第3話

 李藍レイ・ラン姚神狐ヤオシャンフー有限公司の俳優寮に、明花ミン・ファは両親と暮らす自宅へと、それぞれタクシーで帰って行った。阿空アーフン──皓空ホウフンという嵐の去った料理店の軒先に、二式と逢坂は立ち尽くしている──


「感謝您的客戶等待(お客さん、お待たせしました)」

「哦、唔 該(ああ、ありがとう)」


 既にホテルの部屋は押さえてあるという話をジェット機の中で聞いていた。問題は、この料理店からどうやってホテルまで移動するかなのだが、などと考えている二式の目の前に、空港からEGG STUDIOまで送り届けてくれた紺色のクルマが滑り込んでくる。運転席に座っているのも昼間と同じ男性だ。


「うん? あれ? 逢坂さん?」

「ああ、紹介してなかったか。彼はジョン。チャウ・ジョン。俺の個人的な知り合いだ。今回の香港出張の手伝いをしてくれる」

「そういう……そういう大事なことはもっと早くに言うべきと違うんか!?」


 思わず背伸びをして逢坂のシャツを掴もうとする二式に、


「まあまあ」


 と幾らか訛りはあるものの、流暢な日本語で語り掛けたのは周・ジョンだった。


「初めまして、ジョンです、二式さん。昼間はあなたは寝ていたから、挨拶ができなくって」

「それは……はい。葛原二式言います。逢坂さんとはどういう……?」

「同業者、ですかね。私、翻訳もするし、マネジメントも運転もする。何でも屋ですよ」

「なるほど。それやったら」

「ええ。観光案内も送迎もなんでもおまかせを。でも、私はスタジオに入れない」


 二式と逢坂のためにクルマの後部座席の扉を開けながらジョンは薄く笑う。笑うと目が一本の線になってしまうような、薄味で端正な顔立ちをした男だった。


姚神狐ヤオシャンフーの関係者ではないからね」

「さよか」

「逢坂さん、ホテルまででいい?」

「ああ、頼む」


 ジョンがゆっくりとアクセルを踏み込み、紺色のクルマが真夜中の街を走り始める。色々ありすぎた、あまりにも。窓の外の景色を眺めながら──眠くてぼんやりとした頭ではそこにどういった建物があり、どんな風に人々の生活が成り立っているのかを正しく知ることはできなかったけれど──二式は考える。今回の仕事は、本当に引き受けて良かったものなのだろうか? 自分は無事に俳優としての仕事を終え、日本に帰国することができるのだろうか? 何も分からない。

 姚神狐ヤオシャンフー有限公司──チェン監督が二式と逢坂のために取ってくれたのは、撮影所からほど近い場所にある観光客向けホテルのスイートルームだった。


「でかいベッドやな」

「俺はソファで寝るよ」

「そうしてくれ。……これが台本か?」


 引っ掛けていたジャケットをハンガーに吊るし、ネクタイを解き、シャツのボタンに手を掛けながら二式は鏡台に置かれていた二冊の冊子に視線を向ける。二式の荷物が入った鞄をベッドの傍に置いた逢坂が、


「こっちが広東語で書かれた台本、こっちが……姚神狐ヤオシャンフーお抱えの翻訳者が日本語に修正した台本ってところかな」

「えらい親切にしてくれるんやな」

「俳優を貸してくれって言い出したのは姚神狐ヤオシャンフーだからな。それに広東語の翻訳ができる俺みたいな超有能マネージャーがくっついて来るなんて思ってなかっただろうし」

「なるほどね」


 台本を逢坂に預け、二式はシャワーを浴び、早々にベッドに横たわった。逢坂は鏡台の前に置かれた椅子に腰を下ろし、二冊の台本を見比べながら翻訳作業をしていた──らしい。翌朝、七時。二式が目を覚ました頃には逢坂はソファに長身を投げ出して眠って……いなかった。部屋に備え付けられている電話の受話器を耳に当て、何やら早口の広東語で捲し立てている。この声で二式は覚醒したのだ。本来ならばもう一時間は寝ていて良いはずだったのに。


「逢坂さん?」

「ああおはよう。ちょい待って……係咩?(それは本当ですか?)」


 逢坂の言葉に二式は大人しく頷き、取り敢えずシャワーを浴び、新しい下着を身に着け、日本から持ってきたシャツとスラックスに着替える。髭を剃り、歯を磨いたところでようやく逢坂が受話器を置く音がした。


「何かあったん?」

「大ありだ」


 無精髭を浮かべた逢坂が大きく顔を顰めて近付いてくる。耳元で囁かれた台詞に、二式もまた眉根を強く寄せることになる。


 迎えにきた周・ジョンは事情をすべて把握しているようだった。「面倒なことになりましたね」と開口一番言った彼は、二式と逢坂をホテルからだいぶ離れた場所にある喫茶店に案内する。


「朝飯、まだでしょう。ここなら静かで美味しい」

「助かるわ。せやけどほんまに、なんで……」

「取り敢えず飯だ、飯メシ!」


 見るからに香港人であるジョンと、観光客なのかビジネスマンなのか分からない風体の二式と逢坂に胡乱げな視線を向ける喫茶店の女主人に、「モーニング三人前ね」とジョンは愛想良く注文をしている。ややあって、大きな器に入ったマカロニスープと、グラスに入ったコーヒー、それにスクランブルエッグとトーストが丸テーブルいっぱいに並んだ。


「あれ……これコーヒーと違うんか」

「それは鴛鴦茶ユンヨン。コーヒーと紅茶を混ぜて作る」

「甘い! 僕これ好きかもしれん」

「香港にいるあいだは毎日飲むといいよ」


 二式とジョンのやり取りを他所にテーブルの上に灰皿があるのを確認した逢坂が、上着のポケットから煙草の箱を取り出している。


「ジョン、燐寸マッチあるか」

「あるよ。逢坂は相変わらず煙草吸うね」

「これぐらいしか趣味がないからな」

「嘘うそ。逢坂は趣味人。そうじゃなきゃマネージャーなんかやらない」

「僕も同意見」

「おい」


 和気藹々としたやり取りを眺めていた女店主が、ジョンに早口で何かを問う。広東語は分かる方、とはいえあまり早口では二式には聞き取ることができない。


「唔一樣,姐姐(違うよ、姉さん)」


 女主人の手の甲をするりと撫で、ジョンは楽しげな口調で言う。


「呢啲人係嚟翻工嘅日本人。 唔係黑手黨(この人たちは仕事をしに来た日本人です。マフィアじゃない)」


 ジョンの言葉にようやく安堵した様子で笑みを浮かべた女主人が「唔好意思(ごめんね)」と言いながら小さなみかんが大量に入った籠をテーブルの上に置いたらしい。「ヤクザやと思われてたんか?」と尋ねる二式に「二式さんは大丈夫けど、逢坂はヤクザの顔だからね〜」とジョンは笑みを崩さずに言う。逢坂は大して気にした様子もなく、テーブルの上に突如追加されたみかんの皮を剥いている。


 EGG STUDIO前でジョンとは別れた。「撮影が終わる頃迎えに来るし、必要だったらいつでも呼んで〜」とひらひら手を振る痩身のジョンの存在が、二式には既に心強いものになりつつあった。

 昨日と同じように緩い坂を登り、昨日と同じ制服姿の警備員に止められる。


「おはよう。今日もお疲れ様やね」

「ああ……? あんた、言葉……」

「まあ気にせんで。それよりほら、昨日くれたあれ頂戴。僕、今日からここで仕事するんや」

「ま、待て待て! おい、昨日の……!」

「俺?」


 制止を振り切り撮影所に足を踏み入れようとする二式を捕まえながら、警備員が逢坂を呼ぶ。のんびりと「何〜?」と尋ねる逢坂に、


「ちょっと今日は……まずいんだ」

「何が? なんか事故?」

「事故といえば事故だが……」

「阿二!?」

「うわっ!」

「陳先生」


 撮影所に通じる扉が、中から勢い良く開く。目の前には、昨日皓空とやり合った際に頭を打ち、病院に搬送されたはずのロバートチャン監督が立っていた。頭にはぐるぐると白い包帯が巻かれている。


「喺啱嘅時間...... 不,時機不好......(良いタイミングで……いや、悪いタイミングでもある……)」

「機会がどうとか言ってるな」

「何の話や」

「陳先生、今日唔咁樣做唔係仲好嗎?(今日はやめておいた方が良いのではありませんか?)」


 尋ねる警備員の胸をぽんぽんと叩いた陳監督は、手付きのわりに険しい顔で首を横に振る。


「我唔會屈服嘅。 絕對(私は屈しないぞ。絶対にだ)」

「陳先生」

「嚟啦,入嚟。 你讀過劇本嗎?(さあ、中に入ってくれ。台本は読んだかな?)」

「中に入れって。あと台本読んだかって」


 陳監督、逢坂、二式の順で撮影所の中に入りながら逢坂が形だけの通訳をしてくれる。怒鳴り散らしていない時の陳監督は然程早口というわけでもないので、二式にも聞き取ることができる。二式は首を縦に振り、


「日本語訳をつけてくれてありがとうございました」

「距话,有一個翻譯版本好有幫助(翻訳版があって助かりました、と言ってます)」

「我哋小組入面有幾個人會說日語。 我好开心我能夠提供幫助(私の班には日本語ができる者が何人かいるからね。役に立てたなら良かったよ)」


 長身の陳監督が背筋を伸ばして廊下を進む。その様を──俳優が、スタッフが、まるで恐ろしいものを見るかのように遠巻きに眺めている。


 何かが起きている。


 昨日の料理店での悶着と関わりがあるのだろうか。あの、阿空と呼ばれていた男──皓空は既に撮影所に復帰しているのだろうか。

 想像するだけでは話が進まない。逢坂の腕を掴み、「何か起こっとんなら教えてくれ、って……」と言いかけた二式の言葉を遮り、「うわ」と逢坂が大声を上げた。

 静かに足を止めて振り返った陳監督が、ギラギラと光る目に二式と逢坂を映す。


「非常抱歉(大変申し訳ない)」


 強い口調だった。陳監督自身が、今現在起きていることにひどく腹を立てているということが良くわかる音だった。


「唔係(いいえ)」


 逢坂が短く応じる。

 昨日案内されたばかりの、第三撮影所。『工作室3』と書かれた扉の上には、真っ赤なペンキのようなものがぶち撒けられている。

 それだけではない。墨なのか、それともペンキなのかは定かではないが、大きく書き殴られた文字──


「嫌われとんなぁ」


 つるりと顎を撫でながら、二式は呟く。


「犬、猫、葛原二式お断りってか」


『禁止狗、貓或葛原二式』


 扉の上に書かれた文字は、二式と逢坂が宿泊したホテルの表玄関に書かれていたのとまったく同じものだった。

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