鬼鬼銀幕1972

大塚

第1話

 1972年、香港。

『EGG STUDIO』という巨大な看板の前に、一台の紺色のクルマが停まる。

 後部座席からは小柄な青年、助手席からは長身──180センチを超える、この時代の日本人としては相当大柄な方として奇異の目で見られる男性が姿を現し、看板の前にふらりと立つ。


「えっぐ……す、た、じ、お」


 小柄な青年が、見た目から連想されるよりも低い声で看板に書かれた文字を読み上げる。クルマの運転手に金を握らせ、ひと言ふた言言葉を交わしてから、長身の男性が革製の大きな鞄を手に青年の傍らに立つ。


「間にうたかな」


 青年が呟く。右手首の時計をちらりと見た男性は、


「まだ十五時だ。やってるだろう、撮影」

「せやろか」

「ジェット機ん中でぐうぐう寝て自分が誰だか忘れちまったのか? 二式にしきさん」


 と、青年──葛原くずはら二式にしきの頬を軽く叩いて男は笑う。


「日本が誇る銀幕のスタア、陽光ようこう映画製作株式会社の人気若手俳優を主演俳優に新作映画を撮影したいって依頼をしてきたのは先方さんだ。これでスタジオに監督も役者も誰もいないって状態だったら」

「だったら?」

「さっさと空港に戻って帰国すりゃあいいのさ」

逢坂おうさかさんは過激やねぇ……」


 なで肩をひょいと竦めた葛原二式は、はあ、とため息を吐いて再び看板を見上げる。『EGG STUDIO』──明るい黄色で書かれた看板の向こうには緩やかな坂があり、坂を登り切ったところに事情を知らない人間が見たらいったい何のために建てられたものなのかさっぱり分からないであろう真っ白い壁の建物がある。事情を知らない人間など、この街にはひとりもいないということぐらい二式にも分かる。『EGG STUDIO』の持ち主は姚神狐ヤオシャンフー有限公司。二式が所属している陽光映画製作株式会社、通称陽映ようえいと同じく、映画を作っている会社である。違いといえばその規模だろうか。姚神狐ヤオシャンフー有限公司が製作する作品は香港だけではなく中国本土、韓国でまで支持を集めており、姚神狐ヤオシャンフー有限公司は通称『東洋のハリウッド』というあだ名で呼ばれている。今回、陽映の俳優を香港に招いて主演作品を撮りたいという依頼があった際、陽映の取締役社長は依頼を受けるべきかどうかひどく悩んだのだという。曰く、「香港映画に負けたようで気に食わない」──と。坂をひたすらに前に進みながら、二式は静かに笑ってしまう。負けるも勝つも──会社としての規模、そして作品を発表する頻度、レベルの高さでは既に完敗しているのだ。本来ならばちっぽけな自尊心など捨てて俳優ひとりだけではなく裏方を何人かくっつけて香港に送り込み、『東洋のハリウッド』の技術を盗むべきだった。だが社長が指名をしたのは、葛原二式、ただひとりだった。二式と、マネージャー兼通訳の逢坂。ジェット機のチケットは、ふたり分だけ用意されていた。


「……でっけぇ」


 ようやく白い壁の建物の前に辿り着く。遠目には真っ白い壁に見えたが、こうして近くに寄って見ると白いペンキを乱雑に塗りたくったような建物でなんだか親近感が湧く。しみじみと壁を眺める二式の肩を、誰かが掴んだ。


?」

「え?」

「你係邊個?(あなたは誰だ?)」


 小柄な二式よりは背が高く、逢坂よりは幾らか背の低いカーキ色の制服を着た男がじっと見下ろしているのが分かる。二式は大きく目を見開き、


「ええ、っと──」

「你係日本人啊?(日本人か?)」

「うーん、全然分からん!」


 すべてを投げ出しそうになった二式と警備員風の男のあいだに、長身の影が割って入った。逢坂だ。


「對唔住. 我哋係日本(すみません、私たちは日本人です)」

「你係遊客啊? 呢個地方禁止所有人進入,除了相關人員(観光客か? ここは関係者以外立ち入り禁止だ)」

「你係保安啊?(警備の方ですか?) 睇下呢封信(この手紙を見てください)」


 と、逢坂が警備員に封筒を差し出す。姚神狐ヤオシャンフー有限公司から香港に来て欲しいという依頼があった際、現地で何か問題が起きた際に利用するようにと同封されてきた手紙が中に入っている。手紙に何が書かれているのか、二式は知らない。

 眉根を寄せて手紙を熟読した警備員が、長い沈黙の後、二式と逢坂をじっくりと眺める。


「哪一個係演員?(どっちが俳優だ?)」

「就係佢(彼です)」

「你係邊個?(おまえは何者だ?)」

「我既是經理又是口譯員(マネージャーと通訳を兼任しています)」

「……」


 眉根の皺をますます深くした警備員が、何かを言い残してスタジオからは反対の方向に走って行く。「何て?」と尋ねる二式に「待ってろって」と逢坂が短く返す。

 警備員はすぐに戻ってきた。手には何やら紙切れのようなものを持っている。


「證明你參與其中。 唔好剝落嚟(関係者だという証明だ。剥がすなよ)」

「わっ」

「関係者パスだって」


 警備員の手で左胸にシール状のパスを乱暴に貼り付けられ、二式は軽く飛び上がる。


「導演喺第三个工作室(監督は第三撮影所にいるからな)」

「好、唔該(わかりました、ありがとう)」

「なんやって?」

「二式さんを呼び付けた監督は第三撮影所にいるらしい」

「へえ……あ、お兄さんおおきに」


 スタジオに通じる扉を開けてくれた警備員に二式はぺこりと頭を下げ、警備員は「いいから早く行け」とでも言いたげな様子でひらひらと手を振った。とはいえ、最初に二式に声をかけた時ほどの刺々しさのない表情をしていた。


「第三撮影所? こん中にいくつ撮影所があるんや?」

「まあ、陽映の撮影所だって三つはあるから……そんな身構えるほどではないんじゃ」

「いやでもでっかいスタジオやなぁ! 人もいっぱいおる!」

「二式さん、一応これ貼ってもらったとはいえ俺たち日本人で、めちゃくちゃ部外者だからね。あんまり大きい声出さないで」

「あっハイ……」


 関係者専用の入り口からスタジオの中に入る──目の前には、外壁と同様少しばかり汚れた白く長い廊下がある。本当に幾つのスタジオがあるのか分からずきょろきょろと辺りを見回す二式の視線の先を小道具らしき木の箱を抱えた男性や、ひらひらと揺れる桃色の布を小脇に抱えて走る女性、それにいかにも香港映画らしい絢爛豪華な衣装に身を包んだ見目麗しい男性が歩きながらメイクをされていたり、頭から血糊を被ったとしか思えない全身真っ赤な女性がほとんど転がるようにして廊下に飛び出してきたりする。東洋のハリウッドという通称は伊達ではない。このスタジオでは常に、映画撮影が行われ続けているのだ。


「第三……第三撮影所……ああ、ここか」

「あった? 逢坂さん」

「ああ。さて、鬼が出るか、蛇が出るか」

「何?」


 含み笑いの逢坂に背中を押されるようにして、二式は『工作室3』と書かれた扉の前に立つ。軽く押すだけで、扉は開いた。そうして。


「係一次重來,一次重來!(やり直しだ、やり直し!)」

「主管,我冇時間了……(監督、もう時間がありません)」

「對我嚟講並不緊要! 重新開始!(私には関係ない! やり直しだ!)」


 ヒヒ、と傍らに立つ逢坂が笑う。「なに?」と二式が尋ね、「修羅場だよ」と逢坂は端的に応じる。


「どうやら監督の思う通りのカットが撮れないみたいで……でも出演者にもう時間がないらしくて……」

「ああ、うちの撮影所と一緒やなぁ。みんな掛け持ちしとるんやな」


 腕組みをした二式はつい十二時間前まで行っていた撮影を思い出しながら苦笑いを浮かべる。二式だけではなく、陽光映画製作株式会社に所属する俳優は男も女も関係なく皆現場を掛け持ちしている。姚神狐ヤオシャンフー有限公司ほどではないが、日本の映画業界もそれなりに盛り上がっているのだ。毎月新作が封切られ、人気スタアのプロマイドを求めて観客たちはプロマイド屋に殺到する。十二時間前の二式は主演作品と助演作品のために撮影所二箇所を掛け持ちし、それからプロマイド用の写真撮影をしてからジェット機に乗るために飛行場に向かった。その時点で疲労困憊していたのだ。ジェット機の中で熟睡してしまい、香港に辿り着く頃には自分がいったい何のためにこの土地に足を踏み入れたのかをすっかり忘れていても仕方がない──と思いたい。

 とはいえ、先刻の逢坂と警備員のやり取りを眺めているうちに脳はすっかり覚醒していた。俳優葛原二式として、陽光映画製作株式会社の名を背負って香港までやって来たのだ。仕事をきっちりこなさなければ、帰国した瞬間仕事をすべて失う羽目になる。


「对唔住,可以嗎(すみません、ちょっといいですか)」

「我而家好忙,稍後再說...... 日文?(今忙しいんだ、後にしてくれ……日本人?)」

「係、我哋帶嚟咗來自日本嘅演員(はい、日本から俳優を連れてきました)」

「等一陣...... 監督!(ちょっと待ってくれ……監督!)」


 剣や刺又といった武器を抱えた、いちばん忙しそうな男性スタッフに逢坂は容赦無く声をかけている。逢坂と二式を交互に見たスタッフが、近くにいた若いスタッフに自分の腕の中の武器を全部押し付けて監督──らしき四十絡みの男性のもとに走って行く。


「過嚟!(こっちに来てくれ!)」

「呼ばれとるな? それぐらい分かるで」

「行こうか」


 二式と逢坂は、悠然と足を進める──とはいえ、二式は既に姚神狐ヤオシャンフー有限公司という映画製作会社の規模に圧倒されていた。今いる第三撮影所がどれほどの格なのかはまったく分からないが、少なくとも陽光映画製作株式会社の撮影所の中でいちばん広いスタジオよりもよっぽど大きい。数え切れないほどの人数のスタッフに、恐らく役名が付いている──主演、助演、ヒーロー、ヒロインに該当する端正な顔立ちの男性や女性が興味津々といった様子でこちらに視線を寄越している。背中を冷たい汗が伝う。背筋が震える。怖い。けれど。負けるわけにはいかない、という気持ちもあった。ここにいる全員を圧倒し返さなければ、日本には戻れない。


「哪一個係演員?(どっちが俳優だ?)」


 監督は、開口一番そう言った。逢坂がお道化たように目をぐるりと回す。第一の関門。


葛原くずはら二式にしきといいます。俳優です」

「葛原二式。 他是一名演员(葛原二式。彼が俳優です)」

「短(小さい)」

「小柄すぎるって」

「気にしとることを」


 逢坂の言葉にくちびるを尖らせた二式は、


「『煙の男』と、それから……『暗黒街のおとめ』に主演してるって言うてくれんか?」

「佢係一位齣縯過『煙中人』同『冥界處女』嘅演員(彼は『煙の男』と『暗黒街のおとめ』に主演している俳優です)」

「......『煙中人』? 佢喺節目中咩?(『煙のおとこ』? 出演していたか?)」

「出てたか? って」

「言われると思うたわ! 逢坂さん、鞄!」

「はいはい〜」


 数日分の着替えと身分証明書が入った鞄をその場で開いた二式は、日本を出発する直前に行ったプロマイド撮影の際に受け取った数枚の写真を取り出して、目の前で胡散臭そうな顔をしている監督にずいっと差し出した。どれもこの数ヶ月以内に撮影したプロマイドだ。普段の二式は小柄で、薄味の顔で、銀幕のスタアというよりは銀行員に近い顔立ちをしているが、


「これが俺やって言うて!」

「あいよ。相顯示咗佢喺電影中嘅時間(この写真は、彼が映画に出演している時の写真です)」


 監督の瞳孔が大きく開くのが分かった。無理もない。葛原二式は化けるのだ。普段、化粧をせず、開襟シャツにスラックスという姿で街を闊歩する二式を発見できる観客はほとんどいない。だが、撮影に際しドーランを塗り眉の形を整え、目の周りに化粧筆を這わせくちびるに紅を差した二式は──今はまだ若手に過ぎないが、もう少し年を重ねれば国ひとつ傾けることができるだろうと期待されていることを、二式本人が知っている。


「葛原二式!? 真的是你嗎?!(本当におまえなのか!?)」

「本当に葛原二式なのか? だって」

「ほんまやって。信じてくれへんならもう帰るけど」

「等。 我講咗啲粗魯嘅話(待ってくれ。失礼なことを言ってしまった)」


 手を伸ばした監督が、二式の二の腕をぐっと掴む。強い力に僅かに顔を顰める二式に監督は慌てた様子で、


「唔好意思、係導演陳。(ごめんよ。監督のチャンだ)」

チャン監督だって。ごめんって」

「ええけど」

「佢似乎並不在乎。 如果拍攝仍然中斷可以嗎?(気にしてないそうです。撮影が中断されたままですが大丈夫ですか?)」


 二式のプロマイドをいかにも大切そうに押し抱いた陳監督は首を振り、


「今日陳小隊嘅拍攝就到呢度。 如果你有下一次拍攝,請繼續!(陳班の今日の撮影はここまでだ。次の撮影がある者は移動しろ!)」

「……今日の撮影終わるらしい」

「ほんまに? ええんか?」

「どうだろうね」


 顔を見合わせる日本人ふたりを置き去りにして、出演者、それにスタッフたちが三々五々散っていく。一部の陳監督の助手と思しきメンバーを残し、広い撮影所からはあっという間に人がいなくなった。


「我係Robert Chan。 提前感謝您(Robert陳だ。よろしく頼む)」


 差し出された手を握り、二式は目尻を下げて微笑む。初対面の相手には、たとえ化粧をしていなくてもこの笑顔が効く。陽光映画製作株式会社で培った技だ。


「葛原二式です、よろしく」

「叫我Robert。 飛機唔攰咩?(Robertと呼んでくれ。飛行機は疲れなかった?)」

「ロバートって呼べって。あと飛行機は疲れなかったかって」

「あー……飛行機の中ではぐっすり寝ました。撮影が続いていて……」

「我在飛機上瞓得好好。 因為我拍戲攰了(飛行機の中ではよく眠りました。撮影が続いて疲れていたから)」

「這不好。 今日一齊食餐飯,聽日開始拍攝(それは良くないな。今日は一緒に食事だけして、撮影は明日から始めることにしよう)」

「なに……?」

「疲れてるなら今日は飯だけ食って、撮影は明日から始めようって」

「ああ、それはありがたいな。飯はロバートと一緒に食うん?」


 二式の発する『ロバート』という響きに、陳監督が相好を崩すのが分かる。プロマイドの効果は絶大だ。撮影時には陳監督の好み通りの化粧をすることになるだろうし、どんな風にも化けることができるこの顔に生まれることができて良かった、と二式はしみじみと思う。


「好榮幸可以同佢一齊食飯(監督と一緒に食事できるとは、光栄です)」

「我都好開心、然之後......(私も嬉しいよ。それから……)」


 陳監督が撮影所の奥に顔を向け、大声で何かを叫ぶ。「誰かを呼んでるっぽいな」と逢坂が呟いた。

 やがて、バタバタという足音とともに二式と同世代ぐらいの男性が現れる。色褪せたデニムに黒いシャツを羽織り、足元はサンダルといった格好をしている。


「喺客面前係乜嘢樣嘅?(客人の前でその格好はなんだ?)」

「对唔住,導演。 你輸咗今日嘅拍攝嗎?(すみません、監督。今日の撮影はなくなったんですか?)」

「……誰や? えらいええ男やな」

「你好。我來自日本、我係葛原、同逢坂(こんにちは。日本から来ました、葛原と逢坂です)」

「哇!(わ!)」


 逢坂の声に、サンダル姿の青年は大きな目をさらに大きく見開いて驚く。


「我好抱歉着成咁。 我係演員李蓝(こんな格好でごめんなさい。私は俳優の李藍レイ・ランです)」

「俳優さんらしいぜ」

「そら見れば分かるわな、いかにもなえ〜え男やん」

「帶佢同其他幾個演員去食飯(食事には彼と、他に何人かの俳優を連れて行こう)」


 突き合う逢坂と二式を尻目に、陳監督は先ほどまで怒鳴り散らしていた人間と同一人物とは思えない満面の笑みを浮かべている。おそらく李藍は、陳監督お気に入りの俳優なのだろう。今回二式が出演する映画でも共演することになる──かもしれない。明日から始まる撮影に備えて腹一杯食べるぞと二式は内心誓い、そんな二式を眺めながら李藍は穏やかな笑みを浮かべていた。

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