた。
「ヘンリー、己が行いをしかと見つめよ。告解ならば、私が聞いてやる」
その後、ヘンリーは魂を失ったように何事かを呟き続けた。
精神疾患の疑いで有罪は免れたが、以後、精神病棟にて一生を過ごした。死ぬまで、自分の魂を探すかのように院内をさ迷ったようだ。
* * *
数日後、マックス宅にソファが届いた。
マックスの頼みを聞いたジェイソンが、真新しいソファを買ったのだ。
「マックス、お前は『明るければなんでも良い』と言ったな。わはは、馬鹿め!可愛い姪のことを想えば、この色に決まっとる」
真っ黒でボロボロだったソファが運ばれていき、替わりに新しいソファが置かれた。
滑らかな、クリーム色の生地。
ちょうどホットプレートで焼けば、美味しいパンケーキになりそうな色だ。
「お前の言いつけは守ったぞ……マックス」
感慨深げにソファを眺めた後、「それでは」と居間に手を振り、ジェイソンは家を出た。
……ありがとう、兄さん。
* * *
「本当に好い色、これならリンダも喜びそうね」
「すまんな、エレナ。私がもっと早く買ってやったら……」
「ふふ、黒いソファにリンダの痕跡が残っているかもしれないって、躍起になって気配を探していたものね、仕方がないわ。それより早く呼びましょう」
「……しかし、本当に大丈夫だろうか。あの日の記憶が残っているんだぞ」
「そうね、でも私たちとの思い出だってたくさん入っているわ。大丈夫よ、マックス。言ったでしょう?あの子はそんな
「そうだな……しかし探しに探して、こんなにすぐ近くに居たとは」
マックスとエレナは、ソファに腰掛けた。そして、エレナがマックスに触れようと手を伸ばす。マックスもまた、その手を握った。
そうして、二人の間に、ぼんやりと光りが満ち溢れる。
──私たちが仲良く座るのを待っていたのよね、リンダ。
──出ておいで、私たちの可愛い娘。
……パパ、ママ。
マックスとエレナの間に、リンダが割って入るように現れた。
——さあ、行っておいで。お前のことを待っている人たちがいる。
……うん、ありがとう。
* * *
ケイティはその日、夢を見た。
自分の家の扉を誰かが叩いている。それは懐かしい響きだった。
紅茶とお菓子を用意していたケイティは、ゆっくりと扉を開けた。
「ハイ、久しぶりね!」
「……リンダ!待っていたわ」
二人は、長いことおしゃべりをして過ごした。
そうしているうちに日が傾き、リンダは立ち上がった。
「そろそろ、帰る頃だわ」
「待って、リンダ……」
「なに?もう帰るの寂しい?」
「違うの!そろそろあるべき所に帰るのは、私の方」
「あるべき所って?」
「リンダ……私ね、一度死んだの。変な話でしょうけど、あなたの体に入ってた。だから、この体をあなたに返さないと」
ふふ……とリンダが笑った。
「リンダ、冗談は言ってないわ、これは——」
「知っているわ、全部!ママとパパの間にずっと隠れて見ていたもの」
「……だったら」
「ケイティ、あなたの傍にも居たの、ときどきね!あなたはとても勇敢で、演技力もあって……私ね、あなたのこと憧れるわ」
「リンダ……」
「あなたは生きなきゃ!それにあの子が待ってるじゃない!私ね、ケイティがあの子の名前に悩んでいる時に、耳元でそっと伝えたのよ。良い名前があるって」
「マックス……!」
ケイティはそう言いながら、リンダを抱きしめた。
「ありがとうね。でも私は死人……これ以上、罪を犯すわけにはいかない」
「なによ、死人って……それに罪ですって!?あなた病院で寝てばかりで何も知らなかったくせに!もっともっと生きなさいよ。馬鹿ねぇ本当に!」
リンダはケイティの腕の中で、ぷんぷんと怒った。
ケイティは思わず笑って、
「相変わらず、サバサバして。本当に大好きよ」
リンダの小さなあたまをなでながら、囁いた。
──それじゃあ遠慮無く、あなたの心の中で生きていくわね、ありがとうリンダ……
* * *
青い芝生の中に、真っ白な墓が二つ並んで建っている。
ジェイソンはその二つの前に、杖をつきながら、のそのそ歩いて訪れていた。
「墓石みたいな奴と思っていたが、本当に墓石になりおって」
ジェイソンは溜息をつく。
「私は、もうしばらく生きるぞ……マックス」
と、その時、
「——ジェイソン叔父さん!」
ジェイソンの背後で、自分を呼ぶ声。振りかえると、遠くから手を振る人々。
「リンダ、エリック!」
互いに近づく。リンダはジェイソンにハグをし、エリックは帽子を脱いで頭を下げた。
そして……
二人の間から、小さな男の子。
手に花束を持っている。
「はい、マックスじいちゃんとエレナばあちゃんに」
ジェイソンはしゃがんで花束を受け取る。
「ありがとな、マックスJr.」
四人は揃って、墓の前に立った。
その時、朝の光に照らされた四人の背に、二つの影が差した。
愛するものを、見守るように。
優しいひとに影が差す ファラドゥンガ @faraDunga4
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