第9話

呉弓空ン・ゴンフン。解放你的手(手を離せ)」

「拒絕。 你哋才是粗魯嘅人。(断る。無礼なのはあなたたちだ)」


 睨み合う皓空ホウフンと警察官のあいだに誰も割って入ることができない──いや。


「定居〜(落ち着いて)」


 ふにゃふにゃとした声を上げたのは、今にも胸ぐらを捕まれそうになっていた逢坂だった。どの面を下げて、と二式は大きく目を見開き、皓空ホウフンもまた得体の知れない者を見る目で逢坂を見詰めている。


「多謝、皓空生(ありがとう、ホウフンさん)。我沒有問題(私は大丈夫です)」


 と、ゆっくりと皓空ホウフンの手を警察官の腕から外した逢坂は、そのまま警察官の耳元にくちびるを寄せ、


「……」

「……!?」


 何かを言った。間違いなく。そして警察官の顔色が、驚くほどに青褪める。


「……你唔係日本咩?(おまえは日本人ではないのか?)」

「我係日本(日本人ですよ)」


 大仰に肩を竦める逢坂は完全に遊んでいる。逢坂に何かを囁かれた警察官が傍らにいる相棒らしき男の肩を小突き、それから食堂内に突入してきた警察官全員があっという間に引き上げて行った。


「なんだったんだよ」


 席から立ち上がることもできなかった藍が、大きく瞬きをして呟く。


「逢坂先生は何を言ったんだ?」


 情もまた呆気に取られた様子でいる。

 皓空ホウフンだけが、何かを悟った様子で逢坂の横顔をじっと睨み据えていた。


 葛原二式の撮影は、今日が初日となる。逢坂はまた撮影所から姿を消した。


「いったい、何の仕事があるっていうんでしょうね」


 翻訳担当は今日も郭封鈴カク・フーリンだ。メイク担当のスタッフに囲まれて顔を作られる二式の傍らに立ち、呆れたように溜息を吐いている。

 逢坂一威が三会會Triadと関係を持っている可能性がある──というのは、郭には告げる必要のない情報だった。それに、こうなってしまっては二式としても逢坂より郭に通訳をしてもらった方が肩に力を入れずに済んでありがたい。


「まあ、逢坂さんはその……仕事がなんや忙しいみたいやしね」

「阿二は善良ね。見習いたい」

「うはは」


 軽口を叩いているうちに、メイク担当者による顔作りは終了していた。あとは二式が自分で目尻に紅を差し、納得のいく顔を作り上げるだけだ。


「阿二……あなた本当にお化粧で顔が変わるのね」

「せやねん。撮影所以外の場所で僕のこと発見できるお客さん、日本中探してもそうそうおらんからね」

「分かる気がする」

「いやそこは……私なら見破る! とか言うてよ、郭さん」

「ああ、そうね。それはそう。私なら見破るかも」

「かもかぁ〜」


 きっちりと衣装を着込み、第三撮影所へと向かう。今日はロバート・張監督も撮影所に来ているはずだ。既に何度も読み込んである台本の中身を頭の中に思い浮かべながら、助監督、ドミニク・チョイが開けてくれたドアから撮影所の中に入った。

 セットは、先日李藍と馮情が乱闘を行っていた大衆食堂のテーブルや椅子を少し変えたもの。今日は登場シーンがないはずの馮情フェン・チンが短髪にスーツ姿でセットの端に立っているのが見えた。


「郭さん、あそこに情さんが……」

「阿情はこれから第一撮影所に行きます。でも、その前にあなたの演技を少しでも見たいらしい」

「へえ。ありがたいなぁ」


 日本刀を引っ提げた異邦人役の二式はまず大衆食堂に入り、店主(脇役を良く演じている姚神狐ヤオシャンフー有限公司内でも人気のベテラン俳優だという話だった)に「他所から来たのか?」と質問を受ける。「どうでもいい。酒をくれ」と無愛想に言って席に着く二式を店主や店員、それに常連客たちがひそひそと噂話を交わしながら眺めているところに李藍レイ・ランが入ってきて、「珍しい刀を持っているな。一緒に酒を飲んでもいいか?」と尋ねながら勝手に二式の正面の席に座る、というところで一旦カットが入る──と、郭が翻訳し、逢坂が更に手を加えた台本には書かれている。二式の台詞は「微不足道。畀我一杯(どうでもいい、酒をくれ)」のひと言だけで、広東語で発音しろと言われればできなくもない。だが、今の状態で『葛原二式は広東語を喋り、理解することができる』という情報を明かすのはあまり好ましくない──ような気がした。

 とにかく二式は、気難しい顔をして席に着き、酒を飲み、更に李藍に対してなんとなく不満げな顔をする。求められているのはそれだけだ。きちんとやり切れば何も問題は起きないだろう。


「あっ……」


 などとシュミレーションしている二式の傍で、郭が声を上げるのが分かった。

 視線の先には、


チャン先生」

「郭女士」


 先日と同じように取り巻きを多く従えた姚神狐ヤオシャンフー有限公司のベテラン俳優、長身のアベルチャンが穏やかな笑みを浮かべて二式と郭を見下ろしていた。


「而家係拍攝的時候了(いよいよ撮影ですね)」

「何て?」

「いよいよ撮影ですね、って……」

「頑張ります、って伝えてもらえます?」

「距话,我會盡我所能達到老師的期望(先生のご期待に添えるよう頑張ります、と言っています)」

「好好、好好」


 ゆったりとスタジオの奥に足を進めるアベル張が、陳監督と何やら言葉を交わし、それから座り心地の良さそうな椅子に腰を下ろすのが見えた。確か、二式と皓空ホウフンが最終的に戦いを挑む相手、すべての黒幕を演じるのがアベル張だったはずだ。

 ふと見ると、郭が片手で左胸を押さえて大きく息を吐いている。


「郭さん!?」

「だ、大丈夫。気にしないで」

「気にするわ! なんや、あの先生に殴られたことでもあるんか? すごい苦手そうやん」

「殴られはしていないけど……私は、日本語が喋れるでしょう? 日本にも行ったことがある」

「行ったことが? ある?」

「そう。以前姚神狐ヤオシャンフー有限公司で仕事をしていた監督が、ぜひ日本の……どこだったかな。京都? 神戸? どっちだか忘れてしまったけれど、そこで撮影をしたいっていう話があって」

「京都と神戸はだいぶ違うけど、そんなことがあったんか。郭さんはその時も通訳をしとったんか?」


 郭は小さく首を縦に振り、


「その時も、先生は出演者だった」

「……日本嫌いなのに、日本で映画を?」

「そう」

「よう分からん。撮影は無事に終わったんか?」

「それは──」

「阿二! 它即將開始!(始まるぞ!)」


 ドミニク・徐助監督が大きく手を振っている。気付けば、第三撮影所は驚くほどに人で溢れていた。馮情フェン・チンのように見学に来た者も少なくはなさそうだ。


「よし、やるか」

「頑張って、阿二」


 郭の言葉に背中を押されるようにして、二式はセットに足を踏み入れようとして──そして気付く。アベル張の真正面に当たる場所に、皓空ホウフンの姿がある。箱馬の上に長い腕脚を持て余した様子で座る彼が、じっとこっちを見ている見事に視線があった。

 ウィンクをしたら、いかにも嫌そうに顔を顰められた。


 陳監督によるリテイクは十回に渡って行われた。

 正直想定外だった。

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