第27話
──2024年。東京、新宿。
歌舞伎町に足を踏み入れてしばらく進んだ場所にある、地上三階、地下一階の雑居ビル。地上階の一階には歌舞伎町のいわゆる案内所、二階にはビリヤード・ダーツバー、三階にはキャバクラがそれぞれ店舗を構えている。地下階には喫茶店があり、営業中には案内所の目の前に『純喫茶カズイ』と書かれたスチール製の看板が出ている。店主の気が向いた日時にだけオープンし、それ以外の時間には静かに息を顰めている。wi-fiも飛んでいなければ、各座席にコンセントもない。カウンター席が四つに、丸テーブルと二つの椅子が二組置いてあるだけの小さな店だ。メニュー数も大して多くはない。ブレンド、アイスコーヒー、アイスティー、炭火珈琲にキリマンジャロとブルーマウンテン。ただしブルーマウンテンもこの店の営業日時と同じように、店主が「出してもいいかな」と言った時にしか出てこない。ケーキの種類は妙にある。チーズケーキ、アップルパイ、モンブランにショートケーキ、それからチョコレートブラウニー。時代に完全に逆らう格好で全席喫煙を謳っており、煙草を吸うためにわざわざ長い階段を降りて、地下階にあるせいでスマートフォンも碌にいじれない喫茶店にやってくる物好きな客もそれなりに多い。そういう客のおかげで、この店は成り立っていると言っても過言ではない。
今日はこの店で、取材が行われるのだという。
「おい。言っておくが、誰が来ても大したもてなしはできないぞ。ここはそういう店だ」
「分かってるって、おじいちゃん」
カウンター席に腰を下ろして一眼レフを触る青年、
カウンター内に立つ壮年──いや最早老年の男が、呆れた様子で白い眉を寄せる。
「分かってるならいいが……ああ、ブルーマウンテンも切らしてるからな!」
「そう言うと思って買ってきたよ〜」
「買ってくるなよ」
コーヒー豆が入った紙袋を押し付けられて、店主はうんざりした様子でため息を吐く。
「ったく……それで? おまえが自腹を切ってコーヒー豆を買ってまでもてなしたい客っていうのは誰なんだ?」
「それはね……あっ来た来た! ちょっと俺お迎え行ってくるね!」
電波の悪い地下店舗の中に、外からの連絡が奇跡的に入ったらしい。スマートフォンと一眼レフ、それにノートパソコンを放り出したままで店外に飛び出して行く孫の背中を見送り、店主は再びため息を吐いた。
手動コーヒーミルに豆を入れ、慣れた手付きで引き始める。匂いから察するに、孫は本当にブルーマウンテンを買ってきたようだ。経費で落ちるかどうかも分からない大きめの買い物である。そこまでしてもてなしたい客人とは、いったい何者なのか。
「おじいちゃーん! お待たせ!」
「ああ。そっちの椅子に座って待っててもらってくれ、コーヒーを……」
顔を上げずに応じる店主に、
「逢坂」
と呼びかける声があった。
コーヒーミルを見詰めていた店主──逢坂一威の両目が弾かれたように大きく開く。
「逢坂、一威」
おうさか、かずい、と。
その声は確かに読んだ。
訛りのある音だったが間違いなく、呼ばれていた。
ゆっくりと顔を上げる。口の端を楽しげに引き上げて微笑んでいる孫の顔を見る余裕はない。
「有好耐。你同黑幫一起倒閉了嗎?(久しぶりだ。ヤクザは廃業か?)」
背の高い男だった。逢坂よりも幾つか若い、見事な銀髪を綺麗に撫で付けた男が、丸テーブルの上につば広の黒いハットを置きながらじっと見詰めていた。
自分でも気付かないうちに、息を止めていた。
はあ、と大きくため息を吐いた瞬間、自身の顔に緊迫感とは正反対の締まりのない笑みが浮かぶのが分かった。
「
「佢而家稱自己為Leon魈(今はレオン
「明喇. ……你由台灣到日本有咩業務要做?(なるほど。……台湾からわざわざ、何の用事があって日本に?)」
「じいちゃん。日本語にしてよ、俺分かんないよ広東語」
くちびるを尖らせる孫・響野に、長身の
「わーっ、助かります! ええっと、ホウフンさんの妹さんの……」
「娘です」
「……別に俺は、通訳がなくても、ある程度の日本語は」
「うわ!」
「えーっ! 日本語大丈夫なんですか?」
「幾らかは」
「すごいすごい。日本で映画に出る予定があるとか?」
「……この年齢になって、もう、それは」
ゆっくりと椅子に腰を下ろしながら、
「──実は近いうちに台湾で、自伝を出す予定があってな」
「何? 自伝? 本を出すっていうのか」
「その通り。俺ももう若くはない。だから遺書でも書こうかとマネジメントを担当している人間に相談をしたら、身内に向けた遺書を残すのも悪くはないが、せっかくだから書籍にしようと出版社の人間から声をかけられて」
「……もの好きな人間もいるものだ」
レオン
そんなものを世に出そうと提案する出版社の人間は、間違いなく知っている。
1972年に起きた事件、
「おまえさん、何をどこまで書くつもりなんだ? 場合によってはただの遺書じゃ済まなくなるぞ」
「そう、俺自身それを迷っていてね。何せ……ここまで生き残ってしまった俺の周りは信じ難いほどにややこしい」
コーヒーカップをくちびるに当てながら、
「
「俺という人間の──人間と言い切ってしまっては大仰か。俺という俳優の人生は、良くも悪くもあの会社から始まった。それは間違いじゃないだろう? 逢坂」
「それは……まあ、その通りかもしれんな」
「だが、俳優・
「どういう意味だ?
尋ねる逢坂に「まさか」と
「
「なるほどね……
「そこで逢坂、あんたに訊きたいことがある」
「俺への質問があるなら、そこにいる孫にメールでも電話でも寄越せば良かったろう。何も、遠路はるばる日本にまで来なくても」
「別にあんたの孫を疑うわけじゃあないが、──本当のことをすべて知っているという保証はないだろう?」
だがそれを、今
紫煙を吐きながら、
「端的に尋ねる。葛原十士郎とは何者だったのか」
「……それを確かめるために、日本に?」
「ああ」
「なんだそりゃあ。おまえ。このど阿呆が」
肩の力が抜ける。全身が大きな疲労に包まれる。
葛原十士郎。
「
「ああ」
「
「ほう?」
話の先が見える。だが敢えて、逢坂は余計な口を挟まない。
「俺は実際に警察病院に足を運んでいない。早々に活動拠点も台湾に移したしな。だからこれは、完全に他人から聞いた話ではあるが……1972年の逮捕当時から、彼女とは会話が成立しなくなっているらしく」
「……なるほど」
「ただ──
銀色の灰皿に吸い殻をねじ込みながら、
「葛原。俺の知る葛原と同じ苗字の男。そいつが紅花姐姐……
「
「……」
「俺に──言えることがあるとしたら」
根負けしたのは、逢坂の方だった。
「葛原十士郎。アレは
「香港進出の際に
「台湾でも有名だ」
「映画好きな人間ならだいたい知っている話かもしれないな。その際、
「彼は
「俺にも分からない。俺はあの頃、大阪の東條組ってところに縁があってね。葛原二式が香港に送られるという情報を得た東條組から、一緒に行って確かめてくるよう指示を受けたんだ」
「確かめる? 何を?」
「葛原十士郎がいったいなぜ、
「……」
天井を見上げた
「そう──か。葛原十士郎は確かに
「謎解きを行なったのは俺じゃない、
「阿二」
「阿二は、気の毒な男だったのか? 母を失い、父親は……
「分からん。二式が幸せだったか、不幸せだったか。それは俺や、
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