第28話
人生の何が幸せで、何が不幸せなのか。
基準は存在しない。それに、誰にも決めることはできない。自分自身にしか。
この世に生まれ落ちた瞬間に自分の手に握っていた定規でしか、幸福と不幸、それぞれを測ることなどできるはずがない。
葛原二式は幸せだったのか。不幸せだったのか。
葛原十士郎はどうか。
空っぽになったコーヒーカップをぼんやりと眺めながら、
「阿二は」
「帰国後……この国で、俳優の仕事を続けたのか?」
「ああ」
逢坂が頷く。
「映画に……映画にしか出たがらなくて、所属していた映画製作会社も辞めちまってな。昔からそうだったが、本当に頑固な野郎だ。テレビに出ていることも稀にあるが、本当にあの男は映画が好きで」
「そうか。俺は、台湾でテレビドラマの常連だ。まあ、映画の仕事もあればもちろん受けるが」
「二式は本当に、もう何年も会ってないが厄介な男だ。どこかの事務所に所属したところで持て余されるのがオチだろうし」
「分かる気がする。……あの性格は、母親に似たんだろう」
「父親? 父親はアベル──」
と言い掛けた
「葛原十士郎。何者でもない男。
「何者でもない、というのは、何者にでもなれるってことだ。そういう意味では、あいつは強い。この国の映画が傾こうが落ち目になろうが、馬鹿みたいに食らい付いていく。葛原二式の墓に墓碑銘を刻むとしたら、『映画俳優』だろうな」
「なるほど、悪くはない。逢坂──畀我杯咖啡(コーヒーをくれ)」
はいよ、と応じた逢坂がカウンターの上に新しいコーヒーカップを置く。慌てて立ち上がった響野が丸テーブルに置かれた空になったコーヒーカップを回収し、良い香りを漂わせる橙色のコーヒーカップを
逢坂には分からない。逢坂にも、
「……聞きたいことは今話したことで全部か? 後からもっと聞きたかったとか言われても何も出てこないぞ?」
「ああ。そうだな。そうだと思う。自伝の執筆にも、問題はないだろう」
「台湾にはいつ戻る? 自伝が出たら一冊送れよ、サインが入ってるやつ」
「帰国は──明日か、明後日だ。逢坂。本当のことを言うと、おまえにこんなにすぐ会えるとは思っていなかった。引退した
「そうかよ。おまえにも俺にも幸運なことだが、俺はおそらく、くたばるまでこの店にいる。とっくに
「そうか、良いことだ。とても。……誰もがこうして、穏やかに人生の終わりに向けて歩いて行ければ良いのにな。もう、映像の世界以外での苦しみには辟易している」
──その瞬間。
純喫茶カズイの防弾ガラスで作られた扉に備え付けられているドアベルが、カラカラと爽やかに鳴った。
来客の合図だ。
「えっ……あ──……!!」
入り口が良く見える位置に座っていた逢坂の孫、響野憲造が、両方の眼球が落下しそうなほどに大きく目を見開く。
響野の視線の先には小柄な男が立っている。
シナモンのような色合いのトレンチコートに痩躯を包み、片手には立派な杖を引っ提げている。だが良く見ると、その杖がただの杖ではなく、ひどく古びた、しかし頑丈な木の棒に手を加えて丁寧に制作された杖だということが分かる。小柄な男が全体重を預けても、杖は折れそうにない。
禿頭にちょこんと乗せていた年季の入った帽子を杖を持っていない方の手で下ろし、「你好(やあ)」とその男──小柄な老人が言った。
「我聽講有一位唔尋常嘅客要嚟。(珍しい客が来とるって話を聞きつけてな)」
「僕の広東語、ちゃんと伝わっとるか? ……徜徉春天徜徉好可怕。(……『春』はおっかない)」
「五十年之後,我仍然知道我喺邊度工作(五十年が過ぎても、僕がどこでどういう仕事をしとんのかをすぐに突き止めてくる)」
今日の撮影現場から、真っ直ぐに駆け付けてきたのだろう。彼は真面目な映画俳優だから、仕事をすっぽかしてまでこの場に足を運んだりはしない。
ベテラン俳優・
「まさかそっちから会いにくるなんて夢にも思わんかったで、阿空」
「長い話を、しようやないか」
了
鬼鬼銀幕1972 大塚 @bnnnnnz
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