第6話
二式、それに
現場に、陳監督の姿はなかった。
「阿二」
「郭さん」
翻訳担当の
「逢坂先生はまだ戻られてない?」
「ああ……そう、まだです。ちょっと別の仕事が入ったみたいで」
「別の仕事?」
細い眉を跳ね上げいかにも訝しげな表情をする郭に「まあまあ」と二式は愛想の良い笑みを浮かべる。
「陽映としても今回の招致を機に、香港での仕事の幅を広げたいんですわ。それで、僕が撮影をしとるあいだは逢坂さんは別の仕事をするというか……」
「彼はあなたのマネージャーなのに? 少し、無責任と思う」
郭の感想はもっともだ。それに二式は嘘を吐いている。
「大丈夫ですって! 僕かて、ちゃんとしたマネージャーが付くようになったんはここ最近のことなんですよ。それまでは大部屋で、自分のことは全部自分でやっとって……」
「大部屋?」
「そう。役名が付かへん役者がぞろぞろおって、どうにかして監督やプロデューサーに発掘してもらおうと四苦八苦」
「阿二、あなたも苦労したのね」
ようやく微笑んだ郭に二式は軽く頷き、「ところで」と声音を変えて撮影所内を手で示す。
「今日は監督がおらんようやけど……」
「陳監督は今、第二撮影所にいます。別の作品を同時進行で撮っているの」
「へえ。そういうところも陽映と似とるなぁ。ひとりの監督が一気に何本も撮影する」
「陳監督は、名前だけで客を呼べる数少ない監督だからね。すごく忙しい……阿二。あなたには今から、ドミニクの仕事を見学してもらいます」
「ドミニク……
「そう。ドムは陳監督にいちばん信頼されているから、陳監督が不在のあいだ撮影を進める権限を与えられている」
「へえ」
ひと昔前の大衆食堂を模したと思われるセットの中で、
「今回の新作の、真ん中の方のシーンですよね?」
「そう。阿二はちゃんと台本を読んでいるんだね。藍は仇役──大富豪の息子の役で、情は
「めちゃくちゃ死ぬんやな、人……」
二式の感慨を他所に、「スタート!」とドミニク助監督の声が響く。早口の広東語のやり取り、そこから流れるように戦闘シーンが始まる。二式が抱いていた印象通り、藍は身軽で、武器を持たずに長身でがっしりとした体躯の情に襲い掛かる。一方情はといえば大きな刀を軽々と振り回し、毒蛾のように襲い来る藍を迎え撃っている。
どれほどの時間、美しいふたりの男の殺し合いを見せ付けられていただろう。「カット!」の声が掛かる頃には、藍も情も演技とは思えないほどに肩で息をしており、ふたりとも全身血糊で真っ赤という有様だった。
「稍作休息,再次拍攝相同嘅場景(少し休憩して、もう一度同じシーンを撮影する)」
「點解!?(なんで!?)」
「頂唔順……(もう充分でしょう)」
セットの床に座り込んだ藍と情がいかにも不服げにドミニク助監督に言葉を返している。「もう一度撮影する、とドムは言っています」と郭が丁寧に翻訳してくれる。二式は小首を傾げ、
「今の何があかんかったん?」
「いけなかったわけではありません。ただ」
「ただ?」
「……阿二は、弊社の社長にはもう会いましたか?」
唐突な問いかけだった。二式は一瞬沈黙し、それから首を横に振る。
「ていうか、僕程度の人間は社長には会われへんでしょ」
「そんなことはありませんよ。陽光映画製作株式会社から俳優を呼び、
「どういう意味……」
撮影所の方から「うおお!」という獣の咆哮のような声が聞こえてくる。藍だ。勢いを付けて床から起き上がった藍が「血糊を落としてくる!」と言い置いて撮影所を去る。情が早足で藍の背中を追って行くのも見えた。
その後三度、
「郭女士(郭さん)」
「!」
撮影に見入る二式の傍らで、誰かが郭の名を呼んだ。弾かれたように相手に顔を向けた郭が「先生」と頭を下げている。
知らない男が立っていた。
「佢係日本嘅演員咩(彼が日本から来た俳優ですか)」
「冇错,先生(その通りです、先生)」
藍よりも、情よりも、それに
「阿二、こちら、アベル
「……初めまして、葛原二式です」
郭が俯きがちに二式の言葉を翻訳している。奇妙だ、と思う。だがアベル張は鷹揚に頷いて、
「我期待你嘅表演(演技を期待していますよ)」
と言い残し、数名の取り巻き──マネージャーがいるのは理解できたが、他の若い男性についてはどういう立場の人間たちなのか二式には良く分からなかった──を引き連れて去って行った。
郭が大きく息を吐き、その場にしゃがみ込む。「郭さん!?」と声を掛ける二式に、
「大丈夫、大丈夫、緊張しただけ……」
「あん人は誰なんです。俳優さん? ですよね?」
「
「怖い人なんですか? 郭さん、顔色がめちゃくちゃや」
「……」
薄いくちびるをキュッと引き結んだ郭が、やがて小さな声で「非常可怕」と呟いた。「とても怖い」という意味だ。
「阿二、私はあなたに、香港で良い仕事をしてほしいと思っている」
「はい。分かります。郭さんは親切な人や」
「だから聞いて。張先生は日本人が嫌いです。大嫌いです」
それはなんとなく、二式の肌が理解していた。二式を見詰めるアベル張の目は笑っていなかった。あれは、憎い相手を見詰める目だった。
「あのひどい落書きを、張先生がしたとは言わない。けれど」
「何かがあるっちゅうことですね」
「そう。だから阿二、この撮影所でひとりにならないで。逢坂先生も日本人だけど、あの人とあなたはだいぶ違う、そうでしょう?」
「……」
返答に困る問い掛けだった。葛原二式は俳優で、逢坂はそのマネージャーで通訳。葛原二式は一応広東語が喋れないという設定になっているが、逢坂がいったい幾つの言語に精通しているのかは誰も知らない。
「……阿二、食事に行きましょう。ほら、藍が手を振っている」
郭がぎこちなく笑い、二式の背を押した。撮影所の入り口で、前髪から血糊を滴らせながら藍と情が二式を手招いている。
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