優しいひとに影が差す

ファラドゥンガ

いつもの朝に

 マックスは、その日も静かに目を覚ました。目覚まし時計が鳴る、ちょうど五分前。


 ベッドから静かに這い出ると、洗面台に立ち、冷たい水で顔を洗い、歯を磨き、小さなハサミで髭と鼻毛を整え、灰色の髪に櫛を入れた。鏡の中の顔には、年輪を刻んだようにしわが幾筋も入っていた。マックスは今年で六十になる。


 キッチンでお湯を沸かし、その間に、ポストから新聞を取り出そうと玄関の扉を開けた。


 向かいの家の扉が開いて、ヘンリーが顔を出した。彼も新聞を取ろうとしたところだった。二人は思いがけず目が合った。ヘンリーは片手を挙げて無言の挨拶。マックスもオウム返しに手を挙げる。


 キッチンに戻ると、パンを焼き、コーヒーを淹れながら、新聞を流し読み。抽出したコーヒーをカップに注ぎ、パンを皿に乗せて居間に向かう。



 * * *



 居間の片隅、黒革のソファに妻のエレナが座っていた。


 エレナは目を閉じ、片手を頭にえて、頭痛をこらえるような姿勢だった。マックスは彼女に声をかけることはなく、少し間をあけてソファに座った。そして黙々と新聞に目を通す。


 マックスが新聞を読み終える頃に、エレナの目が開いた。


 「……あなた、いつ帰ったの?」


 マックスはそれには答えず、代わりに壁にかけた時計を見るように促した。時計の針は午前八時二十分を指している。


 「朝?おかしいわね、ついさっきまで夕食の時刻だと思って……」


 エレナはマックスを見つめた。「私、寝ぼけてしまったのかしら」と不安をこぼした。そして、マックスの皺だらけの手を握ろうと、手を伸ばした。


 マックスは彼女の手が触れるより先に立ち上がった。


 「大丈夫だ、エレナ」とだけ述べて、コーヒーカップと皿をキッチンで洗い、寝室に引っ込んでしまった。


 エレナは伸ばした手を自分の膝の上に戻すと、再び片手を頭に据えた。じっと何かを耐えるような具合に。



 * * *



 マックスはベッド横のナイトテーブルの引き出しを開けた。一挺の拳銃が、手紙やメモ帳にまぎれて置かれている。


 不意に、携帯電話を手に持った。かかってくると思った。果たして、電話が鳴った。


 「半年ぶりだな、マックス」

 電話口の向こうから、男の威勢のいい声。


 「ああ」とマックスは静かに答えた。


 「相変わらずのささやき声だな。俺はいまアメリカン・スタイルのカフェにいるんだ。ダイナーってやつだよ。朝食中でね。恰幅のいいドライバーや朝帰りの工場労働者たちに囲まれている。もうちっと、大きな声で頼む」


 そう言った後で、電話先の男は相手を気遣うように、「近くにいるのか?」


 「エレナは居間リビングだ」


 「もしも彼女に聞かれたくなければ、外にでも……、おい、私のコーヒーだぞ!」


 「それは大丈夫だ、エレナは居間リビングから離れない」


 「……そうか、では心置きなく仕事内容を話すとしよう。そこから200マイル離れた田舎町に大きなホテルがある。『白い妖精ヴァイス・フィ』という名前だ。湖畔に建てられた老舗で、窓辺から見える湖が有名らしい。そして、そこのある一室に、


 「特徴は?」


 「お前の探しているのと同じだよ。七、八歳くらいの子供だったと」


 マックスはナイトテーブルに立て掛けられた一枚の写真に目を向けた。家族三人が仲睦まじく、黒いソファに座っている。マックスとエレナ、その間に笑顔の女の子。


 「分かった。いつ行けば良い?」


 「準備ができ次第、現場に向かってくれ。俺もあと一時間くらいのドライブで……誰だ!サンドイッチにケチャップぶっかけやがって!」


 「無事に着いてくれよ、兄さん」



 * * *



 「あなた……」


 寝室から出てきたマックスに、エレナは声をかけた。


 「どこかへ、行くの?」


 マックスはよそ行きの黒い背広を着て、旅行かばんを手にしていた。


 「仕事だ。二、三日で戻る」


 「そう……」


 エレナは不安げな表情をマックスに向けた。そして躊躇ためらいながら、それでも伝えなければとする意思を持って、腰を上げた。


 「ねえ、話し合いたいことがあるの」


 マックスは壁にかけたフェルト帽を手に取りながら、「ソファのことか」と聞き返した。エレナは口をつぐんだ。


 「捨てないぞ」


 「でも、もうボロボロじゃない。それに黒色は、あの子も——」


 バタン、と扉が閉じた。話を最後まで聞かずに、マックスは外に出たのだった。


 閉じた扉に向かって、エレナはぽつりとつぶやいた。


 「……承知しなかったわ、マックス」

 

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