第2話
「阿二、逢坂、想食幾多就食幾多(二式、逢坂、好きなだけ食べてくれ)」
「阿……って何?」
目の前には大量の中華料理。回るテーブル。隣の席に座る逢坂に尋ねると、「すげえ親しみを込めたフレーズだよ。いっぱいお食べ、二式ちゃん、みたいな」と返された。なるほど、と二式は満面の笑みを浮かべ、
「ロバート、ありがとう。嬉しいです」
「我好开心,距话(嬉しいです、と言ってます)」
「我不知怎麼就明白、阿二!(なんとなく伝わったよ、阿二!)」
まだ宴は始まったばかりだというのに、陳監督の顔は真っ赤だ。手酌で酒を大量に飲んでいるせいもあると思う。左右の席に配置された李藍と馮情が困り果てたように視線を交わしている様からするに、陳監督との宴会はいつもこんな感じなのだろうと容易く察することができた。
先ほど羽織っていた黒いシャツをきちんと着込み、デニムではなく濃い灰色のスラックスにジャケット姿の李藍が、酒瓶を手に隣の席の逢坂に声をかけてくる。
「俺らも飲もうって」
「ほなありがたく」
空になったグラスに酒を注いでもらい、軽く合わせてからそれぞれのペースでアルコールを流し込む。二式も逢坂もそれなりに酒には強い方だ。反対側の隣席から、明花が笑顔で何かを言うのが聞こえた。
「自分とも飲もうって」
「嬉しいなぁ。おおきに。あ、えーっと……馮情さんは?」
逢坂がすぐに通訳をする。逢坂と同じぐらいの長身に、身に着けているTシャツの胸元と二の腕がはち切れそうなほどにがっしりとした体躯の馮情が太い眉を下げて首を横に振るのが分かった。次いで、明花が楽しげな声を上げるのも。
「馮情さんはお酒あんまり飲まないらしい」
「そうなんや。ほなら俺が馮情さんの分までいただきますわ」
「唔好只係和你一起享受它,讓我加入你(おまえたちだけで楽しまないで、私も混ぜてくれよ)」
馮情の肩に手を回した陳監督が、完全に泥酔している人間の笑顔で言った。酔いすぎているせいか、そもそも相手の都合をあまり気にしない性質なのか、明花が二式のグラスに酒を注ぐのを見ながら馮情のグラスに並々とビールを注いでいる。中国──香港では、日本以上に年齢による上下関係が厳しいと聞いたことがあった。二式の目の前に座る馮情も、諦めた様子で手の中のグラスを見詰めている。
「明花さん、おおきに。いただきますわ」
「多谢你、明花女士(明花さん、ありがとう)」
「ロバート、そっちの酒も僕がいただいてええやろか?」
「Robert、我可以飲嗰杯嘢飲呀?(Robert、そのお酒をいただいてもいいですか?)」
言うや否や二式は自分のグラスを空にし、円卓の上に身を乗り出して馮情のグラスを鷲掴みにする。椅子の上に片膝を付いたままという行儀の悪い格好でビールをひと息に飲み干す二式を見て、陳監督は手を叩いて笑った。
「你係個有趣嘅人!(面白い男だな、おまえは!)」
「面白いってさ」
「良かった、殴られるかと思たわ」
手の甲でくちびるを拭いながら座席に戻り、二式はにっこりと陳監督に笑みを見せる。
宴の終盤、事件が起きた。
陳監督の行き付けだという高級料理店、その最奥にある選ばれた人間しか入室を許されない個室に、今日の宴会に招かれていない人間が姿を現した。
「……
太い眉を顰めて陳監督が呼ぶ。彼の視線の先には、陳監督に負けず劣らず酔っ払った様子の細面の男の姿があった。年の頃は李藍や馮情よりも十ほど上といったところだろうか。馮情ほどではないが鍛え上げられた体付きに、仕立ての良いスーツを魅力的に着崩した彼が
「你嚟做乜、阿空(何をしに来た、阿空)」
「係呢句話,先生(こっちのセリフですよ、先生)」
酔っ払っているにしてはしっかりとした足取りで個室に入ってきた、阿空と呼ばれる男──その片手には中身が半分ほど残った酒瓶が握られており、もう片方の手が入り口にいちばん近い席に座っていた明花の肩を強く掴む。
「空哥、我好害怕……(空兄さん、怖い……)」
「得意嘅小妹妹,你點同日本喝酒呢法?(可愛い妹、おまえ、なんで日本人なんかと酒を飲んでるんだ?)」
二式が横目で逢坂の様子を窺うと、逢坂もまた二式を見ていた。どうする。この阿空という人物を二式は知らないが──いや、知らないのは名前だけ。この仕事を請けた時に見せられた写真の中に、彼の姿もあったはずだ。
「皓空、別無禮(
馮情の肩を抱いていた手を離し、席を立った陳監督が苛立ったように吐き捨てる。
「係老師粗魯(失礼なのは先生でしょう)」
「咩話?(なんだと?)」
「邀請日本人參觀重要嘅拍攝工作室!(大切な撮影所に日本人を招くなんて!)」
「你要和我對峙嗎!(俺に歯向かうつもりか!)」
まずい、と思った瞬間に体が動いていた。阿空が席に座ったままの明花を突き飛ばし、陳監督に向かって酒瓶を振り上げる。陳監督は馮情の制止を振り切り、阿空の胸ぐらを掴もうとする。すべてがスローモーションに見える。まるで、映画のワンシーンのように。
二式の側をすり抜けた逢坂が、床に倒れ込む明花を横抱きにして捕まえる。そのまま部屋の隅に逃げ込み「ここにいて」と強い声で囁く。日本語は伝わらんやろ、と思いながら二式は丸テーブルの上に飛び上がり、酒瓶を振り上げる阿空の太い腕にしがみ付く。まったく同じタイミングで、李藍が陳監督を羽交い締めにしているのが分かった。
ドン、と大きな音が響いて、陳監督と李藍、それに阿空と二式が床に倒れ込む。どちらに加勢するかを迷っていたらしい馮情が、慌てた様子で阿空と二式の方に駆け寄ってくるのが分かった。
「情さん! 瓶取り上げて! 瓶!!」
「えっ!?」
「あっ……!!」
しくじった、と気付いたがもう遅い。葛原二式が一般的な会話に困らない程度に広東語を嗜んでいることを伏せ続けることよりも、阿空と呼ばれるこの俳優の暴力行為をやめさせる方がずっと大事だ。
馮情も同じ気持ちだったらしい。二式に指示されるがままに阿空の手から酒瓶を取り上げ、「誰か呼んできます!」と言い置いて部屋を出て行った。一方、李藍に羽交い締めにされている陳監督は転倒するタイミングで頭でも打ったのか意識を失っている様子だ。何かの間違いで今回の仕事相手である陳監督に絶命でもされたら困るので、
「逢坂さん、陳監督医者にでも診せた方がええかな!?」
「馮情さんが医者も一緒に呼んできてくれるといいんだけどな……」
「っていうか、ふたり!」
陳監督を床に横たえ、阿空を押さえ込むのに協力する李藍が声を張り上げた。
「通訳要らないじゃん!!」
「せやねん……」
「そうなんだよなぁ」
馮情が店の警備員、さらに警察官とともに個室に戻ってくる。暴言を吐きながら暴れる阿空は警察官に連れて行かれ、昏倒している陳監督は病院に運ばれた。
「初日でこれ……大丈夫なんかな……」
「さあなぁ」
嘆息する二式を見ながら、逢坂はにやにや笑いを浮かべている。
「なんやその顔。何がおもろいねん」
「いやぁ。二式クンの『ボク広東語わかんないですぅ、台詞も全部日本語で言うからあとから吹き替えてください計画』が初日で崩れるなんて、面白すぎだろ」
「どこが!! 全然おもんないわ、こんな……クソッ!!」
地団駄を踏む二式の後ろ姿を、陳監督に付き添った馮情を除く李藍、明花のふたりが呆気に取られた様子で、眺めている。
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