第5話

 姚神狐ヤオシャンフー有限公司の前身である映画会社を立ち上げたのは、現社長の大叔父に当たる人物なのだという。1920年代、場所は上海。会社名も今とは違うし、会社の規模も現在よりずっと小さかった。姚神狐ヤオシャンフー有限公司という社名に変更が行われたのは日中戦争が勃発した頃で、社長一族の香港への移住とともに社名の変更、また社長も血族の中からその才能に恵まれた人間が選ばれた。現社長の父親だ。1945年に戦争が終わり、1950年代。会社の経営権が現社長に移動する。現社長は大叔父、実父の経営の手腕だけでなく、売れる映画監督、俳優を見抜く才覚にも恵まれており、自分の足で移住者が増える香港内を歩き回っては男女問わず大勢の俳優をスカウトし、また中国本土から香港へ逃げ込んできた逃港者と呼ばれる人々に紛れた映画監督たちを姚神狐ヤオシャンフー有限公司で雇い、巨大な撮影所を建て、ハイペースな映画製作が可能な環境を作り上げた。


「悪いけど、僕は戦後の生まれや。日本人が嫌われる理由は知っとるし理解もできるけど、二十年前に起きた事件とかは知らんよ。そん時二歳やし」

「二歳……? てめえ、今幾つだ」

「二十二」

「赤ん坊かよ」

「失礼やなぁ!」


 二十年前。1952年。文化大革命の嵐が吹き荒れる直前の時期。姚神狐ヤオシャンフー有限公司は香港で粛々と映画を製作していた。そんな中で、事件は起きた。

 一族で香港に移住してきた俳優一家の娘が、日本人の手で殺害されたのだ。


「俳優一家?」

「うちの会社じゃ珍しくない。両親が役者、その子どもが監督、孫が役者、なんて具合にな。俺の家もそうだ」

阿空アーフンは役者さんやろ。で、お父さんとお母さんは?」

「父は監督、母は俳優。妹は明花ミン・ファだ」

「……んん!?」

「いいか、せっかくだから言っておくぞ。てめえ、明花ミン・ファに何かしたらただじゃおかねえからな」


 その日本人が、なぜ姚神狐ヤオシャンフー有限公司で働いているのかを誰も知らなかった。戦後、国に引き上げることができなかった兵士が初代、もしくは二代目の社長に拾われたという噂もあった。その日本人は北京語と広東語両方に長け、香港に移住してきた俳優や社員の世話を熱心に焼いてやる一面もある──とにかく、人殺しをするような人間には見えない、と彼を知る誰もが言った。


「俺の両親も、だ」

「……痴情の絡れやろか」

「分からん。殺されたのは……まあ、名前はいいか。とにかく、当時の姚神狐ヤオシャンフー有限公司ではこれから売れると期待されていた俳優でな。それなりの騒ぎになった、と両親から聞いた」

「二十年前やと、阿空アーフンは……」

「七つだ。もう映画に出ていた」

「え?」

「言っただろう、俳優一家なんて珍しくないって。文字の読み書きは全部台本で覚えたよ。体の動かし方も、礼儀作法も。死んだ俳優のことも覚えている。優しい、美しい姉さんだった」

「……」


 殺人犯となった日本人は、いつの間にか香港から姿を消していた。十年も経つ頃には中国本土にて文化大革命が始まり、今も尚その勢いは止まるところを知らない。香港への逃港者も増える一方で、二十年前の事件のことを語る者は少なくなっている。


「……分からんことがある」

「なんだ」

「どうして、僕を呼んだんや」


 皓空ホウフンが黙って長いまつ毛を上下させる。


「この会社の社長は……困ったことに全員親日派でな」

「えぁ……? 会社ができたんは戦争の前やろが」

「そうだ。戦争が起きて、散々ひどいことが起きても、それでも尚日本人を信用する。お人好しな一族だ」

「さよか……」

「二十年前も、どうにかして犯人から事情を聞こうとしていた。だがあいつはあっという間に姿をくらました」

「許せへん……よなぁ」

「俺はまだ子どもだったから、許すも許さないもないが。だが俺の母親は被害者を妹のように可愛がっていたし……」


 どうしようもない沈黙が落ちた。皓空ホウフンが膝の上にパラパラと散った煙草の灰を手で払い、「戻るぞ」と言った。


「ああ、撮影の続きがあるんか」

「馬鹿。てめえの衣装合わせもあるんだよ」

「そうなん?」

「てめえ、何しに香港まで来たんだ? 観光か? 観光客ならとっとと撮影所から出て行きな、姚神狐ヤオシャンフー観光ツアーのルートに撮影所は入ってねえからよ」


 大股で去って行く皓空ホウフンの広い背中を駆け足で追い駆けながら、二式は口の中で小さくつぶやく。


「日本人が、香港で、女性を殺した」


 二十年前。

 遠い昔の話ではない。


 通訳担当を逢坂から姚神狐ヤオシャンフー有限公司内で働く日本語話者──郭封鈴(カク・フーリン)という名の四十代ぐらいの女性である──に交代してもらい、二式は衣装合わせに挑んだ。衣装担当の責任者もカクと同世代ぐらいの女性で、大勢のスタッフに囲まれて大量の衣装を永遠にも近い時間身に着けては脱ぎ、身に着けては脱ぎを繰り返す羽目になった。


「二式さん」


 ようやくすべての衣装が決まり、疲労困憊で俳優控え室に戻った二式を呼ぶ者がいた。振り返るとそこには、予想した通りの人物がいた。


「明花女士(明花さん)……おーっと」

「もう、誤魔化さないでよ。あなたには通訳なんて必要ないって、藍哥(藍兄さん)から聞いてるんだから」

「ああ……藍さんお喋りやなぁ」

「それよりひどい、昨日は通訳さんが言わなかったことも全部聞こえてたってこと?」


 拗ねたように迫る明花の体にまかり間違っても手を触れぬよう細心の注意を払いながら、二式は眉を下げて笑う。明花の質問に対しては、「はい、聞こえていました」以外の返答ができない。明花は二式、それに逢坂との食事の席でずっとはしゃいでいて、「二式さんは格好良い」「映画で見るよりも優しそうな顔をしていて素敵、好き」と馮情フェン・チン李藍レイ・ランに楽しげに言うのを──二式は全部聞き、理解していたのだから。


「明花さん」

小玥シァォユエって呼んで」

「んん!?」

「明花は映画を撮る時の名前! 私の名前は呉玥ン・ユエ!」

「オーケー……分かりました……」


 つい先ほど皓空ホウフンが口にした脅し文句を思い出しながら、二式はふにゃふにゃと笑みを浮かべて見せる。陳監督ならばこの笑みでどうにか誤魔化しきれただろうが、


「……ねえ、通訳の彼はどこに行ったの?」

「逢坂さんのこと?」

「そう。オウサカサンのこと」

「別の仕事を頼んであるんよ。せやから通訳は郭先生にお願いして」

「ふうん……?」


 何かを疑うような目付きの明花が、二式しかいない控え室の椅子にストンと腰を下ろした。

 二式しかいないのに。


「いやっ、ちょっ、とまずいんやないかな!?」

「何が?」

「ほら、藍さんとか情さんがおるんやったらともかく、僕みたいな他所者と小玥シァォユエがふたりっきりっていうのは……」

「あ、分かった」


 二式の顔をじっくりと眺めた明花が大きな声を上げる。


「兄さんのことでしょう」

「はい?」

皓空ホウフン哥哥お兄さん! あの人に、何か言われたんでしょ?」

「……千里眼かな?」


 肩を竦める二式に向かい、明花はうんざりとした様子でくちびるを尖らせる。


「いっつもそう! いっつもそうなの、哥哥は!」

「いっつも、というのは……?」

「私のことを、自分が守らなきゃいけない赤ちゃんだと思っているの。だから私が、二式さんのことを素敵だって思っているのが気に食わないの」


 私は生まれた時から映画に出ているのに! と明花は悔しげに続ける。


「まあ……ずいぶん年齢も離れてるみたいやし。皓空ホウフンが気にするんも、仕方ないんと違うかな」

「二式さんは哥哥に嫌われているのに、哥哥の肩を持つのね」


 じっとりとした目で二式を睨め付けながら、明花は不服げな声を出す。二十年前の殺人事件の話を聞いたから、というわけではないが──皓空ホウフンが明花に対して過保護になるのも無理はない、という気持ちになっているのは事実だった。


小玥シァォユエ

「なに?」

「僕はほら、昨日香港に着いたばっかりやし。これから撮影以外にも、小玥シァォユエと喋る機会とかあるはずやと思うし」

「……それって、どういう意味?」

「つまり、今ここでふたりきりにならんでも仲良くなれる機会はいっぱいあるんと違うかな?」

「……」


 言われてみれば皓空ホウフンとの血の繋がりを感じる、切長の目、長いまつ毛をゆっくりと揺らしながら明花は二式の台詞をじっくりと吟味している。やがて、長くて短い沈黙の後。


「嘘吐いたら張り倒すけど、いい?」

小玥シァォユエに殴られるならご褒美かもしれんな」


 返答は、若く美しい映画スタアを満足させたらしい。「撮影が始まるのが楽しみね!」と言い残して明花は控え室を去り──


「二式ぃ。明花を小玥シァォユエって呼ぶなんて、手が早いなぁ」

「ああ? 藍?」

皓空ホウフンに首絞められても知らんからな」

「情も!? なんや、外におったなら入ってくれたら良かったのに!!」


 若い俳優ふたりの好奇心十割の気遣いに、二式は悲鳴を上げた。

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