第25話

 香港から、映画の火は消えなかった。


 葛原二式が香港を尋ねた1972年──その翌年。かつて姚神狐ヤオシャンフー有限公司の本社ビル及びEGG STUDIOと呼ばれた建物があった場所から少し離れた土地に、二階建ての撮影スタジオが建った。二階建て、と言いつつも一階に手狭な撮影所がひとつ、二階には更に小さな第二撮影所と事務所があるだけという簡素な作りで、その建物を管理しているのは『罗伯特ロバート多米尼克ドミニク(R&D)電影製作公司』という名の新しい会社であった。

 社長は以前姚神狐ヤオシャンフー有限公司で監督として活動していたロバートチャン。副社長は彼の腹心の部下であり、助監督を担当していたドミニクチョイだ。しかしロバート、ドミニク両名は映画製作には長けていたものの金勘定には限りなく疎いため、会社の実質的な金庫番を勤めているのはそれぞれの配偶者である女性たちだった。


 ロバートは自身の映画に出演経験がある俳優たちを中心に新しい会社への勧誘を行い、ドミニクはスタッフたちへの声掛けをして回った。その結果、以前姚神狐ヤオシャンフー有限公司で仕事をしていた俳優・スタッフのうち三分の一程度が新会社に所属することになった。李藍レイ・ラン馮情フェン・チン明花ミン・ファも『罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司』のメンバーとなった。


 ロバート、ドミニクの誘いを断った者も、少なからずいた。特に年嵩のスタッフ、俳優が多かった。

 二十年以上前に香港に乗り込んできた一族、姚神狐ヤオシャンフー有限公司に徹底的に潰されたはずの映画製作会社たちが、静かに蘇り始めたのだ。ロバートらの誘いを断った者たちは、古巣へ帰ろうとしていた。

 新会社、『罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司』には確かにロバート陳、ドミニク徐をはじめとする有名監督と、映画雑誌のカラー表紙になるような人気俳優たちが多く所属している。けれど、


「ロバートには申し訳ないけど、こっちにもこっちの義理がある」


 そう言い置いて違う道を選んだ者を、陳監督、それに徐助監督は止めも責めもしなかった。姚神狐ヤオシャンフー有限公司はやり過ぎた。最初からこうやって、一対一で、実力で勝負するべきだったのだ。


「いいだろう、これからは正々堂々と売上で勝負だ」


 最後の挨拶をしに来た様々な年齢、性別の俳優、スタッフたちと握手を交わしながら、陳監督は笑った。しかし、『罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司』が正式に活動を始めてから数年後、香港映画界そのものは低迷期を迎える。『罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司』はもちろん他映画製作会社もテレビ番組を意識したコメディ作品に路線変更を余儀なくされ、これまで積み上げてきた武侠路線から不本意ながら手を離す羽目になる。陳、徐両監督は武侠路線を得意としていたため自動的に各々の配偶者と共に『罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司』の経営者側に周り、彼らが育てた助手や助監督たちが映画館用の作品と、テレビ番組への参入を目指す明るく軽やかな作品を製作するようになる。現在、ロバート陳、ドミニク徐はそれぞれの配偶者も含めて既に亡くなっているが『罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司』は社名を変更し、香港の映像業界に深く根を張っている。


 さて──映画監督たちが新しい会社を立ち上げ、『銀幕』を守るために奔走する一方で、俳優業を廃業する者もいた。魈皓空シウ・ホウフン明花ミン・ファ兄妹の実母である俳優・薇夢メイ・モンもそのひとりだった。薇夢メイ・モンはロバート陳、ドミニク徐の誘いを静かに断り、


「私はもう、表舞台には立ちません」


 と言い切った。陳、徐は彼女の決断を尊重した。たとえ実の息子、娘であっても薇夢メイ・モンの心を動かすことはできなかっただろう。


 薇夢メイ・モンの配偶者であり、子どもたちの父親である映画監督──呉浩然ン・ハオラン。彼は姚神狐ヤオシャンフー有限公司を巡る事件が発覚して一年以上が経過した現在も、警察署に身柄を拘束されていた。呉浩然ン・ハオランもまた、アベルチャン三会會Triadのメンバー、それに当時の社長・姫新帆キ・シンファンとともに犯罪行為に手を染めていたのだ。ポルノフィルム、スナッフフィルムのほとんどすべてを呉浩然ン・ハオランが撮影していた。暴露したのはもちろん、アダム張だ。


「誰ひとりとして逃がさないよ」


 取り調べ室で警察官と向かい合いながら、アベル張はそう言って薄っすらと笑った。取り調べ室内でのやり取りは本来ならば外に出してはいけないものなのだが、アベル張に関してだけは話が別だった。会社を失い、立場を失い、映画俳優をしてのキャリアを失い──それでもアベル張は自らの『キング』という二つ名に執着し続けた。噂によると、自らの取り調べの記録を外部に流出させてほしい、と大金を積んで要求したという話だった。


「罪は罪。重さも軽さも関係ない。妻子があるから? 撮影をしただけだから? そんな理由で彼にだけ逃げ切ってもらうわけにはいかないのさ」


 夫の罪を知った薇夢メイ・モンはすぐに離縁を要求したが、未だ呉浩然ン・ハオランからの応えはない。彼が生きているのか死んでいるのかさえ、薇夢メイ・モンには分からない。一族、アベルチャンの共犯として身柄を拘束されてすぐ、呉浩然ン・ハオランは行方不明になっていた。21世紀に入った現在も尚、生死不明の状態である。


「あんな男が足元に纏わりついている状態で、堂々と映画に出演するなんて……烏滸がましいったらない。恥ずかしくて死んでしまいたいとすら思う」


 ため息と共に吐き捨てた薇夢メイ・モンに、ロバート陳は眉を下げて頷いた。


「薇女士がそう決めているなら、無理強いはできない」

「ええ。私のことはもう忘れて、陳先生。代わりに」


 娘を。

 薇夢メイ・モンは自らとその配偶者への絶望の色を滲ませつつも、華やかに笑って言った。


明花ミン・ファは私よりもずっと遠くに飛ぶことができる俳優です。どこまででも、連れて行ってやってください」


 母の願いを背に呉玥ン・ユエこと明花ミン・ファは、罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司の看板俳優として売れに売れた。恋愛映画から華麗な体術を駆使して悪漢たちを倒していく女傑物、時代劇から現代を舞台にした爽やかなミュージカル作品に至るまで、明花ミン・ファが主演した作品は公開される度に大ヒットを飛ばした。罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司が『東洋のハリウッド』という二つ名を背負うことはなかったが、明花ミン・ファが主演した作品の幾つかは欧州やアメリカでも上映された。彼女はテレビドラマやコメディ作品にも好んで出演し、文字通り、罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司の救いの女神として君臨した。明花ミン・ファは主に英語圏でサファイアミンとして人気を博し、三十代半ばで罗伯特&多米尼克(R&D)電影製作公司と円満に専属俳優としての契約を終え、活動拠点をカナダに移した。母の薇夢メイ・モンとともに移住を完了させた明花ミン・ファ──サファイアミンは多くの男性俳優や一般人と浮名を流したが、一度も結婚はしなかった。どの男たちも「サファイアが真に愛したのは自分だ」と言い張ったが、サファイアミンはうっとりと魅力的な笑みを浮かべるだけで、誰を愛しているとも、愛していないとも、口にはしなかった。そんな秘密主義な面が、彼女の魅力を更に掻き立てた。そして──2024年現在も世界各地で俳優業を続けているサファイアミンの傍らには彼女が養子として迎えた女性の姿が常にある。親を亡くした日本人の少女を養子にしたという噂がまことしやかに流れているが──本当のことは、誰も知らない。


 魈皓空シウ・ホウフンは母・薇夢メイ・モンとも、妹・明花ミン・ファとも異なる道を選んだ。香港を出たのだ。


 彼が向かったのは台湾だった。1970年代の台湾は、かつての香港のように映画製作業が盛り上がりつつあった。全盛期といえる時期を迎えるのは1980年代後半〜1990年代にかけてのことなのだが、とにかく、1970年代はその準備期間と称しても間違いではない時期だった。


 魈皓空シウ・ホウフンを台湾に招いたのは、三会會Triadの人間だという噂がある。サファイアミンの養子に纏わる噂と同様、誰も本当のことを知らない、文字通りの風聞でしかない。しかし実際に、魈皓空シウ・ホウフンは長く暮らした香港を去るという決断をし、たったひとりで新天地・台湾に降り立った。

 町中に幾つもの映画館があり、常に大勢の観客が薄暗がりの中で目を輝かせている。そんな台湾を、魈皓空シウ・ホウフンはすぐに気に入った。持ち前の頭の回転の速さで言葉を覚え、香港にいた頃の不良っぽさを捨てて『台湾の哥哥お兄さん』になることができるよう尽力した。

 海の向こうでは美男俳優として李藍レイ・ランが、憎み切れない悪党役として馮情フェン・チンが、そして銀幕に鮮やかに咲く花として実妹の明花ミン・ファが結果を出している。

 ロバートチャン、ドミニクチョイ両監督の誘いを断って台湾行きを選んだのは魈皓空シウ・ホウフン自身なのだ。香港に残った者たちに恥じない結果を、必ず出す。その想いひとつで、送られてくる台本すべてを読み、いつの間にか隣に立っていた台湾人のマネージャーを通して次々に仕事を引き受けた。


 数年後、1980年代初めの頃には台湾映画自体がひどく低迷した。魈皓空シウ・ホウフンの故郷である香港映画が支持を集めるようになり、国内産の作品から観客が離れた。だが、その低迷期を打ち破るために動き始めたのが台湾政府だった。若手監督を発掘し、採算度外視の芸術性の高い作品を幾つも打ち出した。三十代半ばになった魈皓空シウ・ホウフンも熱心に新作に出演した。香港にいた頃から使っていた魈皓空シウ・ホウフンという芸名も捨て、レオンシャオという新しい名前を使って仕事に打ち込んだ。

 元々使っていた広東語、勉強して覚えた北京語、英語に加えて、台湾語も流暢に喋ることができるようになった。映像作品に台湾語を使うことは長く禁じられていたが、その禁を破る映画監督たちの意欲的な作品の中に、レオンシャオの姿が常にあった。


 台湾ニューシネマを盛り上げた俳優・レオンシャオが嘗て東洋のハリウッドと呼ばれた姚神狐ヤオシャンフー有限公司に所属していた俳優・魈皓空シウ・ホウフンであるということを、彼が見た地獄を、鬼を、大勢の非業の死を、多くの映画関係者、そして観客たちは知らないし、知ることもない。レオンシャオもまた、自らの過去を進んで語ろうとはしない。

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