第24話

 姚神狐ヤオシャンフー有限公司の経営者たち、所属する人気俳優が関わった幾つもの事件が一気に表面化した。姿を消した情報屋・春天の最後の置き土産がきっかけとなり、調整したのは三会會Triadラムと、彼と通じている警察署の面々、特に警視正を含む高い立場にいる者たちだった。会社そのものを一気に破壊するのは容易い。だがそれを行うと、『映画』という娯楽の頂点に君臨するものを作り続けてる会社の巨大スキャンダルの余波を受けて、香港全体がどう動くか分からない。『東洋のハリウッド』という通称で人気を集めているのは姚神狐ヤオシャンフー有限公司だが、映画作りには製作会社以外にも色々な人間、企業が参加している。ひと息に姚神狐ヤオシャンフー有限公司を叩き潰した日には、経済的なダメージも大きいだろう。そこで三会會Triadと警察たちは、ゆっくりと、姚神狐ヤオシャンフー有限公司の分厚い面の皮を削り落とすようにして、彼らの犯した犯罪をメディアを通して世間に知らしめるというやり方を選んだ。もっとも残酷な方法ではあったが、誰にも迷いはなかった。特に三会會Triadの面々は、良い金蔓としか思っていなかった姚神狐ヤオシャンフー有限公司の関係者が犯した罪により三会會Triad存在に世間の目が向くことを酷く嫌った。まるで八つ当たりのように、姚神狐ヤオシャンフー有限公司の罪は暴かれた。


 姚神狐ヤオシャンフー有限公司のキングとして世間から絶大な指示を集めていたアダムチャンは、多くの女性俳優に対する性的な加害行為、及び殺人に手を染めていたという報道にていの一番に血祭りに上げられた。姚神狐ヤオシャンフー有限公司をきっちりと傾けるためには、インパクトのある罪人が必要だった。誰がアダム張を手始めに告発しようと提案したのかを、少なくとも葛原二式は知らない。アダム張が逮捕されたというニュースは、日本に帰国した瞬間二式の知るところとなった。姚神狐ヤオシャンフー有限公司は、二式が所属する陽光映画製作株式会社以外の映画製作会社とも繋がりを持っていたが、姫麗キ・リーの社長室で語られた通りアダム張本人は日本国への出禁を喰らっていたし、それならば逆転の発想でとばかりに大々的に日本から俳優を招いて香港で映画製作を試みたのは今回の──葛原二式の招聘が初めてだった。新聞記事には当然、葛原二式の名前も躍った。海を渡って香港まで行ったものの、結局ワンシーンのリテイクを十回行っただけで終わった俳優。……などという細かな情報は新聞記者たちの知る由もなかったが、多くのメディアが二式の自宅に押しかけ、香港で何か悪いものを見なかったか、アダム張の犯罪行為を実際に目撃したのではないかと、楽しげに、好奇心を隠そうともせず、まるで祭りのような騒々しさで問い掛けた。


「何度も言いますけどね、僕は、何も、知らん」


 陽光映画製作株式会社に所属するマネージャー──広東語も英語も喋れないため、今回の香港行きには同行しなかった山田という男性──がマイクを手に押し寄せる記者たちを追い払うのを横目に見ながら、二式は唸るように言った。


「ああいう事件が起きとったのは残念なことやと思うし、被害者の人たちはかわいそうや。せやけど僕は、香港では嫌な目ぇには遭わされんかったし、友だちもできた。いつか、……今回の件で姚神狐ヤオシャンフー有限公司という会社はなくなると思うし、なくなった方が世界のためやと思いますけど、香港の人たちは映画を作るのを諦めへんやろ。ちゃんとした人たちがちゃんとした映画を作ることが、亡くなった大勢の人たちへのいちばんの供養になると思う。そうなった時に、また、僕は香港に行きたいと思ってる」


 そのような言葉を長々と口にしたのに、新聞に載ったのは「若きスタア・葛原二式は怪我ひとつなく無事に帰国」というシンプルすぎる一行だけだった。陽光映画製作株式会社から貸し与えられている自室で新聞に目を通した二式はため息を吐き、さっさと新聞そのものを焼き払った。嘘を書かれるぐらいなら、単純に適当な情報を載せられる方がずっといい。これで良かったのだと思った。


 二式が陽光映画製作株式会社に復帰し、一日数カ所の撮影所を掛け持ちするという日常に戻った頃、姚神狐ヤオシャンフー有限公司の社長・姫麗キ・リーと、その兄で前社長の姫新帆キ・シンファンが逮捕された。アダム張の逮捕後、彼に続くようにして性暴力、傷害、殺人、その他多くの罪に問われて身柄を拘束された数名の姚神狐ヤオシャンフー有限公司に所属していた俳優やスタッフが、遂に口を割ったのだ。兄妹は警察に身柄を拘束された俳優、スタッフのために何もしようとはしなかった。救いの手を差し伸べることもなく、進んで彼らに罪を擦り付けることもなく、ただ沈黙していた。黙りこくっていれば嵐が去るとでも思い込んでいたのだろうか。逮捕、拘束された姚神狐ヤオシャンフー有限公司の関係者たちが一族を、兄妹を見限るのも当然のことだった。大勢の人間たちが兄妹の罪について口を開いたが、起爆剤となったのは、姚神狐ヤオシャンフー有限公司の裸の王様と化したアダム張が「兄妹が姚神狐ヤオシャンフー有限公司に所属する俳優を、それが男でも女でもいつでも好きなように扱って良いと言った」と証言したことだった。アダム張の言葉によって兄妹を取り巻く状況が完全に変わった。王と持て囃された嘗ての美男俳優、現在は渋さを売りにしたベテラン俳優として圧倒的な人気を集めたアダム張による容赦のない、ほとんど自爆を覚悟したかのような告発に、様々な罪に問われていた他の俳優、スタッフが次々に口を開いた。


 兄妹も、アダム張らと同じ罪に問われることとなる。殺人教唆、所属俳優への売春強要、それに性的暴行を記録した映像フィルムの販売──


 姚神狐ヤオシャンフー有限公司の社長は映画に対して熱心で、完成した作品のフィルムであっても自分の目で確認して納得のいかない仕上がりであった場合は容赦無く焼き払ってしまう、という噂があった。大嘘だった。兄妹のうち、前社長に当たる姫新帆キ・シンファンは自社の映画監督、それにキャメラマンを抱き込んで、ポルノフィルムを製作していた。二式と逢坂が最後に乗り込んだあの社長室。テーブルと椅子と書棚しかない真っ白い部屋。壁一面を埋め尽くしていた空っぽの書棚の一箇所に隠し扉があって、その中に大量のポルノ──性暴力のみならず弄ばれ尽くした女性を始末する殺人シーンが撮られているものもあったというから、スナッフフィルムと称しても誤りではない代物を含む記録映像が発見された。……逢坂の言によれば、「あの書棚の裏が怪しい」と言い出したのは三会會のラムらしい。


「野郎、社長室になんか入ったこともないくせにな」

「それってつまり……あんたが伝えたってことか? 逢坂」

「そうは言ってねえよ」


 斯くして、東洋のハリウッドこと姚神狐ヤオシャンフー有限公司は完全に斜陽の時を迎える。殺人者にして強姦魔のアダム張は公開予定の多くの新作に出演していたが、そのすべてが中止に追い込まれる。EGG STUDIOの壁には以前二式と、そして父親である葛原十士郎に向けて書かれていた言葉、『禁止狗、貓或葛原二式』『禁止狗、貓或葛原十士郎』を模した──『禁止狗、貓或殺人犯』という落書きが、壁の色が見えなくなるほどに書かれているという。


「このまま香港から、映画は消える?」


 その夜、葛原二式と逢坂一威は京都、祇園にいた。陽光映画製作株式会社の社長と、大阪に本拠地を構える暴力団・東條会会長の会席にそれぞれ同行するよう命じられたのだ。座敷で楽しげに酒を飲む上司たちを他所に、二式と逢坂は別室で煙草を咥えていた。二式が望んだ再会ではなかった。だが、社長に強引に引きずってこられたのだ。「おまえ、香港で東條の若いのに世話になったんやろ」──という言葉とともに。

 世話になったというよりは、主に迷惑をかけられていた、と二式は思っている。


「あれ? そういえば二式おまえ、煙草」

「僕やって変わるで、多少はな」

「煙草は……良い変化だとは思えないけどな」


 逢坂の苦笑いを無視して、二式は吐き出す紫煙で輪を作る。煙草も酒もろくにやらない、綺麗で気難しい若造、というのがこれまでの陽光映画製作株式会社内での葛原二式への評価だった。だが、この先は違う。母の死を、父の呪いを正面から受け止めて、生まれ変わらなくてはならない。


「消えないだろうよ、映画は──そりゃ確かに姚神狐ヤオシャンフーは東洋のハリウッドとして有名で人気があったが、考え方を変えてみろよ。ほら、アメリカには本物のハリウッドがある。ヨーロッパを見てみろ。イギリスでも、フランスでも、ドイツでもイタリアでも……映画を作ってるのは香港の姚神狐ヤオシャンフーだけだなんて誰が決めた? 香港の映画界は、すぐに立ち直る」


 座布団の上にあぐらをかき、ガラス製の灰皿に煙草をねじ込みながら逢坂が言った。黙って紙巻きを咥える二式を横目で見る逢坂は、徳利を持ち上げ、手元の猪口に手酌で酒を注ぎながら彼は続ける。


「今隣の部屋で舞妓と遊びまくってるおまえの会社の社長だって、当分引退はしないだろ? あんなに元気じゃ病気で死ぬってこともなさそうだし」

「ああまあ……そらそやな。音原兄さんが社長のお嬢さんと結婚して、後を継ぐって話もあるし」


 音原純彦おとはら・すみひこというのは陽光映画製作株式会社の若手No. 1人気俳優の名前である。現在、陽映の社長令嬢にして女性俳優としても活躍している若宮華織わかみや・かおるとの熱愛が日本中から注目を浴びている人物だ。


「ああ、あん? なんだ……あの熱愛報道は本当だったのか」

「なんやその言い方。わざわざ嘘言う意味がないやろ」

「今度また新しい映画公開するじゃないか、でさ。だからその宣伝のために、恋人ごっこをメディアに流しているのかと……」

「逢坂、あんた、ほんまにどうしょもないな。そうやって何もかもを疑ってるうちに黑幫ヤクザになってもたんか? それとも、黑幫ヤクザっていうんは人を疑うのが仕事なんか?」

「さあな。どっちでもあるし、どっちでもないよ」


 逢坂の気のない応えを耳にしながら、二式は新しい煙草に火を点ける。


 魈皓空シウ・ホウフンのことを考える。


 姚神狐ヤオシャンフー有限公司がなくなったら、彼や、彼の妹、それに家族はどうなるのだろう。根っからの俳優、映画人の一族だ。今更他の仕事を選ぶとは思えない。


(いっそ、日本に招いて──)


 いや、そんなのは夢物語だ。

 葛原二式は、葛原二式たったひとりを食わせていくのが精一杯の俳優で。

 そんな葛原二式に、魈皓空シウ・ホウフンをはじめとする人間四人を背負うことなんて、天地がひっくり返ってもできるはずがなくて。


 姚神狐ヤオシャンフー有限公司の悪行や、一族のスキャンダルは定期的に日本でも報道される。だがその中に、あの短い日々を共に過ごした俳優、スタッフ──魈皓空シウ・ホウフン李藍レイ・ラン馮情フェン・チン明花ミン・ファの名前はない。亡くなった郭封鈴カク・フーリンに触れる文章など、一行たりとも存在しない。

 メディア相手にはああ啖呵を切ったが、自分は二度と香港には行けない──戻れないのではないかと思うことがある。葛原二式は日本人ではない。かといって、香港の人間でもない。半端者。まったくもってその通りだ。


 葛原二式とは、いったい何者なのか。


 その謎が解ける日は、未来永劫こない気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る