第26話

 葛原二式のその後の人生は、香港で出会った友人たちに較べると然程盛り上がりのないものだった。


 まず彼は、陽光映画製作株式会社に於いて主演としての常連俳優になることができなかった。映画館で二本立てで映画を上映する際の二本目の主演になることは稀にあったが、それ以外の場合は大抵役名のある悪役で、高いところから落ちたり、海に突き落とされたり、クルマに撥ねられたり、拳銃で撃たれたりする役回りがほとんどだった。お陰で、痩せぎすで華奢な肉体はずいぶんと頑丈になった。風邪も滅多にひかなくなったし、怪我をしてもわりとすぐに治るようになった。

 嘗ての日本映画界には五社協定というものが存在しており、ひとつの映画製作会社に所属している者は他社作品に出演することができない、というのが常識だった。だが二式が香港に乗り込む一年前、1971年に五社協定の主導者であった会社が映画製作から手を引いたことにより、「」という馬鹿馬鹿しいルールは消滅した。それもあって、二式は香港に送り込まれたのだった。


 1972年。葛原二式は二十二歳だった。帰国してから十年間の月日を陽光映画製作株式会社で粘り、「いつまでもここにおっても無意味やな」とある時不意に気付き、契約解消をしてフリーの俳優となった。特に引き止められることはなかった。そうして幾つもの映画製作会社の作品に出演したが、二式は常に「ちょっと目立つ脇役」もしくは「それなりに目を引く悪役」に過ぎず、若き日の、化粧をするだけで顔が変わる美貌を発揮する機会はまるでなくて、それでも俳優業から足を洗わなかったのは単にほかにできることが何もなかったからだ。こんなことになるのなら会社員になる準備でもしておけば良かった、と三十代になってから後悔したが、学もなく、特技といえば広東語と後から独学で学んだ英語だけだったので、結局葛原二式はいつまでも葛原二式のままだった。広東語が良く喋れたので、香港人の役を演じることもあった。困ったことに、悪役が多かった。喧嘩っ早くて、良く喋る悪役。そういう時には、魈皓空シウ・ホウフンのことを思い出した。小柄で華奢な二式でも、魈皓空シウ・ホウフンのように胸を張り、肩で風を切れば一端いっぱしの悪党に見えることが分かった。


(香港人が出てくる台本を書くなら、香港から人を呼んだらええのに)


 そんな風に思うこともあったが──いや、結局は悪役なのだ。わざわざ海を越えてきた俳優にくだらない悪役を演じさせるなんてそんな、勿体無いし申し訳がない。それならば自分が演じれば良いと、二式は粛々と回ってくる役をこなした。


 そう長くない時間を経て映画の時代は終わり、テレビ全盛期の時代がやってくる。


 銀幕のスタアたちは活動場所を映画館からブラウン管に移し、常に満席の映画館の客席、銀幕を見上げるキラキラと光る観客の目、それらはまるで、夢の中で起きた出来事のように記憶される。

 二式もまた、テレビドラマに出演するようになった。映画よりもよほど、面白みのない職場だと思った。とはいえそれは二式個人の感想であり、力の出しどころを銀幕からブラウン管に移動しても尚楽しげに仕事をしている監督や脚本家や俳優──同業者は大勢いた。二式も、大っぴらには文句を言わない。食っていくためだ。舞い込んでくる仕事を断ることは、基本的にはなかった。唯一「遠慮させてもらうわ」と苦笑するタイプの仕事があるとすれば、それはテレビCMだ。銀幕でヒーローを、ヒロインを演じていた人々が、ブラウン管の中で満面の笑みを浮かべて新商品の売り出しを行っている──見るに堪えない、とは言わない。だが一抹の寂しさがあった。


 映画を。

 映画を作っていたかった。

 死ぬまで映画俳優でいたかった。

 魈皓空シウ・ホウフンも、きっとそうなのではないかと思うことも多かった。

 彼が今、どこで何をしているのかを葛原二式は知らなかった。自分が生きていくことに精一杯で、改めて個人的に香港へ行く予定も立てられなかったし、魈皓空シウ・ホウフンについての情報をかき集めることもできなかった。

 ただ、年を重ねた魈皓空シウ・ホウフンが銀幕の中で堂々と見栄を切っている。そんな想像をするだけで、二式もまたどうにかやっていこうと思うことができた。


 母のことを思い出す。二式は、二歳までしか母の側にいられなかった。

 劉紅花リウ・ホンファはデビュー前のグラビア撮影をしただけで、結局映画俳優としてデビューすることはなかった。そういう意味では息子の二式は恵まれているのかもしれない、と思う。銀幕からブラウン管へ、活動の場が当たり前のように移動したとしても。


「……まあ、映画でもテレビでも、結局悪役ばっかやけどなぁ」


 ひとり暮らしのマンション。小さな部屋でソファに腰を下ろし、日本酒を片手に二式は呟く。

 テーブルの上には母の写真が表紙に使われている香港の映画雑誌。あの年。1972年。香港を去るために飛行場へと向かうクルマに乗り込もうとする二式の手に、魈皓空シウ・ホウフンが押し付けてきたのだ。


「帶回家(持って帰れ)」


 皓空ホウフンは短く言った。


「唔會有照片(写真なんて持ってないだろう)」

「二式、急げ。別れを惜しんでるとジェット機に間に合わないぞ」


 逢坂に急かされて、皓空ホウフンとのやり取りはそれきりで終わってしまった。クルマを見送る明花ミン・ファが泣いていたのを覚えている。李藍レイ・ランはずっとずっと──その姿が見えなくなるまで大きく手を振っていた。馮情フェン・チンは大声で「再見!(また会いましょう)」と叫んでいた──。


 馮情フェン・チンは五十歳になる前に死んだ。交通事故だった。三会會Triadは無関係の、本物の不慮の事故だった。訃報を伝えに来たのは逢坂で、


「老けたな」


 と言われて二式は少し笑った。


「お互い様や」

「おまえ、今何やって食ってるんだ? テレビでもほとんど見かけないし」

「映画。映画や」


 嘘ではない。1990年代。葛原二式はテレビCMの仕事を断り、テレビドラマへのゲスト出演を細々とこなしながら、まだ映画に出演していた。若手監督が、雨後の筍のように大勢出てきた時代だった。かつて所属していた陽光映画製作株式会社はとっくに倒産していて、なんとかという名前のテレビ局がその後釜のような位置で大きな顔をしていた。たまに台本が送られてきても最後まで読む気になれないつまらない映画しか撮らないので、稀に出演の依頼があっても即答ですべてを断っていた。いま、葛原二式は、どこにも所属していなかった。完全にフリーの俳優で、マネージャーもいない。送られてくる台本を熟読し、出演するかしないかを自分で返答する。出演料の交渉もすべて自分の手で行う。そういう生活を送っていた。


 葛原二式は何者だ?

 この年になっても、まだ分からないままだ。

 もしかしたら一生分からないままかもしれない。

 それはそれで構わない、そんな気もする。


 若い監督たちとの仕事は面白かった。聞けば、昔陽光映画製作株式会社などで監督や助監督、それに脚本などを担当していた連中が講師を勤める映画監督養成学校があるのだという。養成学校の卒業生や、卒業せずに途中で中退した者、もしくは現在映画監督として活動している人間の助手を務めていたことがあるという映画監督志望の若者たち──香港に渡った頃の二式と同世代の、夢と希望に溢れたキラキラとした瞳に相対するのは、本当に楽しかった。若い監督たちは、自分の親よりも年上の二式に対しても容赦のない演出を付けた。二式もまた、全力で彼らの要求に応じた。体力的に付いていけない面も増えてきてはいたが、それでも必死で喰らい付いた。若き日々のように。映画俳優をしているのだから、どうせ死ぬなら撮影現場で──などと口走る者がいることを知っている。二式はそうは思わない。撮影現場で絶命した日には、その映画の公開が遅れてしまうではないか。そういう迷惑はできるだけかけたくない。

 それに、葛原二式には。まだこの世に未練がある。


「……情は死んでもたんか」

「そうだ」

「藍は?」

「元気だ。相変わらず香港にいるらしい。もうすっかり重鎮扱いされてるそうだ」

「なるほどなぁ。……明花、は」

「明花は……さすがにあそこまで有名になったら、わざわざ俺に確認しなくても知ってるだろ? 世界中から引っ張りだこのサファイアミン! 大女優さまだ!」


 あの明花が、と思うと愉快な気持ちになった。さよならの瞬間には、手の付けようがないほどわんわん泣いていたのに。今ではあの頃顔を突き合わせていた俳優たちの中でもいちばんの売れっ子になっている。


「逢坂、あんたは」

「ああ?」


 二式のひとり暮らしの部屋。リビングに通じる扉の前で、立ったままで逢坂は煙草を吸っている。


「あんたは、まだ黑幫ヤクザなんか?」

「さあ……どうだろうね」


 紫煙を燻らせながら、逢坂は静かに微笑む。


黑幫ヤクザってえのはさ、会社員や俳優と違って辞表を出してすぐ辞められるものでもないから」

「会社員や俳優を舐めんなよ。それにしても因果な商売やな」

「まったくだよ」

「逢坂」

「なんだ?」

「……もう来んなや」


 逢坂も、二式も、老いた。

 時の流れを否定するわけではない。生きていれば皆老いる。分かりきったことだ。

 だが、年を重ねた逢坂の顔を見るのは、嫌だった。

 生きられなかった者のことを思い出す羽目になる。

 母と父。それに、郭封鈴。


「まったく……いつまでも青臭いなぁ、葛原二式。今年で幾つだ? いつまでもガキみたいなこと言ってるなよ、俺が恥ずかしい」

「お褒めに預かりどうも」

「褒めてるように聞こえたのか? 重症だな」

「やかましい。……ええな。これでもう永遠にさようならや、逢坂一威」

「再見?」

「二度と会わんよ」


 煙草の煙だけを部屋に残し、逢坂は去った。

 テーブルの上に置かれた雑誌の表紙を手のひらで撫で、それから部屋の奥に置かれた仏壇を──血の繋がらない父、葛原十士郎くずはらじゅうしろうのモノクロ写真を見て、葛原二式は大きく息を吐く。


 明日から、また撮影だ。次の監督は二十二歳になったばかりの若い女性で、手書きの台本はものすごい癖字で読むのに難儀したが、ストーリーは悪くない。二式に与えられた役柄は悪役でも端役でもなく、……父親の役だ。

 父親も母親も知らず、これまでも、この先も、人の親になることなどない人生だというのに、映像の中では何にでもなることができる。人殺しも、壁の花も、小さな映画の主演も何もかもを演じた。この先もまた、きっと未知の世界を切り拓くような役が降ってくるだろう。葛原二式は映画俳優だ。


「……お父さん、か。お父さんな。役作りが大変やなぁ……」


 誰に聞かせるでもなく小さく呟きながらも、二式の顔には笑みが浮かんでいる。

 だから映画が好きなのだ。

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