第4話

 二式と逢坂は、陳監督の助手だという男性によって出演者控室へと案内された。


「あ、おはよう!」


 成人男性十人が入室したとしてもまだ余裕がありそうな広い部屋には李藍レイ・ラン馮情フェン・チンのふたりがおり、馮情は濃いアイメイクを落としているところ、李藍は自身の定位置と思しき椅子に浅く腰掛けて紙巻き煙草を咥えていた。


「早晨,我講嘅係(おはようございます、と言ってます)」

「等我哋唔好再咁玩咗,哥哥(そういう遊びはやめようよ、兄さん)」


 灰皿に紙巻きを押し込みながら、藍は悪戯っぽく目を細める。ようやくメイクを落とし終えたらしい情が、


「本当は言葉が分かっているのに黙っていたなんて……」

「いや、悪気はなかったんよ、情さん」

「嘘を吐くのは良くない」

「あ〜……せやからそれは誤解でぇ……」


 藍に較べると、情はだいぶ生真面目な性質をしているようだ。顔を顰めて唸る情の背中を「まあまあ」と言いながら藍が楽しげに叩いている。


「言い訳を聞かせてもらおうよ。なんで喋れないふりしてたの?」

「それは……逢坂さん」

「自分で全部できてしまうと、私ではない違うマネージャーを付けられる可能性があったからです」


 空いている椅子にちゃっかり腰を下ろし、藍に倣って煙草を咥えながら逢坂は言った。「どういう意味?」と藍がくるりと目を回す。


「私は陽光映画製作株式会社に所属している人間ではない」

「うん? つまり?」

「二式さんが所属している陽映──陽光映画製作株式会社には広東語に堪能なマネージャーがいなかったんです。そこで、今回の仕事を引き受けるに当たって、外部の人間である私が雇われた」

「へえ。どれぐらいの値段で雇われたの? 哥哥兄さんは高そうだ」

「そこまでじゃないですよ。こう見えて一般人ですからね。俳優の出演料よりはよほど安い」


 紫煙をもくもくと焚きながら笑い合う藍と逢坂とは対照的に、情は未だにむっつりとした顔を崩さずにいる。「情さん」とすぐ傍らの席に腰を下ろしながら二式は上目遣いに情の端正な顔を見上げる。


「勘弁してくださいよ。僕かて嘘を言いたかったわけやない」

「だが……」

「それに! 昨日! あの騒ぎの中、逢坂さんがおらんかったらえらいことになってたでしょう? 逢坂さんを連れてきた意味、あったと思いません?」

「……」

「……」


 沈黙したのは情だけではなかった。逢坂相手に楽しげに軽口を叩いていた藍までもが、聞いてはいけない言葉を耳にしたような顔で口を噤んでしまう。

 逢坂と二式は一瞬視線を交わし、


「ちょっと便所に……」

「あ、僕も行こうと思うてたのに」

「じゃあ先行けよ。便所どこにある?」

「あ〜、廊下に出て左、真っ直ぐ行って突き当たり」

「背書(分かった)」


 本当に喋れるんだな! という藍の大声を背中に受けながら、二式は控室を出た。長い廊下を左に真っ直ぐ、真っ直ぐ──


「っと!」

「……!」


 藍の言葉通り、そこには確かに便所があった。中からのっそりと姿を現したのは、昨晩最悪な形で顔合わせをすることになった男、


阿空アーフン

「……日文(日本人)」


 唸るように、阿空アーフンこと皓空ホウフンが言った。何かの撮影の途中なのだろうか。不自然なほどに白い中国服に血を模したものであろう赤い液体が飛び散っている。黒髪をぴしりと後ろに撫で付けた皓空ホウフンは、いかにも嫌そうな顔で二式を避けて便所を去ろうとする。


「ちょい待ち。あんたのこと探しとったんや」

「日本人が、なぜ俺を……おまえ、言葉が分かるのか?」


 重い瞼を持ち上げて大きく目を見開く皓空ホウフンに、二式はにやりと笑って見せる。相手の興味を少しでも惹くことができれば、勝機もゼロではないと言えた。


 皓空ホウフンと二式は、連れ立って撮影所の外に出た。長身の皓空ホウフンに先導されるがままに辿り着いたのは、ドラム缶が幾つも置かれただだっ広い空き地だった。いや、空き地というより、ここは。


「休憩所だ」

「撮影所ん中にもあったやん」

「あそこは飯を食う場所だ。こっちでは煙草を吸う」

「あ、僕煙草苦手やねん」

「知ったことか」


 中国服の袖の中に手を突っ込んだ皓空ホウフンが煙草の箱を取り出し、紙巻きを咥え、燐寸で火を点ける。椅子代わりにされているのであろう錆びたドラム缶の上にどっかと腰を下ろした皓空ホウフンを、休憩時間を消費していたのであろうスタッフと思しき男たちが遠巻きに見詰めている。


「座れよ」

「これ、何の缶?」

「どうでもいいだろ」

「油とかやったら嫌やなぁ。火ぃが落ちでもしたら大惨事や」

「いいから座れ!」


 怒鳴りつける皓空ホウフンを眇めた目で見詰め、二式は小さく息を吐く。


「あんた、日本人が嫌いなんやな」

「好きなやつなんていねえだろ」

「ロバートは僕のこと好きみたいやったけど」

「そりゃてめえのツラだ、ツラ」

「顔?」

チャン先生は面食いでね。あの人の映画にはツラのいい男と女しか出てこない」

「はー、なるほど。じゃあ僕は、試験に合格したってことやな」

「日本から来た俳優が碌でもないツラをしてたら追い返すって豪語してやがった」

「僕は……こう見えて化粧で化けるからねぇ」

「知ってる」


 汚れた水が張られた灰皿に紙巻きを放り込みながら、皓空ホウフンが唸った。


「俺も見た。なんだてめえ、全然顔が違うじゃねえか?」

「あ、僕の映画見てくれたん? 光栄やなぁ」

「見せられたんだよ、無理やりな。わざわざ日本からフィルムを取り寄せて……『暗黒街のおとめ冥界處女』とかいう映画」

「おお〜」


 皓空ホウフンは心底嫌そうだったが、二式としては悪い気はしなかった。『暗黒街のおとめ』は二式がこれまで出演した作品の中でも変わり種で、これまで所謂侍の役しか演じたことがなかった二式が初めて現代劇に挑戦したタイトルである。葛原二式は見目麗しく儚く散る侍の役だけではなく、腹に黒いものを抱えた殺し屋の役も演じることができる将来が期待できる俳優だと、普段は辛口の評論しか寄越さない文筆家連中からもベタ褒めの言葉を引き出すことができた。


「で、阿空アーフンはどない思たん。おもろかったやろ、『暗黒街のおとめ』」

「……俺はな」


 新しい紙巻きを片手に、皓空ホウフンが二式を睨み付ける。


「てめえと共演するんだよ、今回の撮影で」

「ええ? そうなん?」

「台本読んでねえのか」

「読んだけど……ランさんやないん、相手役」

「藍じゃ役不足だ」


 昨晩はすぐに眠ってしまったから、ホテルに置いてあった台本はパラパラと見た程度だ。朝も、例の──『禁止狗、貓或葛原二式』(犬、猫、葛原二式お断り)という文字がホテルの壁に大きく書かれていたという騒動のせいでゆっくり朝食を摂ることなどできず、迎えに来てくれたチャウ・ジョンに連れて行かれた喫茶店では飯を食ったり喋ったりするのが最優先で、逢坂が手直ししてくれた日本語版の台本にようやく目を通したのは喫茶店からEGG STUDIOに移動するクルマの中でのことだった。


 撮影予定の新作のストーリーは、実にシンプルだ。舞台は戦後すぐの中国大陸。皓空ホウフンは街でも有名な豪傑で、妹であり、街一番の美女と名高い明花ミン・ファを過剰なほどに溺愛している。そこに、流れ者の葛原二式が現れる。二式は日本刀を引っ提げており、いかにも日本人という佇まいから街の人間たちには警戒されるものの、その人柄の良さからすぐに受け入れられる。滅多に見かけることのない日本人に興味を抱いた明花ミン・ファと二式は恋に落ちるが、皓空ホウフンがふたりの恋を許さない。強引に引き離され、兄によって軟禁された明花ミン・ファは二式と駆け落ちをすることを望むが、二式はなぜか迷いを見せる。


「──で、僕が街にきたほんまの理由っていうのが母親の敵討ちで……」


 二式が演じる日本刀使いの男は大陸出身の母親と日本人の父親のあいだに生まれたという秘密を抱えていた。何も知らない皓空ホウフンが忠誠を誓う街を取り仕切っている大富豪によって二式の母親は既に命を落としている。何も知らない二式と皓空ホウフンは大富豪の命により血みどろの戦いを繰り広げることになり──


「……そんで、最後の最後に僕のお母さんと皓空ホウフン明花ミン・ファさんのお母さんが同一人物やって分かって……」


 全力で互いの命を奪うべく戦った二式と皓空ホウフンは最後の力を振り絞って大富豪の屋敷に踏み入る。クライマックスは百人の敵を相手に戦う二式と皓空ホウフンの共闘で、最終的には大富豪を殺し、二式も皓空ホウフンも死ぬ。


「誰も幸せにならん話やな」

「こういうのが人気あんだよ、最近は」

「僕に日本刀持たせるんやったら、藍さんが体術とかで戦うんかと思うとったわ。背ぇも同じぐらいやし、身軽っぽいし……」

「残念だったな。相方は俺だ」

「せやったらそんな嫌そうにせんで。仲良くしようや」


 もう何本目になるのか分からない煙草を咥える皓空ホウフンにすり寄る二式に、彼もまた何回目になるのか分からない溜息を吐いて見せる。


「第三撮影所」

「うん?」

「それに──てめえらが泊まったホテル」

「……ああ。ああね。ああ」


 正直な感想を述べて許されるならば、皓空ホウフンが子分──もしくは後輩の俳優だとか、取り巻きだとか、そういう連中にやらせたのではないかと、二式は疑っていた。

 だが今、彼の横顔をじっと見ているだけでその感想は大きく変わる。

 皓空ホウフンはおそらく無関係だ。


「嫌なこと書く人もおるもんやなぁ」

「そういう問題じゃねえんだよ」


 私怨を吐きながら、煙草を持っていない方の手をすいと伸ばした皓空ホウフンが二式の顎をがっしりと掴む。


「痛い痛い痛い」

「てめえ、二十年前の話を知らねえのか?」

「……何?」


 皓空ホウフンの顔を見上げる格好になった二式は、目の前の男の瞳、虹彩が、驚くほどに甘い琥珀色だということに、不意に気付く。

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